憧れの世界でもう一度

五味

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28章 事も無く

船内で

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流石に、水路を行く船の甲板に立ち続けるのは、オユキはともかく少々体が冷える。十分という程ではないのだが、周囲の景色をある程度愉しんだ以上は、舟歌を頼んだ相手もいるのだ。外にも響く歌、演奏であるには違いない。だが、それを改めて聞きながら、耳を傾けながらゆったりとお茶を飲むのも良いだろうと言われれば、断るわけにもいかない。トモエのほうでも、暫く水路を行く船から見える景色、所々に見える物に随分と興味を引かれていた様子でもある。尋ねれば公爵夫人がある程度は答えた者だろうが、それにしても王都暮らしと言う訳でもない。トモエの興味が、公爵夫人の知らぬところに向いてしまえば、甲板上では、聞こえる者は少なかろうが困ったことになるだろうと考えて。

「オユキは、相変わらずそうしするのですね」
「せっかくですし、気分の良い物ではありますから」
「体は冷えるでしょうに」

そう言われたところで、根源にあるのは冬と眠りの神。今も護符をつけていることには変わりないのだが、部屋の中はやはりカナリアの手によって一度は整えられた冬のまま。さらには、きちんと氷柱も置いてとその様な環境でこそ体調の回復するオユキだ。言われたところで、正直、何らこの程度で痛痒を感じるほどでもない。寧ろ、徐々に夏に近づく気配に辟易とし始めている現状。それが、解消されていくような爽快感すら覚えるという物。

「貴女は、そうでしたね」
「あの、トモエさん、流石に屋外では」
「必要だと思えば」

屋内であれば、それも良いだろうとはオユキも考えている。屋外でも、トモエが必要だと思えば構わないとも考えている。だが、そのあたり範囲と言えばいいのだろうか。調整が効くものであるなら良いのだが、オユキがそう考えて声をかけてみればトモエからの反応はやはりにべもない。オユキがどう考えたところで、トモエにとって必要と思えばただそうするのだと。だが、その言葉の背後には、ある程度伝えるべき人間を、誰に対して伝えるのか選択もできそうだとそれも感じ取って。

「貴女方は、本当に。言葉にしないことが、これほど多かったのですか」
「長く、連れ添ってきた相手ですから」

そのあたりの思考のやり取り。すっかりとなれたそれも、しっかりと伝わっているらしい。
そうして話している席は、船の中央。ぽっかりと空けられた穴。水路を、そこを行く船にこのような事をして何故沈まぬのかと、そんな疑問は確かにオユキとしても浮かぶものだが、公爵領でもそうであったのだ。オユキはそこに素足を下ろして、トモエと並んで座り。他の者たちは、体が冷えたこともあるのだろう。トモエとは逆の側に用意されている席について、それぞれに飲み物を口に運んでいる。

「さて、いくつかトモエが気にしていた建築物ですが」

そして、ヴィルヘルミナの歌を背景に。公爵夫人が、きちんとトモエの興味を汲んでいたのだろう。あれこれと来歴を詳細に。本当に、領都の事であればまだしも、過去に暮らしていたのだとしても、本当によく覚えているものだと。

「となると、建て替えが行われているのですか」
「確か、四百年程前でしたか」
「いえ、百五十年前にさらに。店主のほうでは、一部と考えてそのように話しているのでしょうが」
「言われてみれば、壁面の一部に新しい技法も使われていましたか」

そして、公爵夫人の不足する知識、そのあたりを王妃が正しく補完していく。話をねだっているトモエにしても、確かに楽しい時間ではあるのだが、こうもそれを当然と語られるといったいどれほどの記憶力なのかと、それを覚えるために、どれだけの時間を費やしたのかと。

「流石に、有名なところ位ですね。トモエの気になるところと言うのは、改築や増築はあれど」
「ええ。始まりの時から変わらずそこにある物ばかり」
「そうだとしても、本当に」

それこそ、過去に何度か観光地に出かけたときに。そうした相手を頼んだこともある。実際に、その者たちは本当に色々とよく知っていたものだ。こちらが興味を持つそぶりを見せれば、それに従って説明を。時には、そこでどのような催しが行われているか迄。だが、それはあくまでそれを職務としている者達だからこそ、そう考えていたものだ。日々の事でも、それこそ日々仕事に追われているに違いない相手が、ここまでの事を当然と語れるというのは、本当に頭が下がる思いだ。

「そのあたりは、役割の違いと言うのが大きいのでしょうね」
「ええ、王太子妃様は、どちらかと言えば」
「あの子は、確かに私よりは詳しくないでしょう」

歴史を伝える、それを己の職務としている者たちと、また違う役割を持っているのだと。

「だとすれば」
「ええ、次代の王妃は既に検討をつけています」
「全く、そうした話をこの場で聞かされたところで、私にどうせよと」

生まれて間もない子供、それにはすでに伴侶の候補がいるのだと話をされて。オユキとしても、本当にこうした貴族社会と言う仕組みが、話に聞いていたものが本当に厄介を色々と抱えているのだと改めて思い知らされて。ただ、今のオユキにとっては響く歌声と、何よりも足から伝わる涼やかさと言うのがとにかく心地よい事もありこれまでのように過度に心が揺れることがない。それこそ、このような状況でなければ己にしても、こちらでもと考えたのだろうが。

「オユキは、まぁ、そうして楽しんでいると良いでしょう」
「ええ、少なくとも次の祭りまでは、こうさせて頂くつもりではいます」

ため息と共に、マリーア公爵夫人からそのように言われるものだが、トモエも側に居りはっきりとそうしろと言った視線も感じるため、オユキとしても殊更気楽に構えるものだ。勿論、それまでに体調を少しでも戻しておかなければというのはあるのだが、前回にしてもそこまで負担を得るようなものではなかったのだ。多少は自分の意志で動き回れるように、護符がなくとも動けるようになった。その程度の状態でも、どうにかなったのだ。寧ろ、今度ばかりは負担が大きかったのはアイリスとカルラ。オユキとしてはその場にいれば問題がない以上、今度ばかりは気楽なものだ。いや、オユキのほうでは、気楽な物であってくれと、そう願っている。

「そういえば、オユキ、手習いのほうは」
「ナザレア様から、雨と虹も終わらせてからのほうが良いのではないかと、そのような話がありまして」
「私は、報告を受けていません」
「おや」

湯船につかっているときのように、何処か熱に浮かされるような感覚ではなく。流れる水に足を下ろして、その感触を楽しむオユキに思い出したと言わんばかりに公爵夫人から声がかかる。言われたものは、月と安息、水と癒しは既にそれぞれ用意が終わっている、そうした報告は既にしているのだが、今回持ち込んでいないことを指しての事なのだろう。流石に、神殿に向かうのであればこうもゆっくりとはしていられないし、宿泊を前提として向かうのであれば流石に準備も色々と足りていない。なんにせよ、トモエとオユキだけで向かうにしても、今度ばかりは相応の品を持ち込まなければならないだろうとも考えているため、広がった空間、そのうちの二つくらいは埋めなければならない。

「意外、といえば意外ですか」
「仕方のない事ではあるのですが」
「その、ナザレア様の奉じる柱、虚飾と絢爛、それについては」
「冠として口にすべき名だけは聞こえるのですが、歴史をさかのぼっても」

生憎と、そのような柱は見つからないと、そういう事であるらしい。

「今度の祭りで、そちらもとは考えているのですが」

オユキとしては、どういえばいいのだろうか。少々難しい、そう考えてもいるし、ナザレアに対して冠ではない名前を伝えてトモエが正しいのだとそうした話をされたこともある。魔国にはついてこなかったのだが、こちらで改めてつけられたこともあり、随分と圧を感じてもいる。

「その、ナザレア様が、ですね」
「オユキ、一応は」
「失礼、ナザレアが、また随分と焦っているといいますか」
「全く、あの者は」

さて、王妃のその反応に、オユキとしても甚だ疑問を感じる物だが。

「獣精、この言葉に聞き覚えが」
「アイリスさんの同類ですか、成程、となるとタルヤさんに次ぐと言う事ですか」
「流石に、他にも花精や木精と言うのも王城には居ます。ただ、両手の指を折る間、そこにはまず名を連ねる事でしょう」
「であれば、一度相談を持ち掛けて見せましょうか」

どうにも、一体どこから聞きつけたのか。今度の祭りに対して、何やら彼女も期待をしている素振りがある。オユキが雨と虹に対して、供え物をしようと、トモエの協力を得て考えた図案を見せれば、では似合う糸をとそれをもう実に楽し気に選んでいる。頼られたことがうれしいのだろうか、そんなことを考えたものだがどうにも実態は違いそうでと近頃はそればかり。今この場にしてもシェリアと、随分と久しぶりに顔を合わせることになったラズリアに任せて、今も屋敷で図案を洗練させ、さらには糸と布を選んでと忙しない。

「トモエさんは、どう思いますか」
「試してみるのも、悪くはないでしょうが」

思い付きを口にすることなく、隣に並んで流れる水に足を下ろしているトモエに尋ねてみれば、返ってくる言葉は少し考えたいとそのような。

「では、そちらはトモエさんに預けましょう」
「オユキ、刺繍は」
「それも、少し考えては見たのですが」

結局のところ、オユキはやはり細かい作業は嫌いではない。確かにトモエに言われて改めて少し考えてみたのだが、己のこれまでを振り返ってみても、心当たりと言うのはそれに尽きる。だが、細かい作業として好んでいるのは、針仕事ではないのだ。布と糸で図案を作る。布の補強、それ以上に価値を見出せない事には、やはり気分が乗らない。そして、それをトモエが引き取ってもいいのだとそうした素振りを見せてくれている。甘えてもいいのだと、それを示すことにためらいが無い。ならば、オユキとしては勿論預ける。

「どうにも私は、魔道具のほうが好みのようですから」

ここ暫くの間、確認していた書物に加えて魔国から持ち帰った種々の魔道具。それをカナリアと共に分解する時間と言うのが、さて、どれだけオユキにとって楽しかったことか。
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