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第一章
告白
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第九話 告白
「ここが、今日から君の家だ」
祖母との対面後、ユファがヴォルベレーの里を回り、里の仲間達に挨拶を終えた頃、ルイスが広場までユファを迎えに出向いてくれた。
ユリアの指示で、ユファの新しい住居に案内することになっていたらしい。
ヴォルベレー式住居は、白い砂岩で造られた円柱状の筒形で、窓が左右一つずつと入り口の扉があるくらいで、他には目立った外的特徴は無くシンプルかつ無駄のない構造だ。
「こんな立派な家で一人暮らしなんて、勿体ないくらい!」
「よかった。ハメルの里の家は木造建築だったからね。ユファのお気に召すか心配だったんだ」
ルイスはそう言いながら、ユファの頭をふわりと撫でた。
指先が髪を梳く感触が心地いい。胸の中が温まり、ユファのピリピリした心がほどけていくようだった。
「さあ、どうぞ。君に少し話があるから、僕も入らせてもらうよ」
住居の扉には銀の錠前が取り付けられており、鍵も銀色だった。
鍵の頭の部分には里の検問で見たのと同じ、不死鳥が翼を広げたポーズの彫刻が施されていた。
「わ、すごい……!綺麗な天井!」
一歩室内に踏み入ると、空を円形に切り取ったかのような水色の天井がユファの目を引き付けた。
「特別に塗料で塗らせて貰ったんだ。君の気分が、少しでも明るくなる様にって。ユファはハメルの里では、ずっと家の中にいただろ?」
「素敵。すごく気に入ったわ、ありがとう、兄さん」
慣れ親しんだ故郷を失い、両親を亡くしてしまったユファの哀しみを、ルイスなりの気遣いで和らげようとしてくれたのだろう。ユファはそのさり気無い心遣いに感激した。
(新しい里での暮らし……不安もあるけど、きっとまた一から頑張っていけるよね……)
「とりあえず、お茶を入れようか。まだ家具は少ないけど、一応、台所には調理器具は一式そろえておいたんだ」
「あ。お茶なら、私が入れるわ!」
「ユファは座っててくれ。今日は疲れてるだろ?」
台所に立ったルイスを手伝おうとしたユファだが、ルイスにさっと追い払われてしまった。
ユファは、しぶしぶテーブルに着く。建物は全て石造りなのだが、タンスやベッドなどの家具は木製のようだ。……なんだか、懐かしくてホッとする匂いがする。ハメルの森の木々のぬくもりをユファは思い出した。
「そういえば、兄さんとゆっくり話すのって久しぶりね」
「そうだな。君は一ヶ月も姿を見せなかったから」
「あっ、ごめんなさい……えっと」
「……責めてるわけじゃない。無事でいてくれて何よりだ。――ユファが小さい頃は、よく一緒に遊んだよな。ユファのままごと遊びとか人形遊びに、毎日付き合わされたのを覚えてる」
「そうね。確かに昔はそうだったかも」
ユファとルイスは幼馴染みとはいえ、歳は五つ離れている。ある程度年齢をかさね、年頃の少女になったユファは、子供のようにルイスとべったりくっついていることが、なんとなく照れくさくなってしまった。
幼少期の記憶はユファにとって良いものばかりではないけれど、閉鎖されたハメルの里の生活でいつも傍にいてくれたルイスは、やはり実の家族の様に大切だった。
「今日、長の話はどうだったんだい?」
「挨拶と……それから、明日また来るように、って仰ってたわ」
お茶の準備を終えたルイスは、用意したティーセットをテーブルに並べていった。真新しい白磁のカップに注がれているのは、ユファの大好きな砂糖たっぷりの甘いミルクティー。ルイスのカップからは、爽やかなミントの香りが漂っていた。
「……他には?何か、聞かれてないのかい?」
「え?……とくに何も」
「そうか。なら、いいんだけど」
ルイスがユファの正面の椅子に腰を下ろすと、ユファは一口ミルクティーを啜り、気分を落ちつけてから、意を決してどうしても拭い切れない疑問をぶつけてみることにした。
「あのね、兄さん。ユリア様に何か言われたわけじゃないんだけど、ひとつ気になることがあったの」
「なんだい?」
「ユリア様って、わたしのお婆様で合ってるのよね……?」
「ぶっ……!」
至って真剣に話を振ったユファだったが、対するルイスはティースプーンでカップをかき回す動きを一瞬止めて、盛大に噴出して笑いだした。
「っ、……は、はははは!」
「ちょっと、兄さん!何がおかしいの?真剣に聞いているのに!」
ルイスの爆笑の意味が分からないユファは、頬を膨らまして憤慨した。
ルイスは「ごめんごめん」と謝りつつも、可笑しそうに笑いながら言う。
「……当然じゃないか!ユファが孫でなければ、ユリア様はここまで目をかけたりしないだろ。君が帰って来た時のために家を整える様に仰ったのはユリア様だ。勿論、僕の希望でもあったけど」
「でも。その、……ものすっごく若くて、美しい人だったから!」
「ユリア様のお姿のことか。僕はずっと彼女の側近だったわけじゃないから、昔のことは知らないけど。エアハルトの父上であるオリバーさんの話だと、このヴォルベレーの里でユリア様に仕えるようになってから、ずっと彼女はあの姿だったらしいな」
「そう、なの?とてもお婆様なんて呼ばれるお年には見えないから」
エアハルトの父・オリバーはハメルの里出身だが、ある時ヴォルベレーの里に召集されて以来、ユリアの側近となり彼女を支えているという。
「僕もヴォルベレーに到着してから話を聞いたけど、ユリア様は『天に選ばし者』と呼ばれているらしい。この里の者は皆、ユリア様を崇めている。こっちでは月に一回、彼女の演説会が開かれたり、同胞同士の交流会が頻繁に行われているんだ」
「演説って、なに?」
「君も、いずれ参加することになる。そうすれば分かるよ」
ルイスが、静かにカップに口をつけるのを、ユファはなんとなく重々しい気分で見つめた。
先ほどまで胸がときめくくらい甘く美味しかったミルクティーの味さえ、ほとんど感じない。
――同胞同士の交流会に、演説。
いずれもユファがハメルの里で暮らしていた頃は無かったものだ。ユファの父・オリオンは、里の仲間たちと対等で気さくに接していたし、尊敬はされていたけれど崇められるほど大仰な存在ではなかった。
思い悩むユファに気づいたルイスは、カップを静かにソーサーの上に置き、ユファの腰元の辺りへと視線を動かした。
「何、ルイス兄さん?」
「それ、どうしたんだ?」
「え?」
「君の腰の青い布」
ルイスの一言で、ユファは駿里のマントを纏ったままだった事を漸く思い出した。
「見覚えの無いものだから、気になっていたんだ。……人間に捕まっているときに、何かあったのか?」
「これは、その」
――ユファの本心は、ルイスに嘘をつきたく無いと思っている。
が、ルイスはハメルの里の襲撃以来、人間に対しての嫌悪を一際強く持っているはずだ。人間の銃弾で負った体の傷は空術で癒えたとしても、心に負った傷が簡単に消えることは無い。それは、ユファも同じこと。家族と故郷を奪った人間を許す気はない。
(だけど、シュンリは……)
双翼の民と敵対する人間であっても、駿里はユファにとって命の恩人。命がけで守ってくれた相手を貶めるような真似は、ユファにはできなかった。
「僕には、言えない事か?」
「……」
黙して語らないユファを見たルイスは微かに表情を曇らせ、ふっと短く息を吐きだしてから告げた。
「ユファ、聞いて欲しい」
「?」
テーブルの上に置かれたユファの手の上に、ルイスの掌が覆いかぶさる。
「にいさん、……?」
「ひとつの里を治めるのは重責だ。それも、ユリア様のように一人ではね」
「ユリア様にはオリバーさんやルイス兄さんがいるから、きっと心強いと思うわ……」
握りしめられたルイスの手の温度に、知らずユファの鼓動が高鳴る。恥ずかしくて振りほどこうとしたが、ユファのささやかな抵抗ではとても逃げられなかった。
「そうじゃない。……そうじゃなくて」
「え?」
「君は、いずれ次の長になる。そうなったとき、僕は、君を傍で支えていきたいと思っているんだ。ユリア様からも、そうしてくれと頼まれてる」
「ユリア様が……?」
突然告げられた真実とルイスの真剣な態度に、ユファはもう脳みそがパンクしそうになっていた。ヴォルベレーの里に来たばかりの身で立派に里を治める自信は無いし、父の跡を継いで長になるとしても、それはまだ先の話だと思っていた。
「嬉しいけど、まだ長になるなんて考えたことないわ……。つい最近まで、満足に外に出たことも無かったのに」
戸惑い仕切りのユファだったが、ルイスの口からは更に、予想だにしていなかった言葉が紡がれる。
「ユリア様は、君に里の長の座を譲るつもりだろう。それが、明日の話なんだと思う」
「!?……うそ……」
「嘘じゃない。正式に就任の儀の説明をするために、呼ばれているんじゃないか?」
ユファは体が小さく震え出すのを感じた。ルイスはユファの両の手を取ると、自分の手のひらの中にすっぽりと包み込むよう閉じ込めた。
まるで体ごと、ルイスに抱き締められているような錯覚に陥る。畳みかけるように襲ってくる事実も温もりも、すぐに受け止めるには重すぎる。ユファは顔だけでなく頭にまで熱が回ってきた。
「僕と家族になろう、ユファ。そしてこの里を、未来永劫人間達から守っていこう」
「……人間から?」
「ああ」
――ルイスと、家族になる。
ユファも年頃の少女だ。仲睦まじかった両親のように幸せな結婚をしたいと憧れない訳ではない。
ただ、あまりにも現実味がなく、唐突過ぎるプロポーズだった。
(だって、ルイス兄さんは……)
実の兄のように慕うルイスへの気持ちは、すでに血のつながった家族のようだ。心のどこかでこの関係はずっと続くと夢見ている部分さえあったのに。
「僕たちは小さい頃から、ずっと一緒に暮らしてきたじゃないか。きっと二人なら、上手くやっていける」
ルイスは椅子を立ち上がり、呆然としたまま固まっているユファの傍に歩み寄ってユファの手を引くと、椅子から立ち上がらせた。
「双翼の民を、永遠の繁栄に導こう。二人で」
ユファが気がついたときには、詠うような甘い囁きと共に、ルイスの腕の中に抱きしめられていた。永遠の繁栄は、人間によって追いやられた双翼の民にとって、悲願かもしれない。しかし、その言葉はユファを不安にこそさせ、安らぎを与えてはくれなかった。
「私……」
ルイスの双眸は真摯にユファを捉えている。その眼差しに偽りがあるとは思えなかった。体が竦んで動けないユファの唇にあと数センチのところまで、ルイスの顔が迫って来ている。思わず目を背けたユファの視界の端に、一瞬だけ、腰に巻かれている蒼い布が映った。
「ま、待って、兄さん!」
その瞬間、雷に打たれたようにユファは正気を取り戻し、ルイスの胸を手のひらでそっと押し返した。
「ユファ……」
驚いたルイスがポツリと、彼女の名を呟いたときだった。
「……きゃあっ?」
突然、ガラスが割れる騒々しい衝撃音が部屋中に響き渡り、同時に窓の方向からユファ達めがけて“何か”が襲撃してきたのだ。
「な、なに?」
ルイスはとっさにユファから身を離し、その物体を避ける。二人の間を通り抜けて飛んでいった物体は壁にぶつかると、こつりと床へ落下した。
「石?」
二人の間を裂くように飛んできたそれは、何の変哲も無い石ころだ。
「自然現象じゃないみたいだな」
ルイスは床の石をつかむと、砕けたガラスの破片を避けながら窓の外を覗き、外を確認した。風も穏やかで、静かな月夜だ。
「里の者の仕業か……?いや……」
「あの、ルイス兄さん?」
ユファが恐る恐る声をかけると、ルイスは苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。いつも穏やかで柔和なルイスにしては、珍しい表情だ。
「ユファ、さっき言った言葉は本当だ。だから、真剣に僕との結婚の事、考えてくれないか?」
「それは……」
「返事は急がないから。待ってるから」
振り返ったルイスの表情は、すっかり元通りの柔らかい笑顔だった。
「折角用意した新しい家なのに、ごめんな」
「大丈夫よ。今日はそれほど寒くないし、窓に布を当てておくから」
飛び散ったガラスの片づけをしている間も、二人の間に会話らしい会話は無く、別れ際に「また明日」と手を振ると、ルイスはユファの家を出て行った。
ハメルで暮らしていた頃から、ルイスを慕う気持ちは変わっていない。
好きか嫌いで問われれば、好きだとユファは答えるだろう。しかし、夫婦になる覚悟を持って“愛しているのか”と問われると、はっきり即答できないのだ。
一人になり、ユファはベッドに重い体を投げ出した。柔らかな羽毛の感触にすっぽりと体が沈みこんでいく。
ユファの体にはまだ、ルイスに抱き締められたときの熱の名残が残っていた。
「ここが、今日から君の家だ」
祖母との対面後、ユファがヴォルベレーの里を回り、里の仲間達に挨拶を終えた頃、ルイスが広場までユファを迎えに出向いてくれた。
ユリアの指示で、ユファの新しい住居に案内することになっていたらしい。
ヴォルベレー式住居は、白い砂岩で造られた円柱状の筒形で、窓が左右一つずつと入り口の扉があるくらいで、他には目立った外的特徴は無くシンプルかつ無駄のない構造だ。
「こんな立派な家で一人暮らしなんて、勿体ないくらい!」
「よかった。ハメルの里の家は木造建築だったからね。ユファのお気に召すか心配だったんだ」
ルイスはそう言いながら、ユファの頭をふわりと撫でた。
指先が髪を梳く感触が心地いい。胸の中が温まり、ユファのピリピリした心がほどけていくようだった。
「さあ、どうぞ。君に少し話があるから、僕も入らせてもらうよ」
住居の扉には銀の錠前が取り付けられており、鍵も銀色だった。
鍵の頭の部分には里の検問で見たのと同じ、不死鳥が翼を広げたポーズの彫刻が施されていた。
「わ、すごい……!綺麗な天井!」
一歩室内に踏み入ると、空を円形に切り取ったかのような水色の天井がユファの目を引き付けた。
「特別に塗料で塗らせて貰ったんだ。君の気分が、少しでも明るくなる様にって。ユファはハメルの里では、ずっと家の中にいただろ?」
「素敵。すごく気に入ったわ、ありがとう、兄さん」
慣れ親しんだ故郷を失い、両親を亡くしてしまったユファの哀しみを、ルイスなりの気遣いで和らげようとしてくれたのだろう。ユファはそのさり気無い心遣いに感激した。
(新しい里での暮らし……不安もあるけど、きっとまた一から頑張っていけるよね……)
「とりあえず、お茶を入れようか。まだ家具は少ないけど、一応、台所には調理器具は一式そろえておいたんだ」
「あ。お茶なら、私が入れるわ!」
「ユファは座っててくれ。今日は疲れてるだろ?」
台所に立ったルイスを手伝おうとしたユファだが、ルイスにさっと追い払われてしまった。
ユファは、しぶしぶテーブルに着く。建物は全て石造りなのだが、タンスやベッドなどの家具は木製のようだ。……なんだか、懐かしくてホッとする匂いがする。ハメルの森の木々のぬくもりをユファは思い出した。
「そういえば、兄さんとゆっくり話すのって久しぶりね」
「そうだな。君は一ヶ月も姿を見せなかったから」
「あっ、ごめんなさい……えっと」
「……責めてるわけじゃない。無事でいてくれて何よりだ。――ユファが小さい頃は、よく一緒に遊んだよな。ユファのままごと遊びとか人形遊びに、毎日付き合わされたのを覚えてる」
「そうね。確かに昔はそうだったかも」
ユファとルイスは幼馴染みとはいえ、歳は五つ離れている。ある程度年齢をかさね、年頃の少女になったユファは、子供のようにルイスとべったりくっついていることが、なんとなく照れくさくなってしまった。
幼少期の記憶はユファにとって良いものばかりではないけれど、閉鎖されたハメルの里の生活でいつも傍にいてくれたルイスは、やはり実の家族の様に大切だった。
「今日、長の話はどうだったんだい?」
「挨拶と……それから、明日また来るように、って仰ってたわ」
お茶の準備を終えたルイスは、用意したティーセットをテーブルに並べていった。真新しい白磁のカップに注がれているのは、ユファの大好きな砂糖たっぷりの甘いミルクティー。ルイスのカップからは、爽やかなミントの香りが漂っていた。
「……他には?何か、聞かれてないのかい?」
「え?……とくに何も」
「そうか。なら、いいんだけど」
ルイスがユファの正面の椅子に腰を下ろすと、ユファは一口ミルクティーを啜り、気分を落ちつけてから、意を決してどうしても拭い切れない疑問をぶつけてみることにした。
「あのね、兄さん。ユリア様に何か言われたわけじゃないんだけど、ひとつ気になることがあったの」
「なんだい?」
「ユリア様って、わたしのお婆様で合ってるのよね……?」
「ぶっ……!」
至って真剣に話を振ったユファだったが、対するルイスはティースプーンでカップをかき回す動きを一瞬止めて、盛大に噴出して笑いだした。
「っ、……は、はははは!」
「ちょっと、兄さん!何がおかしいの?真剣に聞いているのに!」
ルイスの爆笑の意味が分からないユファは、頬を膨らまして憤慨した。
ルイスは「ごめんごめん」と謝りつつも、可笑しそうに笑いながら言う。
「……当然じゃないか!ユファが孫でなければ、ユリア様はここまで目をかけたりしないだろ。君が帰って来た時のために家を整える様に仰ったのはユリア様だ。勿論、僕の希望でもあったけど」
「でも。その、……ものすっごく若くて、美しい人だったから!」
「ユリア様のお姿のことか。僕はずっと彼女の側近だったわけじゃないから、昔のことは知らないけど。エアハルトの父上であるオリバーさんの話だと、このヴォルベレーの里でユリア様に仕えるようになってから、ずっと彼女はあの姿だったらしいな」
「そう、なの?とてもお婆様なんて呼ばれるお年には見えないから」
エアハルトの父・オリバーはハメルの里出身だが、ある時ヴォルベレーの里に召集されて以来、ユリアの側近となり彼女を支えているという。
「僕もヴォルベレーに到着してから話を聞いたけど、ユリア様は『天に選ばし者』と呼ばれているらしい。この里の者は皆、ユリア様を崇めている。こっちでは月に一回、彼女の演説会が開かれたり、同胞同士の交流会が頻繁に行われているんだ」
「演説って、なに?」
「君も、いずれ参加することになる。そうすれば分かるよ」
ルイスが、静かにカップに口をつけるのを、ユファはなんとなく重々しい気分で見つめた。
先ほどまで胸がときめくくらい甘く美味しかったミルクティーの味さえ、ほとんど感じない。
――同胞同士の交流会に、演説。
いずれもユファがハメルの里で暮らしていた頃は無かったものだ。ユファの父・オリオンは、里の仲間たちと対等で気さくに接していたし、尊敬はされていたけれど崇められるほど大仰な存在ではなかった。
思い悩むユファに気づいたルイスは、カップを静かにソーサーの上に置き、ユファの腰元の辺りへと視線を動かした。
「何、ルイス兄さん?」
「それ、どうしたんだ?」
「え?」
「君の腰の青い布」
ルイスの一言で、ユファは駿里のマントを纏ったままだった事を漸く思い出した。
「見覚えの無いものだから、気になっていたんだ。……人間に捕まっているときに、何かあったのか?」
「これは、その」
――ユファの本心は、ルイスに嘘をつきたく無いと思っている。
が、ルイスはハメルの里の襲撃以来、人間に対しての嫌悪を一際強く持っているはずだ。人間の銃弾で負った体の傷は空術で癒えたとしても、心に負った傷が簡単に消えることは無い。それは、ユファも同じこと。家族と故郷を奪った人間を許す気はない。
(だけど、シュンリは……)
双翼の民と敵対する人間であっても、駿里はユファにとって命の恩人。命がけで守ってくれた相手を貶めるような真似は、ユファにはできなかった。
「僕には、言えない事か?」
「……」
黙して語らないユファを見たルイスは微かに表情を曇らせ、ふっと短く息を吐きだしてから告げた。
「ユファ、聞いて欲しい」
「?」
テーブルの上に置かれたユファの手の上に、ルイスの掌が覆いかぶさる。
「にいさん、……?」
「ひとつの里を治めるのは重責だ。それも、ユリア様のように一人ではね」
「ユリア様にはオリバーさんやルイス兄さんがいるから、きっと心強いと思うわ……」
握りしめられたルイスの手の温度に、知らずユファの鼓動が高鳴る。恥ずかしくて振りほどこうとしたが、ユファのささやかな抵抗ではとても逃げられなかった。
「そうじゃない。……そうじゃなくて」
「え?」
「君は、いずれ次の長になる。そうなったとき、僕は、君を傍で支えていきたいと思っているんだ。ユリア様からも、そうしてくれと頼まれてる」
「ユリア様が……?」
突然告げられた真実とルイスの真剣な態度に、ユファはもう脳みそがパンクしそうになっていた。ヴォルベレーの里に来たばかりの身で立派に里を治める自信は無いし、父の跡を継いで長になるとしても、それはまだ先の話だと思っていた。
「嬉しいけど、まだ長になるなんて考えたことないわ……。つい最近まで、満足に外に出たことも無かったのに」
戸惑い仕切りのユファだったが、ルイスの口からは更に、予想だにしていなかった言葉が紡がれる。
「ユリア様は、君に里の長の座を譲るつもりだろう。それが、明日の話なんだと思う」
「!?……うそ……」
「嘘じゃない。正式に就任の儀の説明をするために、呼ばれているんじゃないか?」
ユファは体が小さく震え出すのを感じた。ルイスはユファの両の手を取ると、自分の手のひらの中にすっぽりと包み込むよう閉じ込めた。
まるで体ごと、ルイスに抱き締められているような錯覚に陥る。畳みかけるように襲ってくる事実も温もりも、すぐに受け止めるには重すぎる。ユファは顔だけでなく頭にまで熱が回ってきた。
「僕と家族になろう、ユファ。そしてこの里を、未来永劫人間達から守っていこう」
「……人間から?」
「ああ」
――ルイスと、家族になる。
ユファも年頃の少女だ。仲睦まじかった両親のように幸せな結婚をしたいと憧れない訳ではない。
ただ、あまりにも現実味がなく、唐突過ぎるプロポーズだった。
(だって、ルイス兄さんは……)
実の兄のように慕うルイスへの気持ちは、すでに血のつながった家族のようだ。心のどこかでこの関係はずっと続くと夢見ている部分さえあったのに。
「僕たちは小さい頃から、ずっと一緒に暮らしてきたじゃないか。きっと二人なら、上手くやっていける」
ルイスは椅子を立ち上がり、呆然としたまま固まっているユファの傍に歩み寄ってユファの手を引くと、椅子から立ち上がらせた。
「双翼の民を、永遠の繁栄に導こう。二人で」
ユファが気がついたときには、詠うような甘い囁きと共に、ルイスの腕の中に抱きしめられていた。永遠の繁栄は、人間によって追いやられた双翼の民にとって、悲願かもしれない。しかし、その言葉はユファを不安にこそさせ、安らぎを与えてはくれなかった。
「私……」
ルイスの双眸は真摯にユファを捉えている。その眼差しに偽りがあるとは思えなかった。体が竦んで動けないユファの唇にあと数センチのところまで、ルイスの顔が迫って来ている。思わず目を背けたユファの視界の端に、一瞬だけ、腰に巻かれている蒼い布が映った。
「ま、待って、兄さん!」
その瞬間、雷に打たれたようにユファは正気を取り戻し、ルイスの胸を手のひらでそっと押し返した。
「ユファ……」
驚いたルイスがポツリと、彼女の名を呟いたときだった。
「……きゃあっ?」
突然、ガラスが割れる騒々しい衝撃音が部屋中に響き渡り、同時に窓の方向からユファ達めがけて“何か”が襲撃してきたのだ。
「な、なに?」
ルイスはとっさにユファから身を離し、その物体を避ける。二人の間を通り抜けて飛んでいった物体は壁にぶつかると、こつりと床へ落下した。
「石?」
二人の間を裂くように飛んできたそれは、何の変哲も無い石ころだ。
「自然現象じゃないみたいだな」
ルイスは床の石をつかむと、砕けたガラスの破片を避けながら窓の外を覗き、外を確認した。風も穏やかで、静かな月夜だ。
「里の者の仕業か……?いや……」
「あの、ルイス兄さん?」
ユファが恐る恐る声をかけると、ルイスは苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。いつも穏やかで柔和なルイスにしては、珍しい表情だ。
「ユファ、さっき言った言葉は本当だ。だから、真剣に僕との結婚の事、考えてくれないか?」
「それは……」
「返事は急がないから。待ってるから」
振り返ったルイスの表情は、すっかり元通りの柔らかい笑顔だった。
「折角用意した新しい家なのに、ごめんな」
「大丈夫よ。今日はそれほど寒くないし、窓に布を当てておくから」
飛び散ったガラスの片づけをしている間も、二人の間に会話らしい会話は無く、別れ際に「また明日」と手を振ると、ルイスはユファの家を出て行った。
ハメルで暮らしていた頃から、ルイスを慕う気持ちは変わっていない。
好きか嫌いで問われれば、好きだとユファは答えるだろう。しかし、夫婦になる覚悟を持って“愛しているのか”と問われると、はっきり即答できないのだ。
一人になり、ユファはベッドに重い体を投げ出した。柔らかな羽毛の感触にすっぽりと体が沈みこんでいく。
ユファの体にはまだ、ルイスに抱き締められたときの熱の名残が残っていた。
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