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カストール編

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エルマーがレイガンに背負われるように運ばれて、宿に戻った翌朝。
ノックの音とともに、支配人の戸惑ったような声が聞こえてきた。

「あのう、宜しいでしょうか……迎えに来たと申すものが表にいるのですが、念の為確認して頂きたく。」

その声に反応して、ガチャリと扉を開いたのはナナシだ。
髪の毛を寝癖で散らかしたまま、パタパタと尾を揺らして出迎える。
はだけたバスローブ姿で、今か今かと到着を待ちわびていたらしい。
そんなナナシの姿を前に、支配人はビシリと固まった。

「んと、ゆみる?」
「はえ、あ、さ、さようです。」

ひょこりと扉の外に出ようとしたナナシを窘めるように、鍛えられた男の腕が薄い腹に回った。
小さな声とともに扉の内側へと消えていったかと思うと、入れ替わるようにエルマーが扉に手をかけた。

「通してやってくれ。朝からご苦労さん。」
「える、ナナシもいらっしゃいするよう?」
「お前はその前に服を着替えてこい、な?」

鍛えられた体に羽織る程度のバスローブ。背後の寝乱れた寝台は事後の余韻を纏っている。
そして、エルマーの腰に腕を回すようにして見上げるナナシの首筋には、しっかりと所有印が刻まれていた。
昨晩の情事を彷彿とさせる目に毒な光景だ。支配人はすべてを飲み込んだようにゆっくりと一礼をすると、扉が閉まるなり大慌てで階下へと消えていった。
慌ただしい支配人を見送ったエルマーが、くありと大きなあくびをする。ナナシの肩を抱くように部屋に戻ろうとすれば、声をかけてきたのはアロンダートであった。

「エルマー、もういいのか。」
「ナナシの治癒で治った。まじで種無しになるかと思ったわ……あのちび、許さん……」

爽やかやな朝には程遠いどんよりとした空気を纏うエルマーは、昨晩の金的を思い出したのか、ブルリと身震いをした。
きちんと機能も改善されていることは、ナナシによって丁寧に確認をしてもらっている。おかげでナナシは鳴かされたが。
なにしろとんでもない目にあった。本気で男を捨てる羽目になるかと思ったのだ。
願わくば二度とあの痛みは味わいたくない。二度と。
エルマーのそんな様子を前に笑うアロンダートは、今朝になって昨夜の出来事がツボにはまってしまったらしい。すまないといって肩を揺らしていた。
そろそろ準備をしなくては。エルマーがナナシを着替えさせようとバスローブに手をかけたときだった。

「おはようナナシ!なんてとこ泊まってんだお前ら!レイガンに聞かなかったら、僕は真っ先にここを外して探すとこだったよ!」

牛乳瓶片手に登場したユミルは、朝から実に元気いっぱいである。
条件反射かのように、エルマーは猫のように飛び退いてナナシの背後へと着地した。
こんなところで無駄な運動神経を使うほど、昨夜の出来事がトラウマらしい。盾にされたナナシは、ひゃあ!とびっくりした声を上げていた。

「ユミルてめえ同じ男として股間はねえだろうが!」
「はん、隠れておいてなにを吠えてるんだいエルマー。いいじゃないか使い物にならなくなっても、逆に浮気が減るんじゃない?」
「だっから浮気じゃねえっていってんだろうが!!」
「朝からうるさい。さっさと支度をしろ、予選に向かうのだろう。」

二人のやり取りを遮るように文句を飛ばしたのはレイガンだ。
シャワーを浴びてきたらしい。濡れた髪をわしわしとタオルで拭いながら現れた。
濡れた銀髪から滴り落ちた水滴が、ぽたりとレイガンの胸元に落ちる。鍛えられた体は、動しなやかな筋肉が皮膚の内側で動いている。
腰に巻き付けた布が引き締まったウエストを強調しているのを前に、ユミルは慌てて目をそらした。

脳裏に浮かび上がったのは、レイガンの手の大きさと力強さだ。太い血管が浮かぶ腕は、戦いによってつけられたであろう傷が薄く残っている。
ユミルはぎゅっと目を瞑ると、思考を誤魔化すように、手にした牛乳瓶をずいっと突き出した。

「はいこれお土産。ほらこれ飲んだらさっさと行くよ!まったく、今日は時間がないんだから!」
「なんでキレてんだおまえ。」
「うるっさいエルマー!!また金玉けるよ!!」
「それだけはやめろや!!」

治安の悪いことを宣ったユミルが書類を取り出した。どうやら予選に出場するためのものらしく、名前を書くだけで紙に施した魔力が反応して参加者登録が完了となる優れものだ。
エルマーがユミルの手から紙をもぎとる。そのままさらさらと署名をすると、またたく間に紙は燃え上がり消えた。
後はギルドで隷属者の主が同意書にサインをして終わりだ。
ちなみにエルマーは許可なくレイガンの分まで署名をしておいた。
まあいいだろう、どうせ巻き込むことになることは目に見えている。事後報告でも構わないはずだ。

エルマーは手早く着替えを済ませると、歯を磨きながらサジがねこける部屋へと顔を出した。
治癒に睡眠が必要といえど、流石に一戦力を放置はできない。

「サジィ!俺とレイガン予選行くから、お前はあとからナナシたち連れてきてくれえ!」
「んん、ふ、ふあー……あ、は、ええ?」
「ええ?じゃねえ。昨日言ったろ。じゃあ頼むぞー、」
「ふぁーあ、あいあい……あとで、アロンダートと……とんでいく……」
「ったく、大丈夫かよ……。」

寝具からひょろりと手を出したサジが、エルマーの言葉に反応を示すようにひらひらと動かす。どうやらまだ寝ぼけているらしい。

「僕が起こしておく。あとからでも合流しよう」
「頼むぜアロンダート。場所はわかるか?」
「真上から見ればすぐだろう。」

地下闘技場ではないのなら上空からわかるだろうということらしい。
エルマーの背後ではすでにレイガンは準備を終えていた。先に下に向かったらしいユミルを追いかけるべく、エルマーも闘技場ではそれなりに見えるような服を選んで着込む。
革の簡易鎧は心臓を守るためのものだ。戦争のときに使っていたものだから、随分と使い込まれている。
見慣れぬエルマーの姿を前に、レイガンはちいさく笑った。

「まるで駆け出しの冒険者のようだなエルマー。なめられてもいいのか。」
「むしろなめてくれたほうが楽でいいだろうが。あと、変に目立っても面倒くさいだろ。」
「ああ、なるほど。服装に関しては油断を誘うという点では確かに……。俺もそうするか。」

エルマーとしては、いかに楽をして戦いを終えるかが重要だ。戦闘まで怠惰でいるなと言われそうなところではあるが、今回ばかりはレイガンもエルマーの考えに寄るらしい。こちらもガントレットと胸当てのみを装備していた。
とはいっても、二人揃って実力は現場叩き上げの手練である。そこらの若者なんぞに負けてたまるかという血気も滲む。
雁首揃えて大人げない。しかも本人たちには自覚もないのだ。


「つか、あれだなあ……催しモンもやるってぇのはどうなんだ。」
「ああ、観衆を巻き込むやつか。」

けだるげなエルマーの声に、レイガンが反応を示す。
対人トーナメントの後に行う、観衆を巻き込んだ催し物が行われると聞いていたのだ。どうやって巻き込むのかはわからないが、命に関わるものではないらしい。
面倒なことでなければなんだっていい。エルマーは準備を終えると、一人優雅に珈琲を楽しんでいたアロンダートに念押しをするように、サジと後から来るようにいいつけた。




「目立っっってる!!!!」
「う?」
「いや、なんでもない気にするな。」

宿の外に出るなり、エルマーは膝から崩れ落ちた。
ユミルが乗ってきたであろう牛車が、宿の前に着けられ注目を浴びていたのだ。
しかしそれだけではない。ユミルと先に降りていたらしいナナシが、牛舎の荷台でふにゃふにゃ笑いながら牛と戯れていたからである。
牛のピンク色の口吻を愛おしげに撫でていたナナシはというと、両手で顔を隠すようにしてしゃがみこんだエルマーに首を傾げている。
どうやらサジとともに後から来ると思っていたのはエルマーだけだったようだ。

「える、ナナシのいうこときくですね?いっしょについてく。いいようっていう?」
「ちょいちょいでてくる敬語はなんなんだエルマー。」
「支配人の口調真似てんだあ。なんか格好良くみえたんだと。」

頭が痛そうにナナシを見つめるエルマーを、ふんす!と意気込んで見つめ返す。
ナナシはこうなったらてこでも動かない。
昨日拗ねさせた手前、駄目だというのも拗れそうな気もする。
エルマーがくちゃっとした顔でしぶしぶ頷くと、ナナシは嬉しそうに腰に抱きついた。
レイガンがじとりと向けた視線はユミルへだ。その目は、なんで止めなかったと言わんばかりである。

「止めたさ。ナナシは危ないんじゃないのって。そしたらこいつ、」
「えるがつおいからへいきっていった、ナナシはえるのそばいる」
「ぐぁあかわいいいいい」
「出ているぞ、心の声が。」

朝から喧しいエルマーの声に、レイガンが呆れたように窘める。
周りの視線が痛い。目立ちたく無いと言っていたのに、これでは本末転倒だ。
エルマーは諦観を顔に滲ませナナシを見下ろした。大きな手のひらで頭を撫でられご機嫌な嫁は可愛いが、それでも一言言わねばならない。

「お前、腹に子供いるんだからなあ?」
「えるがまもるよ」
「そりゃあ守るけどよ」

ナナシが昨晩盛大に拗ねた反動で、特に甘えたを拗らせているようだ。
エルマーは仕方なく、というよりも嫁に逆らうという選択肢は最初からないに等しく、しょうがないなあと了承した。

そんなこんなで、まさかのナナシまでついてくることと相成った。
ユミルに案内をされ向かったのは、カストールのギルドだ。
これで訪れたギルドは三つ目だ。
土地柄らしく、観光名所などが描かれている看板を掲げているギルドは、全体的に真っ白な外壁で目に眩しい。
中に入るなり、言い忘れたと言わんばかりにユミルが宣った。

「ここでは主が手続きしなきゃいけないんだけど、ナナシって文字かけるの?」
「もじ、かけない」

はっとした顔でナナシが言う。たしかに、言葉だって怪しい。大体いつもエルマーかサジ達がやってくれていたので、まさかの死活問題に直面した次第である。

「タイムぅ!」

そういうなり、エルマーがインべントリからメモとペンを取り出した。
とりあえず参加者の名前と自身の名前を書ければ問題ないらしい。エルマーはギルド内に併設されているカウンター席の一角を陣取ると、ナナシを隣に座らせて名前の書き方から教えることにした。

「エルマー、そう、エルマーの綴りはこう、そうそう。」
「んと、んー……え、える……まあ……」
「んでレイガンはこう。」
「れ……れい……ながい、むつかしい……」
「そこは頑張ってくれ。」

二人の両脇から、ユミルとレイガンが顔を出す。
紙の上には、下手くそにペンを握り締めたナナシによる、ダイイングメッセージもかくやと言わんばかりの文字が書かれていた。
いくら書けないとはいえ、こんなに下手くそだとは思わなかった。ユミルは、造形ばっかにこだわりすぎだろと神様に悪態を吐いて、そしてナナシを哀れんだ。
レイガンの名前なんて、辛うじて読めるくらいだ。むしろ見方によっては達筆にすら見える。
漸く文字としての体裁が整うまでに、おおよそ二十分は要した。

「はやく!昨日のうちに登録は済ましたなら主の承認書類が必要だっ!ほらナナシ!ここに自分の隷属者名の確認のサイン!」
「はわ、ま、まってえ……んと、……な、ナナシはー……んと、えと……」

ユミルに急かされるようにして、ナナシはほっぺを赤らめながらへろへろの文字を書いた。
受付の男が何度も頭を捻りながら綴りを確認し、受理をもらうまでに更に十分。
終える頃には、ナナシを静かに応援していた外野が疲れていた


「はわあ……もじ、たいへん……」
「俺も会話ができるからすっかり失念してたあ。これからちっとずつ覚えていこうなあ。」 
「えると、レイガンのはおぼえたよう。アロンダートは‥…が、がんばる。」

エルマーもレイガンも、なんとか午前中に手続きを終わらせることが出来た。ひとまずは、ほっと一息といったところだ。
予選は午後から始まるらしい。一体どんな相手に挑むことになるのかはくじ引きらしいが、報奨が土地なため参加者には貴族も混じっているとのことだ。

「んー……、」
「どうした?腹の具合が悪いのか?」

エルマーとレイガンに挟まれるように座席に座ったナナシが、腹を擦る。
調子が良くないのかと、心配をしたエルマーがナナシの肩を抱き寄せた。
顔色は変わらないことから、魔力量が足りていないのかもしれない。エルマーから目配せを受けたレイガンの手のひらが、そっとナナシの腹に触れた。

「エルマー、魔力が足りていない。育っている分、取り込む栄養が必要になったのだろう。」
「まじでか。ちょっとまってろ。」

流石にこの場で直接腹へと魔力を送り込むことは出来ない。エルマーはインべントリから金の魔石を取り出すと、それをナナシの唇に当てた。
まるでお菓子を与えるかのように魔石を口元に運ぶものだから、ついレイガンが怪訝そうな目を向ける。
しかし、中の金色の魔力はするりとナナシの唇の中に収まった。


「足りるか?」
「もいっこ。」
「はいはい、」

ぱか、と口を開けて甘えるナナシを前に、エルマーは雛に給餌しているような心地になる。粘膜接種よりも効率が良くないが、やらないよりはその場しのぎになる。

「ちうしてくれないのう」

魔石を二粒吸収したナナシが、お耳を下げるようにしてエルマーを見上げる。おねだりをするような目は、ぐぬ、と堪える顔をしたエルマーをしっかりと写していた。
隣に俺もいるのだが。レイガンはため息を一つこぼすと、諦めたように席を外した。
カウンターでは、ユミルが危なっかしい手付きで軽食を受け取っていた。
レイガンはそれを支えるようにして受け取ると、きょとんとしたユミルがレイガンへと振り向いた。

「げっ、」
「ああ、気にするな。魔力譲渡しないと子供が育たないんだ。」

ぎょっとしたユミルがレイガン越しに目にしたのは、人目も憚らずに口付けるエルマーとナナシであった。
慣れたようにユミルに説明するレイガンの様子から、これが日常なのだと理解した。
いくら開放的な国だからといって、わざわざこんなところでしなくても!ユミルの心の悲鳴が、レイガンには聞こえるようだった。
ギルドの中には粗野な者たちも多い。ナナシの腰を抱くように口付けるエルマーを茶化すものもいたが、しっかりと無視している。
まさかこれを眺めながら飯を食うのかと思うユミルの隣で、レイガンはもさもさとパンを食べ始めていた。

「子がな。」
「く、食うんだ……てか、孕んでる割に貧乳だよなあ」
「ああ、だっておと、」

こ。と言おうとして、口をつぐんだ。
すっかり失念していたが、ユミルにはナナシが男性体でも妊娠していることを伝えてはいなかった。
男でも、ナナシは中性的な見た目だ。勘違いをしているユミルへは、説明が込み入ったものになってしまうだろう。
そんな事を考えて、レイガンが不自然なところで話を区切った。そのせいで、ユミルから怪訝そうな顔で見上げられたが、それは気づかないふりをしてごまかした。

「うるっせえ!! 見せもんじゃねえぞ、散れ!!」

エルマーの苛立った声が飛んだ。どうやら周りの茶化すような声にナナシが怯えたらしい。
明らかに自業自得ではあるのだが、エルマーにそんなものは関係はない。
がるがると威嚇する様子をレイガンは疲れたような目で見つめていた。散々目立ちたくねえとぼやいていた癖にな。瞳は口にしない思いを語る。しかし、注目されるのはエルマーとナナシだけではない。

「おいレイガン、連れ合いだってばれてんべ」
「…………んぐっ」

ユミルの同情的な声色に、危うくパンを詰まらせるところだった。
周りを見れば、こちらを見て囁くものもいた。
エルマーの突拍子もない行動に慣れている故の弊害が起きている。
レイガンは頭が痛そうに額に触れると、先程よりも深いため息を吐く。
そんなレイガンの様子を、ユミルは哀れなものを見る目で見つめていた。
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