名無しの龍は愛されたい。

カストール編

103

娼館近くの高級な宿屋に部屋を借りた。どれだけ滞在するかはわからないので、とりあえず前払いで纏めて一週間分。金払いがいい客は特に優遇される。
カストールでは金を持つものこそが信頼を勝ち得るのだ。

宿屋に足を踏み入れたときから、周りの目線はエルマー達に集まった。まさかこちらに来るとは思わなかったのだろう、宿の店員でもある若い受付の男は、白磁の美青年が白魚のような手でそっと大金貨を出してきたのを前に、纏う空気を緊張感のあるものに変えた。

「これで、とまれる？」
「も、もちろんでございます……！」
「釣り入らぬ、良いように使え。」

黒髪の、異国を思わせる褐色の肌を持つ美丈夫が宣う。お釣りで金貨を出せるほどだ、まさかと恐る恐る顔色を窺えば、ゆるく微笑み返されるだけであった。
さすが我が国カストール。古き良きを美徳とする貴き人は、接客業にまで心配りを忘れないとは。男は頬を染めながら感動をすると、一礼をして支配人を呼びに行く。
高級宿として長くあるが、こんなに恐ろしく金払いの良い客など今まで来なかった。支配人は大慌てで飛んでくると、状況をすぐに把握した。
そこからは実に素晴らしい手際で一番良い部屋を用意させることを伝えると、手続きはこちらでと四人がけのソファーへ案内した。

宿の窓際。大通りから見えるその席は、名のある貴族しか座ることを許されない。大通りに面したその席に通すことは、そのまま店の格式に響くからだ。

「このような場所に隷属者を連れてきてすまぬな。何分、あまり市井にでないもので。」
「とんでもないことでございます。こちらのホテルは身分別け隔てなくサービスを提供してございます。お連れの方々にもごゆるりとお過ごし頂けるよう、スタッフ一同誠心誠意、尽くしてまいりたいと思っております。」

口髭を蓄えた支配人はそういうと、丁寧に頭を下げる。

褐色の麗人、もといアロンダートは、支配人の言葉に満足したように頷いた。
その隣に腰掛けるナナシはというと、なんだか意味はわかっていなさそうではあったが、歓迎されていることは理解したらしい。ゆるゆると尾を揺らしていた。
支配人の目からすれば、ナナシはアロンダートの愛人と思われているのだろう。左手に結婚指輪をしていないことをさりげなく確認されていた。
本当は、ナナシの向かいに腰掛けるエルマーの伴侶である。まさか隷属者だと思っているものと番い関係にあるとはついぞ思わなかったらしい。
部屋への移動の際、エルマーがナナシを抱き上げたのを見て、面食らったような顔をしていた。

「える、おはなししてくれないのう？」
「あとでな。」
「はぁい。」

ナナシの淡い色をした唇が、隷属者を装うエルマーの耳元に寄せられる。秘密の睦言を囁くような声色である。
甘やかなやりとりは、支配人にはどう見られていたのだろうか。細腕がエルマーの首に絡まると、甘えるように抱きついた。
支配人によって案内された部屋は、実に豪奢であった。アロンダートは顔にこそ出さなかったが、最近の宿は王族の主寝室のようだなあ。と、感心したように頷く。
そんなアロンダートの背後では、支配人が安堵するかのように胸を撫で下ろしていた。
エルマーが、腕の中のナナシにチップを渡すように囁く。カストールでは金払いの良い上客の秘密は守られる。こちらの身元を安易に詮索されないようにも、細やかな気遣いは必要なのだ。
エルマーに言われるままに腕から降りたナナシは、そのまま支配人の働き者の手のひらの上に魔石を乗せた。

「お客様？」
「んとね、これ。きらきらの、ナナシがすきないろのあげるね」
「え、あ、よ、よ……」

ナナシがポシェットから取り出した、えるとおなじいろ。余剰分のエルマーの魔力を映したそれは、世にも珍しい金色の魔石だった。
普通なら、決して市場に出回ることのない珍しい代物だ。小粒とはいえ、チップがわりにそっちを渡すとは。
エルマーはナナシの行動に苦笑いを浮かべたが、使い道も定まっていない魔石だ。
数センチ程度の小粒のものなら構わないかと、目配せをしてくるナナシへと、頷きで返した。

受け取った支配人はというと、わかりやすく顔色を変えていた。魔石を乗せた手をブルブルと震わせる。反応からして、それがただならぬ代物だと言うのは理解したらしい。滲む魔力の質は、普通の魔石にはないものだ。
しかし魔石は、エルマーやナナシが魔力を流さないと使えないということも実証済みだ。つまり、支配人からはただの高いだけの魔石として捉えられている。

「あげるねえ」
「よよ、よろしい、のですか……こ、こんな高価な……」
「えるが、いいって。」
「主が受け取れと言っている。好きに使え。」

えるが……、とナナシに名前を呼ばれて慌てて口を挟む。ここではエルマーはナナシの隷属者でもあるのだ。変な違和感は残してはいけない。
素直なナナシに慌てるエルマーの横では、レイガンだけは可哀想なものを見つめるように、エルマーへと視線を向けていた。

「ありがとうございます……」
「よい、外に出るときはフロントに鍵を預ける。頼むぞ。」
「御意に、」

おおよそ価値の付けられないようなものを受けとった支配人は、魔石を懐に大切そうに仕舞い込むと、汗を拭うように額を手で押さえながら部屋を後にした。
ナナシからしてみれば、魔石よりもナナシのどんぐりコレクションの中から選んであげたほうがよかったかなあと思っていた。
呑気な考えは、本人の頭の中でおさまった。本音は、ナナシのお気に入りをあげたくなかっただけなのだが。

ホテル側から、身元を明かせぬ太客扱いを受けたエルマー達は、おかげさまで最高のもてなしを受けることとなった。
ひとまず、金に物を言わせて安息は得られたのだ。
エルマーは顔に貼り付けた寡黙な隷属者の皮を剥ぐように床に寝転ぶと、張り詰めた空気を吐き出すかのように大きなため息を吐いた。

「あー……つっかれた。まじ、アロンダートが威厳があってよかったぜ。」
「エルマー、金を使って大丈夫だったのか？結構な額だろう。」
「ん？それよりナナシがくれてやったクズ魔石のほうが高いから大丈夫。いや、大丈夫ではねえんだけど……まあ、あれ売ればいいから気にすんな。」

仰向けのエルマーに、ナナシが甘えるようにのしかかる。ブンブンと振り回される尾から察するに、どうやら褒めてくれと強請っているようだった。
エルマーは大きな手のひらでワシワシとナナシの頭を撫でると、くありと大きな口を開けてあくびをした。

「サジ、もうでてきていいぞ。」
「くあーー！何だこの部屋！アロンダートの部屋よりも広い！」
「僕もそう思っていた。ほらいくぞ。」
「あ、ちょっまて、わああ」

エルマーの微睡に水を刺すように、やかましい声をあげてサジが姿を現す。
さりげなく失礼なことを宣うのは相変わらずだ。大はしゃぎも束の間で、結局アロンダートに抱え上げられてシャワールームへと連行されていった。大方、サジが粗相をした後始末だろう。
ナナシを腹に乗せたまま、エルマーは腹筋を使うようにして起き上がった。キョトンとするナナシの両脇に手を差し込んで持ち上げると、エルマーは己の足に乗せるようにして向かい合わせになった。

「ナナシぃ、この国でお前に求めるのは、我儘になれ。もうとにかく、たくさん俺にしてほしいことを言え。往来でも構わねえ、貴族のように我儘におねだりをしろ。いいな？」
「う？」

突然始まったエルマーの真剣なお話に、ナナシはキョトンとした顔をし、レイガンは興味深そうに聞き耳を立てる。真面目な声色は、それほどまでに珍しいのだ。
ナナシの大きなお耳がピョコリとエルマーへと向けられる。

「おうらいってなあに？」
「人がたくさんいるところだあ。」
「はわ……ひとがたくさんいても、だっこも、おててもつないでくりたり、ナナシがおはなつみたいときも、ついてきてくれるのう？」
「おう、お花でもどんぐりでも、なんだって一緒に探してやらあ。レイガンも付き合ってくれるぞ。」
「え、俺もか。」
「ふおお……」

エルマーの言葉に、ナナシの瞳はキラキラと輝いた。
それって、なんて素敵なことなんだろう。喜びを表すかのように、ナナシの尾がブォンブォンと振り回される。おかげさまで、レイガンはナナシの尾にばしばしと叩かれる羽目になった。
構わないのだが、地味に痛い。
レイガンが渋い顔をしてナナシの尻尾から逃れる一方で、エルマーはわかりやすく悶絶していた。
ナナシの素直な反応がよほど心に来たらしい。嫁の可愛さに頭をやられるのは今に始まったことではないが、取り繕うように真面目な顔を貼り付けるには遅すぎた。

「ただし、次にやるなら金魔石はだめだ。あれ一個だけにしろ。次渡すなら金な、そんで金額は高くても銀貨一枚。いいな？」
「きんいろ、きれいなのに？」
「ナナシが良くても、そんなほいほい金貨だしてたら悪いやつに絡まれるかもしれねえ。ナナシが攫われてみろ、俺はそいつを殺すかもしんねえ。な？」
「な？というかんじで同意を求めるな馬鹿者。」

極端な話しかできないエルマーの後頭部を、レイガンがひっ叩く。
ナナシはというと、持ち前の想像力で周りに迷惑がかかるということを理解したらしい。なにやら神妙な顔つきで頷いていた。

「お前たちもさっさとシャワーを浴びてきたらどうだ。もう一つ浴室があったぞ。」
「まじでか。」

どうやら浴室二部屋と随分豪華な仕様らしい。
なにより、豪華なのは宿泊客が自由に使えるアメニティもだ。
ガウンやら、ふかふかの室内履き。そして恐る恐るめくったベッドのマットレスには、防水加工までされてある。
どうぞご自由にお楽しみくださいの範囲が、さすが奔放なカストールと言い切っても伝わるだろう。
引き出しの中には避妊具とローション、そしてベッドの下には、大人な玩具箱。

ナナシが楽しそうに首に巻こうとしていたアナルパールを、レイガンが血相を変えて取り上げていた。
無駄に水晶のような石を使うから、ナナシがネックレスだと思ったらしい。
エルマーは無言で蓋を閉めると、虚空を仰ぐようにして宣った。

「室内設備のエグゼクティブって、こっち方面かあ。」
「エルマー、カストールは娯楽の街だろう。つまりそういうことだ。」
「俺の住んでるときも奔放だったものなあ。」
「える、これおしゃぶり？」
「それは尻用のおしゃぶりだあ。」

金箔入り水晶のアナルプラグなど、もはや芸術過ぎて使う気にもなれない。
ギンイロなガジガジと噛み付いている御影石のディルドも言わずもがなである。

「シャワー浴びてさっさと寝よう。今日はもう何も考えるなエルマー」
「だなあ。アイツラおせえな……」

なかなか戻ってこないサジとアロンダートを気にかける。
しかしレイガンはしっかりと浴室で何が起きているかは悟っているらしい。
覗きに行こうとするエルマーの肩を掴んで引き留める。
紫の瞳が語るすべてをしっかりと理解すると、エルマーはひきつり笑みを浮かべた。
室内がコレなら、浴室もまた同じような具合だろう。

「エルマー、お前は俺と入るぞ。ナナシはギンイロと入れ。」
「ななしもえるとがいい！」
「ギンイロハナナシトガイイ」
「盛らねえ自信ねえなあ。」
「だから俺とだって言ってるんだ。」

エルマーの襟首をレイガンが掴むより早く、ギンイロがナナシを服ごと咥える。
そのままチャカチャカと床をひっかくようにして浴室へと連れて行く後ろ姿は、尾を揺らして実にご機嫌そのものであった。
そんな様子を、エルマーはぽかんとしながら見送った。
もしかしたら、一番強かなのはギンイロかもしれねえ。そんなことをしみじみ思った。









翌朝である。
コンコン、というノックの音がして、エルマーは飛び起きた。
隣に寝ていたナナシがびっくりして、目を覚ますほどの動きだった。
どうやら、ノックの音が聞き慣れなかったらしい。エルマーの周りに、そんなに丁寧に来訪の挨拶をしてくるものはいないのだ。寝ぼけた顔で、暫く扉を睨みつける。
そんな頭の働かないエルマーを置いて、シャワーを浴びていたらしいレイガンが代わりに扉へと向かった。

「わああまてまて！ナナシ裸だからまだ扉開けるな！」
「お前も早く服をきろ！」

エルマーが大慌てで声を上げて慌てふためいた。
ナナシはというと、銀髪をぴょこぴょこ跳ねさせたまま、とろんとした目でエルマーを見上げていた。まだこちらは目覚めてないらしい、エルマーが袖を通したナナシの細腕が、エルマーの首へとゆっくりと回った。
エルマーがナナシの腕によって引き寄せられるのと、レイガンが扉を開けたのと同時であった。

「朝食をおもちいた、」
「すまない、……？」

朝食を運んできた支配人がビシリと固まった。その視線は、かっと見開かれたまま一直線に伸びている。
レイガンは支配人の不自然な様子を確かめるように、目線の先をたどるかのように振り向いた。

「ん、んー……」
「げっ」

紫の瞳に映ったのは、朝っぱらからエルマーに口付けるナナシと、動きを止めているエルマーの姿であった。
どうやら腹の子がエルマーの魔力を求めていたらしい、重ねた唇のわずかな隙間から覗く、赤い舌が目に毒だ。

隷属者に、主からのご褒美だ。支配人にはそう見えているに違いない。
エルマーはまさかナナシがそんなことをするとは思わなかったらしい、ポカーンとした顔でなすがままにされている。

「な、あ、あ、あのも、もうしわけっ」
「ああ、いい。いつもああなんだ。彼は主からの寵愛がなんというか、まあわかるだろう。」

レイガンはわかりやすく顔に面倒臭いを貼り付けて、説明を放棄した。
ここに泊まるために結構な金額を投げている。だからこそ、今目の前で起こったことが他言無用だということは支配人にも理解できたようだ。
可哀想に、朝ごはんを運んできただけだというのに、支配人は顔をいろんな色に染めながら職務を全うした。
動揺で手つきは震えていても、手早く朝食を配膳する様子は慣れたものである。

「む、朝餉か。」
「ひえ、っ」

しかし、支配人の動揺はおさまらなかった。カチャン、と扉の開く音がして、腹に治癒布を巻きつけたのみの全裸のサジが現れたのだ。
宿泊客に五人目はいなかったはずだ。支配人はぎこちなく会釈をすると、まじまじと身体中に散らされた所有印を見つめてしまった。深く追求してはいけないと、慌てて視線を逸らすようにして天井を仰ぐ。朝から動揺に動揺を重ねている支配人の動きが、ついにびしりと固まった。

「ヒェ……」

天井に、銀色の毛玉の塊があった。それはぎょろりとした緑色の単眼で支配人を見おろしていた。
魔物じみた見た目の何かは、すっと目を細めたかと思うと、体をこわばらせている支配人へと口を開いた。

「ナニミテル」
「いえっ、あ、あの」
「ミエル？ミエルノカ。オマエ」
「はひい……」

もはや一杯一杯なのだろう。レイガンから見ても気の毒に思える程、支配人は死にそうな顔をしていた。
この部屋に泊まっているものたちは常識がない。そんな無法地帯に取り残されている姿は、あまりにも悲壮感が漂っていた。

「すまない、皆俺たちの仲間だ。このことは内密に、いいな？」
「たとえ殺されようとも口は開きません！！」
「いや、まあ…その気概だけは受け取っておこう……」

入室時とは違う、油の切れたからくり人形のような動きで、支配人は退場していった。こちらまで息を詰めてしまうほどの緊張感を纏っていた支配人の背中を見送ると、レイガンは深いため息を吐くようにしてしゃがみこむ。
唯一の常識人だと己で自負をしている分、先程の状況には冷や汗しか出なかった。

「ギンイロ、なんでそんなところにいる……」
「アソンデタ」

ギンイロが、しゅたっとレイガンの真横に降り立った。猫のように短い後ろ足でぼりぼりと頭を掻くと、くありと欠伸をする。
再びサジが出てきた扉が開いて、寝ぼけたアロンダートがようやく起きてくる。琥珀の瞳に全裸のサジを収めると、薄い肩にガウンをかけて抱き上げていた。

「誰か来ていたのか。」
「支配人が朝食をもってきた。お前の番いの露出癖、いい加減に直せ。」
「むしろ目の保養だと思うが。」

寝ぼけた思考のアロンダートは、しばらくは使い物にならない。サジはレイガンに見せつけるようにアロンダートの頬に口付けると、早速朝食の並ぶテーブルへと己の体を運ばせていた。
朝から一番疲れたのは、レイガンかもしれない。げんなりとした顔でエルマーたちの方へ振り向くと、盛ったエルマーが朝っぱらからナナシを押し倒している最中だった。
レイガンのこめかみに青筋が走る。ギンイロが咥えて遊んでいた棒状のものを握りしめると、それを勢いよくエルマーの頭に振り下ろした。

「お前も！！いい加減にしろ馬鹿めが！！」
「いっでえ！！！」


情けない声を上げたエルマーの頭を殴打した代物、それは、男性器を模した大人の玩具であった。レイガンが気がついて放り投げた二打目をエルマーが再び頭で受けるのは、あと数秒後の話である。