名無しの龍は愛されたい。

カストール編

102

「ひょわ、あ、あわわ……」

ナナシの妙ちくりんな声が、寂れた墓地に情けなく響く。エルマーお気にいりの毛並みの良い長い尾は、足の間に挟まれており出番はなさそうだ。端正な顔を青くしながら、大きなお耳をへたらせるように震える姿が可愛そうで可愛い。

エルマー！はやくきて！

ナナシの心の声とは裏腹に、ギンイロはなかなか帰ってこない。どうしよう、めちゃくちゃにこわい。これがゴーストというものか。

嵐の夜のような、不思議な反響音を伴った声だ。底冷えするような冷たいそれは、薄靄のような体から出ていると思えないほどに大きい。
エルマーに任せたと言われた手前頑張ってはいるが、ナナシの膝は先程から震えっぱなしであった。

「ひぅ、あ、あ、あうう……」
「がががが、がんばれナナシ！！エルマーが来るまでお前だけが頼りだっっ、ひ、ひだりににたいくるうううう」
「火炎で払えんからな。たしかに、これはなかなかに気味が悪い。」

メソメソするナナシの背後には、アロンダートとサジがいた。
霞がかった墓地に降り立ったナナシが、重苦しい空気を前に結界を施してからの出来事だ。堅牢な聖属性結界がナナシたちを守るように展開されたその瞬間、結界の上を夥しい数の手形が覆った。
こんなに怖いなら、任せた以外に何か言って欲しかった。ナナシはグスグスと鼻を鳴らしながら、その小さな背で二人を守る。

「ひぅ、あ、あー……え、えるぅー……こ、こぁ、こぁぃ……ひぃん……っ……」
「な、ナナシ！お前体は大人なんだから泣くな！！ひいいい、サジは無理だっ虫と同じくらい無理だああ！」
ー聖歌歌います！！ちょっとこれは、数が多すぎる！！

結界の外では、景色が見えないほどさまよえる魂が蔓延っていた。
大人だろうと言われても、泣きたい時は泣くのがナナシだ。仲間内では百歳超えの最高齢でも、生まれ直しをしてから数年ほどのナナシだ。心はまだ幼いままである。

ルキーノの透明感のある声色で紡がれる聖歌は、実に効果覿面だった。結界を埋め尽くす手のひらは徐々に減り始め、あの底冷えするような声も聞こえなくなってきた。
諦めがついて、離れて言ってくれたのならよかった。ナナシがほっとしたように泣き止んだのも束の間であった。

「なあ、彼らは成仏したいのだろう？聖歌を奏でたら、もしかしたらもっと来るのではないか……あ」
「ひぅ、……っ」

アロンダートの読みは、正しく答えであった。
響く聖歌の恩恵を受けようと思ったのか、今度は結界へと顔が張り付いたのだ。真っ黒な穴が三つ。先程の手よりも余程恐ろしい死に顔を、見せつけるように張り付く。

「ひ、ぁーーーー!!」

ナナシの悲鳴が、墓地に響き渡った。大いに取り乱したナナシが、両手で顔を押さえるようにして蹲る。
まるでその様子を嘲笑うかのように、ゴーストたちはケタケタと笑う。結界の外で、さまざまな声色が不協和音を奏でるのだ。
さすがのアロンダートも、これには焦った。どう対処すべきか、必死に思考を巡らせていたその時。聞き慣れた粗野な声が墓地に響いた。


「人の嫁びびらせてんじゃねえ!!」
「ニア！放て!!」

エルマーとレイガンの声が聞こえた瞬間、結界を覆っていたゴースト達は散っていった。
アロンダートの頭上で、聖属性の札を貼り付けた大鎌を振るうのはエルマーだ。その背後では、レイガンの跨るニアが聖水を吐き出して応戦していた。

「おらあ!!道開けろ雑魚共!!成仏させてやっから雁首揃えてかかってこいやあァ!!」
「エルマー、お前セリフが悪役地味てるぞ。」
「レイガン塩撒け塩ぉ!!」
「言われずとも。」


小脇に塩を抱えたレイガンが、ニアから飛び降りる。慣れた手つきで辺り一帯を清め始めると、蔓延るゴーストは悲鳴とともに消えていった。
墓場に到着してから、あっという間の出来事だ。冴えた夜の空気が戻って来たことを感じ取ると、エルマーは一仕事終えたと言わんばかりにため息を吐いた。

「ふぇ、えー……え、えぇ、える、ぅー……うあ、ぁー……！」
「ナナシ、お前よく頑張ったなあ！みんな魔障も掛かってねえよ。さすが俺の嫁だあ！」
「ひ、うぇ、あ、こ、こ、こぁかっ、た……や、やだった、よぅ……ひぃ、ん……」

ひぐひぐと泣くナナシを抱き上げる。
自慢の尾っぽまでもエルマーに寄せるようにして抱きつく辺り、余程怖かったようだ。
エルマーはナナシの頭を撫でながら褒めちぎる。下半身も大泣きすることはなかったようで、エルマーは二つの意味でホッとした。

「いやあ、まさかあんなに増えてるとは思わねえだろう。ルキーノも聖歌サンキューな。」
ーめちゃくちゃ怖かったです。僕がゴーストじゃなかったら、耐えられなかったかもしれません……

機転のおかげで、随分と短時間で一掃できた。ルキーノも一応ゴーストの括りに入るのだろうか。 
怯える様子はあったが、気丈を振る舞っていた。

塩片手に戻ってきたレイガンの背後に、ギンイロが続く。
ナナシをくっつけたままのエルマーの隣へ並ぶと、くるりと当たりを見回した。

「あ？サジどこいった。」
「たしか、そこらにいたはずだが……」

いつも喧しいくらいのサジが見当たらない。
エルマーの言葉にアロンダートが反応を示す。鋭い聴覚が拾う僅かな音に気がつくと、その視線を墓守小屋のほうへと向けた。
サジの纏うローブの裾に気がついた。物陰に隠れるようにして蹲る、見慣れたローブへと近づいた。
しゃがみこんだサジが泣きそうな顔でアロンダートを見上げる。
縋るような目つきに、少しだけ煽られた。

「サジ、どうした。エルマーが探しているから向こうに行こう。」
「……いまは、まずい」
「なんでだ。まさか、腹の具合がまだ悪いのか、」
「……も、」
「も？」

薄い体を小さくして、震えるサジはナナシのように愚図っていた。
珍しい様子に、アロンダートが労るように背中に手を添える。見たところ大きな怪我はなさそうだ。なら、どうしてと目線を下げれば、サジの足元には水溜りが広がっていた。

「……サジ、大丈夫だ。まだ傷のせいで腹に力が入らないのだから、そんなに恥ずかしがることではない。」
「も、漏らし……っ……サ、サジは……お、大人なのに…っ」

はだけた胸元までを赤く染め上げている。
薄い手のひらを取るようにして立ち上がらせれば、チュニックの裾を細い足に貼り付けている。
ボトムスのスリットから見える細い水流の筋が目に毒だ。
アロンダートは、ぐるりと喉を鳴らしそうになり、慌ててこらえた。興奮していることを知られれば、きっと拗ねるだろうと思ったからだ。

「アロンダート！サジいるかー？」
「すまないエルマー！いまサジをそちらに連れていけない状態だ！悪いがすこしまっていてくれ！」
「あ、アロンダート……！」

なんで馬鹿正直に言うのだ！そんな無言の抗議の現れか、がしりと胸元の生地を掴まれる。
アロンダートは気にもせずにサジのチュニックを捲り上げると、濡れたボトムスの前に手をかけた。

「ばかもの、じぶんでっ」
「僕がやりたいんだ。身をませていろ」

背後ではアロンダートの行動に何かを察したらしい。エルマーが気を使うように後ろを向く。ゆっくりでいいぞ。だなんて声まで聞こえてきて、いよいよ居た堪れなくなった。
下肢を晒された挙げ句、チュニックの汚れた裾までアロンダートが器用に千切ってしまった。
濡れた生地を引きちぎる握力もだが、それを燃やしさる火力を繰り出すなど、証拠隠滅はなんとも雑である。
呆気にとられたサジが、前を隠すように立ち竦む。その表情は、いっそ殺してくれと言わんばかりであった。


「サジ、エルマーのインべントリからローブを出してもらうから、それでしのいでくれ。いいな。」
「うう、っ……絶対に漏らしたことばれたではないか…」
「安心しろ、ナナシなんてしょっちゅう漏らしてんぞ。」

エルマーにしっかりと慰められた。どうやらナナシはレイガンと共にいるらしい。インベントリから取り出された替えのボトムスを手渡される。

「ナナシのこと、もう誂えんではないかっ！」
「おう、誂ったら今日のことずっと弄ってやるからなあ。」
「エルマー……。ありがとうだが、あまりいじめてくれるな。」

苦笑いをするアロンダートの背中を盾にして、手早く着替えを済ます。まったく、とんだ目にあった。
逞しい腕にしがみつくと、サジはよろよろとした足取りで小屋の影から出た。まだ膝が震えていたのだ。

「ひぃん……」

ナナシはぐしぐしと愚図りながら、エルマーの服の裾を握りしめて離さない。これから街に入るのに、貴族役の者がこれではどうしようもない。
エルマーは仕方なくナナシの頭を撫でると、腕の紐を握らせた。

「サジ、宿につくまで消えててくんねえか。そっちのほうがお前も移動が楽だろ。」
「む、たしかに。ならついたら呼べよ。というか、絶対に呼べよ。」
「はいはい。」

外はもう暗い。エルマーはナナシの手をアロンダートの服へと移動させると、四人揃って木々の合間から顔を出した。人通りはない、これなら大丈夫だろう。慎重に気配を探りながら、市井へと繋がる道に出る。
相変わらず嫌味なほど白い石をかき集めてつくった道沿いを静かに下る。貧民や奴隷の現状の扱いがどうなっているのかは知らないが、やりすぎて悪いことはないだろう。
エルマーは赤髪をひっつめに纏めて整った顔を晒す。この国の身分の高いものは、顔のいい奴隷を侍らせるのが社会的地位の一つでもあるのだ。
レイガンも同じように髪を上げさせると、明かりの灯る方へと歩みを勧めた。






その一団は異様だった。
古き良きのしきたりを守る貴族は、伝統を美徳として侍らせるものには首輪や腕輪を与えるものが多い。
カストールでそれを行うものは、己の権威を周りに知らしめる。

しかし、こんな夜更けに歓楽街をあるく貴族などいないのだ。だとすればならず者だろうか、しかしそう判断するにはあまりにも風格が違いすぎた。

美しい褐色の肌に、琥珀の瞳。高貴な出自だとわかる立ち振舞をする美丈夫は、布でまとめた髪を一筋垂らす。その色は、珍しい青みがかった黒髪である。
そして、男に寄り添うように隣を歩くのもまた、恐ろしく造形の整った青年だ。肌の透明感は、カストールにいても日焼けを知らないのだろう。銀色の髪をまとめた布の隙間から、ちらりと一筋見せている。

市井のものは、一様にあっけにとられたように一団を見つめていた。もしかして最近できた娼館のものだろうか。夜にこんな場所を歩くんだ、きっとそうにちがいない。
カストールは天国に近いと謳われるわりには、そういった娯楽に富んでいた。
侍らせる隷属者二名も、ここらではお目にかかれない美男である。野性味あふれる赤髪金眼の男の紐は、白磁の青年が。薄青混じりの灰銀の髪に紫の瞳の理知的な男の紐は、褐色の男が握っている。
今のカストールは、隷属者にもきちんとした服が与えられる。それはもちろん、働きに対する対価であるからだ。
しかし、彼らはずば抜けた容姿でありながらも、きちんと立場を理解しているのだろう。二人の後ろを守るかのように、周りを牽制する空気を醸し出している。

「あるくのつかれちゃったよう……」
「なら、エルマーに抱き上げてもらいなさい。」
「はあい。」

主人なのだろう、青年の一人が赤い髪の隷属者へと腕を伸ばす。
華奢な体を、慣れたように抱き上げる様子から、体に触れる行為は日常茶飯事なのだろう。細い腕を、赤髪を抱きしめるようにして首に回す。
きっと、普段は深窓の令息なのだろう。青年を抱き上げた赤髪は、とても丁寧に扱っている。
隷属者が自由を与えられているとしても、ここまで主に触れるということはあまりない。この褐色の美丈夫がそれを許すのだから、恐らく信頼されているのだろう。

この場にも、隷属者を連れている者たちはいた。侍らせるものは、鑑賞価値を高めるために、みな身綺麗にしている。市井の視線を集める一団の隷属者とは違って召し物も高価だ。
しかし、目の前を歩く隷属者たちは、着飾らずとも堂々としていた。どこの店に金を落とすのだろう。とても貴き人なのだろうということだけは、確かだ。

不躾な視線には、興味も混じっていた。もしかしたらがいきすぎて、新しくできた娼館の関係者だろうという憶測はすぐに広まった。
エルマーたちの預かり知らぬところで、勝手にそういう話になっていた。
表舞台に出ない者たちだろう、そう保険をかけておけば、みな間違いだったとしても笑って済ませられることだけはわかっている。

アロンダートの鋭い聴覚が、市井のものたちのしめやかなやり取りに小さく微笑む。勝手に想像をしてくれる分には一向に構わない。
これでいい。エルマーに目配せをすると、ゆっくりと瞬きをすることで肯定を返される。この街で違和感なく過ごすためには、これも必要な要素の一つである。あとは、噂をされた娼館近くの宿を取ればいい。

エルマーの首筋に、甘えるようにナナシが擦り寄る。銀色の髪に頬を寄せることで応えれば、その隣ではレイガンが睨みを効かせるようにして辺りへ視線を向ける。
牽制をするような美形の睨みは効果覿面で、鋭い眼光はあっという間に後ろめたいものを散らした。