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シュマギナール皇国陰謀編

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「は、らんでいる…だと?」

場の空気を震わせたのは、動揺したサジの言葉であった。ラブラドライトの瞳は、真っ直ぐにレイガンを見つめる。何かを飲み下すように喉を鳴らすと、酷く狼狽えながら、口元を引き攣らせて宣う。

その場にいた誰しもが、戸惑いを隠せない様であった。
レイガンは、何も間違ったことは告げていない。しかし、己の言葉が配慮にかけていたことは理解していた。咄嗟に口をついて出てしまったとはいえ、あまりにも考えなしの発言であった。
ナナシの様子を見ることができない。しかし、このまま無関心でいることができないのも、事実であった。

「…混じろうとしているといったろう。これが一つになれば、おそらく妊む。」
「ナナシ…おまえ、いつから雌になっていた…」

レイガンの重々しい口調に、サジが間髪を容れずに口を挟んだ。ここ数日で目まぐるしく変化を遂げたナナシだ。ありえないと一蹴するにもしづらい。
ナナシはサジの言葉にゆるゆると首を振ると、今にも泣きそうな表情で俯いた。
レイガンの言葉に、思考が支配されそうで怖い。ナナシは自分の腹を押さえながら、気持ちを整えるかのように、ゆっくりと深呼吸をしていた。

「な、に…なにい…、これ、ええ…?」
「ナナシ、落ち着け。ゆっくりでいい。お前の身に何が起きているか、俺にもわからない。情報が少なすぎるからな。」
「な、ナナシ…お、おとこのこ…だよう…っ…、」
「わかっている。だからこそ、何があったか教えてくれ。」

どくどくと忙しなく弾む心臓は、己の意志に反してなかなか大人しくなってくれない。肺が忙しなく収縮して、荒い呼吸がナナシの心臓の動きを視覚させた。
レイガンが、その背に手を添える様にして落ち着かせようとする横で、エルマーは呆然としたまま、己の顔を手の平で覆うように、頭を抱えてしゃがみ込んだ。

サジもアロンダートも、エルマーのいつもと違う様子に気づいていた。そんなもん、ありえねえだろう。そう言って、普段なら真っ先に笑って一蹴するような男だ。
そんなエルマーが、ナナシに対しての発言で目に見えて動揺している。信憑性の高い紫の瞳が映し出した答えだ。おそらくそれは事実なのだろう。しかし、飄々としたエルマーが言葉を失う姿を前に、その場にいたものはなんて声をかけてやればいいかわからなかった。

「ひ、…っ、」

かひゅ、と不自然な呼吸音がした。パニックになったナナシが、吸ってばかりだった呼気を吐き出せずに詰まらせたのだ。

「だめだ、吐くんだ!落ち着いてゆっくり呼吸しろ!」

ナナシの口端がはひ、と震える。舌が乾いて、息が苦しい。震える手は胸元を握りしめて、苦しげに背中を震わせてる。
自分の体は、人間ではないのかもしれない。その一つのまさかを突きつけられて、心が追いつかなくなってしまった。
ナナシは冷や汗をかきながら、どさりとベッドに倒れ込んだ。足でシーツを蹴り、苦しみから解放されようと、喉元をかきむしる。

「え、…っ…ぅ、え、っ…ひゅ、っ…」

それでも、頭の中はどこか冷静だった。聖石を身の内に取り込んだ時から感じていたのは、まるで細胞が入れ替わるような爽快感と、懐かしさ。
己の中の足りないものが満たされていくその感覚は、失った魔力が戻ってきたことを教えてくれていた。
そして、棺に捕らえられたあの時、一際強く光り出した聖石を取り込んでから、体の変化は如実に現れた。
垣間見た過去の記憶が呼び水となって、足りないピースを補うかのように、ナナシの体は作り替えられた。見えない何かの力によって。

「ひゅ、…っ、ーーーぇ、う…」
「吐き出せ!だめだ、息が…っ、」

ナナシは、あの時からわかっていた。わかっていたのに、怖かったから見ないふりをしていたのだ。
もしかしたら自分がみんなと違うかもしれないということを、自分が、エルマーと同じ人間ではないかもしれないということを。
わかっていたのに、お揃いじゃないのが怖くて認めたくなかった。

「邪魔だ、どけ。」
「なに、っ…!」

エルマーと一緒がいい。同じ人として、エルマーと一緒に死にたいのだ。
もし自分が人じゃないと認めてしまったら、あの言葉が本物になってしまうかもしれない。

ーお前に愛される者は、皆死ぬ運命だなあ。

ぼやける思考に響いたのは、あのときの男の言葉だ。

「ナナシ、こっち向け。」

ああ、エルマー。怖い、怖いよ。

体がひくんと跳ねる。顔を赤くし、涙を溢れさせたナナシの、ままならぬ呼吸を手助けするかのように、大きな手のひらがその頬に触れた。
口端から零した泡を、かさついた指が拭う。
いつもこの手のひらが、汚れたナナシを厭わずに愛してくれるのだ。
ナナシの手は、お腹に添えられたまま、力を込めてしまっているせいで服にはシワがよっていた。

「大丈夫、大丈夫だ。」
「ーーーーー、」

サジやアロンダート、レイガンもなにか叫んでいるのに、ナナシの耳に入ってくるのはエルマーの声だけだった。
気持ち悪がられる、嫌われる?
もしここに、レイガンの言うとおり子が出来ていたら。
それは人じゃないと、言われるだろうか。

「ナナシ、」

ふにりと柔らかな唇が重なった。びくびくと呼吸が出来ずに震えるナナシの細い体を抑え込むように、エルマーは抱きしめた。
汚れた口も気にせずに舌を差し込み、ちう、と震える舌を甘やかすようにして絡める。

「ぇ、う…、っ…」
「怖くねえ、なにも…」
「っ、……ひ、」

ナナシの口へ、エルマーの唾液を与えられる。
酸素が回らず、熱に茹だった薄ぼんやりとした思考の中でも、本能的にそれを飲み込んだ。

「俺がいる。」

こくり、と唾液を飲み込んだ。何度も薄い舌を吸われながら、やわく甘噛みをされる。どくどくとした心臓の不規則な高鳴りを宥めるように頭を撫でられ、触れられたところから、じんわりとエルマーの魔力が染み渡るようだった。

茹だった思考がゆっくりと戻ってくる。濡れた唇がゆっくりと離れた。
冷えた酸素が肺を満たし、正常な判断を取り戻す。ナナシはエルマーの胸元に縋り付く手とは裏腹に、ゆるゆると首を振って制した。

「だめ…だめだよう…、っ」
「ナナシ、」
「うぁ、やだあ…」

ぐすぐすと、涙で濡れた情けない泣き声で宣う。いつもの甘えたな愚図り方ではない。
エルマーは、己を押し返そうとするナナシの頭を引き寄せると、己の肩口に顔を埋めさせるようにして抱き締めた。

「さっきの話、マジなんだよなあ。」
「……ああ、間違いない。彼の腹に、膜が作られている。恐らく、それが子宮だ。」
「…わかった。」

エルマーは端的にそういうと、抱き直したナナシを膝に乗せた。ナナシの涙で、エルマーの肩口が濡れていく。
震える背中を、包み込むようにキツく抱き締めた。ナナシの怯えは、ありありとエルマーの手のひらに伝わってくる。
大きな手のひらが、褒めるように背中を撫でるのが余計に涙を誘う。
人じゃなければ、嫌われてしまうかもしれない。そんな、ナナシの中の恐怖が、エルマーから離れろと叫んでいるのに、気持ちとは裏腹に縋ってしまうのだ。




嗚咽を漏らす華奢な背を見つめていたサジが、そっとその頭を撫でた。

「あの時かもなあ。ナナシが大きな聖石を取り込んだとき、体も成長したろう。」
「聖石を取り込む?…そうか、やはり。」
「ひ、っく…」

あの瞬間、たしかにナナシの体は変わってしまった。己の変化に戸惑いながらも、エルマーが受け入れてくれたことに安心して、体温を求めた。
ナナシの不安を取り除く為の肌の触れ合いで、腹の奥にエルマーを受け止めたあの時に、魔力が混じったのかもしれない。
そうでなければ、説明が出来ないのだ。

レイガンは、ナナシの金眼を見つめると、慰めの言葉をかけようとしてエルマーに制された。
慮ってくれる気持ちは嬉しいが、今はナナシの心が限界だとエルマーが判断をしたのだ。

「何も言うな。今は、そっとしとけ。」
「……ああ、わかった。」
「わりい、けど。今は二人にしてくんねえか。」

アロンダートはエルマーの言葉に小さく頷いた。促すようにして、ナナシの様子を前に痛そうな顔をするサジの腰を抱くと、扉を開く。そっと背を押すようにしてサジを先に出すと、迷うような素振りをするレイガンを見つめて微笑んだ。

「行こう。エルマーなら大丈夫だ。」
「しかし、」
「大丈夫だ、僕は君のことを嫌ってはいない。少し話し合おう。僕達は互いを知る必要がある、そうだろう。」
「……ああ、そうだな。」

扉の外でむすくれているサジに物怖じはしたが、レイガンはアロンダートの言葉に小さく頷いた。出掛けにエルマー達のことを気にするようにちらりと見たが、そっとしておけと言われていたので、何も言わずに扉を締めた。
木の扉一枚を隔てた向こう側で、ナナシの啜り泣く声が聞こえる。二度も泣かせてしまった己自身に、さすがのレイガンも落ち込んだように俯いた。

「……俺は、言うべきではなかったのだろうか。」
「ナナシは、臆病なのだ。まあ、エルマーがいれば大丈夫さ。」
「……あいつは、全部エルマーと同じがいいのだ。それをお前は、」

サジがくってかかる。落ち込むレイガンの様子が、気に食わなかったのだ。言わなくていいことではないだろうけれど、あんなに駆け足で説明をするなと。憤りを隠せなかったのだ。

厄介ごとを持ってくるな。そんな、行き場のない怒りをレイガンにぶつけた。誰もがナナシの体の変化を予測することができなかった。レイガンだけが悪いと言うわけではない。しかし、その事実を見通せる瞳によってナナシが情緒を掻き乱された今、矛先はどうしてもレイガンへと向いてしまう。

黙りこくり、無言を貫く目の前の青みがかった銀髪の男に、ついにサジの頭に血が上った。己の苛立ちのままに、勢いよく手を伸ばす。しかし、レイガンの胸ぐらを強く引き寄せようとしたその腕は、アロンダートによって制された。

「サジ、これは誰も悪いわけではないよ。運命は超えられぬ壁を与えることは無い。これは二人で乗り越えねばならぬ壁だ。」
「アロンダート、」
「変化を恐れていては何も進まない。国も、人も。」

アロンダートの諭すような言葉を前に、レイガンは焦っていた自分を恥じた。己が追い求めていた真実を前にして、先走ったのだ。
数回程度話しただけでもわかる。ナナシは幼い。彼の過去も知らない自分が、突然考えなしに脆い心を追い詰めたのだ。悪意のない真実を、包み隠さずに押し付けた。
聖石の力を取り込んで、突然体が変わったと言っていた。恐ろしかったことだろう。それを気丈に振る舞って、まるで気にしていないように見せていた。だから彼らも、ナナシ自身が己の変化を気にしないようにと、気のないやり取りで終わらせた。

その琴線を揺らしたのは、紛れもなくレイガンだ。
そっと、目元を隠すようにして額に手を当てた。ナナシの魔力に視界が揺さぶられたわけでもないのに視界が歪む。

「そんな顔をすることは、サジが許さぬ。お前が痛そうな顔をすることは、絶対に。」
「……わかってる。」

レイガンの背にしたドアの向こうでは、ナナシの嗚咽を漏らす声が、ずっと聞こえていた。










「ひ、っく…ぇ、る…っ、」
「おう、」

胸元に顔を埋めながら、ずっとナナシは泣いている。エルマーはナナシから名前を呼ばれる度に、応えるように頭を撫でながら、慰めるでもなく、己の腕の中で泣きたいだけ泣かせてやっていた。

エルマーはわかっていた。ナナシが普通とは違うことを。そして、レイガンが言いたかったことも。
それはナナシにとっては受け入れがたい事実だろう。仮にナナシが体の変化を受け入れたとしても、その後はどうなる。
エルマーは、ナナシを守りきれるのか。

「………。」

エルマーの義眼は、ずっと、三年前から左目に収まっている。これはもう必然だ。レイガンの話を聞いた今、この義眼がナナシと引き合わせたのかもしれないとさえ思っていた。

聖石を身体に取り込むと言うこと。それ自体が普通では起こり得ないことである。通常、魔石から魔力を取り込むことは出来ないのだ。あの時、聖水晶に触れて破裂したのも、もしかしたらナナシの眠っていた聖魔力に過剰反応して、引き起こされたことなのかもしれない。
なら、あの時水晶越しに見た黒い魔力は、身の内に凝っていた呪いそのものだろう。

「お前が、何だろうとどうだっていいやな。」
「える、まー‥」
「俺はお前を見つけた、俺のもんにした。てことは俺の好きなようにしていい。そうだろう。」
「っ、ん」

長い睫毛が濡れている。エルマーはナナシの瞳から溢れ落ちた涙の一雫を唇で受け止めると、そっと瞼に口付けを落とす。華奢な体は、小さく震えた。エルマーの腕の中で、ナナシはその不器用な労りに応えるように、ぺショリとその唇を舐める。
エルマーは、ナナシの薄い舌を追うようにして、再び口付けをした。
柔らかな啄みは、互いの感触を確かめ合う。ナナシの唇が薄く開いたことに気がつくと、エルマーは顔の角度を変えて口付けを深めた。
小さなリップ音を立てて、唇が離れる。二人の間を、銀糸が繋いだ。

「ナナシは、どうしたい。」
「っ、え…」
「腹の中のもん。ナナシの身体だ、俺はお前の気持ちを守りてえ。」
「おなか、の…」

エルマーは、いつになく真剣な面持ちでナナシを見つめた。
ナナシが、己の平べったい腹に触れる。薄いそこは、なんの膨らみも見当たらない。ナナシは、自分に流れる魔力を確認するように瞼を閉じて集中すると、己の腹の中には、確かに何かが息づいていた。

レイガンは、エルマーとナナシの魔力が混ざり合うと言っていた。しかし、己の体のことは、ナナシ自身が一番よくわかっている。この腹の中には、エルマーの魔力が馴染んでいる。まるでナナシの魔力を包み込むように、やさしく同化している。
これは、普通じゃない。普通じゃないなら、ナナシは一体なんなのだ。怖い。これから先、何が起こるのか。自分が信じてきたものが、あっけなく崩れ去っていく。

「や、だよ…う…」

小さく呟いた。声は震えていたかもしれない。見えぬ何かに怯えるように、己の心情をポツリと零したナナシを宥めるように、そっとその手に指を絡める。

「そ、そだた…なかっ、たら…」
「ナナシ、」
「げ、げんきに…っ、うめ、ない…かったら…っ、」

か細い声で紡がれた心情に、エルマーは小さく息を詰めた。己の目の前の大切が、人であることを諦めて、己を優先しようとしている。
その事実に、エルマーは体の末端まで、細胞が沸き立つような甘い痺れに苛まれた。ナナシの一言で、感情が昂る。不安に泣いているナナシを目の前にして、エルマーのエゴが顔を出す。

「産みたいのか。」
「っ…、」

エルマーの言葉を前に、ナナシの白い手が、これ以上は駄目だと言うように己の口を塞いだ。感情の昂りと共に、己の気持ちを素直に吐き出せれば一番いいだろう。しかし、ナナシにはそれができなかった。
不安定な男の体で、腹に宿したエルマーの子をきちんと産んであげられるのか、分からなかったからだ。

「ナナシ、」
「や、」

未発達だった体が、急激に成長を遂げた時点でわかっていた。自分はきっと、エルマーと同じじゃない。だからそれを見て見ぬふりをして逃げてきたのに、その事実から目を逸らすなと追い詰めるように、神様がナナシに本当を突きつけた。

「産んで、くれんの。」

エルマーの声は、震えていた。
ナナシは顔をあげられなかった。人間になりたい、人として、エルマーと一緒にいたい。
エルマーの子を産むということは、自分がエルマーとは違うものだと認める事になる。

なんで……。
ナナシはボロボロと涙を零した。戦慄く唇で呟いた言葉は音にならない。肩で息をする。胸が苦しくて哀しい。哀しいのに、嬉しい。

「なあ、ナナシ、」
「…、た…い、」

声が掠れた。エルマーが好きだ、大好きで、死んでしまうくらい愛している。出来れば、もし本当に出来ることなら、ナナシはやっぱり人間でいたかった。

ナナシの手の甲に、ぽたりと水滴が落ちる。エルマーの隠れていない綺麗な右目から、ぽろぽろと涙が溢れていた。

「ナナシ、ごめんな…おれは、っ…」

詰まる言葉を、押し出したかのような苦しげな声色であった。力強い腕に抱きしめられ、ナナシは紡がれた四文字に込められた、エルマーの言葉の意味を、その両腕で受け止める。
背中に回された、ナナシの手のひらは縋り付くようにして、エルマーの服を握りしめる。
神様は酷い。産んだら人じゃないと認めることになってしまうのに、

「う、みたい…」

エルマーの子を、この手で抱きたいと思ってしまった。

ナナシの言葉に、エルマーの吐息が震える。これは、歓喜だ。
己が唯一だと決めた雌が、己の子を孕んだのだ。
男として、これ以上の喜びは、三千世界を巡っても見つかることはないだろう。エルマーは、体が震えるくらいに喜んだ。
それでも、腕の中の愛しい雌が、自分の中で落とし所を見つけなくてはいけないという、選択の岐路に立たされている。

これは我儘だ。エルマーはわかっていた。
きちんと自分で選べと道を譲っておきながら、やっぱりエルマーは我慢ができなかった。
その我儘が受け入れられたこと、そしてナナシが自分のものという証を孕んだことが、どうしょうもなく嬉しかった。

だから、エルマーは泣いた。嬉しくて泣いた。ナナシとは違う理由で、二人で顔をビシャビシャにしながら泣いた。

「俺のだ、俺の子を孕んでんなら、それは番いだ。お前は、紛れもなく俺のものだ。」
「ナナシ、にんげんがよかった、でも、うめるなら、えるのためにひとをやめたい」
「お前が、人じゃなくたっていい。答えははなっからシンプルなんだからよ、」

エルマーはそう言って、ナナシの薄い腹を撫でた。
ずっと一人で戦って、ナナシと出会って、惚れて、その惚れた相手が孕んだのだ。
形は違うが、自分が人としての幸せを噛み締めることなんて、この先ずっとないと思っていた。

「お前が、願いを捨ててまで、俺を幸せにしてくれた。」

ナナシが人間になりたいという願いを、エルマーが取りあげたのだ。その責任を、取らねばならない。

「だから俺は、お前の全部を大事にするよ。」

こんな下手くそなプロポーズ、あってたまるかと自分でも思う。それでも、その言葉に込められた想いだけは、嘘偽りのないまことであり、互いを縛りあう執着だ。

これから先、もっと辛いことがあるだろう。それは必然で、知らない誰かによって定められたルートだ。
エルマーは、生き抜かなければいけない。ナナシを守って、腹の子を守らねばならない。この世は糞だと思っていた。けれど、それでもいいやと思うことができた。

「えるまー、」

泣きながら下手くそに微笑んだ。ナナシが人であることを諦めた瞬間であった。
エルマーは、己の手でナナシの希望を取り上げたのだ。それが、どんなに罪深いことであるかは、己が一番よくわかっている。
そして、ナナシはエルマーのエゴを許した。なんと醜い共依存だろう。
それでも、ナナシの腹に宿った命が覚悟を持たせてくれるのなら、エルマーは決して死ぬことはできない。
細い体を引き寄せる。己の腕に閉じ込めるようにして、ナナシを抱きしめた。言葉では表せない強い覚悟は、確かにその金色の瞳に宿っていた。


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