27 / 164
シュマギナール皇国編
26
しおりを挟む
死の呪いを浴びた人間は、そのまま死ぬと幽鬼になる。だからこそ呪いを解いてやるか、自死させるかで魔物への転化を防ぐのだが、生きていた人間を手にかけて、意識のあるうちに呪いをかけると、それは一体どうなるのだろうか。
幽鬼の強さは生への執着度合いによって変わる。
呪いだから死んだ、仕方ない。という諦めを持つか、不本意に死んで、呪いを受けた。何故、ではその強さが変わるのだ。
「うははは!!凄い!!凄いなあ!!こういう使い道もあるのかあ!!」
女は、喧しい声で喚いた。己の実験が成功したことを喜ぶような声色で、目の前の呪いに侵食されていく人間を見て、無邪気に手を叩いて笑うのだ。
関節を鳴らすように、歪に転化していく。目から涙を流しながら、譫言のように何でと男をは呟いていた。そんな哀れな様子を、なんの心持ちも宿さぬ瞳でジルバは見つめている。
皮膚を突き破るようにして、背中から伸びた骨が翼のようにミシミシと伸びていく。発達した顎や齒、首はだらんと落ちて、男だったものは意識だけは人間のまま、頭蓋を引きずりながらよたよた歩く。
そんな様子を見て、自分は巻き込まれたくはないと悲鳴を上げながら散り散りに逃げようとする。哀れな男の仲間だった者達は、サジのフオルンが退路を奪った。
「さあどうする、どうやって止める?あたしは魔女だ、魔物を繋ぐもの!言わば懸け橋、何も間違ってはいないはずさあ!」
「架け橋、たしかになあ。しかし傅く相手は魔物ではない。」
「いもしない神や精霊に縛られているから魔女は廃れるのさ!出してみな、今すぐここにそいつらを!!」
「魔物は我らに加護は与えないだろう。見えないのはお前に力がないからだ。加護を与えるものを守る。それが本来の俺たちの在り方だ。」
歪な幽鬼は頭を抱えて小さく震える。幼子のように周りに怯え、自分に何が起こったのか現実が受け入れられないといった様子だ。
サジは眼下の女を哀れに思った。力の足りない魔女こそ、自分だけの力でやっていけると考える。彼女をこうしてしまったのも、今の魔女協会が悪い。
人が魔物のように、それぞれが魔力を扱うのにも共存は必要だ。本来の持ち前の魔力の他に、愛し子と呼ばれる者たちは精霊や土着神から力を借りることができる。サジが生命の樹と呼ばれる輪廻を司る神に、名を授けられた種子の魔女であるように。
まあ、サジは魔女であった。という方が正しいかもしれない。エルマーに俗世から開放してもらった今、神使として代理的に加護を与える側になっているからだ。
とかく、魔女とはそれらの力の源となる者たちを守る為の、愛し子のことである。
誰にでもなれるものではない。魔力が高く、選ばれたものでなくては。
「まったく、理を知らずに魔女になるなというに。」
サジは死体や魔物に種子を埋め込み、育てる。微かに残った魂の残滓を使い、理性のある魔物を生み出すのだ。殺しはするが、対象は輪廻から外された悪のみ。もう戻れないほど悪いことをしたら、サジが手を下す。
まあ、サジはやりすぎて未だに神から夢枕で小言を言われるときもあるが、それはご愛嬌である。
「お前が殺したのは未来のある子だった。孤児だが、帰る場所があった。」
「またその話か。」
「お前は火の神から見放された。愛し子は他にもいるからなあ。」
「燃えよ!!」
ニヤリと笑ったジルバの笑みに、魔女の体には怖気が走った。まるで己が、蛇に睨まれた蛙のようになってしまったかのような心地だった。
忌々しいことには変わりなく、魔女はわけのわからないことを言うその口を溶かしてやろうと指先に魔力を込めたが、現れたのはマッチの火程度の大きさだった。
指先に揺れる小さな灯火、それは力が弱くなったことの証だ。信じていなかった神や精霊によって見放された魔女は、もう与えられた属性魔法は思うようには扱えない。
動揺を隠せない魔女を見下ろして、ジルバはまるで労るかのような口調で言った。
「俺たちが神を選ぶのではない、神が俺たちを選ぶのだ。」
「な、な、んっ…よ、よくも…っ」
バカにするな!魔女の瞳には憤怒が宿る。しかし、それは指先の震えからでも容易く見て取れるほどの、怯えを含んでいるようだった。
魔女が強張る声で紡ごうとした言葉。それに反応するかのように、ジルバの耳がぴくりと動く。
気がつけば、辺りは夜になっていた。月が見下ろすように真上に登る。まるで、暗闇の舞台上、そこだけを照らしているかのように、魔女は自身がたった一人でジルバと対峙しているかのような、そんな錯覚に陥った。月明かりが照らす僅かな範囲から逃げられない。そんな、ありえない感覚が体を支配する。
葉擦れの音が大きくなる。見えるはずのない影が、じんわりと広がった気がした。
「なんだ。言え。」
「よくも、あたしの魔力を…」
爛々と輝くジルバの瞳を前に、フオルンによって逃走を阻まれた男達の顔色が悪くなる。捕食者の目は二つしかないはずなのに、まるで己たちは大きな蜘蛛の巣の上に捕らわれてしまったかのような怖さが、確かにそこにあるのだ。
「んん、ふ…」
「む、起きたか。」
サジの腕の中で、ナナシが身じろぐ。外野はこうも騒がしいというのに、随分と遅い目覚めである。サジは呆れまじりの目を向けると、ナナシの視界を遮る野暮な麻袋を外してやった。
まだ少しだけ眠たそうな顔で、ナナシがサジを見上げる。お外はもう随分と暗くて、ナナシは怯えるように小さな手でサジの衣服をぎゅうっと握る。動かしづらい体に気がつけば、ナナシは己の手足を拘束する紐を見てキョトンとした。
「ここ、なにい…よる、こわいよ」
なんで自分がフオルンの上にいるのだろう。そのことも不思議だった。サジによって手を解かれたナナシは、牛のような顔を近づけたフオルンの鼻先を小さな手のひらでそっと撫でると、その鼻先に抱きつくようにしてくっついた。
大きな牛型の魔物は、蔦をシュルリと伸ばすと、宥めるようにナナシの背中を優しく引き寄せる。
サジは怯えるナナシをフオルンに任せたまま、身を乗り出すようにして眼下のジルバを覗き込んだ。
真下にいる、幽鬼になってしまった元人間は、蹲ったまま動かない。
ジルバはナナシが起きた気配を察知したのか、ちらりと見上げた。どうせナナシが怯えるのなら、全て終わらせてから起きて欲しかったのだが、まあそんなものをとやかく言っても仕方がない。ジルバはその灰色の目でサジを見上げると、大きな声で名前を呼んだ。
「まあいい。サジ!」
「なんだー!!」
上から元気よく振ってくるサジは、どうやらナナシをほったらかしにしてこの状況を楽しんでいるようだ。危機感のない呑気な声に小さく笑うと、頼みがあると続けて叫ぶ。
「ナナシでもいい!言わせろ!この女はだめだ!」
「ああ、トリガーは誰でもいいのだっけか。」
ジルバの言葉に、サジは思い出したかのようになるほどと頷くと、未だフオルンにしがみついて離れないナナシをチラリと見た。
なるほど、この怯えようなら、ジルバのトリガーワードは有効かもしれない。そう考えると、サジはナナシを宥めるフオルンに指示を出し、ジルバの近くまで降ろしてもらうことにした。
どんどんと地上が近づくにつれて、ようやくナナシも状況が飲み込めたらしい。なんだか妙な雰囲気だとは感じていたようだが、ジルバの背後に蹲る異形な幽鬼を見て小さく息を詰めると、見たくないといわんばかりに、再びフオルンに抱きつく力を強めた。
ジルバはその様子に満足そうに笑うと、魔女に背を向けナナシの側まで歩み寄る。
「ナナシは魔物が好きか。」
「やさしいこなら、すき。」
「そうか。ならば手伝ってくれ。」
ぽしょりと呟いたナナシに擦り寄るかのように、フオルンが鼻先を寄せる。
十分だ。ジルバはその答えだけで、己の箍をナナシに外してもらうことに決めたようだった。
小さな頭を優しく撫でる、そしてその手で頬を撫でるように滑らせると、薄く色づく唇をそっとなぞるように触れて言った。
「よくもきたな。と言え。」
「よくも、きたな?」
「そう。このジルバを指差しながら、言え。」
どういう意味?そう聞きたくても聞けなかった。
事態は切迫しているようだ、ジルバの背後では布を裂いたかのような悲鳴が上がる。
ナナシはびくりと肩を揺らした。戸惑った顔で向けた視線の先には、見知らぬ女が金切り声を上げ、嫌がる様子の幽鬼に鞭を振り上げている姿があった。
「行け!!働け!!あんたはあたしの幽鬼だろう!!愚図め、早くおし!!」
「ひ、っ!」
ひゅう、という鞭で空を裂く音が、ナナシの記憶を呼び覚ます。痛い、あれは痛いのだ。苦しいのは嫌だ、怒られたくない。ナナシの肺が忙しなく酸素を取り込む。あの虐げられてきた日々の記憶が、再びその体を支配しようとする。
小さな悲鳴を漏らしたナナシの隣に、サジが降り立った。ざわりとフオルンの魔力が揺らめく。どうやらナナシの反応を気にしたらしい。ナナシとサジの周りを囲むようにしてその蔦を張り巡らそうとしたが、それをジルバが手だけで制す。まるで、水を差すなとでもいうように。
目の前で頭を抱えていた幽鬼が、黒い体液を撒き散らしながら苦しそうに呻く。鞭で裂かれた皮膚の一部から、その体液が吹き出した。幽鬼のがらんどうな瞳が、ゆっくりと前を向く。この状況を変えたいのは、ジルバ達だけではないことは明白だった。
金色の眼に涙を溜めたナナシの前にジルバが立つと、その鋭利な双眸に喜色を滲ませて言った。
「怖いものは、このジルバが無くしてやろう。ほら、言えナナシ。」
幽鬼は、数度荒い呼吸を繰り返したかと思うと、暴れ馬のように不器用な走りでジルバに向かってくる。引きずっていた頭を振り上げて、黒い血反吐を撒き散らしながら、恐怖によって焚き付けられた明確な殺意を振りかざす。
背中から突き出した歪な骨を地面に突き刺すと、幽鬼は飛び上がった。その体を裂くようにして鋭い歯が並ぶ口をガパリと開ける。どうやら生きたまま飲み込むつもりらしい。
「っ、よくも、きたな…!」
張り詰めた一瞬、ナナシが慌ててジルバを指差し叫んだ。そうしなくてはいけないと思ったからだ。幽鬼に襲いかかられる恐怖と、あの日のトラウマによって怯えの色を滲ませた言葉が、ジルバのトリガーワードを紡いだのだ。
ナナシの言葉に魔力が宿る。その言霊はジルバの耳にしっかりと届いた。そして、ジルバの顔が愉悦に歪むと、本性を縛っていた錠が外れ、ジルバの足元から噴き上げるように高濃度の魔力が噴き出した。
「夜蜘蛛、キタ。」
複音の声が、そう呟いた。あの時、ナナシが魔女の家で聞いた不思議な声だ。
両手を広げたジルバの足元から、じわじわと影が地べたに侵食していく。わかりやすく境界を作るようにして、湧き水かのように溢れた黒は、ナナシ達を守るかのようにして一つの大きな影に変わる。
そして、その影が大きく波打ち、漆黒の影は帯状に姿をかえジルバを包み込むと、その姿を瞬く間に異形の体へと転化させた。
紫色の強い光が、影の輪郭をみるみるうちに縁取っていく。まるで月をも捕らえるのではと思うほど、その漆黒が夜空に迫る。
光は徐々に形を形成していき、そうして、一匹の大蜘蛛へと姿をかえる。人の上半身に、蜘蛛の下肢。割れた腹筋を飾るかのように、幾つもの赫い複眼が腹に現れる。アラクネの半魔であるジルバの本性は、まるで神話に出てくる冥府の使者の如く歪な美しさを誇る。
蜘蛛の下肢に刺青のように刻まれる紫の陣こそが、ジルバの枷であったのだ。
本性を晒したまま、夜を抱くように両手を広げる。そして口端を吊り上げて、獰猛な顔つきで宣った。
「さあ、食事の時間だ。」
言葉と共に、足元の影が大きく波打った。まるで皮膜を突き破るかのように、影の中から現れたのは夥しい数の蜘蛛の姿をした魔物達だ。大小様々、大きいものはナナシの腕ほどはあるだろう。召喚されたアラクネの群れは、引き寄せられるかのように目の前の幽鬼に向かっていく。
アラクネに見境はない、ただ己の兄弟が示した獲物へと、真っ直ぐに襲い掛かる。まるで軍隊のように淀みないその動きに怯んだ幽鬼は、アラクネによってその身を容赦なく齧りつかれる。長い四肢を振り回し、メチャクチャな動きで振り払おうとも、蜘蛛の多腕はしっかりとその身を抑え込むのだ。
ジルバは、ただ楽しげにその光景を見つめていた。己の兄弟達が、飢えた腹を満たそうと食事をする姿を眺めながら、アラクネ達が己の巣穴へと引き摺り込むようにして、残りの幽鬼の体が影に飲み込まれていく様子を、ただその顔に愉悦を湛えたまま眺めている。
ナナシには、何が起こったのかわからなかった。目を丸くし、指先を向けたまま固まっていた。深く昏い闇の中に、影によって捉えられた獲物が飲み込まれていく様子は、悲鳴一つ無い、とても静かな狩りであった。再び満月が雲の切れ間から姿を表す頃には、その場所に立っているのは大蜘蛛に転じたジルバだけであった。
「はぇ…」
「余程ストレスが溜まっていたようだ。ジルバが本性を出すときは発散したい時だからなあ。」
じゃり、と大蜘蛛が八本の足を使いナナシに向き直る。ジルバだとわかる部分は上半身のみで、複眼は脇腹にギョロリと集中していた。
フオルンと同じくらいの大きさだ。ナナシが対峙した山の主よりも大きい。ジルバはその身を屈めると、蜘蛛の体がお辞儀をするような体勢でナナシを見下ろした。
「怖いか。」
「ううん、」
「そうか。」
ジルバは、黒く染まった両手でナナシの頬を撫でる。腹にある六つの複眼がギョロリと見つめてくるのには少しだけビクリとしたが、赤く美しい宝石のような複眼を金眼で見つめ返すと、その男らしく割れた腹にそっと触れた。
「いろ、ちがう。」
「ああ、複眼は赤なんだ。俺の両目が灰色なのは父親譲りだな。」
「夜の魔物、アラクネとの間の子供だ。ジルバの影から出てきたのは兄弟だぞ。」
「ええ、じるば、おにいちゃん?」
「ああ、長男以外はみんなあのサイズなのさ。」
影から一匹の蜘蛛が這い出てジルバの肩に乗る。赤い複眼でナナシを見つめると、二本の足を上に持ち上げてバンザイのようなポーズを取った。
そんな兄弟の様子にジルバが小さく笑うと、指先で嗜めるように、アラクネの頭を撫でる。
「こら、求愛するな。ナナシは俺の番ではない。」
「ぶはっ、アラクネに求愛されるとは流石に笑える。ナナシ、お前は本当に魔物タラシだなあ。」
「かぁいい…こんばんは?」
「こんばんは。まあ、仲良くしてやってくれ。」
ぴょこぴょことジルバの肩の上で手を挙げる、蜘蛛の頭だと思われる部分をそっと撫でるナナシに、ジルバは嬉しそうに緩く微笑む。本性が禍々しすぎて爪弾きにされている分、触れるのを忌諱されることの方が多い。やはり好意を持たれるのは嬉しいものだ。兄弟は非常に多いが、どれも気の良い奴ばかりなのだ。
面倒事を一掃して、一仕事終えたと言わんばかりにサジが溜息をつく。ナナシはというと、ジルバの兄弟でもある子蜘蛛を手のひらに乗せて愛でているところであった。
「そういえば、いいのか。」
「あん?」
エルマーを置いて来ているのだろう?そう言って首を傾げるジルバに、サジとナナシの顔はわかりやすく青褪める。
「ああー!!!ジルバ!!連帯責任だからなあ!!怒られる、締められる処される、この事がバレたらサジはやばい!」
「あわ、え、えるまー!ね、ねつ、しんじゃう!」
箍を切ったかのように喧しくなった二人に、ジルバは片耳を抑えるようにして渋い顔をする。
「熱ごときで死なないと思うが。まあ、俺が巻き込んだからなあ。乗れ、フオルンよりも早い。」
「ジルバの巨体じゃあ逆に不便であろう!ああ、魔女らしく箒でも乗れればいいのに。」
「箒に乗る魔女なんぞファンタジーだぞ。」
自分が一番ファンタジーの癖に何を言う、とサジは思ったが、いまは背に腹は代えられない。こうなればヤケである。サジはナナシとともに蜘蛛の腹の部分に飛び乗ると、ジルバは兄弟の糸でナナシとサジの体を固定してもらった。
「アラクネの糸!!こんな事に無駄遣いするなんて!」
「あう、う、うごけない…」
「いくらでも出してやる。さて、飛ぶぞ。」
ジルバは上半身を軽く柔軟したかと思うと、八本の足で体を揺らして屈伸した。子蜘蛛が慌ててジルバの影の中に引っ込んでいく。なにやら不穏な気配を察したのか、サジとナナシは二人して口をつぐむ。
そして、嫌な予感は的中した。
ぐん、と体に負荷がかかったかと思うと、飛んだ。と、言うよりかは跳躍した。
「ほあああああばかものおおおお!!!」
「わぁぁああぁあぁあ」
そのまま街が小さくなるほど高く跳ねたジルバは、その手で空を切るかのように腕を払うと、ぶわりと手から影を出現させる。黒い蜘蛛の糸のような影は一気に上空を滑り、一箇所を縫い止めるかのようにして定着する。そして、その影を巻き取るかのようにして一気に移動するものだから、サジもナナシも引っ張られる様にして重力に抗う羽目になった。
星が横に伸びるなんて不思議、そう思ったが、そうではない。サジたちがそう勘違いするスピードで移動しただけなのだから。
その頃のエルマーはというと、熱のせいでぼんやりとする思考のまま、遠くの方から聞こえてくる悲鳴のような耳鳴りに頭を抱えていた。
ついに熱が上がって、変な声まで聞こえだした。これはまずい。こんなに遅くまで、彼奴等は一体どこまで出かけているんだと。一人ベッドの上、寝具に包まり眉間にしわを寄せていた。
帰ってきたらサジだけでも締めよう。そう心に決めると、ふらふらと起き上がった。窓を開けて空気の入れ替えをしようと思ったのだ。そして、外の景色を確認するように顔を向けた瞬間。バキッという不穏な音と共に、虫の腹のようななにかが窓の外側に張り付いた。
振り向いて、僅かに夜空を見て、瞬きしたら虫の腹だ。さすがのエルマーも驚きすぎて声が出なかったし、思わず無言で体をビクつかせてしまった。
挙句には虫特有の移動音のようなものを立てて、その腹が屋根の方に消えていくのを見て、寒気が走った。
「ええええ、え?え?」
動揺したまま呆けていれば、窓から褐色の美丈夫が顔を出す。次から次へと一体なんなのだ。エルマーは頭を痛めたまま、ふらふらふらと窓の側に近寄った。飛び降りるのではと心配していた、その美丈夫の素肌の脇腹に亀裂が入り、現れた目玉が一斉にエルマーを見つめた。
「うわっ!ふ、複眼!?」
「こんばんはエルマー。俺は影の魔女、ジルバだ。」
「あ!?ジルバ!?」
「この姿で会うのは初めてだな。少し待て、元に戻る。」
「ええええ。」
ぶわりと黒い靄が広がったと思えば、今度は黒い靄の中から現れる。
ジルバはべしょべしょに泣いたナナシと、白目をむくサジを両脇で抱きかかえたまま、窓枠を跨いで部屋に上がってくる。
自分もそうだが、本当に誰も部屋のドアから入ってこないよなと思う。ジルバはナナシをエルマーに押し付けると、べしょりとサジを床に落とした。
「おわっ、」
「ひううう、えるまあー‥っ、」
「おお、泣くなって…まあ気持ちはわかるけどよ…」
「うおぇっぷ、吐く…無理、吐く。」
「騒がしいな。全く、病人の前だというのに。」
ドタドタと浴室に駆け込むサジを見送ると、ジルバはやれやれといった顔をした。ナナシはと言うと、怖くても漏らさなかったことをエルマーに褒められて少しだけ気分が上がったようだった。
「おーよしよし、てかなんでこんな遅かったんだ…」
「じるばに、おくすりもらた。えるまーの、のむするして。」
「ありが、」
ごそごそとナナシが鞄から小瓶を取り出す。拙いがしっかり話すナナシを前に、エルマーが目を見開くと、もじもじと照れくさそうに、ナナシはふにゃりと微笑んだ。
「おちゃのむする、したの。じるばがね、ナナシのこれ、なおすしてくりた。」
「…あ、そ、そうか…え?…ちょっとまて、泣きそう。」
「ふふ、よかったなナナシ。エルマーが感無量になっている。」
「なく?える、えーんする?なかないでぇ…」
「ぐ、…っ、よかったなあ…」
ナナシはエルマーが涙目の理由がわからずに、困ったように眉を下げる。それでも、エルマーが喜んでくれているのは伝わったらしい、ナナシは心配と嬉しいがごちゃまぜになった気持ちを抱えたまま、オロオロとするばかりだ。
袖口で瞼を雑に擦ったエルマーの、赤い目元にちょんと触れる。そのまま柔らかな手でエルマーの手のひらを握りしめると、照れくさそうにふにゃりと笑う。
「えると、おはなしするできるの、うれしいね」
「う、うちの子が天使…ううっ、」
「同意するが、とりあえずお前は薬を飲め。」
エルマーに抱きつきながら、嬉しそうにくふんと笑う。そんなナナシが愛しくて、なんでこんな遅くなったのかと怒る気力も消え失せた。
サジはというと、あらかた出し尽くしたらしい。フラフラになりながら戻ってくると、満足げに笑っているジルバの頭を一発ぶっ叩いたのであった。
幽鬼の強さは生への執着度合いによって変わる。
呪いだから死んだ、仕方ない。という諦めを持つか、不本意に死んで、呪いを受けた。何故、ではその強さが変わるのだ。
「うははは!!凄い!!凄いなあ!!こういう使い道もあるのかあ!!」
女は、喧しい声で喚いた。己の実験が成功したことを喜ぶような声色で、目の前の呪いに侵食されていく人間を見て、無邪気に手を叩いて笑うのだ。
関節を鳴らすように、歪に転化していく。目から涙を流しながら、譫言のように何でと男をは呟いていた。そんな哀れな様子を、なんの心持ちも宿さぬ瞳でジルバは見つめている。
皮膚を突き破るようにして、背中から伸びた骨が翼のようにミシミシと伸びていく。発達した顎や齒、首はだらんと落ちて、男だったものは意識だけは人間のまま、頭蓋を引きずりながらよたよた歩く。
そんな様子を見て、自分は巻き込まれたくはないと悲鳴を上げながら散り散りに逃げようとする。哀れな男の仲間だった者達は、サジのフオルンが退路を奪った。
「さあどうする、どうやって止める?あたしは魔女だ、魔物を繋ぐもの!言わば懸け橋、何も間違ってはいないはずさあ!」
「架け橋、たしかになあ。しかし傅く相手は魔物ではない。」
「いもしない神や精霊に縛られているから魔女は廃れるのさ!出してみな、今すぐここにそいつらを!!」
「魔物は我らに加護は与えないだろう。見えないのはお前に力がないからだ。加護を与えるものを守る。それが本来の俺たちの在り方だ。」
歪な幽鬼は頭を抱えて小さく震える。幼子のように周りに怯え、自分に何が起こったのか現実が受け入れられないといった様子だ。
サジは眼下の女を哀れに思った。力の足りない魔女こそ、自分だけの力でやっていけると考える。彼女をこうしてしまったのも、今の魔女協会が悪い。
人が魔物のように、それぞれが魔力を扱うのにも共存は必要だ。本来の持ち前の魔力の他に、愛し子と呼ばれる者たちは精霊や土着神から力を借りることができる。サジが生命の樹と呼ばれる輪廻を司る神に、名を授けられた種子の魔女であるように。
まあ、サジは魔女であった。という方が正しいかもしれない。エルマーに俗世から開放してもらった今、神使として代理的に加護を与える側になっているからだ。
とかく、魔女とはそれらの力の源となる者たちを守る為の、愛し子のことである。
誰にでもなれるものではない。魔力が高く、選ばれたものでなくては。
「まったく、理を知らずに魔女になるなというに。」
サジは死体や魔物に種子を埋め込み、育てる。微かに残った魂の残滓を使い、理性のある魔物を生み出すのだ。殺しはするが、対象は輪廻から外された悪のみ。もう戻れないほど悪いことをしたら、サジが手を下す。
まあ、サジはやりすぎて未だに神から夢枕で小言を言われるときもあるが、それはご愛嬌である。
「お前が殺したのは未来のある子だった。孤児だが、帰る場所があった。」
「またその話か。」
「お前は火の神から見放された。愛し子は他にもいるからなあ。」
「燃えよ!!」
ニヤリと笑ったジルバの笑みに、魔女の体には怖気が走った。まるで己が、蛇に睨まれた蛙のようになってしまったかのような心地だった。
忌々しいことには変わりなく、魔女はわけのわからないことを言うその口を溶かしてやろうと指先に魔力を込めたが、現れたのはマッチの火程度の大きさだった。
指先に揺れる小さな灯火、それは力が弱くなったことの証だ。信じていなかった神や精霊によって見放された魔女は、もう与えられた属性魔法は思うようには扱えない。
動揺を隠せない魔女を見下ろして、ジルバはまるで労るかのような口調で言った。
「俺たちが神を選ぶのではない、神が俺たちを選ぶのだ。」
「な、な、んっ…よ、よくも…っ」
バカにするな!魔女の瞳には憤怒が宿る。しかし、それは指先の震えからでも容易く見て取れるほどの、怯えを含んでいるようだった。
魔女が強張る声で紡ごうとした言葉。それに反応するかのように、ジルバの耳がぴくりと動く。
気がつけば、辺りは夜になっていた。月が見下ろすように真上に登る。まるで、暗闇の舞台上、そこだけを照らしているかのように、魔女は自身がたった一人でジルバと対峙しているかのような、そんな錯覚に陥った。月明かりが照らす僅かな範囲から逃げられない。そんな、ありえない感覚が体を支配する。
葉擦れの音が大きくなる。見えるはずのない影が、じんわりと広がった気がした。
「なんだ。言え。」
「よくも、あたしの魔力を…」
爛々と輝くジルバの瞳を前に、フオルンによって逃走を阻まれた男達の顔色が悪くなる。捕食者の目は二つしかないはずなのに、まるで己たちは大きな蜘蛛の巣の上に捕らわれてしまったかのような怖さが、確かにそこにあるのだ。
「んん、ふ…」
「む、起きたか。」
サジの腕の中で、ナナシが身じろぐ。外野はこうも騒がしいというのに、随分と遅い目覚めである。サジは呆れまじりの目を向けると、ナナシの視界を遮る野暮な麻袋を外してやった。
まだ少しだけ眠たそうな顔で、ナナシがサジを見上げる。お外はもう随分と暗くて、ナナシは怯えるように小さな手でサジの衣服をぎゅうっと握る。動かしづらい体に気がつけば、ナナシは己の手足を拘束する紐を見てキョトンとした。
「ここ、なにい…よる、こわいよ」
なんで自分がフオルンの上にいるのだろう。そのことも不思議だった。サジによって手を解かれたナナシは、牛のような顔を近づけたフオルンの鼻先を小さな手のひらでそっと撫でると、その鼻先に抱きつくようにしてくっついた。
大きな牛型の魔物は、蔦をシュルリと伸ばすと、宥めるようにナナシの背中を優しく引き寄せる。
サジは怯えるナナシをフオルンに任せたまま、身を乗り出すようにして眼下のジルバを覗き込んだ。
真下にいる、幽鬼になってしまった元人間は、蹲ったまま動かない。
ジルバはナナシが起きた気配を察知したのか、ちらりと見上げた。どうせナナシが怯えるのなら、全て終わらせてから起きて欲しかったのだが、まあそんなものをとやかく言っても仕方がない。ジルバはその灰色の目でサジを見上げると、大きな声で名前を呼んだ。
「まあいい。サジ!」
「なんだー!!」
上から元気よく振ってくるサジは、どうやらナナシをほったらかしにしてこの状況を楽しんでいるようだ。危機感のない呑気な声に小さく笑うと、頼みがあると続けて叫ぶ。
「ナナシでもいい!言わせろ!この女はだめだ!」
「ああ、トリガーは誰でもいいのだっけか。」
ジルバの言葉に、サジは思い出したかのようになるほどと頷くと、未だフオルンにしがみついて離れないナナシをチラリと見た。
なるほど、この怯えようなら、ジルバのトリガーワードは有効かもしれない。そう考えると、サジはナナシを宥めるフオルンに指示を出し、ジルバの近くまで降ろしてもらうことにした。
どんどんと地上が近づくにつれて、ようやくナナシも状況が飲み込めたらしい。なんだか妙な雰囲気だとは感じていたようだが、ジルバの背後に蹲る異形な幽鬼を見て小さく息を詰めると、見たくないといわんばかりに、再びフオルンに抱きつく力を強めた。
ジルバはその様子に満足そうに笑うと、魔女に背を向けナナシの側まで歩み寄る。
「ナナシは魔物が好きか。」
「やさしいこなら、すき。」
「そうか。ならば手伝ってくれ。」
ぽしょりと呟いたナナシに擦り寄るかのように、フオルンが鼻先を寄せる。
十分だ。ジルバはその答えだけで、己の箍をナナシに外してもらうことに決めたようだった。
小さな頭を優しく撫でる、そしてその手で頬を撫でるように滑らせると、薄く色づく唇をそっとなぞるように触れて言った。
「よくもきたな。と言え。」
「よくも、きたな?」
「そう。このジルバを指差しながら、言え。」
どういう意味?そう聞きたくても聞けなかった。
事態は切迫しているようだ、ジルバの背後では布を裂いたかのような悲鳴が上がる。
ナナシはびくりと肩を揺らした。戸惑った顔で向けた視線の先には、見知らぬ女が金切り声を上げ、嫌がる様子の幽鬼に鞭を振り上げている姿があった。
「行け!!働け!!あんたはあたしの幽鬼だろう!!愚図め、早くおし!!」
「ひ、っ!」
ひゅう、という鞭で空を裂く音が、ナナシの記憶を呼び覚ます。痛い、あれは痛いのだ。苦しいのは嫌だ、怒られたくない。ナナシの肺が忙しなく酸素を取り込む。あの虐げられてきた日々の記憶が、再びその体を支配しようとする。
小さな悲鳴を漏らしたナナシの隣に、サジが降り立った。ざわりとフオルンの魔力が揺らめく。どうやらナナシの反応を気にしたらしい。ナナシとサジの周りを囲むようにしてその蔦を張り巡らそうとしたが、それをジルバが手だけで制す。まるで、水を差すなとでもいうように。
目の前で頭を抱えていた幽鬼が、黒い体液を撒き散らしながら苦しそうに呻く。鞭で裂かれた皮膚の一部から、その体液が吹き出した。幽鬼のがらんどうな瞳が、ゆっくりと前を向く。この状況を変えたいのは、ジルバ達だけではないことは明白だった。
金色の眼に涙を溜めたナナシの前にジルバが立つと、その鋭利な双眸に喜色を滲ませて言った。
「怖いものは、このジルバが無くしてやろう。ほら、言えナナシ。」
幽鬼は、数度荒い呼吸を繰り返したかと思うと、暴れ馬のように不器用な走りでジルバに向かってくる。引きずっていた頭を振り上げて、黒い血反吐を撒き散らしながら、恐怖によって焚き付けられた明確な殺意を振りかざす。
背中から突き出した歪な骨を地面に突き刺すと、幽鬼は飛び上がった。その体を裂くようにして鋭い歯が並ぶ口をガパリと開ける。どうやら生きたまま飲み込むつもりらしい。
「っ、よくも、きたな…!」
張り詰めた一瞬、ナナシが慌ててジルバを指差し叫んだ。そうしなくてはいけないと思ったからだ。幽鬼に襲いかかられる恐怖と、あの日のトラウマによって怯えの色を滲ませた言葉が、ジルバのトリガーワードを紡いだのだ。
ナナシの言葉に魔力が宿る。その言霊はジルバの耳にしっかりと届いた。そして、ジルバの顔が愉悦に歪むと、本性を縛っていた錠が外れ、ジルバの足元から噴き上げるように高濃度の魔力が噴き出した。
「夜蜘蛛、キタ。」
複音の声が、そう呟いた。あの時、ナナシが魔女の家で聞いた不思議な声だ。
両手を広げたジルバの足元から、じわじわと影が地べたに侵食していく。わかりやすく境界を作るようにして、湧き水かのように溢れた黒は、ナナシ達を守るかのようにして一つの大きな影に変わる。
そして、その影が大きく波打ち、漆黒の影は帯状に姿をかえジルバを包み込むと、その姿を瞬く間に異形の体へと転化させた。
紫色の強い光が、影の輪郭をみるみるうちに縁取っていく。まるで月をも捕らえるのではと思うほど、その漆黒が夜空に迫る。
光は徐々に形を形成していき、そうして、一匹の大蜘蛛へと姿をかえる。人の上半身に、蜘蛛の下肢。割れた腹筋を飾るかのように、幾つもの赫い複眼が腹に現れる。アラクネの半魔であるジルバの本性は、まるで神話に出てくる冥府の使者の如く歪な美しさを誇る。
蜘蛛の下肢に刺青のように刻まれる紫の陣こそが、ジルバの枷であったのだ。
本性を晒したまま、夜を抱くように両手を広げる。そして口端を吊り上げて、獰猛な顔つきで宣った。
「さあ、食事の時間だ。」
言葉と共に、足元の影が大きく波打った。まるで皮膜を突き破るかのように、影の中から現れたのは夥しい数の蜘蛛の姿をした魔物達だ。大小様々、大きいものはナナシの腕ほどはあるだろう。召喚されたアラクネの群れは、引き寄せられるかのように目の前の幽鬼に向かっていく。
アラクネに見境はない、ただ己の兄弟が示した獲物へと、真っ直ぐに襲い掛かる。まるで軍隊のように淀みないその動きに怯んだ幽鬼は、アラクネによってその身を容赦なく齧りつかれる。長い四肢を振り回し、メチャクチャな動きで振り払おうとも、蜘蛛の多腕はしっかりとその身を抑え込むのだ。
ジルバは、ただ楽しげにその光景を見つめていた。己の兄弟達が、飢えた腹を満たそうと食事をする姿を眺めながら、アラクネ達が己の巣穴へと引き摺り込むようにして、残りの幽鬼の体が影に飲み込まれていく様子を、ただその顔に愉悦を湛えたまま眺めている。
ナナシには、何が起こったのかわからなかった。目を丸くし、指先を向けたまま固まっていた。深く昏い闇の中に、影によって捉えられた獲物が飲み込まれていく様子は、悲鳴一つ無い、とても静かな狩りであった。再び満月が雲の切れ間から姿を表す頃には、その場所に立っているのは大蜘蛛に転じたジルバだけであった。
「はぇ…」
「余程ストレスが溜まっていたようだ。ジルバが本性を出すときは発散したい時だからなあ。」
じゃり、と大蜘蛛が八本の足を使いナナシに向き直る。ジルバだとわかる部分は上半身のみで、複眼は脇腹にギョロリと集中していた。
フオルンと同じくらいの大きさだ。ナナシが対峙した山の主よりも大きい。ジルバはその身を屈めると、蜘蛛の体がお辞儀をするような体勢でナナシを見下ろした。
「怖いか。」
「ううん、」
「そうか。」
ジルバは、黒く染まった両手でナナシの頬を撫でる。腹にある六つの複眼がギョロリと見つめてくるのには少しだけビクリとしたが、赤く美しい宝石のような複眼を金眼で見つめ返すと、その男らしく割れた腹にそっと触れた。
「いろ、ちがう。」
「ああ、複眼は赤なんだ。俺の両目が灰色なのは父親譲りだな。」
「夜の魔物、アラクネとの間の子供だ。ジルバの影から出てきたのは兄弟だぞ。」
「ええ、じるば、おにいちゃん?」
「ああ、長男以外はみんなあのサイズなのさ。」
影から一匹の蜘蛛が這い出てジルバの肩に乗る。赤い複眼でナナシを見つめると、二本の足を上に持ち上げてバンザイのようなポーズを取った。
そんな兄弟の様子にジルバが小さく笑うと、指先で嗜めるように、アラクネの頭を撫でる。
「こら、求愛するな。ナナシは俺の番ではない。」
「ぶはっ、アラクネに求愛されるとは流石に笑える。ナナシ、お前は本当に魔物タラシだなあ。」
「かぁいい…こんばんは?」
「こんばんは。まあ、仲良くしてやってくれ。」
ぴょこぴょことジルバの肩の上で手を挙げる、蜘蛛の頭だと思われる部分をそっと撫でるナナシに、ジルバは嬉しそうに緩く微笑む。本性が禍々しすぎて爪弾きにされている分、触れるのを忌諱されることの方が多い。やはり好意を持たれるのは嬉しいものだ。兄弟は非常に多いが、どれも気の良い奴ばかりなのだ。
面倒事を一掃して、一仕事終えたと言わんばかりにサジが溜息をつく。ナナシはというと、ジルバの兄弟でもある子蜘蛛を手のひらに乗せて愛でているところであった。
「そういえば、いいのか。」
「あん?」
エルマーを置いて来ているのだろう?そう言って首を傾げるジルバに、サジとナナシの顔はわかりやすく青褪める。
「ああー!!!ジルバ!!連帯責任だからなあ!!怒られる、締められる処される、この事がバレたらサジはやばい!」
「あわ、え、えるまー!ね、ねつ、しんじゃう!」
箍を切ったかのように喧しくなった二人に、ジルバは片耳を抑えるようにして渋い顔をする。
「熱ごときで死なないと思うが。まあ、俺が巻き込んだからなあ。乗れ、フオルンよりも早い。」
「ジルバの巨体じゃあ逆に不便であろう!ああ、魔女らしく箒でも乗れればいいのに。」
「箒に乗る魔女なんぞファンタジーだぞ。」
自分が一番ファンタジーの癖に何を言う、とサジは思ったが、いまは背に腹は代えられない。こうなればヤケである。サジはナナシとともに蜘蛛の腹の部分に飛び乗ると、ジルバは兄弟の糸でナナシとサジの体を固定してもらった。
「アラクネの糸!!こんな事に無駄遣いするなんて!」
「あう、う、うごけない…」
「いくらでも出してやる。さて、飛ぶぞ。」
ジルバは上半身を軽く柔軟したかと思うと、八本の足で体を揺らして屈伸した。子蜘蛛が慌ててジルバの影の中に引っ込んでいく。なにやら不穏な気配を察したのか、サジとナナシは二人して口をつぐむ。
そして、嫌な予感は的中した。
ぐん、と体に負荷がかかったかと思うと、飛んだ。と、言うよりかは跳躍した。
「ほあああああばかものおおおお!!!」
「わぁぁああぁあぁあ」
そのまま街が小さくなるほど高く跳ねたジルバは、その手で空を切るかのように腕を払うと、ぶわりと手から影を出現させる。黒い蜘蛛の糸のような影は一気に上空を滑り、一箇所を縫い止めるかのようにして定着する。そして、その影を巻き取るかのようにして一気に移動するものだから、サジもナナシも引っ張られる様にして重力に抗う羽目になった。
星が横に伸びるなんて不思議、そう思ったが、そうではない。サジたちがそう勘違いするスピードで移動しただけなのだから。
その頃のエルマーはというと、熱のせいでぼんやりとする思考のまま、遠くの方から聞こえてくる悲鳴のような耳鳴りに頭を抱えていた。
ついに熱が上がって、変な声まで聞こえだした。これはまずい。こんなに遅くまで、彼奴等は一体どこまで出かけているんだと。一人ベッドの上、寝具に包まり眉間にしわを寄せていた。
帰ってきたらサジだけでも締めよう。そう心に決めると、ふらふらと起き上がった。窓を開けて空気の入れ替えをしようと思ったのだ。そして、外の景色を確認するように顔を向けた瞬間。バキッという不穏な音と共に、虫の腹のようななにかが窓の外側に張り付いた。
振り向いて、僅かに夜空を見て、瞬きしたら虫の腹だ。さすがのエルマーも驚きすぎて声が出なかったし、思わず無言で体をビクつかせてしまった。
挙句には虫特有の移動音のようなものを立てて、その腹が屋根の方に消えていくのを見て、寒気が走った。
「ええええ、え?え?」
動揺したまま呆けていれば、窓から褐色の美丈夫が顔を出す。次から次へと一体なんなのだ。エルマーは頭を痛めたまま、ふらふらふらと窓の側に近寄った。飛び降りるのではと心配していた、その美丈夫の素肌の脇腹に亀裂が入り、現れた目玉が一斉にエルマーを見つめた。
「うわっ!ふ、複眼!?」
「こんばんはエルマー。俺は影の魔女、ジルバだ。」
「あ!?ジルバ!?」
「この姿で会うのは初めてだな。少し待て、元に戻る。」
「ええええ。」
ぶわりと黒い靄が広がったと思えば、今度は黒い靄の中から現れる。
ジルバはべしょべしょに泣いたナナシと、白目をむくサジを両脇で抱きかかえたまま、窓枠を跨いで部屋に上がってくる。
自分もそうだが、本当に誰も部屋のドアから入ってこないよなと思う。ジルバはナナシをエルマーに押し付けると、べしょりとサジを床に落とした。
「おわっ、」
「ひううう、えるまあー‥っ、」
「おお、泣くなって…まあ気持ちはわかるけどよ…」
「うおぇっぷ、吐く…無理、吐く。」
「騒がしいな。全く、病人の前だというのに。」
ドタドタと浴室に駆け込むサジを見送ると、ジルバはやれやれといった顔をした。ナナシはと言うと、怖くても漏らさなかったことをエルマーに褒められて少しだけ気分が上がったようだった。
「おーよしよし、てかなんでこんな遅かったんだ…」
「じるばに、おくすりもらた。えるまーの、のむするして。」
「ありが、」
ごそごそとナナシが鞄から小瓶を取り出す。拙いがしっかり話すナナシを前に、エルマーが目を見開くと、もじもじと照れくさそうに、ナナシはふにゃりと微笑んだ。
「おちゃのむする、したの。じるばがね、ナナシのこれ、なおすしてくりた。」
「…あ、そ、そうか…え?…ちょっとまて、泣きそう。」
「ふふ、よかったなナナシ。エルマーが感無量になっている。」
「なく?える、えーんする?なかないでぇ…」
「ぐ、…っ、よかったなあ…」
ナナシはエルマーが涙目の理由がわからずに、困ったように眉を下げる。それでも、エルマーが喜んでくれているのは伝わったらしい、ナナシは心配と嬉しいがごちゃまぜになった気持ちを抱えたまま、オロオロとするばかりだ。
袖口で瞼を雑に擦ったエルマーの、赤い目元にちょんと触れる。そのまま柔らかな手でエルマーの手のひらを握りしめると、照れくさそうにふにゃりと笑う。
「えると、おはなしするできるの、うれしいね」
「う、うちの子が天使…ううっ、」
「同意するが、とりあえずお前は薬を飲め。」
エルマーに抱きつきながら、嬉しそうにくふんと笑う。そんなナナシが愛しくて、なんでこんな遅くなったのかと怒る気力も消え失せた。
サジはというと、あらかた出し尽くしたらしい。フラフラになりながら戻ってくると、満足げに笑っているジルバの頭を一発ぶっ叩いたのであった。
37
お気に入りに追加
1,012
あなたにおすすめの小説
完結・虐げられオメガ妃なので敵国に売られたら、激甘ボイスのイケメン王に溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
見ぃつけた。
茉莉花 香乃
BL
小学生の時、意地悪されて転校した。高校一年生の途中までは穏やかな生活だったのに、全寮制の学校に転入しなければならなくなった。そこで、出会ったのは…
他サイトにも公開しています
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
時々おまけを更新しています。
【完結】薄幸文官志望は嘘をつく
七咲陸
BL
サシャ=ジルヴァールは伯爵家の長男として産まれるが、紫の瞳のせいで両親に疎まれ、弟からも蔑まれる日々を送っていた。
忌々しい紫眼と言う両親に幼い頃からサシャに魔道具の眼鏡を強要する。認識阻害がかかったメガネをかけている間は、サシャの顔や瞳、髪色までまるで別人だった。
学園に入学しても、サシャはあらぬ噂をされてどこにも居場所がない毎日。そんな中でもサシャのことを好きだと言ってくれたクラークと言う茶色の瞳を持つ騎士学生に惹かれ、お付き合いをする事に。
しかし、クラークにキスをせがまれ恥ずかしくて逃げ出したサシャは、アーヴィン=イブリックという翠眼を持つ騎士学生にぶつかってしまい、メガネが外れてしまったーーー…
認識阻害魔道具メガネのせいで2人の騎士の間で別人を演じることになった文官学生の恋の話。
全17話
2/28 番外編を更新しました
平凡な男子高校生が、素敵な、ある意味必然的な運命をつかむお話。
しゅ
BL
平凡な男子高校生が、非凡な男子高校生にベタベタで甘々に可愛がられて、ただただ幸せになる話です。
基本主人公目線で進行しますが、1部友人達の目線になることがあります。
一部ファンタジー。基本ありきたりな話です。
それでも宜しければどうぞ。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!
棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる