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端倪すべからず

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「人間と夫婦になったとは、お前も難儀な男であるなあ。」
「俺の番いを馬鹿にするのは許さぬ。」
「馬鹿になどするものか、しかし人間は勝手が違うだろう。戲れでもすぐに死ぬ。」

 楽しそうなのだろうか、水喰は抑揚のない言葉を淡々と語る割に、冗談のようなことを言う。こちらが顔色を伺うのを良しとはせず、天嘉と目も合わせようとしない。蘇芳の言葉にのみ返すだけであった。

 ここでは、人間は口を開いてはいけないのかもしれない。天嘉は小さく口を噤む。粗相をしないようにするのなら、これはかえって好都合である。
 水喰に連れられてきた場所は、白く濡れた廊下を真っ直ぐに突き進んだ先にあった。

 水で出来た幕のようなものをくぐり抜けると、まるで岩をくり抜いたような湯殿があり、その湯は乳白色をしていた。
 くり抜かれた岩肌には光る苔のようなものが生えており、天然のライトによって照らされたそこに、天嘉はほうと溜息を吐く。美しいが、すこしだけ寂しい。整えられているのに、何かが足りていない。
 この不思議な空間は無機質で、ただ静かである。湯殿は湯気が出て暖かい空気が満ちているのに。なぜかつまらないというか、息が詰まる閉塞感を感じた。


「幸というのか。」

 水喰が、腕の中でくたりとしている幸を見つめる。
 天嘉はハッとすると心配そうに顔の色を濃くし、縋るような目で蘇芳を見上げた。

「その子はこちらで預かろう。」
「そうか、俺は幼児はわからん。人の子は人に任せるべきだな。」

 腕に抱いていた幸を、そっと差し出す。蘇芳に下ろしてもらった天嘉が、そっと幸を受け取っても、水喰は決して天嘉を見ようともしない。

「天嘉、湯に入れ。体を温めろ。」
「もてなそう、蘇芳。貴様も入っていけ。湯治だ、その羽の痛みも取れるだろう。」
「…わかった。」

 水喰はこくりと頷くと、着替えは用意するといって水幕の向こう側へと消えてしまった。
 天嘉はくたりとしている幸の体を抱きながら、着物のままゆっくりと湯船に入った。幸の体が冷えていたのが心配だったのだ。

「幸、幸おきろ…」
「んん…」

 湯船に入り、頬に赤みが戻ってくる。天嘉の呼びかけに反応した幸が、ゆっくりと身じろぎをした。

「ここ、どこぉ…」
「…どこだろう、」

 幸を抱きながら、不安げな声色で天嘉が呟く。蘇芳は着物を脱いで羽根を晒すと、ゆっくりと浸かるように湯の中にその身を入れた。

「水喰の祠の中だ。天嘉も服を脱げ。動きづらいだろう。」

 蘇芳に促されるまま、天嘉は幸を岩に座らせると着物を脱いだ。幸も天嘉も、蘇芳までもが濡れそぼってしまったのだ。幸の服も脱がして抱き上げると、離れまいと首に腕を回して幸がしがみつく。

「こわい、ここやだあ…」
「大丈夫、ここには蘇芳もいる。」
「すおう?」
「後ろの大男。」

 ほら、と幸を蘇芳に向けると、ようやく合点がいったらしい。あのときのおじちゃんだと言われ、蘇芳の顔がくしゃりと歪む。おじちゃんと言われたのがよほど嫌だったらしい。天嘉は思わず吹き出すと、ごめんと小さく謝った。

「蘇芳がいれば、だいたいなんとかなるから大丈夫だよ。」

 幸の背中を優しく撫でる天嘉は、まるで母のように優しく幸に接する。なにか思うところがあるらしい、蘇芳もまた、この幸という幼子には妖かしとは別の何かを感じていた。

「てんか、ちゃん?」
「てんかくんだな。」
「てんちゃん、」
「うん、それでいいよ」

 幸は頬を染めながら天嘉の肩口にこてりと頭を預ける。うとうとと微睡む様子に天嘉は小さく微笑んだ。

「抱こうか?」
「いいよ、でけえ男怖えらしいし。」
「慣れたものだな。」
「年下の子供に好かれるだけだよ。」

 蘇芳がそっと湯の中を移動した。乳白色の湯から見える天嘉の薄い肩がほのかに桃色に染まっている。水神の祠で入浴など滅多にできない体験だなあと呑気に言う天嘉に、蘇芳は少しだけ救われた。

「すまんな、俺が気をつけろと言っておきながら、守れなかった。」
「守られてるよ、羽根は平気か?」
「ああ、確かにここは湯治には適しているようだ。」

 そっと痛めた羽を広げると、先程よりもずっと良くなっていた。水喰は水の神で、治癒も出来る。おそらくこの湯には神気が混じっているのだろう。蘇芳は湯に当てられたのか、頬を染めながらぼんやりとする天嘉に気がつくと、その額を晒すように髪をなでつけた。

「そろそろでようか、あまり入りすぎても体に毒だ。」
「うん、…なんかすげえ、眠くなってきた…」
「朝早くから弁当も作ってくれたものなあ。」

 蘇芳が苦笑いする。そっと背に手を当て、促すようにして天嘉とともに湯から上がった。下腹部は目立つようになってきた。着物を着ていれば分かりづらいが、裸だと膨らみを視認できる。
 ふらふらと幸を抱いたまま岩に腰掛けた天嘉を、いつの間にか用意されていた布で包む。手早く己の体の水気を拭っていると、天嘉は虚ろな目で蘇芳を見上げた。

「天嘉、どうした。」
「なん、か、…へん…」

 熱い吐息を漏らし、目眩を抑えるかのように額に手を付く。具合の悪そうな様子が気にかかり、天嘉を見上げるように膝をつくと、蘇芳はそっと首筋に手を添えた。

「湯あたりか?目眩がするなら横になったほうがいい。」
「蘇芳、」
「どうした。」
「すお、う」

 片手でしっかりと幸を抱いたまま、天嘉が弱々しく名前を呼んだ。まるで縁を失くしたかのような心許ない声色で手をさまよわせる。
 その手のひらを蘇芳が掴むと、天嘉はゆるゆると握り返した。
 まるで、こちらが見えていないようであった。天嘉はゆっくりと瞬きをし、蘇芳をその瞳に移したかと思えば、かくりと体の力が抜けたように蘇芳の体にもたれかかった。

「おい!」

 慌てて抱きとめる。くたりとした華奢な体は電池が切れたように動かない。蘇芳の血の気が引いた。何だ、一体何が起きたのだ。
 顔を青褪めさせ、そっと体を横たえさせる。蘇芳の問いかけにも答えぬ天嘉は瞼を閉じたまま、細く深い呼吸を繰り返す。

 ひたひたと足音が聞こえた。蘇芳は血相を変えて振り向くと、その瞳に剣呑な光を湛えて睨みつけた。

「水喰、貴様…!!」
「俺のせいではない。」
「なんだと…!?」

 水喰はくたりとした天嘉の横で眠る幸を見つめると、そっとその幼児の頬を撫でる。

「こやつ、やはり妖かしとは異なるな。」
「…説明をしろ。」
「俺の領域に流れ着いたものだ。出どころは三途、黄泉路から参ったものだ。」
「まさか、亡者か…!」

 魅入られたな。水喰が淡々と呟く。迂闊だった。蘇芳はギリリと拳を握り締めると、あどけない寝顔を晒す幸を見つめた。

「牛頭が言っていた。亡者が一人逃げたと。」
「こやつだろう、恐らく己が死したのも理解をしていない。逃げて、俺の領域に迷い込んだ。恐らくだが神気に触れて黄泉路の汚れが落ちたのだ。わからんのも無理はない。」

 水喰は水を司る神である。故に水の流れる所ならすべて水喰の知るところとなる。故に、水喰が三途といえば、それは黄泉の国に繋がる川以外にありえない。

「どうすればいい、天嘉は大丈夫なのか。」
「幸の夢に囚われた。無垢なものの純粋さは、時に残酷さ。幸が離れたくないと願ったら、恐らく戻ってはこれまい。」
「水喰、お前もしやわかっていたのか?」
「知っていた。」

 水喰の端的な言葉に、蘇芳はカッと腸が煮えくり返った。その襟元をがしりと掴んで引き寄せる。突然の暴挙も全く動じずに、水喰は静かな眼差しで蘇芳を見つめ返した。

「急くな、そもそも俺がお前たちを呼んだのも理由がある。今回は力を貸そう。」 

 抑揚のない声でそう宣うと、紫の瞳が天嘉を映す。

「人の子はどうやって育つのだろうな。蘇芳よ。」
「…何が言いたい。」
「一人は退屈だ。お前の嫁に手伝ってもらいたい。」
「だから、なにを…」

 わけがわからぬことを宣う水喰に、蘇芳の語気は荒くなる。水喰の手のひらがそっと円を描くようにくるりと宙をなぞった。まるで戯れるかのように現れた水流が、ゆっくりと形を成す。出来上がったのは水で出来た鏡のようなものであった。

「もはや幸は亡者にも戻れまい、こちらに連れ帰ってきた暁には、俺の嗣子にする。」

 蘇芳は突拍子もないことを宣う水喰を呆気にとられたかのように見つめると、じわじわと一つのまさかが蘇芳の思考を侵食する。

 要するにこの不遜な神は、幸を天嘉に依存させることで水喰の元に留まる理由を作ろうとしているのだ。
 勿論行く宛などないからというのも理由だろうが、このまま放たれて鬼になるくらいなら、水喰の使いとして存在をするほうがずっといい。それに、蘇芳と水喰は交流がある。仮に嗣子になり、幸が水を辿る能力を得られれば、いつでも望むままに天嘉に会いに行けるのだ。
 幸は天嘉に依存している。あのたったひとときだけ、優しく抱きしめられたことが縁となって、天嘉は幸の夢の中へと招かれた。

 賢しい奴め、蘇芳は小さく舌打ちをした。水喰にはその苛立ちが聞こえていたはずなのに、静かな瞳でそっと蘇芳を見据えたままであった。まるで、これは必然であったと言われているような気がして、蘇芳はわだかまりを腹に抱えたまま、拳を震わせることしか出来なかった。


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