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義骸の矜持

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「なりません!」

 まるで空気を裂くように、平次の鋭い言葉が飛んだ。
 その平次の様子は酷く狼狽え、獣姿で氷の檻を無理くり抜けると、まろびでるようにして義骸の元へと駆け寄った。

「なりません!聞く耳をお持ちにならんでくだされ!」
「平次?」
「義骸様は貴きお方!そのような人の戯言に耳なんぞ傾けてはなりません!奥方が野蛮な人によって儚きことになったのをお忘れか!?」

 きゃんきゃんと平次が毛を逆立てながら叫ぶ。義骸は皆の大黒柱だ。勇猛で、そして情に深い。この八百八狸の頭でもあり、その苛烈な性格によって統率してきた。
 平次の知っている義骸は、人の意見に左右などされない。
 ましてや、平次からしてみたら義骸のあり方を真っ向から否定してきた天嘉こそが悪であった。
 今日この日、義骸が蘇芳とともに宴を開くのを心待ちにしてきたのを、平次はきちんと知っている。親子ほどの年齢の差はあれど、義骸が気にいる男ぶりの蘇芳こそが、今ある総大将の名前持ちの中で義骸の認める男であった。

 たとえ、やりすぎたとしてもたかだか人間如きにこちら側のやり方を否定する権利などない。この天嘉というややこしいものがいなければ、今頃仲良く飲んでいたはずであった。それなのに、天嘉は最初から当たり前のようにして蘇芳の家に住み着いていた。
 義骸の奥方を儚くした奴と同じ人間が、あんな恐ろしいからくりを操って山を削る人間が、こうして不仲を連れてきた。
 
 平次はそれが許せなかった。

「義骸様!」
「黙れ平次。お前はいつから会話に割り込むほど偉くなったのだ。」


 義骸は平次を突き放すようにしてそう言うと、その顔の傷をそっと触れた後、ゆっくりと天嘉を見上げた。

「妥協しよう。人間、貴様の腹の子を危うくして済まなかった。」
「天嘉だ。もういいよ、理由がねえでやってんなら性格わりいなこいつって思ってたけど。」
「何を言う!!この卑しい人間め!!」

 シャッ、と激しく威嚇をする平次をがしりと掴んだ義骸が、摘み上げるようにして平次を睨む。
 ちいさな体で真っ直ぐに見つめ返すと、その丸い目を潤ませる平次に、義骸は大きな溜息をついた。

「訳ありか?」
「平次は俺の亡き嫁に可愛がられていたのだ。」
「芝桜殿か。」

 蘇芳は難しい顔をして見知らぬ名前を口にする。芝桜、それが義骸の嫁の名前らしい。
 平次はしおしおと項垂れると、義骸によって床に落とされた。しゅたりと畳の上に着地すると、まるで伺い見るかのようにきょとりと義骸を見上げた。傷ついたような顔をした平次がぽたりと一粒涙をこぼしたかと思えば、たたっとかけてその場から走り去った。

「平次!」

 獣姿の平次は素早い。群れの仲間が数匹、止めに入ろうと後を追いかける。九瞞山とは違う他山だ。土地勘などないに決まっている。
 義骸は渋い顔をすると、奥座敷から庭へ出た。蘇芳はくるりと振り向くと、ツルバミに命じる。

「ツルバミ、すまんが留守を預ける。天嘉のことを頼んだ。」
「は!?どこ行くつもりだ蘇芳!」
「て、天嘉殿、おそらく蘇芳殿は平次を探しに行かれるのでしょう。」
「探しに行かれるったって…」

 そう簡単に言っても、御嶽山の規模を考えれば手厳しいことこの上ない。義骸も自身の預かる山ではないため、さてどうしたものかと難しい顔をする。己の率いる八百八狸共をけしかけても、迷わず連れ帰ってくることができるのか。
 妖術を使い、平次の行先を調べようにも己の縄張りではない。故にうまくは出来ぬこともわかっていた。地面に手を添えたまま、しばらく黙りこくっていた義骸だが、ゆっくりと立ち上がると天嘉を見た。

「すまぬが蘇芳の力を借りたい。」
「俺も行く。」
「だめだ、天嘉は待っていろ。」
「ざけんな後味悪いことにはなりたくねえんだよ!」

 蘇芳の胸ぐらを掴みかかる勢いで凄む様子に、ツルバミは小さな背丈であわてて天嘉の膝にしがみつく。

「なりません!身重だということをお忘れか!ただでさえふらっふらの天嘉殿が向かわれて、出る幕などありません!」
「ならこうする。」
「なにを、っ」

 むすくれ、若干苛立っていたらしい天嘉は、むんずといよいよ蘇芳の胸ぐらを鷲掴むと、ぐいと襟元を引き下げてよろめいた蘇芳の唇に、自身の唇をガツンと押し付けた。

 なんともヘッタクソ極まりない口付けではあったが、義骸も青藍もツルバミもぎょっと目を丸くする。当事者の蘇芳はというと、余程驚いたらしい。がちりと唇を合わせたまま硬直し、先程の落ち着きを構えた総大将らしい態度をいとも簡単にぐらつかせる。
 そのまま固まる蘇芳の顔をがしりと掴んだかと思うと、無理くりにこじ開けた口から蘇芳の舌を絡め取り、強く吸い付いた。

「んんんんん!?」


 義骸は、その様子を呆気に取られたように見つめていたが、吹き出すような音とともに口を抑えて笑いをこらえる宵丸の笑い声に我に返ると、大天狗である蘇芳が嫁におおいに振り回されている様子を見て、思わず眉間を揉んだ。

「おし、視界良好。充電完了だ。」
「雌…、貴様旦那の扱いをもうちっと丁寧にしろと…」

 ごしりと口を拭った天嘉の後ろで、蘇芳が膝をつく。未だ頭に疑問符を浮かべているが、天嘉にとって具合の悪さが消えたのならそれでいい。自分の体を面倒くさい仕様に変えた旦那など、今は必要に応じたときに気軽に供給出来る予備バッテリー扱いだ。
 天嘉の行動に時を止めていた屋敷の者たちが我に返る。天嘉はというと、渋い顔をしていた義骸の胸ぐらをがしりと掴んで、蘇芳の大きな下駄を穿いてで表に出た。そのまま義骸を引っ張りながら、なんの戸惑いもなくズカズカと屋敷の外へと進んでいく。

「おい!襟元を離せ!まったく横暴な雌だな貴様は!」
「うるせー!平次が拗ねて駆けてったのもてめえの不始末だろうが!うちの旦那頼るなら順序が逆!まずはお前が必死こいて探せ!手伝ってやっから!」
「貴様、俺を誰だと、」
「知らねえよ!蘇芳と同じくらい偉い癖に役職ばっかにしがみつくオンボロだぬきってこと以外はな!!」
「なんという言様!!俺の力を知らずによもやそのようなことを宣うなど、」
「だったら部下見つけてから威張れってんだ馬鹿!」

 胸ぐらを掴んだ手を乱暴に離す。己よりも小さき姿でメンチを切る天嘉の姿に義骸の矜持が試された。
 こいつ、俺を使えないという目で見てくるのか。そんな具合に捉えると、天嘉の一言に煽られるようにぶわりと毛を逆立てた。

「いいだろう、この義骸の本性を晒してやろう。貴様が手伝うといったのだからな、後悔しても知らんぞ。」

 義骸はそう言うと、その身の回りで踊らせるように枯れ葉を吹き荒らす。そして髪をざわつかせたかと思うと、身を屈めるようにしてその人型の体躯を四足の大狸へと変貌させる。
 天嘉はその激しい葉嵐に蹌踉めくと、トラック程の大きさに転じた義骸の姿を見て、呆気にとられた。

「これが俺の本性だ。どうだ、驚きで声も出せぬか。」

 堂々とそんなことを宣う義骸に渋顔をする。天嘉の中では、こんなに治安の悪い顔の狸もいたものだと感心していたのだが、もはやそんなことはどうでもいい。

 義骸の背後で青藍らの慌てる声を聞くと、天嘉へ義骸の豊かな毛をむんずと掴み、引っ張るようにして坂道を駆け降りる。
 ここまできたら、連れ戻される前にさっさと平次を見つけてやる。蘇芳に出るなと言われ続けて鬱憤も溜まっていたのもあるが、どうせ怒られるならまとめてが良い。

「おら行くぞ!つかのせろ!お前が俺の知ってる狸とちがってレベチなら早くこの騒動を回収しろってんだ!つかそもそも部下が拗ねて逃げ出す時点で管理不足だしお察しだけどな!」
「れべちとはなんだ!?また珍妙なことを抜かしおって、貴様の短い足では駆け抜けられぬものなあ!いたしかたあるまい、跨がれ雌。」
「てめえよりも足長えは!玉袋引きずってでも追いつかれんじゃねえぞ、蘇芳はいいがツルバミがだるい!」


 立ち止まり、身を屈めた義骸の上にひらりと跨る。太い胴体を脚で挟むようにすると、後ろからツルバミの悲鳴のような声が上がり、次いで大きな羽音がした。
 どうやら蘇芳が意識を取り戻したらしい。天嘉はがしりと後ろから義骸の首に抱き着くと、屋敷の後方から暗雲立ち込める様子に冷や汗をかく。
 義骸は久しぶりの雌が率先して跨がってきたということもあり、ぶわっと毛を逆立てたが、その体毛がほのかな静電気を帯びたことに気がつくと、大慌てで駆け出した。
 恐らくだが、天嘉が蘇芳を出し抜いたことが二割、残りの八割は義骸に跨っているというこの状況に対して苛立っているのだろう。
 天嘉がしがみついているので雷鳴を轟かせるだけだろうが、義骸が早く平次を見つけなければ七面倒臭いことになるに違いない。

 その豊かな毛に天嘉を埋もれさせたまま、義骸は四肢を精一杯伸ばして屋敷から麓への道を駆け抜ける。
 平次がどんな気持ちで義骸を慕っていたのかもわかっていたはずであった。しかしこうまでして平次が溜め込んでいた芝桜への思慕が、己をきっかけにして爆発してしまったのは、一重に義骸が己のことにかまけて部下に気をかけてやらなかったからに他ならない。

 それをこの人間の雌に気付かされるとは、なんともおかしな話である。
 猫被りとはこいつのことを言うに違いない、義骸は初対面の印象の時よりも、ずっと今の天嘉の方が好ましい。
 人間は嫌いだ、だがこいつなら妥協してやってもいいかもしれない。なにせ、義骸が耳を傾ける程の雌なのだから。


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