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きいちの特権、俊君の愛情 2

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「ぅあーー!!」
「ちょっ、凪!!」

 ヒック、と泣いて癇癪を起こした凪が、まだ麦茶が入ったままのコップをテーブルの上に投げた。
 あれだけ食べたがっていたツナマヨおにぎりにもバシャリとかかり、プラスチックのコップはテーブルの上で跳ねるようにして床に落ちた。

「何やってんのお!」
「やああぁあーーーー!!」
「わ、っちょ危ないってば!」

 子供用の椅子の上で、身を逸らすようにして暴れる凪を慌てて抱き上げる。思い通りにならないことが原因で泣くと、凪は長い。小さい手足をバタバタさせるように腕の中で暴れるまま、僕の体から離れようと小さな手で押してくる。
 まだ感情のコントロールができないから、凪もどうしていいのかわからないんだってことは、頭では理解しているつもりだ。それでも、こうしてヤダヤダと暴れられると、僕の育児が間違ってるんじゃないのかと不安にもなってしまう。

「凪、凪君ダメだって、落ちたら危ないから」
「ひぅあーーちらいぃいーー!!」
「落ち着いてってば、ねえ、またげえしちゃうから!」
「うゃあぁあーーっ!!」

 大泣きして吐いたことがあるから、僕は泣き止ませようと必死だった。小さな背中をポンポンしながら、僕のカットソーを涎と鼻水と涙でべしょべしょにして泣く凪を前に、ままならなくて僕も少しだけ泣きそうだった。
 俊くんが学校から帰ってくるまでのワンオペ育児は、同じようなことの繰り返しだ。ひゃっくりが止まらない凪の小さな頭を撫でながら、僕は食べかけのおにぎりに麦茶が沁みていく様子を途方に暮れて眺めるしかできなかった。





 疲れたとか、しんどいとか思っちゃいけないんだ。せっかく僕たちの元に来てくれたんだ、ままならない育児を凪のせいにしたくはない。
 泣き腫らした可哀想な目元でぷうぷう寝息を立てる凪のお腹を撫でながら、僕は床に座ったままソファで眠る凪を見つめていた。背後には片付けなくてはいけない凪の癇癪の残骸がある。
 やりたいことをやらせてあげるのがいいと思っていたけど、失敗して泣く回数の方が多い。それを大袈裟に反応して落ち込むのが僕の悪い癖な気がして、凪が眠るたびに一人反省会が始まるのだ。
 ご飯つくんなきゃな、立ち上がって片付けなきゃいけないのに、何だか動く気にもなれない。俊くんにお弁当でも買ってきてもらう?と思ったけど、大学にも行かずにうちにいるだけの僕が家事をサボるのはいけない気がして、やっぱりそうめんだけでも茹でるかと思い直す。

「よいしょっと……あいててて……」

 俊君が大学の夏祭りがあることを僕に言わないのもわかる気がする。きっと、余裕がないのがバレてるんだろう。そんな後ろ向きな思考が頭をよぎって、ぶんぶんと思考を掻き消すように首を振った。

(ダメだなあ、本当に)

 ぽこんと膨らんだお腹をさする。凪の弟君がいるお腹は服越しでも目立つくらいになってきた。凪一人でもいっぱいいっぱいになっているのに、この子を産んでも手際が悪かったらどうしようだとか、また凪と勝手が違ったらどうしようとか、そんなことばっか考えてしまうのも嫌だった。
 凪の後片付けをしなくちゃ。そう思って台布巾片手にテーブルに手をつけば、麦茶と混ざり合ったご飯粒を目にして吐き気が込み上げてきた。

「ぅく、……っ……」

 慌てて口を抑える。落ち着いてきたと思っていた悪阻がぶり返してきて、心臓が嫌な音を立てた。時間が経ってぐちゃぐちゃになったそれを見たのがいけなかったらしい。そのうちそうめんの茹でる匂いまで記憶が呼び覚ましたせいで、僕はヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。

(ダメだ、俊君が帰ってくる前に片さないと)
「ぅ、~~っ……ぁーー……っ」
「……ま、待って」

 凪が寝ているうちに済ませようと思ったのに。泣き始めた凪に焦りが募る。どうしようどうしようと考えてるうちにじわじわ涙が出てきて、ゴシゴシと袖で拭った。
 背後でガチャンと音がした。あっと思った時にはもう遅くて、俊君の帰ってきた声がした。

「ただいま、また凪泣いてんのか?」
「お、おかえり!」
「……どうし、……」

 リビングのドアが開く音がして、しゃがみ込んだ僕を見下ろす俊君の視線を感じた。咄嗟に自分の脛に触れて撫でさすったのは、ぶつけてしゃがんだと思われればいいなと変な知恵が働いたからだ。

「ふぁーーあ、あぁあーーっ!!」
「ごめん俊君、まだ晩御飯できてないや!」
「いやいいけど、テーブルどうした」
「いやー、あはは……」

 凪を抱き上げた俊君の目の先はテーブルの惨状であった。凪がこぼしちゃって、と言いながら、なるべく見ないように台布巾で汚れを隠す。
 俊君が帰ってきたのに気がついたのか、ひっくとしゃっくりを上げながら目を覚ました凪がしがみつく。俊君の服をギュッと握る小さな手が、寂しさを表すようで少しだけ胸が痛くなった。

「おい、顔色悪くないか」
「え、そうかな」
「……風呂入ったら、髪早く乾かせって言ってるだろ。風邪引いたらどうすんだ」
「うん、ごめん」

 俊君の少しだけ不機嫌な声で気付かされた。そういえば凪を乾かした後すぐにあれこれしたから、僕はまだ髪も乾かせていなかったのだ。
 凪を片腕に抱いたまま、俊君がリビングから出ていった。どうしよう、怒ったのかもしれない。そんなことを思っても、早く片さなきゃと体が勝手に動いてしまう。
 唇が震える。やだなと思った時、僕の頭にはタオルが被せられた。
 これを取りに行くために出て行ったらしい。ありがとうって口にしようとして、僕の悪い癖が先行した。

「先乾かせ。片付けんの俺がやるから」
「や、いいよ。俊君大学で疲れてるし」

 やってしまった、と思った。時すでに遅しとはこのことを言うんだろう、僕の言葉に、俊君の眉間の皺はグッと寄った。

「いいから」
「本当にいいってば」
「きいち」

 怒ってる気がする。ありがとうが素直に出てこない僕が悪いんだってわかってるのに、ごめんなさいも出なかった。何だかよくわからないものが肺の内側を満たしていて、自分の素直な言葉が出てこない。
 頭ではわかってるのに。泣いた後の濡れた眼差しできょとんと僕を見つめる凪も、妙な空気を感じ取ってるみたいだった。

「……あのな、番いなんだから分担させろよ」
「だって」
「だってじゃねえ。早く髪乾かしてこい。凪も見とくから。優先順位考えろ、一人の体じゃないんだぞ」

 俊君の深いため息に、僕の体の温度はガクンと下がった。俯く僕に被せられたタオル。目の前にあったはずの俊君の足が離れていって、それが惨状を片付けるためだってわかってるのに涙が出てきた。
 優先順位って何だよ。ちゃんと考えて、頑張ってやってるんだよ。嗚咽を堪えるように、唇がくっついた。胸がしくしく痛んで、いろんな限界を迎えた僕の目がついに溶けてしまった。

「……っ……ぼ、僕、だっ……て、っ」
「……何」
「僕、だってっ……が、がんば、っ……ひ、っく……っ」
「え……あ、……」

 は、は、と情けない呼吸が弱音と共に吐き出される。頭が熱くなって、目の奥がジンジンして、一杯一杯になって、泣いた。
 狼狽える俊君が、早足で歩み寄るのを逃げるように背を向けたのは、この場にいたくなくてリビングから出ていこうと思ったからだ。
 それも、大きな手のひらに捕まえられるように手首を握られてしまって叶わなかったが。

「何、泣いて……や、違う。すまん、きいち」
「いい、ぼ、僕かみかわ、かしてくる……から、っ」
「お、俺が乾かしてやるから。な、すまん、ちょっと話そう。こっちむけ」
「ゆ、ゆうせん、じゅんいって、いった……っ」
「言い方が強かった。ごめん、ほんとに」

 凪を抱いているから、片腕だけ。お腹に回った腕の拘束はいつもよりも拒みやすいのに動けなくなってしまった。タオルで顔を覆うように俯いたまま、止まらない涙に僕も参っていた。
 俊君の唇が後頭部に触れて、ごめんとくぐもった声が聞こえる。それが余計に涙を誘うから、もう謝らないでほしかった。

「あやまんな、なく……から、っ」
「ええ……」
「あ、あっちいけ、って」
「こっちきて」
「ひぅ、う~~……っ……」

 ふらふらする僕の肩を抱くように、ソファへ連れてかれた。重し代わりのように凪を僕に抱かせた俊君は、バタバタと浴室に消えて行ったかと思うとドライヤー片手に戻ってくる。
 タオルの隙間からその様子を見ていた僕に、むかつくくらいかっこいい顔で苦笑いを向けるから余計に腹が立ってきた。この気持ちが理不尽なことなんて、とうに自覚ずみだ。
 
「さっきも言ったけど、強く言いすぎた。ごめん」
「俊君は、悪くない、もん」
「ん、許してくれてありがとな。キスしていか」
「い、今ぜったいぶさいくだからやだ……っ……ふ、……っ」

 嫌だって言ったのに唇を掠め取られた。人の話を聞かない俊君にむすりとすると、頭にかけられたタオルを引き寄せるようにしてもう一度唇が重なる。
 啄む程度の軽いそれが、少しずつ僕の呼吸をしやすくしてくれる。番いのキスにそんな効果があるなんて、僕は知らなかった。

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