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ブルースター8
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「結局示談になったのか。」
「それでも書類送検の上不起訴処分だけどな。」
「学は結局許しちゃったんだ?」
「だってママが前科ついたら可哀想だろ。」
親はどうであれ腹の子の心配をする学を、末永はなんとも言えない顔で見つめた。
あの後帰宅後に末永は使用人の格好をした母親につまみ上げられて中庭まで連行された。もちろん入り口で買ってきた塩を執事ごと浴びる羽目になったが、母に悪気は無い。
中庭で呑気に母の手製のサンドイッチをつまむ親父は、あたらしく取引先として契約をした若手の花卉栽培農家の静元という男を目の前に優雅に午後のひとときを過ごしていた。静元は親父と学、背後を母に挟まれながらガチガチに緊張しながらお茶を飲んでいたが、親父いわく親睦会とのことだった。もう3日も前の話だが。
「あれからバイト先に静元さんが来るたびに学さんから学様になってよ。まじで勘弁してほしいわ。」
「でも間違いじゃないよね?だってついに籍入れたんでしょ?」
「…まーな。」
籍を入れた今日、市役所帰りに報告もかねてご迷惑おかけしましたと律儀に菓子折りを持って末永と学は桑原家に顔を出していた。じわりと顔を赤らめた学の左手薬指には金のペアリングが嵌められていた。末永とおそろいのそれは、リングの内側にシークレットストーンが嵌め込まれており、その石は青く輝くサファイアだ。
末永と共に帰宅した翌日、目を覚ました左手薬指に嵌め込まれたその指輪をみてベッドから転がり落ちそうになったのは記憶に新しい。
石の色は特に意味はないと本人は語っていたが、一途な思いを貫くという意味を持つ石を選んだ末永の純真無垢な学への愛を語るに余りある石だった。
「頑張れよ若奥様。」
「うっせー!っ、ぅえ、きもちわる。」
俊くんときいちにからかわれながら、けっと不貞腐れる。学はそのまま照れ隠しに文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、胸の気持ち悪さにそれを邪魔された。
「おいおい、まじで病院行ったほうがいいんじゃねえのか。」
「学、無理だけはしてくれるなよ。」
「だーっ!もう、そんなんじゃねえから!」
心配そうな末永に照れくさそうにしながらブンブンと手を振る。きいちが怪訝そうな顔でじいっと見つめていると、ゆっくりと学が目を逸らした。
「学、もしかしてさぁ。」
「あんだよ。」
「おいこっちみろってば。おーい?」
「今それどころじゃねーもん。」
ぐいっと顔を近づけると余計に顔をそらす。末永も俊くんも頭に疑問符を浮かべては二人の様子を見守っている。
くんくんと学の首元に鼻先を擦り寄せると、くすぐったかったのか肩を捩って逃げる。はっとしたかおをしたきいちががしりと肩を掴むと、目をキラキラさせながら口を開いた。
「まさかっ、にんっ」
「うわああああ!!!」
「んぶっ!」
きいちの言葉を遮るように手で塞ぐ。もごもご何かを言っているきいちは、学を見つめると視線だけで語るように、わかりやすくにこにこしていた。まるで自分のことのように嬉しいといった顔だ。
「ふわぁ、まなちゃんきたぁ…」
お昼寝から目が冷めたのか、リビングのカーペットでブランケットにくるまり爆睡していた凪がふらふらと姿を表した。そのまま小さい体で学の足に抱きつくと、「だっこぉ!」とせがむ。
「お、お目覚め?いーぜぇ。おいで。」
「んひ、まなちゃんげんき?」
「元気元気。」
学に抱っこされて嬉しそうにする凪が今日も可愛い。学はふくふくとした頬に触れて挨拶すると、凪がにこにこしながら言う。
「まなちゃんも、まま?」
「うん?」
凪の言葉に首を傾げる。ままなら眼の前にいるからだ。学はきいちに凪を返すと、凪はきいちに抱きついたまま学のお腹を指さした。
「まなちゃんも、ままぁ!」
「えっ、」
「え。」
きいちと学がご機嫌な凪の声に揃って声をだす。俊くんも末永も微笑ましい目で見ているが、指摘された学としては大いに動揺した。だって学は、このことを誰にも言ってはいなかったのだ。
「学はまだママじゃないぞ、これからママになるんだ。」
可愛い凪の声に優しく微笑んだ末永が学の腰を抱く。何も知らない末永の様子に、きいちは鈍感すぎにも程があると呆れたような目を向けた。
学は腰を撫でられながら、内心は大慌てた。今更ながらなんて切り出したらいいかわからない。
実はと言うにはあまりにも時間が経ちすぎていた。
あの事件の日に、本当は言おうと思っていたのに。
「あ。」
ぽろりと、学の声が落ちた。なにか思い至ったと言わんばかりのその声に、きいちをはじめ全員が学を見上げた。
みんなの視線を受けた学は、真顔の状態からみるみる顔を青ざめさせる。
そうだ、俺は頭ぶつけて転んだんだ。
震える手を口元に添えると、腹の子のことが不安になる。体の不調で行った病院で妊娠がわかったその日に無理をしないでと言われたばかりだったのに。
「おい、どうした。」
「き、きいち…お、おれ…」
「…うん、わかった。」
末永と俊くんは取り乱す学をみて声をかけようとしたのだが、それよりも先にきいちが動いた。学が隠しているならきいちも言わない。学の手を引いて番たちにそこにいろと命じると、そのまま自室に入った。
「ど、どうしよ…お、おれ、転んでた…!」
「うん、今すぐ僕と病院に行こう。末永くんにはまだ言いたくないんでしょ?」
「あの日言うつもりだったんだ、だ、だけどもし、」
「大丈夫。大丈夫だから、保険証もってるよね?準備してくるからちょっと座って待ってて。」
青ざめる学をベッドに腰掛けさせると、いつも使っているサコッシュに財布と車の鍵をいれた。スマホ片手にリビングに戻ると、きいちの姿をみて立ち上がった末永を指さして言った。
「何も聞かずについてくるって約束して。俊くん車出してくれる?学病院につれてく。」
「わかった。まわしてくる。」
「学は大丈夫なのか、」
「それを今から確かめに行くんだよ。」
車を準備しに行った俊くんの後ろ姿を見送ると、学を呼んで凪と四人で下に降りる。真っ青な顔の学の手を握りながら、末永は何がなんだかわからないまま横付けされた車に乗り込んだ。
何も聞くなと言われた。そのまま末永は俊くんの運転する車で病院に付き添うと、きいちはあろうことが車で待ってろと言う。
せめて病院の中までと渋ったが、かたくなにだめと言われればむっとした。
「おい、なぜ番の俺がついていけない!」
「何も聞かずに。そういったよな?時間ないんだから大人しく待ってろよ。」
怒りをあらわにした末永をみて、学が表情を歪める。きいちの言葉にぐっと詰まると、悔しそうに顔を背けた。ちらりとみた学の顔は今にも泣きそうだった。何がなんだかわからない。一体学に何が起きているというのだ。
結局末永の願いは届かずに二人は病院の中に消えていった。
あれから一時間。ついに痺れをきらした末永が、こめかみに血管を浮かせて車から出た。俊くんは3回ほど止めたが聞く耳を持たなかった為、肩を怒らせて病院の扉をくぐっていった末永の様子をきいちにメッセージとして飛ばす。
止められなくてすまんと送ると、もう平気ときたので安心する。どうやら無事だったらしい。
「…待ってりゃいいのに。」
きいちにキレられる様子がありありと目に浮かぶ。
俊くんは深く深くため息を吐くと、後を追いかけるために車を出た。
「うっっっっわ。」
心底めんどくさいといった顔で、声が出る。
きいちは泣き止んだ学と手を繋ぎながらエントランスから出るところだった。
出入り口の自動ドアがスライドした瞬間、開き切る前に乱暴に侵入した末永は、明らかに怒りを宿している。
ずんずんと効果音すらも聞こえて来そうな足並みで
大股で近づくと、泣き顔の学を目の前にして我慢していたものか外れた。
「おい、なんで学は泣いている!?」
「あーあー、まってろっつったのに…」
「よ、ようへ…っ、」
「なにに悲しんでいる!俺に隠すのは何故だ、俺達は夫婦だろう!?」
末永は学の手を握るとぐっと引き寄せた。今すぐにでもきいちの側から離したかったのだ。
俺のものを泣かせて、勝手に触れて、俺の知らないことを知っている。そんなきいちに対する嫉妬がそうさせた。引き寄せた弾みでたたらを踏んだ学をみたきいちが目を見開くと、キレたように言った。
「おい!身重なんだぞ!!丁重に扱え馬鹿!!」
「お前、何を言って…!!」
弾みと末永の態度への怒りに任せて思わず口をついて出てしまった。末永は怒り顔のまま言い返すために開いた口を間抜けに開き、みたこともない顔をしながら硬直した。
「き、きいち…」
「あ、やべ。ちょっとタイムぅ!!」
きいちは慌てて口を抑えると、顔を赤らめ恨めしそうに睨む学にジェスチャーで謝る。まじですまん。そんなつもりはなかったと。
「みおも…」
「…2ヶ月」
「にかげつ…」
間抜け面を晒しながら、何度もまばたきを繰り返し、ゆるゆると学を抱きしめた末永は、そのまま頭をひと撫ですると、ぽかんとしたままきいちをみた。
「まじ、でか。」
「いや僕に聞かないで学に聞けよ。」
後ろから凪を肩車した俊くんが呑気に歩いてくる。
学がこんなところで抱きつくなと言わんばかりにもぞもぞと見を動かしてスポンと末永の腕から体を抜いた。
「言った?」
「うん。まあ、あんな感じになっちゃったけど。」
末永はというと、きいちと俊くんに指摘された通り衝撃が大きすぎたのか学が抜け出した後もしばらくはその内容を飲み込むために時間をかけたのだが、ヒュッと深く息を吸い飲む音と共に、見る見る顔を赤くしていく末永の様子を見た学たち四人は、凪による「タコしゃん!」という可愛い指摘を受け、そろってこらえていたものが込み上げて吹き出すように笑った。
「な、な、な、なんでもっと早く言わない!!」
「うわうるさ!」
「病院だからさっさと場所かえんぞ。」
きいちの声で状況を把握したのか、俊くんに促されるように背中を押されて慌てて病院を後にした。再びの車内、きいちは空気を読んで後部座席に末永と学に譲ると、俊くんに「大人しくしとけ。」と言われたので凪と二人でお口にばってんの仕草で大人しくした。
「あの日、言うつもりだったんだよ…」
「…襲われた日か。」
「転んだからみてもらったけど、腹が出てなかったから大丈夫だって…」
そっと腹部を撫でて言う学は、もし自分のせいでこの子が駄目になってしまったらどうしよう。そう思ったのだ。一人だったら何をどう判断していいかわからない。きいちがいたことで適切に動くことができた事に、感謝してもしきれなかった。
「俺は、」
「ん?」
学の腹を撫でる手をそっとすくい上げる。包むようにして握りしめた手は小さい。
「俺は、お前にブルースターの花束を頼んだ。」
「え、あれお前だったの?」
「…サムシングフォーのひとつだろう。」
じわりと目元を染めながらそんなことを言った。末永は、あの日学に言いたいことがあった。それは在学中ではあるが、次期当主として漸く父から認められたという事だ。
それを、あの日の学のバイト帰りに告げてからプロポーズをするつもりだったのだ。
「だ、って、卒業後つってたろ…」
「そうだ。まあ、俺が我慢できなかった。」
「馬鹿じゃん…」
そう言う学は目に涙を溜めていた。
サムシングフォー、それは幸せな結婚には欠かせないおまじないのようなものだ。それを末永が知っているとは思えない。プロポーズすると決めてから調べていくうちに知ったのだろう。
それが容易に予想できて、学がそれだけ想ってくれていただけでもう充分だった。
「なんもいらね、てかプロポーズする相手に花束作らせんなよ。」
「学がその仕事を任されるまでになっていたとは知らなかったんだ…」
「おいこら。」
むっとした顔の学に、末永の声が尻すぼみになる。
周りには完璧と思われることも多いが、学の前だとすっとぼけたことをたまにする。
しばらく見つめ合ったあと、小さく笑う。
末永の手が優しく頬に触れ、そっと唇を重ねようとしたとき。
「まだぁ?」
「凪、いい子だからもう少し我慢しなさい。」
「なぎおなかすいたよぅ。」
そういえばここは車内だったか。
触れそうになった唇をそろそろと離して二人して顔を真っ赤に染め上げた。
凪の可愛い声で早くしろと急かされる。
なんだかこれが面白くて、バツが悪そうな末永のそむけた顔を無理やり向けるとちゅっと唇に吸い付いた。
「おおっ、」
「ちゅーした!」
「見せもんじゃねーぞ。」
まさか人前でキスをしてくると思わなかったのか、末永が呆気にとられる。きいちと俊くんにばっちりキスシーンは見られたし、なんなら凪にも言われた。
学は特にこだわりはない。フルーツタルトに緑茶でも、文句はない。
籍は入れたが言葉はまだだ。順序が逆になり過ぎだが、それだけ末永が我慢できなかったのだと分かると愛しさのほうが勝った。
学だって男だ。自分から言っても良かったのだが、今回ばかりは末永の声できちんと聞かせてほしい。
「リベンジさせてやっから、今すぐお前の声でその言葉がほしい。」
「こ、ここでか!?」
「カッコつけられるほど甲斐性ねーだろ。」
「まさかお前にまでそんなことを言われるとは…」
似たようなことをきいちにも言われていた。外野が固唾を呑んで見守る中、末永はついに腹を決めた。
「俺と結婚してください。」
「おうよ。」
学のその一言は、番の末永よりも最高に決まっていた。
なにか古いもの
なにか新しいもの
なにか借りたもの
なにか青いもの
サムシングフォーの締めくくりにブルースターの花束を選んだ末永は、結局それも花嫁に作らせてしまうという誤算をしたが、それでも末永の気持ちは花言葉と共に学はきちんと受け取った。
リベンジは必ずすると意気込みを適当に受け流した学は、そんなもんよりもっと大切なものが出来ただろうと、それはもう綺麗に微笑んだ。
「それでも書類送検の上不起訴処分だけどな。」
「学は結局許しちゃったんだ?」
「だってママが前科ついたら可哀想だろ。」
親はどうであれ腹の子の心配をする学を、末永はなんとも言えない顔で見つめた。
あの後帰宅後に末永は使用人の格好をした母親につまみ上げられて中庭まで連行された。もちろん入り口で買ってきた塩を執事ごと浴びる羽目になったが、母に悪気は無い。
中庭で呑気に母の手製のサンドイッチをつまむ親父は、あたらしく取引先として契約をした若手の花卉栽培農家の静元という男を目の前に優雅に午後のひとときを過ごしていた。静元は親父と学、背後を母に挟まれながらガチガチに緊張しながらお茶を飲んでいたが、親父いわく親睦会とのことだった。もう3日も前の話だが。
「あれからバイト先に静元さんが来るたびに学さんから学様になってよ。まじで勘弁してほしいわ。」
「でも間違いじゃないよね?だってついに籍入れたんでしょ?」
「…まーな。」
籍を入れた今日、市役所帰りに報告もかねてご迷惑おかけしましたと律儀に菓子折りを持って末永と学は桑原家に顔を出していた。じわりと顔を赤らめた学の左手薬指には金のペアリングが嵌められていた。末永とおそろいのそれは、リングの内側にシークレットストーンが嵌め込まれており、その石は青く輝くサファイアだ。
末永と共に帰宅した翌日、目を覚ました左手薬指に嵌め込まれたその指輪をみてベッドから転がり落ちそうになったのは記憶に新しい。
石の色は特に意味はないと本人は語っていたが、一途な思いを貫くという意味を持つ石を選んだ末永の純真無垢な学への愛を語るに余りある石だった。
「頑張れよ若奥様。」
「うっせー!っ、ぅえ、きもちわる。」
俊くんときいちにからかわれながら、けっと不貞腐れる。学はそのまま照れ隠しに文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、胸の気持ち悪さにそれを邪魔された。
「おいおい、まじで病院行ったほうがいいんじゃねえのか。」
「学、無理だけはしてくれるなよ。」
「だーっ!もう、そんなんじゃねえから!」
心配そうな末永に照れくさそうにしながらブンブンと手を振る。きいちが怪訝そうな顔でじいっと見つめていると、ゆっくりと学が目を逸らした。
「学、もしかしてさぁ。」
「あんだよ。」
「おいこっちみろってば。おーい?」
「今それどころじゃねーもん。」
ぐいっと顔を近づけると余計に顔をそらす。末永も俊くんも頭に疑問符を浮かべては二人の様子を見守っている。
くんくんと学の首元に鼻先を擦り寄せると、くすぐったかったのか肩を捩って逃げる。はっとしたかおをしたきいちががしりと肩を掴むと、目をキラキラさせながら口を開いた。
「まさかっ、にんっ」
「うわああああ!!!」
「んぶっ!」
きいちの言葉を遮るように手で塞ぐ。もごもご何かを言っているきいちは、学を見つめると視線だけで語るように、わかりやすくにこにこしていた。まるで自分のことのように嬉しいといった顔だ。
「ふわぁ、まなちゃんきたぁ…」
お昼寝から目が冷めたのか、リビングのカーペットでブランケットにくるまり爆睡していた凪がふらふらと姿を表した。そのまま小さい体で学の足に抱きつくと、「だっこぉ!」とせがむ。
「お、お目覚め?いーぜぇ。おいで。」
「んひ、まなちゃんげんき?」
「元気元気。」
学に抱っこされて嬉しそうにする凪が今日も可愛い。学はふくふくとした頬に触れて挨拶すると、凪がにこにこしながら言う。
「まなちゃんも、まま?」
「うん?」
凪の言葉に首を傾げる。ままなら眼の前にいるからだ。学はきいちに凪を返すと、凪はきいちに抱きついたまま学のお腹を指さした。
「まなちゃんも、ままぁ!」
「えっ、」
「え。」
きいちと学がご機嫌な凪の声に揃って声をだす。俊くんも末永も微笑ましい目で見ているが、指摘された学としては大いに動揺した。だって学は、このことを誰にも言ってはいなかったのだ。
「学はまだママじゃないぞ、これからママになるんだ。」
可愛い凪の声に優しく微笑んだ末永が学の腰を抱く。何も知らない末永の様子に、きいちは鈍感すぎにも程があると呆れたような目を向けた。
学は腰を撫でられながら、内心は大慌てた。今更ながらなんて切り出したらいいかわからない。
実はと言うにはあまりにも時間が経ちすぎていた。
あの事件の日に、本当は言おうと思っていたのに。
「あ。」
ぽろりと、学の声が落ちた。なにか思い至ったと言わんばかりのその声に、きいちをはじめ全員が学を見上げた。
みんなの視線を受けた学は、真顔の状態からみるみる顔を青ざめさせる。
そうだ、俺は頭ぶつけて転んだんだ。
震える手を口元に添えると、腹の子のことが不安になる。体の不調で行った病院で妊娠がわかったその日に無理をしないでと言われたばかりだったのに。
「おい、どうした。」
「き、きいち…お、おれ…」
「…うん、わかった。」
末永と俊くんは取り乱す学をみて声をかけようとしたのだが、それよりも先にきいちが動いた。学が隠しているならきいちも言わない。学の手を引いて番たちにそこにいろと命じると、そのまま自室に入った。
「ど、どうしよ…お、おれ、転んでた…!」
「うん、今すぐ僕と病院に行こう。末永くんにはまだ言いたくないんでしょ?」
「あの日言うつもりだったんだ、だ、だけどもし、」
「大丈夫。大丈夫だから、保険証もってるよね?準備してくるからちょっと座って待ってて。」
青ざめる学をベッドに腰掛けさせると、いつも使っているサコッシュに財布と車の鍵をいれた。スマホ片手にリビングに戻ると、きいちの姿をみて立ち上がった末永を指さして言った。
「何も聞かずについてくるって約束して。俊くん車出してくれる?学病院につれてく。」
「わかった。まわしてくる。」
「学は大丈夫なのか、」
「それを今から確かめに行くんだよ。」
車を準備しに行った俊くんの後ろ姿を見送ると、学を呼んで凪と四人で下に降りる。真っ青な顔の学の手を握りながら、末永は何がなんだかわからないまま横付けされた車に乗り込んだ。
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せめて病院の中までと渋ったが、かたくなにだめと言われればむっとした。
「おい、なぜ番の俺がついていけない!」
「何も聞かずに。そういったよな?時間ないんだから大人しく待ってろよ。」
怒りをあらわにした末永をみて、学が表情を歪める。きいちの言葉にぐっと詰まると、悔しそうに顔を背けた。ちらりとみた学の顔は今にも泣きそうだった。何がなんだかわからない。一体学に何が起きているというのだ。
結局末永の願いは届かずに二人は病院の中に消えていった。
あれから一時間。ついに痺れをきらした末永が、こめかみに血管を浮かせて車から出た。俊くんは3回ほど止めたが聞く耳を持たなかった為、肩を怒らせて病院の扉をくぐっていった末永の様子をきいちにメッセージとして飛ばす。
止められなくてすまんと送ると、もう平気ときたので安心する。どうやら無事だったらしい。
「…待ってりゃいいのに。」
きいちにキレられる様子がありありと目に浮かぶ。
俊くんは深く深くため息を吐くと、後を追いかけるために車を出た。
「うっっっっわ。」
心底めんどくさいといった顔で、声が出る。
きいちは泣き止んだ学と手を繋ぎながらエントランスから出るところだった。
出入り口の自動ドアがスライドした瞬間、開き切る前に乱暴に侵入した末永は、明らかに怒りを宿している。
ずんずんと効果音すらも聞こえて来そうな足並みで
大股で近づくと、泣き顔の学を目の前にして我慢していたものか外れた。
「おい、なんで学は泣いている!?」
「あーあー、まってろっつったのに…」
「よ、ようへ…っ、」
「なにに悲しんでいる!俺に隠すのは何故だ、俺達は夫婦だろう!?」
末永は学の手を握るとぐっと引き寄せた。今すぐにでもきいちの側から離したかったのだ。
俺のものを泣かせて、勝手に触れて、俺の知らないことを知っている。そんなきいちに対する嫉妬がそうさせた。引き寄せた弾みでたたらを踏んだ学をみたきいちが目を見開くと、キレたように言った。
「おい!身重なんだぞ!!丁重に扱え馬鹿!!」
「お前、何を言って…!!」
弾みと末永の態度への怒りに任せて思わず口をついて出てしまった。末永は怒り顔のまま言い返すために開いた口を間抜けに開き、みたこともない顔をしながら硬直した。
「き、きいち…」
「あ、やべ。ちょっとタイムぅ!!」
きいちは慌てて口を抑えると、顔を赤らめ恨めしそうに睨む学にジェスチャーで謝る。まじですまん。そんなつもりはなかったと。
「みおも…」
「…2ヶ月」
「にかげつ…」
間抜け面を晒しながら、何度もまばたきを繰り返し、ゆるゆると学を抱きしめた末永は、そのまま頭をひと撫ですると、ぽかんとしたままきいちをみた。
「まじ、でか。」
「いや僕に聞かないで学に聞けよ。」
後ろから凪を肩車した俊くんが呑気に歩いてくる。
学がこんなところで抱きつくなと言わんばかりにもぞもぞと見を動かしてスポンと末永の腕から体を抜いた。
「言った?」
「うん。まあ、あんな感じになっちゃったけど。」
末永はというと、きいちと俊くんに指摘された通り衝撃が大きすぎたのか学が抜け出した後もしばらくはその内容を飲み込むために時間をかけたのだが、ヒュッと深く息を吸い飲む音と共に、見る見る顔を赤くしていく末永の様子を見た学たち四人は、凪による「タコしゃん!」という可愛い指摘を受け、そろってこらえていたものが込み上げて吹き出すように笑った。
「な、な、な、なんでもっと早く言わない!!」
「うわうるさ!」
「病院だからさっさと場所かえんぞ。」
きいちの声で状況を把握したのか、俊くんに促されるように背中を押されて慌てて病院を後にした。再びの車内、きいちは空気を読んで後部座席に末永と学に譲ると、俊くんに「大人しくしとけ。」と言われたので凪と二人でお口にばってんの仕草で大人しくした。
「あの日、言うつもりだったんだよ…」
「…襲われた日か。」
「転んだからみてもらったけど、腹が出てなかったから大丈夫だって…」
そっと腹部を撫でて言う学は、もし自分のせいでこの子が駄目になってしまったらどうしよう。そう思ったのだ。一人だったら何をどう判断していいかわからない。きいちがいたことで適切に動くことができた事に、感謝してもしきれなかった。
「俺は、」
「ん?」
学の腹を撫でる手をそっとすくい上げる。包むようにして握りしめた手は小さい。
「俺は、お前にブルースターの花束を頼んだ。」
「え、あれお前だったの?」
「…サムシングフォーのひとつだろう。」
じわりと目元を染めながらそんなことを言った。末永は、あの日学に言いたいことがあった。それは在学中ではあるが、次期当主として漸く父から認められたという事だ。
それを、あの日の学のバイト帰りに告げてからプロポーズをするつもりだったのだ。
「だ、って、卒業後つってたろ…」
「そうだ。まあ、俺が我慢できなかった。」
「馬鹿じゃん…」
そう言う学は目に涙を溜めていた。
サムシングフォー、それは幸せな結婚には欠かせないおまじないのようなものだ。それを末永が知っているとは思えない。プロポーズすると決めてから調べていくうちに知ったのだろう。
それが容易に予想できて、学がそれだけ想ってくれていただけでもう充分だった。
「なんもいらね、てかプロポーズする相手に花束作らせんなよ。」
「学がその仕事を任されるまでになっていたとは知らなかったんだ…」
「おいこら。」
むっとした顔の学に、末永の声が尻すぼみになる。
周りには完璧と思われることも多いが、学の前だとすっとぼけたことをたまにする。
しばらく見つめ合ったあと、小さく笑う。
末永の手が優しく頬に触れ、そっと唇を重ねようとしたとき。
「まだぁ?」
「凪、いい子だからもう少し我慢しなさい。」
「なぎおなかすいたよぅ。」
そういえばここは車内だったか。
触れそうになった唇をそろそろと離して二人して顔を真っ赤に染め上げた。
凪の可愛い声で早くしろと急かされる。
なんだかこれが面白くて、バツが悪そうな末永のそむけた顔を無理やり向けるとちゅっと唇に吸い付いた。
「おおっ、」
「ちゅーした!」
「見せもんじゃねーぞ。」
まさか人前でキスをしてくると思わなかったのか、末永が呆気にとられる。きいちと俊くんにばっちりキスシーンは見られたし、なんなら凪にも言われた。
学は特にこだわりはない。フルーツタルトに緑茶でも、文句はない。
籍は入れたが言葉はまだだ。順序が逆になり過ぎだが、それだけ末永が我慢できなかったのだと分かると愛しさのほうが勝った。
学だって男だ。自分から言っても良かったのだが、今回ばかりは末永の声できちんと聞かせてほしい。
「リベンジさせてやっから、今すぐお前の声でその言葉がほしい。」
「こ、ここでか!?」
「カッコつけられるほど甲斐性ねーだろ。」
「まさかお前にまでそんなことを言われるとは…」
似たようなことをきいちにも言われていた。外野が固唾を呑んで見守る中、末永はついに腹を決めた。
「俺と結婚してください。」
「おうよ。」
学のその一言は、番の末永よりも最高に決まっていた。
なにか古いもの
なにか新しいもの
なにか借りたもの
なにか青いもの
サムシングフォーの締めくくりにブルースターの花束を選んだ末永は、結局それも花嫁に作らせてしまうという誤算をしたが、それでも末永の気持ちは花言葉と共に学はきちんと受け取った。
リベンジは必ずすると意気込みを適当に受け流した学は、そんなもんよりもっと大切なものが出来ただろうと、それはもう綺麗に微笑んだ。
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