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二章 百貨店にくる顧客に情緒をかき乱される俺の話なんだけど。(大林梓編)

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 大林にとっての榊原の家の浴室というのは、互いの唇の柔らかさを確認した場所でもあり、自然と体が熱を帯びてしまう場所でもあった。しかし、それも今日で塗り変わってしまった。
 汚れた己を厭わずに触れてくれた榊原の手のひらは、ただ労わりだけを宿していた。吐いて、薬の効果も薄れてきてはいたが、不本意な熱を持て余す体を無理強いするでもなく、ただ丁寧に洗い清めてくれた。
 今は、タオルに包まれたまま寝室のベットの上、濡れた髪を乾かされた大林は、泣いたせいで熱を持った思考に苛まれたまま、呆けたように榊原がリビングから戻ってくるのを待っていた。

「俺、何回迷惑をかけちまうんだろう。」

 ぽしょ、と呟いた声に返事はない。それでも、構わなかった。これを榊原の前で口にする勇気はまだない。
 そんなことを思っていれば、寝室の外からホットミルクの甘い香りが漂ってきた。ゴトン、と寝室の引き戸が一度揺れた。ガタガタと鈍い音を立てながら、立て付けの悪い扉かのように横にスライドをする。どうやら両手が塞がった榊原が、行儀悪く足で開けたらしい。二人分のホットミルクを手に持ったまま、慎重な様子で入室してくる姿をポカンと見つめる。

「ただいま、ホットミルク作ってきた。まあ、ネット見ながらだけど、味は悪くないと思う。」
「…ネット見て作るやつ初めて見た。」
「案外俺以外にもいるかもしれないよ。」

 眠たげな声にも聞こえる大林の声に、榊原は小さく笑った。長いコンパスであっという間にベットの横まで歩みを進めると、サイドテーブルに自分の分のホットミルクを置く。
 キシリとベットが軋む音がした。隣に座った榊原の体温が近くて、なんだかそわりとしてしまう。そんな、いつもとは明らかに違う大林の様子に気がつくと、榊原は入れてきたホットミルクをそっと手渡した。

「おかえり。」
「あ…、」

 差し出されたホットミルクを受け取ると同時に、紡がれた四文字。柔らかに微笑む榊原を前に、大林は小さく唇をつぐむ。暖かいホットミルクを口元に運ぶと、ようやく己がここに戻ってこれたのだと理解して、再び目の奥が熱くなった。
 口の中に、甘いミルクの味がじんわりと広がった。ホッとする暖かさは、大林の緊張をわずかに解す。

「ご、ごめん、なさい、」
「…それは、嘘をついていたことかな。」

 榊原の言葉に、大林のマグカップを持つ手に力が入る。そうだ、榊原に嘘をついた。大林は、自分で自分の首を絞めたのだ。己の過去を清算しようと奔走していたはずが、気が付けば随分と見栄えが悪い体になってしまった。見られたくなかった痣も、風呂場で洗われている時に、全て曝け出されてしまったのだ。

「…体の痣も、あいつが?」
「ち、違う、」

 話さなくちゃいけない。榊原から言わせてはだめだ。己の不意末で心配をかけてしまったのなら、自分の口から説明をしなくてはいけない。
 受け取ったホットミルクを、そっとサイドテーブルに置く。榊原の手のひらが、そっと大林の首元に触れた。親指で擦るようにして擽られたのは、この体につけられた他人の所有印。

「お、俺、俺は、っ」

 俺は、榊原さんに見合う体になりたかった。そう言おうとして、口を閉ざす。だから、なんだというのだ。己の行為が自己満だっただなんて、そんなもの等に理解している。一体、何を説明すればいいんだ。榊原の隣に立ちたかった、体に触れて欲しかった。正直にそう言って、重荷に感じさせたらどうするというのだ。
 
「俺、は…」

 新庄の言う通りだ。過去は清算しきれない。頭が悪いなりに、どうやって過去の自分と決別するかを考えた結果の奔走で、榊原には醜態を晒す羽目になってしまったのだ。
 榊原に幻滅をされたらと思うと、途端に怖くなってしまった。それ以上、口を開けば言い訳ばかりが出てきそうでダメだった。
 不自然に言葉を区切り、黙りこくってしまった姿を、榊原は黙って見つめていた。

「聞かせて、って言いたいけど。…言いたくないのなら無理強いはしない。」
「あ、」
「でも、それが俺に対する遠慮とかなら、それは違うからな。」

 榊原の瞳が、真っ直ぐに大林に向けられた。力強い眼差しで見つめられ、戸惑ったように瞳を揺らした大林は、言葉を詰まらせたまま、ゆるゆると首を振った。もう、一杯一杯になってしまったのだ。
 言うのは怖い、だけど、あの現場を見られて何もありませんでしたが通用するわけないのも、十分に理解していた。
 首筋に触れていた榊原の手のひらに、そっと自分の手を添えた。指を絡めるようにして握り込むと、その手を両手で包み込む。声が掠れそうだ。胸が詰まって、うまく言えないかもしれない。それでも、大林は、このまま関係が変わってしまう方が怖かった。
 下手くそでもいい、うまく伝えられなくてもいい、今は、素直になることが誠意だと、込み上げる胸の内をゆっくりと吐き出す。

「お、俺、綺麗に、なりたかった、」

 言葉尻を引きずるようにして、小さく呟いた。我ながら酷い声だと思う。それでも、口をついて出た言葉は遮られることもなく、榊原は黙って話を聞いてくれた。

「あ、あんたに見合う、男に、なりたくて、っ…」
「それは、」
「う、売り、も…や、やめたかっ、た…」
「…、うん、」

 ヒック、と喉を震わせて、大林の掠れた声で紡がれた言葉が、静かな室内に溶ける。榊原は深呼吸を一つして、何かを堪えるかのように飲み込んだ。
 大林によって握られた手のひらが、ゆっくりと持ち上げられる。祈るようにその手の甲に額をくっつけると、悔いるかのように言葉を続けた。

 榊原に嘘をついて得た三日間は、己の過去を清算する為に使ったこと。体を売って得た金は、わかる人にだけ返しに行った。独りよがりなその発想によって、愚かにも相手を激昂させて、体に痣を作ってしまったこと。そして、結局自分は変わることができずにこの場にいると言う事。

 大林が拙く告白をしている間中、榊原はずっと黙りこくったままだった。ただ、その表情はどんどんと曇っていき、最後には俯いてしまった。
 ああ、嫌われたのだろうなと思った。大林は、全てを告白をした最後に、榊原の手を離そうとした。いつまでもこのまま体温を感じていれば、また名残惜しくなってしまう。だから、身を引くためにその手を離そうとすれば、強く握りしめられて、腕を引かれた。

「馬鹿じゃねえの。」
「う、っ」

 頬に手を添えられて、目線を合わされる。普段は穏やかな榊原の粗野な声色に小さく息を呑むと、榊原の額が大林の額と重なった。

「なんで、俺なんかのためにそんなことすんだよ…」
「だ、だって、俺は、」
「お前が、誰に抱かれてたって関係ないよ。俺はそんなに狭量な男に見えた?」
「でも、」
「俺は、…」

 俺は、お前が何も言わないのが、一番嫌だ。

 そう言って、腹のうちで燻る苛立ちを吐き出すように宣った。嫌だ、の一言に泣きそうな顔をする。そんな大林の様子に、堪えきれずに唇を重ねた。一呼吸も奪うかのような、そんなキスだ。
 榊原の唇が触れて、大林の呼吸が止まった。無骨な手のひらが、指通りの良い黒髪をかき分けるかのように差し込まれた。
 体の距離が近くなる。榊原によって頭を支えられたまま、舌を絡ませない戯れのような口付けだ。それでも、顔の角度を変え、髪を撫でられ、唇の柔らかさを確かめるかのような長い口付け。
 唇が離れ、わずかに水音がたつ。鼻先が触れあい、頬をくすぐられるようにして撫でられた。

「…あいつに唇は許した?」
「し、た、」
「なら、もう俺で最後だな。」
「ふ、…ぅ、っ…」

 少しだけ不機嫌な、それでも、優しくしたいと思っているような声色で、榊原はそういった。背中を支えるように腕が周り、大林の体を優しくベッドの上に横たえた。
 ちゅ、と可愛らしい音を立てながら、唇同士を擦り合わせる。胸の奥が甘く締め付けられるようなキスは初めてで、舌を絡めないそれが、脳に響くほど気持ちがよかった。

「ぁ、っ」
「お前からキスして、」
「ぅ、ん、」
「ん、」

 覆いかぶさられた状態で、キスをしろと言うのは榊原のわがままだ。ベットに頭を押し付けていた大林が、顎を上げるようにして、言われるがままに口付ける。思考がふわふわして、マシュマロが頭に詰まってしまったかのような心地だった。
 気持ちいい、好き、大好き、この人がいい、ずっと、こうして欲しかった。
 大林の思考の中は、馬鹿みたいにそればかりであった。散々榊原のことで悩んでいたはずなのに、その榊原によって思考を溶かされる。大林の腕は榊原によって首の後ろに回され、縋り付くような形を取らされる。
 言いなりが気持ちいい、全部、主導権を握ってほしいと思ってしまう。吐息が触れて、榊原の舌が大林の唇を舐めた。痺れる唇をゆっくりと開けば、誉めるように髪を撫でられる。

「どうしてほしい、言ってごらん。」
「あ、っ、し、した、」
「どっち、」
「べ、ベロのほう、…気持ちいの、して、ほし…」

 か細い声でのおねだりがどうやら正解だったらしい。榊原はクツクツと笑うと、顔の角度を変えて、今度は深く口付けた。

「ン…っ…」

 唾液が甘い。肉厚な舌が、熱のこもった口内を弄る。先程の丁寧な口付けとは違う、明確な肉欲を孕んだ大人のキス。味蕾を擦り合わせるかのようなそれが、大林の背筋をとろめかせる。
 これは、頭が馬鹿になるやつだ。室内が静かだからこそ響く水音に、大林の体は反応を示す。薄い腹が震え、奥が疼く。胸の突起は敏感に主張をして、榊原によって仕上げられていく。
 ゆっくりと唇が離れる。唾液を交換するかのような深い口付けで、飲みきれなかったそれがだらしなく口端からこぼれた。 
 榊原の手で、唾液を拭われる。とけた顔を見せる大林の額に口付けると、両手で頬を包み込む。

「俺を、お前の最後の男にしてくれ。」

 真剣な眼差しだ。それでいて、少しだけ懇願が混じる口調。
 榊原のその言葉に、大林の肩がひくりと跳ねた。なんだそれ、と思ったのだ。聞こえようによっては、プロポーズにも聞こえるその言葉は、最も簡単に大林の心臓を忙しなくさせる。 
 大林が、男に抱かれ慣れた体でも構わない。もう二度とその体を他人に許さないと決めたのであれば、榊原はそれで十分だった。
 自分のために、馬鹿な考えを思いついて、暴走して、後悔して、泣いて、傷ついて。ボロボロの状態を見つけた時は、本当にどうしてくれようかと思った。
 ボロボロな状態で、この腕に帰りたいと泣いた大林が可愛くて可愛くて、榊原は、己が人として超えてはならない一線を、危うく超えるところだったのだ。
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