上 下
35 / 79

35

しおりを挟む
「頼むから、俺がいらないとか言うなよ。」
 
 柴崎が、旭の知らない声でそんなんことを言った。
 
 夜の公園には、ささやかな風の音に上書きされてしまうほど、細い声が時折漏れていた。
 柴崎の腕の中で大人しくなった旭の体を抱きしめる腕の力を強める。冬の夜は確かに寒いはずなのに、腕の中の体温は暖かい。柴崎の体の内側の血流も忙しなくなって、己の心臓の音が聞こえてしまうんじゃないか。だなんて、そんなことを思った。
 
「理人。」
「…ず、るい…、」
 
 ヒック、と小さな嗚咽がまたひとつ漏れた。初めて呼んだ旭の下の名前。本音を言えば、柴崎はもっと早く呼びたかった。
 
 甘く、少し掠れた低い声が大好きだ。旭は、こう言う時に名前を呼んでくる柴崎がずるいともった。
 
 なんで、この人は俺がダサい時にくるの。
 
 触れ合った背中は温かいのに、体の内側からくる震えは止まらなかった。
 心臓がバクバクと動くと、震えるのが手だけじゃないだなんて初めて知った。
 こんな状況は、旭の想定外だ。それに、経験したこともないから、対処の仕方だってわからない。こんなこと誰にも教わっていないのだ。
 
「いらないじゃなくて、いいよって言って。嫌いじゃなくて、俺が好きだって、言って。」
「嫌だ…っ…」
 
 心臓が苦しい。旭の胸は内側からじわじわと熱い何かが侵食して、それが喉元から上がってくる。甘くて苦しい疼痛が、旭の思考を馬鹿にしてしまいそうだった。
 
 自分が欲しかったものが手に入る未来なんて、来ないはずだったのだ。
 ましてや、こんな望みの薄い、苦しいだけの恋が、叶うわけなんかないと。
 
「いじっぱり。」
「ぅる、せぇ…」
「理人、」
「やだ、き、期待、したくない…っ…」
 
 吐息を震わして、そんなことを宣った。
 こんな状況なんて知らない。両思いなんかじゃない、だって、この恋はいつか終わりが来る。男で、子供だって産むことができない不毛な恋、この関係に、正式な名前がつくことだって、一生来ないと言うのに。
 このままではダメになってしまう。振り解かねばと身をよじった時、柴崎の声色に、微かな怒気が含まれた。
 
「逃げるな。」
「っ、」

 柴崎の腕の中で、旭が小さく震えた。このまま逃したくなくて、逃したら、きっとまた柴崎の手の届かない所に行ってしまうと思ったから、つい口調が強くなった。
 
「も…許して、」
 
 柴崎の声色の変化に、旭がゆるゆると顔を上げた。振り向くことはなかった。それでも、言わなきゃわからないと思ったから、旭はしっかりと前を見据えた。
 
 大事だから、離れたかったんだよ。
 あんたの人生に、不毛な時間なんて必要ないだろう。
 
 唇が震える。勇気を出して口にしようとしたのに、何かの気配を悟ったらしい。柴崎は旭の肩を強く掴んだかと思うと、無理矢理その体を正面に向かせた。
 
「っ、」
 
 柴崎の表情は怒りの色を宿していた。そして、自分が柴崎にそんな顔をさせているのだと思ったら、少しだけ溜飲が下がった。
 でも、そんなことは束の間の話であった。柴崎に掴まれた肩が痛い。離して欲しくて、小さく身をよじった時だった。
 
「お前が自分を騙すなよ…!」
 
 柴崎が吠えた。
 旭の瞳が揺れる。ああ、まただ。柴崎はこうやって、旭が必死で取った距離を、こうも簡単に詰めてしまう。涙腺がまた緩む。そんな旭の様子を見て、柴崎は小さく舌打ちをした。
 大きな手が後頭部に回る、噛み付くように乱暴に重ねられた唇に息が止まった。
 
「っ、ぃ…っ!」
 
 途端、本当に下唇に噛みつかれた。あの夜の優しい唇ではない。まるで躾のような、荒々しい口付け。
 ひりついたそこを、べろりとひと舐めされてから、ゆっくりと唇が離れた。
 
「痛いか。そりゃあ痛えよな。」
 
 泣きっつらに蜂ってやつだな。などと、冗談まじりに言ったつもりだろう。それでも表情は少しだけ苛立ったままだったので、旭は唇を真一文字に引き結んで、震える吐息を飲み下す。
 いやだ。柴崎を怒らせたのは旭だと言うのに、自業自得の柴崎の鋭利な感情に揺さぶられて、怯えた顔をする。
 
「んで、怖い…っ」
「怒ってるからな。」
「も、や…」
「黙れ。」
 
 濡れた旭の顔が、あの日の夜と重なった。柴崎は乱暴に旭の体を引き寄せると、その言葉の続きを奪うかのように、再び噛み付くような口付けをした。
 上下関係を解らせるかのような、獣のように貪るかのような口付け。
 縮こまった旭の舌を絡め取り、時折吸い付く。抵抗が緩くなり、やがて呼吸が落ち着いた頃を見計らって、慰めるように優しく唇を舐めた。
 
「ン、ふ…っ…」
 
 離れた唇の距離を惜しむかのように、銀糸が二人を繋ぐ。柴崎の唇が、今度は労わるかのように柔らかく唇を啄んだ。再び舌を差し込まれ、上顎を優しく舌で擦られる。腰が震え、ンく、と小さな喉仏が上下した。飲みきれなかった唾液が旭の小さな顎を伝うと、柴崎の親指がそっとなぞるように追いかけた。
 
「俺は、」
 
 酸素が薄くなったせいで、ぼんやりとした旭の思考が、柴崎の声を拾った。大きな手が腰を支えている。力強いその手にもたれるようにして、立っているのがやっとだった。
 
「お前みたいに、あんま考えたりしねえんだけどさ。」
「ン、何…」

 ボソ、と呟く。柴崎がそんなに小さな声を出せるのが意外で、旭は聞き返すように返事をした。
 
「シンプルに好きじゃダメなのか。俺は、お前をそう言う意味で好きだよ。理人。」
「…だって、俺男、」
「知ってる。全部見たからな。」
 
 大きな掌が、旭の頬を包み込む。物事は至ってシンプルなのだ。そもそも、好きじゃなかったら、そう言う目で見ていなければ、こんなに必死になんかならない。
 
 柴崎の額が、旭の額と重なった。近い距離が恥ずかしくて、旭の視線がうろつく。たくさん泣いた顔を見られるのが嫌で、伏し目がちになる。
 
「俺ら、マジで不器用だな。」
 
 柴崎が、小さく笑った。言葉も、一緒に過ごした時間も足りない。足りない部分を補うために、互いが互いを慮り過ぎて、行き違いになる。
 二人して、なんて不器用な恋なのだ。心のベクトルはお互いをまっすぐに指し示しているくせに、素直になれなくて遠回りした。
 ただでさえ恋愛下手な旭の遠慮も相まって、拗れに拗れてここまできた。
 手が届いた今、もう絡まって離せない。
 
「好きだよ理人。なんも考えなくていいから、ただ、イエスって言って。」
 
 すがるような、そんな甘えた声だった。柴崎にそんなことをさせるのは、三千世界探したって旭しかいないのだ。
 旭よりも大きな掌に、震える手がおずおずと重なった。喉から情けない声が漏れて、大きな目がまた蕩け始めて、そんな顔をいつまでも見られたくなくて、返事の代わりに背伸びをした。
 旭が自分からした口付けは、少しだけしょっぱかった。 



  
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

完結・虐げられオメガ妃なので敵国に売られたら、激甘ボイスのイケメン王に溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

【完結】嘘はBLの始まり

紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。 突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった! 衝撃のBLドラマと現実が同時進行! 俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡ ※番外編を追加しました!(1/3)  4話追加しますのでよろしくお願いします。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
BL
⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

花いちもんめ

月夜野レオン
BL
樹は小さい頃から涼が好きだった。でも涼は、花いちもんめでは真っ先に指名される人気者で、自分は最後まで指名されない不人気者。 ある事件から対人恐怖症になってしまい、遠くから涼をそっと見つめるだけの日々。 大学生になりバイトを始めたカフェで夏樹はアルファの男にしつこく付きまとわれる。 涼がアメリカに婚約者と渡ると聞き、絶望しているところに男が大学にまで押しかけてくる。 「孕めないオメガでいいですか?」に続く、オメガバース第二弾です。

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

処理中です...