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ルシアン、再び 

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 硬質なノックの音が、部屋に緊張感を伴った静寂を誘い込む。イザルの手は自然と寝具を掴み、裸のままのシグムントを隠すように寝具を被せる。
 部屋の扉をノックしたのは、トートであった。間延びした声で告げられた来客の知らせに、イザルの背後ではイェネドが慌てて耳と尾をしまい込んでいた。

「なんだよ」
「やあ、起きてたならよかった。イザルさんの弟さんがお見えだよ。なんでも、聞きたいことがあるってね」
「は……?」
 
 トートから告げられた弟の一言に、イザルは思わず治安の悪い声を漏らしてしまった。
 扉の影から姿を現したのは、先日山中でやり合ったばかりのルシアンその人であった。相変わらず市井では人好きのする表情を浮かべる弟に、イザルは思わず握りしめた拳を扉へと叩きつける。

「ぅわあっ! な、何っ」
「てめえどの面下げてここにきてんだストーカー野郎、ああ?」
「ええ、えっ、えっ!?」

 可哀想に、トートは思わず飛び上がった。驚きと恐怖を顔に貼り付けたまま、慌てて拳を避けるように室内へと避難する。説明を求めるようにイェネドへと視線を向けたものの、トートの望みとは裏腹に目を逸らされてしまった。

「人聞きの悪いことを言いますね、兄さん。店主、案内をありがとう。後は部屋で話すから、もう戻ってくれて構わない」
「で、でもなんかっ」

 雰囲気がすごく悪い。トートは思わず口から出かけた言葉を、慌てて飲み込んだようだ。ルシアンの長いコンパスがあっという間にトートとの距離を縮めると、退出を促すかのように男らしい腕が肩へと回った。

「大丈夫、彼はいつもこうなんだ。ここは俺に任せて? それとも……家族水入らずに参加するつもりかい?」
「じ、じゃあ…、く、くれぐれもものを壊さないでくれよ……」

 ルシアンの整った顔が浮かべる笑みには、有無を言わせぬ凄みがあった。トートは言うや否や、退路を阻むイザルの腕をするりと抜け出した。
 転がり落ちるように階下へとかけていくトートの背中を見送ったルシアンはと言うと、さっさと作っていた表情を消す。イザルが皮肉る、外面だけは上等な男に戻ったのだ。

「……なんできた」
「兄弟の顔を見にくるのは、そんなにおかしいことかな」
「どの面下げてぶりっ子してやがる。きもいぜ」
「生憎お前に見せる演技は持ち合わせがないんだ」

 鼻で笑ったルシアンが、部屋に目を滑らせる。室内には、イザルが清潔魔法を使った痕跡である魔力残滓がかすかに残っている。漂白したような白さのベットの上には、シグムントがちょこんと座っていた。
 ルシアンが、忘れたくても決して忘れることのできない存在。心に強烈な残像を刻み込んだシグムントは、白い素肌を寝具で隠すようにルシアンを見つめ返している。
 
「……君は」
「あ」

 いつもより赤く色づいた唇が、ポロリと母音を落とす。そのあどけなさの残る美しい容貌からは、ありありと事後の様子が窺えた。白く滑らかな素肌、細い首筋に真っ赤に残る噛み跡が、イザルのものだというように主張している。

「シグムント」
「え、わぁ……っ‼︎」
「その傷……まさか、陵辱されたのか⁉︎」
「る、ルシ、んぃっ」

 シグムントへと伸ばした手が、力加減もまませぬまま細い肩を鷲掴む。それほどまでに、ルシアンには余裕がなかった。イザルとは正反対の黒い瞳が、素早くシグムントの素肌を滑る。大きな手のひらが顔色を確かめるようにシグムントの両頬を包み込み、赤みを帯びた唇に親指を滑らせる。
 シグムントが魔族だと言う事実を忘れた訳ではない。本来であれば忌諱すべき存在にこうして触れるのは、未だ忘れられぬあの日の心臓の昂りがルシアンを支配していたからに他ならない。
 
「ゃ、やめてくれ……、き、気恥ずかしいから」
「シグムント」
「俺は、い、イザルに怒られたくないから……」
「っ……」

 じわりと顔を赤らめたシグムントを前に、僅かでも胸を高鳴らせてしまった。しかし、恥じらう様子はルシアンを通してイザルを見つめているかのようでもあった。
 途端に、肺の中の酸素が薄くなった気がした。こうしてシグムントへと心を砕いているのはルシアンであるはずだ。しかし、その唇から名を告げられることはなかった。
 シグムントにとっての当然の振る舞いが、無意識にルシアンを突き放した瞬間だった。
 

「どけルシアン。シグムントよりもてめえの用件を先に話せ」
「……シグムントを犯したのは、お前か」
「犯してねえ。まだな」

 ルシアンの言葉を、イザルは鼻で笑って返した。
 知らぬ間の情事がどれほどのものかは、瞳に涙を滲ませるシグムントの様子が雄弁に語っている。
 本当は、健康診断だと勘違いをしていたことを思い返しての羞恥の涙であった。しかしその涙が、ルシアンの勘違いにさらなる拍車をかけてしまっていた。
 兄弟仲が不仲ゆえの、悪い方向へと想像の余地を働かせてしまったのだ。

「シグムント、お前はさっさと風呂に入ってこい。イェネド、何隠れてんだ。てめえも行ってこい」
「お、俺もか……」
「……」

 イザルはシグムントをルシアンから遠ざけたかった。語気の強さから、その望みは正しくシグムントが受け止める。
 頬に触れていたルシアンの手のひらを、シグムントは優しく外す。イザルの不機嫌を治すための当たり前の行動はしかし、ルシアンにとっては拒絶も同然であった。
 ルシアンは、欲しいものから遠ざかってしまった。静かなる絶望は、勇者であるイザルの弟と呼ばれるようになってからずっと付きまとう。黒い瞳は、仄かな妬心としんを宿してシグムントを見つめていた。

「ふざけるなよ」
「え?」

 ポツリと呟かれた言葉に、イェネドが小さく反応を示した。赤い瞳がシグムントの腕を掴むルシアンを捉えた瞬間、目の前で膨大な魔力が膨れ上がった。
 
「っ、何してんだてめ、っ」
「シグムント‼︎」

 イザルは弾かれたように手を伸ばした。しかし、ルシアンは黒い瞳を歪めて笑っていた。喜びでも、楽しみでもない。なんの感情も受け取れぬ空虚な黒い瞳をイザルへと向けて。
 室内に巻き起こった旋風が、イザルとイェネドを壁に叩きつける。放たれた鋭い閃光に思わず閉ざした視界を取り戻す頃には、シグムントとルシアンは消え去っていた。




「っひゃ……っ」

 唐突な衝撃に小さな悲鳴を漏らしたシグムントは、ルシアンに抱きすくめられるようにして見知らぬ場所に転移をしていた。わずかな腕の隙間から辺りを見渡しても、ここがどこなのか皆目見当もつかない。
 それもそのはずだ。半ば拉致のような形でルシアンと共に転移をしてきたシグムントは、遊撃隊の詰め所、ルシアンの執務室にいた。
 
「る、ルシアン……」

 説明もなく、依然黙りこくったままのルシアンの広い背中に手を回す。泣いているのかとも思ったのだ。シグムントがそっと背中をひと撫でしたその時。執務室の扉が、がちゃんと音を立てて開かれた。 

「おいルシア……」
「あ……」

 思わず振り返ったシグムントは、ドアノブを握りしめたまま動きを止めている若い男を前に硬直した。銀灰の瞳と、緑みの強いヘーゼルの瞳がバチリと重なる。
 焦茶の長い髪を三つ編みにし、ルシアンと同じ軍服を纏った若い男は、みるみるうちに渋い顔をした。そして現実から目を背けるように片手で目元を覆うと、絞り出すような声で宣った。
 
「……ちょっと待って、状況を整理させてくれ……」

 疲労を感じる顔は、頭痛を逃すように眉間を揉んだ。この状況を理解できていないものが、また一人増えたのだ。
このままでは、事態は何も変わらないだろう。シグムントは少しばかし迷ったが、意を決するようにルシアンの背中をぽんぽんと叩いた。

「ルシアン、すまない。俺はどこにきたのだろう」
「…………」
「何か言葉にしてくれなければ、俺はわからぬよ。どうした、嫌なことでもあったのか?」

 シグムントの問いかけに、ルシアンはようやく顔を上げた。小さな手のひらがそっと黒髪に触れるのを許すと、髪と同じ黒い瞳は己の副官であるメイディアへと向けられた。

「副隊長、その子真っ裸だから、なんか着せてやんないと」
「メイディア……」

 若い男、もといメイディアは、かろうじてルシアンの体で隠れている素肌を前に、顔を逸らすように物申す。掴みやすそうな細い腰に、柔らかな肉付きの尻が目に毒だ。
 シグムントはと言うと、メイディアからの指摘にようやっと己の状況を理解したらしい。顔を赤くして、ルシアンを抱きしめる力を強めた。

「い、今離れたら、俺は全部見られてしまう。それは流石に、ちょっと恥ずかしい……」
「そりゃあそうだろうよ。待ってな、今着替え持ってきてやんからさ。副隊長、あんたしばらくそうしててやって」
「……すまない」

 ルシアンが、着ていた軍服を脱ぎシグムントの肩にかける。衝動的な行動であったことは、表情を見れば一目瞭然であった。
 軍服の前を合わせるように身を隠す。見上げたルシアンの顔は、やはりイザルとの血の繋がりを強く感じる。心なしか落ち込んでいるようにも見える様子を、シグムントは少しだけ哀れに思った。

「……シグムント、すまない。感情で動いてしまった」
「ああ、俺はいいんだが、イザルが困ってしまうかもしれない」
「気にしなくていい、あいつはどうせ……追ってくる」

 不貞腐れた様子のルシアンは、用意していた馬車すら使わずにシグムントのみを連れてきてしまった。イザルが触れたであろう、白い肌に残る情事の痕を前に、冷静さを酷く欠いてしまったのだ。
 ルシアンへと呆れた目線を向けたメイディアに、なんの弁明も許されないだろう。無理な転移で大きく魔力を消費した。おそらくイザルはルシアン同様、行使した魔力の残滓を辿りここまで追いかけてくる。
 子供じみた癇癪に、ルシアンはクシャリと己の前髪を握りしめる。こんな稚拙な行動をとる予定ではなかった。まるで、イザルの二番目という忌々しい立場を甘んじて受け入れたかのようで、酷く不愉快であった。
 
「……俺でよければ、話してくれないか」
「は……」
「ルシアンがイザルと不仲なのは知っておるよ。何、気落ちすることはない。兄弟とはぶつかり合うようになっている。俺でよければ話を聞くから、そんな悲しげな顔をするんじゃない」

 シグムントは怒るでもなく微笑んだ。ルシアンの影を宿す表情の中に滲む、寂しさにも似た感情を読み取ってしまった。体を抱きしめられたあの時、確かにルシアンの腕は力強かった。その強さが、シグムントには縋っているような、それでいて誰にも渡さないという執着に感じてしまった。
 まだ、二人は出会って日が浅い。共通点を探れば、イザルただ一人。兄弟間での確執も十分に理解していたシグムントだからこそ、ルシアンの心に触れたいと思った。

「シグムント、……俺、は」

 誰よりも、認められないことの寂しさを知っていたシグムントだからこそ、わからなかったのかもしれない。
 歪んだ独占欲が渇きをもたらす。イザルの弟として息苦しく足掻いてきたルシアンが、シグムントに囚われていると言うことに。



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