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シューロ

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 どうして、こんなことになってしまったのだろう。ラトはその光景を、ニアの縛りの中から見つめていた。
 ニルマイア・ニルカムイ神の紫の瞳の中で、ラトはずっと孤独だった。独りになってから、初めてシューロの孤独を理解した。
 死は平等に訪れる。ラトは何の感慨もなくそれを受け入れてきた。死は終わりではない。その身が滅び、魂が消滅したとしても、いずれまた水のように巡り命として生まれ変わる。
 それがラトの当たり前であった。それが生きとし生けるものとしての、当たり前だとも思っていた。
 
 死とは終わりではない。しかし、平等に迎えるそれが、シューロの身を苛むほどの悲しみになるとは、ラトは思いもよらなかったのだ。
 この身が未練を宿してこの世の末席に留まっているからこそ、気がついた。シューロにとって、身近なものの死がどういうものかを、ラトは生前から知っていたはずだった。それなのに。

「私は、シューロを悲しませていたのだな。」

 声は出ない、空気を震わせることもできないラトの呟きは、ゆっくりと消えていった。
 
「私がシューロに残したものは、悲しみだったと言うのか。」

 ああ、まただ。また私は、私の価値観をシューロに押し付けて、あの子を一人残して消えてしまった。
 間違っていた。何もかも、間違っていたのだ。
 狭い空間の中での孤独でさえ、私は苦しみに喘いでいると言うのに、私を求めて広い海を彷徨ったシューロは、どれほどまでの孤独を耐えてきたというのだろう。 
 ラトは涙を流せぬ体を悔やんだ。そして孤独にしてしまったシューロを前に、悲しみにくれてしまった己に苛立った。
 
「シューロ、」

 悔やんではいけない。悲しんではいけない。ラトはシューロを苦しめた。番いとして優先すべきはシューロだった筈なのに、最後まで本能に抗うことはできなかった。
 恐ろしい思いをさせてしまった。それも、ラトは二回もシューロの心を壊してしまったのだ。
 もう、助けてあげることはできない、触れることもできない。ラトは、シューロをずっと見つめることしか許されなかった。
 慟哭し、心を枯れさせ、憤り、決意したシューロを前にして、ようやく愚かに気付かされたのだ。
 ラトはずっとずっと見つめてきた。そして、シューロの心の悲鳴を見初めた水魔が、その身を宿主に決めた瞬間も。

「やめろ、その子は私のものだ……!!」

 水魔がシューロの身に宿ったその時、ラトは魂が震えた。
 それは、シューロの心を壊してしまったことに対する苛立ちと、シューロが呼び出した水魔が己の体に擬態したことを前にして、抑えきれない憤りを感じてしまったのだ。
 その怒りは視界を赤く染めるほどであった。己の番いへ触れるなという独占欲が、魂としての線引きを、忘れさせてしまったのだ。

「私を、私をあのこの、シューロの元へ……!!ニルマイア・ニルカムイ様……!!」

 シューロに理を犯して欲しくはなかった。それが、ラトの最初の願いだった。でもそれは、種族としての生き方を認めてくれたシューロの優しさに、甘えていただけなのかもしれない。

 今思えば、ラトは己の生き方をシューロに押し付けてばかりだった。死は終わりじゃない。だから、悲しいものではない。死ぬ間際まで、ラトはシューロの優しさに触れて、その温もりの中で生きてきた。
 死ぬ側であったから、気がつけなかったのだ。シューロの悲しみの大きさは、ラトに対するシューロの想いの大きさだった。
 散り際に見たシューロの顔は、笑みではなかった。驚きでもなかった。初めて見る表情の意味を、今更になって理解するだなんて。
 
 ラトがシューロを己のものにした。そして、ラトがシューロを置いていった。最後まで番いを悲しませてばかりだったと今更に気がついて、その後悔によって狂ってしまいそうだった。
 死んだものが手を差し伸べてはいけない。気づかれてもいけない。わかっている。そんな決まり事など、ラトはわかっていた。

 ニルマイア・ニルカムイ神の心の泉が大きく波打った。ラトの感情を溶かしてしまったかのような心模様は、正しくニアの感情へと反映されていく。
 薄い皮膜を突き破るかのように、ラトはその身をうねらせた。禁忌を破ったとしても、ラトはシューロの側に行きたかった。シューロに、これ以上傷ついて欲しくはなかった。
 頼む、頼むから、生まれ変われなくても構わないから、どうか、どうか。

「私はもう一度、シューロ……、シューロの名を、呼びたい……!!」

 絶叫にも似た魂の叫びが、大きく反響した。心の泉が、大きく波打つ。その皮膜に、ピシリとひびが入った瞬間。わずかな隙間をこじ開けるようにして、ラトは大きくひれを動かした。






「あ。」
「おい、ニア……どうした。」

 ニアは、その身に纏う魔力を大きく波打たせた。
 身の内側から膨らんだ感情が、体を突き破って出てきてしまいそうだった。鱗が逆立つように、ラトの魂がニアの体の中を激しく巡る。心臓の鼓動が可視化するように、青い魔力が鼓動に合わせ、ニアの体から滲み出す。

 ブワリと嫌な汗が噴き出た。
 ニアは、その紫の瞳を見開くと、巨躯を持ち上げるかのようにして叫んだ。

「その悲しみは、受け留め切れないぞラト……!!間借りしているだけだと言うのを忘れたか……!!」
「ニア……!?」
「い、嫌だ苦しい、っ……!!なんで、なんで今なんだ、うあ、ああ、レイガン、レイガン!!」

 その場にいたものが、凍りついたように動けなくなった。水の神でもあるニアが、唐突に苦しみ出した異常事態に、どう対応していいか図りかねると言うのが、正直なところであった。

 ニアは、氷上で体をのたうち回らせた。口をガバリと開けて、長い体を絡ませるようにして暴れる様子は、尋常ではない。
 意識に直接何かが干渉してくる。ニアは異変を感じ取ったレイガンの目の前で身を大きくしならせると、レイガンへのしかかるようにして絡みついた。

「っ、ニア……!!何してる……!!」
「すまん、もう、もう無理だ、」
「は……?」
「ニアはもう抱えきれない……!!ぅああああああ!!!!」

 口が裂ける勢いで牙を剥く。突然のニアの乱心に、レイガンが紫を見開いた瞬間、ニアの心の泉に異常をきたしていることに気がついた。
 何かがつかているかのような、凝りが見える。レイガンの瞳は、それを正しく理解していた。

「くそ、そのまま口を開けていろ、どうなっても知らんぞ……!!」

 レイガンが、手につけていたグローブを外す。素手でニアの咥内へ腕を突っ込むと、手で空を掴むようにして力を込めた。
 手の内側で、ゆっくりと縄のようなものが形成されていく。レイガンは腕を振り抜くような勢いでそれを引き抜いた。
 
「ゥグ、ぁあ、あーーーーーーーーーー」

 ニアが絶叫した。空気を震わせるような叫びは、羅頭蛇が陣取る海面までもを大きく揺らがせるほどだった。
 レイガンの手には、白い縄が何重にも絡み合った物が握られている。白い蛇の束にも見えるそれが、青い空のもとに晒された瞬間。ニアの体は光に包まれるようにして消え去った。
 レイガンが手にした縄がしなる。それは空を駆けるようにして、一直線にシューロが繰り出した水魔へと向かっていった。白い縄は、八頭の大蛇のように扇状に広がると、しっかりと半透明の体に絡みつく。 
 水魔の体が、青く光る。体表でもある水膜に、見慣れぬ文字が浮かび上がった瞬間。辺り一帯を脅かすほどの風圧が、氷上を揺らした。

「何、ラト……!!」
「ぅを、っ」

 シューロの目の前で、制御を失った水魔が大きく動いた。長い尾鰭を滑らせ氷上を泳いだかと思うと、エルマーを突き放すように体で押し退ける。
 まるで、近づくなと言うような反応だ。水魔は渦を巻くようにシューロを囲うと、見下ろすかのようにして動きを止めた。


「っ、」
「シューロォ!!」

 なんでこんな時に。シューロはエルマーが遠くで叫んでいるような感覚に陥った。それほど、己の体は緊張感を高めたのだ。
 周囲の焦りは波紋を広げるように伝達された。唐突な出来事を好機と捉えたのか、羅頭蛇は動きを見せる。
 再び海面が青く光ったその時、海を突き破るかのように放たれた一打が、シューロへ向かって振り下ろされようとしたのだ。

「これで終いだ。」

 愉悦の滲んだ声色だった。迫り来る群青色の長い尾が、しなやかな動きでシューロの目の前に迫ってくる。
 エルマーも、レイガンも、前線にいたものたちは、少しでもその軌道をずらそうと一斉に動き出したが、もう遅い。

 シューロは、凪いだ瞳で見つめていた。ラトとの約束を破ってまで始めたことだ。これ以上戦ったとしても、もしかしたら何も変わらないのかもしれない。
 迫り来る鞭のような尾が、確かな殺意を持って向かってくる。シューロが受け入れるかのように手を広げようとした時、事態は思わぬ方向へと動いた。
 
「何だと……!」
「え、」

 羅頭蛇の動きが大きくぶれた。戸惑いにも似た声色には、驚愕も含まっている。
 シューロの目の前で、水魔が羅頭蛇の操る威圧を放ったのだ。それは、海の中なら水の流れを変えてしまうほどの、確かな風圧を伴うものだった。
 放たれた威圧によって軌道をずらされた羅頭蛇の尾が、シューロの横の氷上を叩き割る。
 ぐらりと揺れた足場、不安定な体勢を支えるかのように伸ばしたシューロの手が、水魔へと触れた。

「おい生きてるか!?」
「ま、待って、変だ……!」
「ああ!?」

 シューロの側に駆け寄ったエルマーが、焦った表情でシューロを気にかける。恐ろしい威力の物理攻撃を喰らったと思われたらしい。
 忙しなく鼓動を繰り返す心臓を宥めるかのように胸元を手で抑えたシューロは、目を見張ったまま水魔を見つめていた。

「ありえねえって、」
「貴様、一体何を使役した。水魔如きが放てるものではないぞ……!!」

 エルマーの問いかけが、羅頭蛇によって返される。そうだ、これがいかにありえないことだなんて、シューロが一番よくわかっている。先程の水魔が発した咆哮の魔力の質は、何よりもシューロにとって慣れ親しんだものであった。

 嘘だ、ありえない。表情を失ったかのように、シューロが唇を閉ざす。その様子は、わずかな期待を否定する為の何かを探すかのようであった。

「嘘だ、違う……」
「歪なものを宿したな、これが貴様のやり方かネレイス……!!」
「違う!!」

 羅頭蛇の恫喝じみた非難の言葉に、シューロが悲鳴を上げるように否定した。
 だって、あの時目の前でお前が喰らったんじゃないか。お前が、僕から全てを奪ったんじゃないか。震えるシューロの掌が、握り込まれようとしたその時。その内側にそっと水魔が鼻先を寄せた。
 優しく押し上げるようなその仕草に、シューロの細い喉は小さく震えた。

「シューロ。」

 水の中で、反響するかのようなこもった声がゆっくりと体に浸透していく。穏やかな、波のような、それでいて包み込む声色が、シューロの名前を紡いだ。

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