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変化

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 姿も知らぬラトの稚魚のことを口にはせずとも、シューロは穏やかな海を眺めながら馳せる思いを募らせて、海の季節は三度巡った。
 三年とは随分と長いもので、あれだけ苦手だった狩りも、ラトに上手くなったと褒められるくらいには回数をこなしてきた。
 厳しい冬の海でも共にいれば苦ではなかったし、春には珊瑚の産卵の様子をラトの背中の上で見た。夏は澄み切った海の中を、暑がりなラトを連れてガニメデ神の神殿付近まで涼みに行ったりもした。
 秋は、海上付近まで近づいて、初めて夕焼けというものを見た。ラトが水面に顔を出すと波が盛り上がってしまい、海に浮かび羽休めをしていた海鳥たちからは、しっかりと抗議をもらっていて、少しだけそれが面白かった。
 今年も、また変わりのない一年が過ぎる。穏やかな海で、大きな体の番いと共にそんな、ありきたりが愛おしい日常を過ごしていける。そう、シューロは信じてやまなかった。


「そういえば、人間の船がひとつ沈んだそうだ。前回見に行った時、シューロは楽しそうにしていたろう。」
「ああ、見慣れないものが多かったから……、今回は、どのあたりで見つかったの?」
「海亀の彼女がいうには、どうやら珊瑚の森付近らしい。どうだ、また見に行かないか。」
「もしかしたら蟹が取れるかも、うん、いいよ。ラトはまた嵌らないようにね。」

 ふすり、シューロがと笑った。前回沈没船を見に行った時、船の中に入っていくシューロを追いかけて、ラトが隙間に顔を突っ込んで途方にくれたことを思い出したのだ。どうやらシューロを追いかけて周りが見えていなかったということと、己の大きさを過信しすぎていたということが原因だ。
 壁からラトの顔が生えてしまったかのようで随分と面白く、シューロはひとしきり笑ってからラトの頭を引き抜く手伝いをしてやったのだ。

「二の舞は演じないよ。それに、今回はあんなに小さくはないらしいぞ。」
「そうなの?」
「確かめるためにも、目で見て確認するのが一番だ。」
「わかった。なら、今日の狩りはボクがいく。たまにはゆっくりしてて。」
「わかった、なら狩りを甘える代わりに、明日は背中に乗せていってやろう。……もしかして最初からそのつもりか?」

 ラトの言葉に、シューロが小さく笑う。どうやら今回の駆け引きはシューロが一枚上手だったようだ。ラトはゴポリと泡の一つを浮かばせた。シューロの現金な様子に笑ったのだ。
 番いになってから、ラトを揶揄うかのように、シューロは度々こうした駆け引きを楽しんだ。素直に甘えることもあれば、相手の困った顔見たさにする悪戯混じりの時もある。
 今回は、ラトが乗せて行ってくれるかもしれないという予測が、前提の駆け引きだったようだ。楽しそうに笑うシューロの周りをぐるりと泳ぐと、ラトはシューロの掌を押し上げるかのようにして、鼻先を擦り寄せた。

「困ったものだ。こうしてうまくシューロに乗りこなされているとは。これは羅頭蛇の沽券に関わる。」
「怒った?」
「何を、怒っていたらこんなことはしないさ。」

 楽しそうに、ラトがコポリと泡を作る。そのままシューロの細腕が鼻先に回ったことに気がつくと、ラトは頭を擡げるかのようにしてシューロの体を持ち上げる。
 水中で、ふわりとシューロが舞い上がった。ラトはその華奢な体躯の下に潜るようにして頭を移動させると、鼻先にシューロを乗せる。
 長いラトの尾が水流を作るように動いた。シューロはラトによって作り出された水の流れに身を任せるかのようにして、押し上げられるままにラトの鼻先からその身を投じた。
 
「さあ、気をつけて行ってきなさい。」

 高く、浮力を得るままにラトの頭上に躍り出たシューロを前に、ラトは見上げるようにして宣った。
 舞い上がったシューロの美しい黒髪が、水に戯れるように広がる。振り向き様、金の相貌をやわらかく緩ませて微笑んだシューロは、番いの見送りをその身に受け取ると、華奢な体をしならせるようにして、狩りへと出かけて行った。

 




「噂は、誠であったのだな。」

 水中を震わすようにして聞こえた音は、ラトの声に酷似していた。
 ラトは、シューロを送り出してすぐ、己の縄張りに招かれざるものが現れたのだと察知した。それは、慣れた水温にじわじわと冷えた水が混じり合うかのような、そんな体表で感じ取れるほどの明確な違和感である。
 ラトの虚ろな眼が、ゆっくりと動いた。蛇のように長い体を、とぐろを巻くように滑らせ相手へと向き直る。視界に捉えたのは、己の体格と同じ、一頭の羅頭蛇であった。

「長く生きていれば、いろいろな事を目にするものだ。それに、我同胞の愚かも含まれるとは。」

 群青が色濃くなる。海に溶けていたかのように、ゆっくりとその姿を現した己と同体格の羅頭蛇を前に、ラトは静かに鰭を動かした。
 同じ声色を持つものを前にしても、ラトの心に動揺や怯えという、そういった感情の起伏は一才見られない。この邂逅は、生きているうちで起こりうる当たり前の出来事だ。だからこそ、ラトは冷静だった。ただ、数年の短い期間に続けて同胞と出会ったことは、予想の範囲外であった。

「愚か……?」
「何故他者に構う。お前も、そしてあのネレイスの為にも。共に生きて、一体何の意味がある。同じ寿命を重ねるわけでもない。体格も、我々の常識も違う。一度きりの生に、何故お前は余計な時間を割く。お前の為に生きろ、お前の持つ時間は限りある。」
「その限りある時間を、奪いに来ておいてよくそんな綺麗事を言えるものだ。」
「綺麗事などではない。これは本能だ。お前に俺の時間を与える。俺にお前の時間をよこせ。これで対等だ。そして、この縛りに我らは決して抗えぬ。」

 当たり前だと思っていた生き方が、今は呪いのようにも感じる。番いの手のひらの暖かさを知った今、目の前の羅頭蛇の言葉の温度はひどく冷たく感じた。シューロと出会う前のラトだったら、その言葉に何の感慨もなく同意をしていたかもしれない。
 しかし、シューロと共に見た景色の美しさを、ラトは容易く思い出すことができる。シューロと共に身を任せた時の流れの端々に、沢山の自由があった。ありのままの、己でも気がつかない一面を持つラトが確かにそこにいた。
 それに気付かされたかけがえのない時間。それを知らぬ過去のラトには、もう戻ることはできないのだ。

「私の考えは、私のものだ。」
「その考えも、犯されたものだとわからないまで堕ちたか、同胞よ。」
「私のことは、私が、そしてシューロが一番知っている。その考えの中に、お前の入り込む余地は少しもあるまいよ。」
「お前も、本能を前にしたら一頭の羅頭蛇だ。これは、不変の真理だ。」

 そんなものは、言われずともわかっている。ラトは表情を変えぬまま、小さな泡を零すかのようにして笑った。ゆっくりと羅頭蛇の体表が青く輝く。ラトの奥底に根付いた抗えぬ本能が、それに呼応するように鎌首をもたげる。
 
 ああ、嫌だなと思った。

 シューロを悲しませることなど、最近はなかったというのに。
 この、沈痛な気持ちを得たのも、シューロと共に過ごすようになってからだった。
 一緒に生活をするようになってすぐの頃は、種族の違いで傷付けることが重なった。その時に初めて、共に過ごすことで得られる幸せと、その幸せを失う恐怖の両方を、ラトは骨の髄まで理解したのだ。

 あの小さな掌や、熱い体温をその身に宿すシューロに触れられて感じた喜び。そして己へと一心に向けられる甘やかな感情を、受け取ることこそが幸せというのであれば、ラトは今も貰ってばかりいる。
 
 ラトの脳裏に、先ほど見送ったシューロの微笑みが思い浮かんだ。綻ぶように柔らかな眼差しを向けてくれた金の双眸を、久方ぶりに悲しみに染めることになるのかもしれない。
 
ーー私にも、涙が流せたらよかったのに。
 
 込み上げる気持ちが、本能によって侵食される。鮮明に浮かぶシューロの顔が、細かな泡に攫われていくかのようにぼやける。
 名前をくれて、己の背に乗ることが好きで、溺れそうになるほどの心をくれる、ラトの愛しい存在が、段々と思考の闇に溶けていく。
 この気持ちは、感情は、誰にも奪われたくない。どんなものにも消されてはならない、ラトだけのものだ。
 
 覚えていろ、私が羅頭蛇ではなく、ラトであるということを。そう、己へと強く言い聞かせた。

ーーシューロが帰って来ないうちに、勝敗がつけばいい。そうすれば、少しは悲しみも減らせるだろう。あの子は、同族と戦う姿は見たくないと言っていたから。

 ラトは、身のうちから湧き上がる、本能からくる高揚を感じながら、せめて己の願いが海に聞き届けられるように祈った。

 大きな魔力の動きに、危険を察知した海の生き物たちが一斉にその場を離れた。澄み切った鐘が音を響かせるように、広がった魔力の波紋が二頭の間でぶつかり合った。
 海が光る。青く、そして透明度の高いそれは、静かに海の色に混じり合うように浸透していった。悲しいくらい、それは美しい光景だった。




 


 ラトに見送られたシューロは、己の番いが最近好んで食べているタコやイカを探しにきていた。
 滑らかな泳ぎで、シューロの通った道筋をなぞるかのようにして、細かな泡が追いかける。ねぐらから離れた場所であり、背の低い岩礁やら珊瑚が小山のように数カ所まとまって点在している。
 イカはシューロを揶揄うように空を泳ぎ、タコはその足で海底を散歩するかのように移動する。
 生態も足の数も大きく違う二匹が、住処は違えど暮らす場所。シューロはそこに足を運ぶ度、その違いを興味深そうに眺めた後に、狩りへと取り掛かる。
 以前ラトが宣っていた、ダイオウイカは食い出があるが、大味すぎて美味くもない。という言葉を聞いたシューロが、なら小さなものも食べてみろと進めた事がきっかけで、ラトは好んで食べるようになったのだ。そんな番いの好物を、シューロは狩りに来たのである。

 よくよく考えてみれば、ラトが獲れるサイズの獲物は、緩慢な動きのペニスフィッシュを除いて、ある程度の大きさを持つ獲物ばかりであった。なので体格が理由で出来ぬ狩りもあるのだと聞いたときに、シューロは初めて納得したのである。
 だから、これはシューロがラトの為にできる特権だ。何より、シューロがラトのお気に入りであるタコやイカを獲ってくると、さも当たり前かのように口を開けて待っているのだ。それも、可愛くて面白い。
 
 シューロは手ずから、ラトに給仕することが好きだった。なので、今回の狩りも両手に持てるくらいの獲物が取れたらいいなあと思っていた。
 体格が違うからこそ、不得手を補える。三年の月日は互いの視野を広げ、そして心を重ねていくのには十分な期間であった。
 周りからは、おかしな番いだと思われていることも、もちろんわかっていた。この関係を脅かすとすれば、それは互いの無知以外にない。シューロはずっとそう信じていた。だからこそ、ラトも同じ考えであるだろうと、思っていたのだ。

「……明日、楽しみだな。」

 くふん、と笑って、シューロが体をひねるかのようにして回った。長い黒髪がふわりと広がり、体に巻きつくかのようにして戻ってくる。
 シューロはその手のひらを、ゆっくりと海面へ向けた。ラトの背中に乗った時の景色と何も変わらない筈なのに、なんとなくしっくりこない。
 やっぱり背中にラトの低い体温を感じていなきゃだめなのだ。己の目の前を通り過ぎようとしたイカを黒髪が巻き付くようにして捕らえると、シューロは起き上がるようにして体勢を整える。

「……?」

 ぱしん、と音を立てて、また黒髪がイカを捕まえた。立て続けに二匹もだ。シューロは不思議そうにしながら振り向くと、魚や小型の魔物たちが一斉に向かってくるのに気がついた。

「な、何、っぅわ、っ」

 何匹もの海に生きる者たちが、シューロの素肌を掠めるかのように大群となって通り過ぎる。尋常ではない様子に、シューロは顔をこわばらせた。明確な海の異変は、己のねぐらの方向からきているようであった。
 シューロの金色の瞳が、ゆっくりと見開かれる。青の世界のその端が、一瞬の閃光を放ったその時。シューロは弾かれたように身を翻した。
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