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代償

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「食えと言ったのが、聞こえなかったのか。」

 言葉は、少し強い口調で繰り返された。
 シューロは、食べ慣れているはずの貝を目の前に、ごくりと喉を鳴らした。周りの異端を見る瞳が、シューロに緊張感を与える。
 震える唇を力なく開くと、そのわずかな隙間に捩じ込むかのようにして貝を押しこまれた。
 舌で押し返すことも許されぬまま、シューロはそれを奥歯で噛み割った。
 口の中で、二枚貝が分かれる。舌を使いその中身だけを口に含むと、食べられない殻の部分を吐き出した。
 恐る恐る、シェスを見上げる。その目は飲み込めと命令をしていた。数度咀嚼をし、こくりと飲み込んだ。シューロの細い喉元が上下するのを確認をしたシェスが目を細めると、その体に変化がないか注視する。やがて何も目立った変化が起こらないとわかると、視線を外した。

「シェス、これでいい?」

 シェスによって命を受けていたネレイスが、一抱え程ある大きな魚を捕らえてくると、それをシェスの前に持ってくる。一体、これから何が起こるのか計りかねている様子であった。

「ご苦労だった。すまないが、もう少しだけ付き合え。この貝を、こいつに与える。」

 シェスは、先程シューロに与えた貝を手に取った。その、赤と黒の格子模様の貝がなんなのか、このネレイスはよく理解していた。

「ちょっと待って、シェス、それは……。」
「わかっている。」

 非難めいた視線を、シェスの重々しい溜息が遮る。仲間のネレイスに抱えられている魚に真摯に向き合うと、シェスは深く謝罪の言葉を述べた。
 これから、この魚の運命を断つのだ。

「我々の都合により、君の命を奪うことを、申し訳なく思う。」

 シェスの言葉に、大きな魚は鰭という鰭をジタバタと動かし、暴れ始めた。魚は、これから己の身に降りかかる理不尽を正しく理解したようだった。
 ネレイスの中でも、資質のある者はどんな他種とも意思の疎通をとることができる。シェスもまた、そのうちの一人であった。

 拾い上げた新たな貝を魚の口元まで運ぶと、髪を使って殻を破る。取り出した中身を魚の口に押し込むように入れると、吐き出さないようにと口を押さえる。
 それから数十秒程で動きが鈍くなってくると、最後は数回体を痙攣させたのち、硬直をして絶命した。
 紛れもない猛毒の証明は、成された。ネレイスたちは皆一様にその様子を黙って見つめていた。否、言葉を失っていた、という方が正しいのかもしれない。

「確認は取れた。」

 目を背けずに、その魚の一呼吸まで見つめていたシェスが、ゆっくりと額に手を当て、目を伏せた。
 懺悔にも見えるそのシェスの様子は、今起きたことを自分の中で落とし込んでいるかのようであった。
 そして、徐にシューロへと目を向けた。今まで冷静だった彼の瞳には、初めて仄暗い陰が宿されていた。

「お前は、これに毒があるというのは知っていたのか。」
「っ、……」

 これが、最後の質問になるのだろう。シューロは小さく瞳を揺らすと、唇を噛み締めた。
 シェスの質問には、自信を持って、いいえ。と答えられる。けれど、答えたとして、その先自分が一体どんな運命を辿るかというのは、想像もつかなかった。
 怖かった。ただ一言、いいえというだけで、自分への審判が下ることが。この上なく怖かった。
 黙りこくってしまったシューロへと向けられるネレイスたちの視線が、異端なものを見る目に色を変える。元々見た目が違うことから遠回しにはされていたが、それでも、まだなんとなく仲間だと思ってくれている者もいたのだということを、ひしひしと感じる。
 それを理解したのは、今この場でシューロに向けられる視線が、嫌悪や忌諱きいすべきものを見る目に一様にして変わったからだった。
 群れの中の異端、異質、異物。
 ネレイスに生まれながら、その特徴を持たざる者。シューロは、自分は一体何者なのだろうという考えに、何度も苛まれた。そして、今この場でも、また己の存在を試されている。
 泣きたかった。たとえ、泣くことが許されなかったとしても、この胸の痛みは正しく悲しみであることに違いはない。だから、嗚咽で声が出なくなる前に、シューロは声を絞り出した。

「……いいえ。」

 ただ、皆と同じになりたかった。もしかして、分化をして大人になれば、髪だってみんなのように金色になるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、ここまで生きてきたというのに。

「お前を群れから追放する。いかなる場合と時であっても、戻ってくることを許さない。」

 淡々としたシェスの宣言に、ネレイスの大人たちからは二つのざわめきが起こった。
 一つは、仲間を死に追いやった者への罰としては甘いと言う声。もう一つは、ネレイスにおいて、自ら群れを出ていった者はいたが、分化前の子供を追い出すということは、この群れの歴史においては前代未聞であると、驚く声であった。
 そして、シェスの判断に真っ先に反対を示したのは、子の亡骸を抱き締め、泣き崩れていたタルカであった。

「あり得ないわ!それじゃあニライが報われない…!」
「俺の判断に反対をするな。」

 シェスは、決して有無を言わせなかった。凄みを伴った声色は静かなものでありながら、タルカを黙らせる。
 拘束していたシューロへと視線を投げると、シェスはその瞳に深い後悔の色を宿し、ゆっくりとその拘束を緩めていった。

「もっと、早くにこうすべきだった。そうすれば、お前は傷ついたかもしれないが、今程の痛みを負う事はなかっただろう。」

 締め上げられていた、痛いほどの腕の縛りが解けた。
 捕えられたあの瞬間、その拘束が己に向けられたことが嫌だった。それなのに、シェスの言葉を聞いた今、その拘束を解かれることが、悲しくて、辛かった。だって、解放されてしまったら、自由を得ると同時に居場所を失う。いよいよ自分は、誰にも認められない半端者のネレイスになってしまうのだ。
 ただ一人、この広大な海で生きろと突き放された。その絶望は計り知れない。

「ま、待って」
「ただ、色味が違うだけならよかったのにな。」

 落ち着いたシェスの言葉の方が、大人達のシューロへの忌諱するものに向ける視線よりも心を抉った。
 シェスの判断は正しい。シューロがこのまま群れにいても、また仲間を危険に晒すだろう。それ程までに、シューロの判明した性質は、問題視すべきことであった。
 性質の違うものが混ざって群れを成す。それは、どんな種族においても非常に難しいことである。

「い、やだ…嫌だ、お、お願い、他の、ど、どんな罰でも、受けるから…っ」
「さあ、行け。」

 縋るシューロの体から、シェスの金色の髪が全て離れる。最後にシューロだけが聞き取れたシェスの声は穏やかで、優しかった。
 そして、その残酷な優しさがシューロを一人にさせたのであった。





 あれから、二度。シューロは潮の流れが変わる季節を迎えた。

 分化する時期を過ぎても、シューロの体には待ち望んだ変化が訪れることはなかった。
 体は前よりも少しだけ大きくなりはしたが、群れから外れたシューロは、雄にも雌にもなれない、中途半端な体のままずっと過ごしていた。
 まるで、罰のようだ。大人になれなかったニライから、お前が大人になるなんて許さない。そう、責められているような気さえした。

「そんなわけ、ないのに…。」

 シューロが作り上げたニライの幻覚を振り払う。起きてしまった悲惨な過去は、シューロをあの日に囚え続けたままであった。
 体が変化しないのは、繁殖相手が近くにいないからだ。そこにシューロを恨むニライの思念なんて存在はしない。
 必要のない身体機能を停止しておき、他へとエネルギーを使う。ネレイスの種族は実に効率重視の体のつくりになっていると、シューロはこんな状況になってから、強く実感することとなった。

 ぐう、と腹が鳴った。いくら余分にエネルギーを使わなくていいとはいえ、何も食わずにというのは無理な話である。薄い腹に手を添える。あれ以来、シューロは貝を口にすることができなくなっていた。

「どうしよう……。」

 ゆらゆらと揺れる海藻の上に仰臥ぎょうがする。こうして動かずにいれば腹は空くことはないと思っていたのに、ままならないものである。
 
「これは、食べ飽きた。」

 目の前で揺れる赤みがかった海藻。腹は満たされるが、旨いかと言われるとまあまあであった。空腹を満たす為に頻繁に口にすることが多く、自分で食の選択肢を狭めたとはいえ、いい加減に嫌気が差してきた。
 ピン、と指で海藻を弾く。波間に揺蕩う海藻には際立った変化はない。ただ迷惑そうに葉の向きを変えただけであった。

 シューロは、狩りが下手だった。これも、群れを外れてから知ったことだった。今までは、動かぬ貝ばかりを口にしていたせいか、己にそんな不得手があるとは思いもよらなかった。貝は拾うだけだが、魚や蟹は動くのだ。
 狩りが下手なのは教えてもらっていないからに他ならない。それなのに、シューロは今まで一人で乗り越えることが多かったせいか、それすらも己自身のせいだと思っているようだった。
 目の前に泳ぐ魚の塊。銀色の小魚の大群は、シューロの目の前で束になっては散り散りになると、まるで踊っているようであった。
 海面付近はキラキラと光が乱反射している。時折海鳥が水中に体を沈ませて餌をとる姿に感心をしながら、シューロはぼんやりとその光景を眺めた。

「ボクが近づいても、一匹もとれやしないだろうな。」

 そんなことを呟けば、再びぐう、と腹の音が鳴った。海の青に反射して、小魚の銀色の体が青白く光った。しかし、踊るように水中を泳いでいた小魚達が、急に見たこともないメチャクチャな動きをし始めた。あんなに統率されていたというのに、一体どうしたのだろう。シューロは海藻の上から身を起こすと、目を凝らすようにしてその様子を見守る。
 あれだけ群れに身を投じていた海鳥までもが、慌てたように海面から離れていく。異様な様子に、シューロが身構えた時だった。

「っ、…鮫だ!!」

 水を引きずるかのようにして現れたのは、シューロと同じくらいの体長はあろうかという二匹の鮫であった。
 丸々と太った大きな鮫が、その光も映さぬ暗い瞳で、小魚の群れに口を開けて突っ込んでいく。その勢いから、体格の割には何日も食事をとっていないことがわかった。
 シューロは小さく息を呑むと、ゆっくりとその身をかがめて後ずさる。大人のネレイスなら、そこまで脅威にもならないだろう。だけど、それは一人じゃなかった場合だ。こちらに目を向けられたら、シューロの体格では獲物として見られてしまう。緊張感を孕んだ空気が途端に体に纏わりつく。
 そして、二匹の鮫はシューロの眼の前で小魚の群れを蹂躙し始めた。
 静かにこの場を去ろう。岩場についた手に力を込めて、そのまま泳ぎ出そうとした時。シューロの頭上に影が差した。

 金色の瞳が、揺らめく。口から溢れた小さな泡が、吸い寄せられるかのようにして、その灰色の体表に染み込んでいく。
 先程の二匹よりも更に一回り大きな鮫が、シューロの姿を頭上から深淵の二つ目で捉えていたのだ。



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