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悪食獏と死神(前)
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――冥府、冥土、黄泉、常世、根の国、彼岸、あの世等々呼び名は様々あるが、人は死後、これらの他界へ行くと考えられている。
しかし近年、そちらの世へ行く事なく現世をさまよい続ける死者の数は決して少なくない。
それに伴った亡者の悪霊・怨霊化は妖怪や付喪神、悪魔や鬼などを始めとする魑魅魍魎達の狂暴・凶悪化に加え増加の一途を辿り、それに関連した生者とのトラブルもまた右肩上がりで増え続けている。
あの世を統括する冥府庁は長年頭を悩ませてきたその現状を打破すべく、一つの課を設立した。
それが現世における人外によるトラブル対応を一手に担う組織――現世万取締課である。
それまで空一面を染めあげていた茜色は西の端にほんの僅かにその色を残すだけとなり、藍色へと変わっていく東の空に白い三日月が浮かんでいる。
時刻は、降り始めた夜の帳によって、人の顔の判別が難しい程に薄暗いというまさに誰そ彼時。
都内近郊にありながら心霊スポットとして名高い廃ビルを見上げオレ――夢前千影は息を付いた。
外されたのか割られたのかは分からないけど、窓にガラス類はすでになく窓枠だけが残されているその明かり一つない、廃ビルと言うよりは縦に細長い長方形の箱のように見えるそこは確かに心霊スポットとして十分成り立つレベルの不気味さを放っている。
「……ここ?」
「ああ。取締課から送られてきた資料によると、ここで間違いないな。」
オレの呟きに隣に立っている青年――オレの相棒である火坂燎が頷き、先程まで操作していたタブレットの画面をオレにも見えるように傾けた。
少しだけ体を寄せタブレットを覗き込めば、燎の大人の男らしい長く節だった指が画面をスクロールする。
「マップはここを指しているし、資料に添付されていた画像とも一致する。詳細としては、ビルのオーナーが半年前このビル内で自殺をし、それ以来中に入ると自殺したオーナーに呪われて死ぬとネット等で言われているみたいだな。……どうした?」
年の頃は二十代半ばから後半くらい。
清潔感のある黒の短髪に、細身だけど肩幅が広く均整の取れた男らしい体と長い手足を取締課の制服に包んだ、きりりと上がった太い眉にスッと通った高い鼻梁に形の良い薄い唇。
少し吊り上がった切れ長の瞳はやや小さく所謂三白眼な為少し冷たい印象はあるものの、それでも何と言うか完璧すぎて殴りたくなるレベルの端正な男前で長身の青年の低くて落ち着いた声が紡ぐ説明を聞きながらもちらりと相手を見上げると視線に気が付いたらしい燎の濡れた黒曜石を思わせる黒い瞳と目が合った。
何でもない、と慌てて首を振り視線をタブレットに戻す。
ちなみにオレはというと、チビで色白の典型的なもやしっ子に加えて、二重でやけにでかくて丸い薄紫色の瞳の毎朝鏡を見るのが憂鬱になるレベルの女顔。
……いくら種族が違うと言っても同じ男のはずなのに何なんだろうこの差。
地味にへこんでるとポンッと頭に燎の大きな手が乗せられた。
「おい、聞いてるか。」
「……あ。」
訝し気な声に思わず呟けば、小さく嘆息される。
「……もう一回言うからちゃんと聞いとけよ。実際はオーナーは自殺じゃなく事故。さらに死亡場所もここじゃない。ただこのビルに何らかの怪奇現象が起きている事は事実だ。被害数は大小含めて四十。そのうち死亡者は」
そこで言葉を区切り、オレの頭から手を離した燎がトントンと指先で叩いた画面には『九』という数字が表示されていた。
「……九。少なくない数だよね。」
「ああ。これだけ手にかけてるとなると、ここにいる何か――恐らく亡者の類だろうがすでに悪霊化してても可笑しくないな。それが、全く関係のない奴かそれともネットの噂通りオーナーかは分からねえが。」
「んーー……」
燎の言葉にタブレットから視線を外し、周囲を見回し鼻を一回だけすん、と鳴らす。
瞬間、鼻孔に感じた匂いにオレは顔を顰めた。
…………これって。
「……多分まだぎりぎり悪霊化はしてないけど、時間の問題だと思う。あと、匂い的にはビルのオーナーの可能性が高い、かな?」
後半はいまいち自信が持てなくて首を傾げながら答えれば燎がすぅっと瞳を細める。
「……相変わらず凄い鼻だな。俺も死期が近い生者の匂いとかなら分かるが、そういうのはさっぱりだ。」
「あはは。そもそも『死者が道に迷わぬよう冥府へと導く役割を持った存在』である燎がこんな匂い感じる方が問題でしょ。」
――――ね、死神さん?
少しだけ軽い調子で言えばさらに瞳を細めた燎が廃ビルへと視線を向ける。
「で、どうする? 正面から突っ込むか?」
「それでもいいけど、ここから逃がすと厄介かも。……二手に分かれよっか。オレ、屋上で待ってるから燎連れてきてよ。燎のアレ見れば大抵の亡者ビビッて逃げ惑うし。それでうまく屋上に追い込んで。」
そう伝えへらりと笑いかけるとベシリと頭を軽くはたかれた。
「いった!!」
「……お前な。俺は牧羊犬か。」
ああ、うん確かに羊たちを吠え立て追いかけまわすように見せかけて、その恐怖心をうまく利用して目的の場所に誘導するところは牧羊犬と通ずるものもあるけど……。
「燎、そんな可愛くないじゃん。」
「今、何か言ったか?」
そう漏らした瞬間低く落とした声に共にガッとヘッドロックをかけられる。
「ちょ、ギブギブギブ!!」
「うるさいぞこの性別迷子が。この前の潜入捜査の時だって何の違和感もない女装披露しやがって。逆にビビったわ。」
「なっ!!? しょうがないじゃん、あの時は潜入先が女子高だったんだから! そもそもあの時嬉々としてオレの服?いで女装させたのお前だろ!?」
「他人が聞いたら誤解するような言い方をするな!」
ぎりぎりと力を込められた燎の腕を叩きながらも喚き、しばらくぎゃーぎゃーと騒いでいればふと燎の腕の力が緩んだ。
「……燎?」
不思議に思って顔をあげれば真剣な顔をした燎と視線が絡む。
「……追い込むのは別にいい。実際、室内ではオレの力の方がそういうのに向いているしな。ただ、気を付けろよ? ――千影。」
そのいやに真摯的な声に小さく笑い頷いた。
「うん。燎もね。燎が強い事は知ってるし、オレ達に『死』っていう概念は存在しないけど、油断だけはしないで。さっきも言ったけど、時間の問題なのは確かだから。――大分美味しそうな匂いになってきてるからさ。」
***
――――…………こんなつもりじゃなかったんだ。
徐々に降りる夜の帳に合わせるように薄暗くなっていく廃ビルの中、『男』は独り向こう側が透けて見える自らの両手を見下ろした。
最初は些細な事だった。
折角静かに眠っている自分の持ち物であったこの廃ビルに夜な夜な肝試しと称して大声で馬鹿話をしながら我が物顔でビルの中を歩き回るだけでは飽き足らず、時には物を壊したり、ごみを散らかし帰っていく若者達が訪れるのが不快で仕方がなかった。
静かに寝かせてくれ。
私は眠っていたいだけなんだ。
頼むから邪魔をしないでくれ。
そんな小さな不満が塵のように心に降り積もり、鬱々とした日々を過ごしていたある夜。
まだ火が付いている煙草の吸い殻が捨ててあるのを見た時、『男』の我慢は限界を超えた。
それ以来、『男』は肝試しに来る連中を誰彼構わず攻撃した。
最初は若者達の前に姿を現し、「出ていけええええええええ!!!」と腹の底から叫ぶという単純な方法だった。
それが、ポルターガイストでそこらビル内に残されていたものを飛ばすのは当たり前になり、いつしか若者達が怪我をしてもなんとも思わなくなった。
それどころか階段を上っていた若者の足を思い切り引っ張り転ばせてそこら中に撒いてあったガラス片で若者が怪我をした時は、スッと胸がすいた思いさえした。
どんどんエスカレートする行為を頭の片隅で理解しながらもそれを抑える事がどうしても『男』にはできなかった。
そして。
「きゃあああああああ!!!!」
老朽化により一部崩れ落ちていた床を恐る恐る覗き込んでいた見るからにギャル系の女性の背中を突き飛ばした時、『男』は決して越えてはいけない一線を越える。
下の階に落下し、ピクリとも動かない女性を見た時に、その心を占めたのは紛れもなく愉悦感。
そこから先はまさに坂道を転がる石のようだった。
坂で加速した石が減速することは愚か自らを止める事など出来ないように、『男』もまた自らの感情の赴くままに次から次へと若者達をその手にかけていった。
そうしてある時、体のあちらこちらに黒いシミのようなものが浮き出ている事に『男』は気が付いた。
普通ならば皮膚科にでもいくところだが、男はもうすでにこの世を去った所謂霊という存在だ。
どうすればいいかも分からずにいるうちに、初めは小さかった「黒」は徐々に大きく広がり、『男』の体を浸食し始めた。
体が黒に侵食されれば浸食される程、『男』の中に積もっていた小さな不満は憎しみとなり若者達に対する行為をさらにエスカレートさせていく。
「……私は一体どうしてしまったんだ。」
――否、どうなってしまうんだ。
ほぼ黒に染まった両手を見つめながら『男』は不安げな声をあげる。
しかし、その時。
閉鎖されている筈のこの廃ビルの中に唯一侵入できる箇所。
若者達が出入り口として利用していた非常口の扉が軋み開いた音に『男』は目をぎらつかせる。
最近では「入ると呪われる」という噂が立ち始めているようで、肝試しに来る若者達の数も減っている。
それでも、減っただけで、なくなったわけではない。
やがて、『男』がいる空間へと一人の青年が入ってきた。
シンプルな黒のローブコートの下に黒のナポレオンジャケット、黒のスラックスに黒い革靴。
ジャケットの下には白いシャツを着て、黒いネクタイを締めている年の頃は二十代半ばから後半と言ったアイドルやモデルと見間違うほど端正な男前の顔立ちの長身の青年は『男』の存在に気が付いてすらないようでコートのポケットから取り出したスマホを何やら操作している。
それがさらに『男』の憎しみと、加虐心を煽った。
『男』は腕を一振りする事で自らの足元に散らばっていたガラス片を宙に浮かせる。
――あいつらが悪いんだ。
俺はただ静かに眠っていたいだけなのに、それを邪魔するからこういう目に合うんだ。
「死ねえええええ!!」
自らが歪みきった笑みを浮かべている事にも気が付かない『男』の声と共に、ガラス片が一気に青年へ降り注ぐ。
普通の人間ならばそれだけで逃げ惑う光景に、青年は眉一つ動かさず徐に開いた右手を前に突き出す。
瞬間、彼の掌からまるで火炎放射器のように激しく燃え盛る炎が放たれ、ガラス片を全て燃やし尽くした。
「――――っ!?」
あり得ない光景にヒュッと息を飲んだ『男』に構わず、右手を下した青年――燎がその口端を吊り上げた。
「”アオサカショウヘイ”さんですね。初めまして、冥府庁現世万取締課の火坂燎と言います。貴方を、お迎えにあがりました。」
しかし近年、そちらの世へ行く事なく現世をさまよい続ける死者の数は決して少なくない。
それに伴った亡者の悪霊・怨霊化は妖怪や付喪神、悪魔や鬼などを始めとする魑魅魍魎達の狂暴・凶悪化に加え増加の一途を辿り、それに関連した生者とのトラブルもまた右肩上がりで増え続けている。
あの世を統括する冥府庁は長年頭を悩ませてきたその現状を打破すべく、一つの課を設立した。
それが現世における人外によるトラブル対応を一手に担う組織――現世万取締課である。
それまで空一面を染めあげていた茜色は西の端にほんの僅かにその色を残すだけとなり、藍色へと変わっていく東の空に白い三日月が浮かんでいる。
時刻は、降り始めた夜の帳によって、人の顔の判別が難しい程に薄暗いというまさに誰そ彼時。
都内近郊にありながら心霊スポットとして名高い廃ビルを見上げオレ――夢前千影は息を付いた。
外されたのか割られたのかは分からないけど、窓にガラス類はすでになく窓枠だけが残されているその明かり一つない、廃ビルと言うよりは縦に細長い長方形の箱のように見えるそこは確かに心霊スポットとして十分成り立つレベルの不気味さを放っている。
「……ここ?」
「ああ。取締課から送られてきた資料によると、ここで間違いないな。」
オレの呟きに隣に立っている青年――オレの相棒である火坂燎が頷き、先程まで操作していたタブレットの画面をオレにも見えるように傾けた。
少しだけ体を寄せタブレットを覗き込めば、燎の大人の男らしい長く節だった指が画面をスクロールする。
「マップはここを指しているし、資料に添付されていた画像とも一致する。詳細としては、ビルのオーナーが半年前このビル内で自殺をし、それ以来中に入ると自殺したオーナーに呪われて死ぬとネット等で言われているみたいだな。……どうした?」
年の頃は二十代半ばから後半くらい。
清潔感のある黒の短髪に、細身だけど肩幅が広く均整の取れた男らしい体と長い手足を取締課の制服に包んだ、きりりと上がった太い眉にスッと通った高い鼻梁に形の良い薄い唇。
少し吊り上がった切れ長の瞳はやや小さく所謂三白眼な為少し冷たい印象はあるものの、それでも何と言うか完璧すぎて殴りたくなるレベルの端正な男前で長身の青年の低くて落ち着いた声が紡ぐ説明を聞きながらもちらりと相手を見上げると視線に気が付いたらしい燎の濡れた黒曜石を思わせる黒い瞳と目が合った。
何でもない、と慌てて首を振り視線をタブレットに戻す。
ちなみにオレはというと、チビで色白の典型的なもやしっ子に加えて、二重でやけにでかくて丸い薄紫色の瞳の毎朝鏡を見るのが憂鬱になるレベルの女顔。
……いくら種族が違うと言っても同じ男のはずなのに何なんだろうこの差。
地味にへこんでるとポンッと頭に燎の大きな手が乗せられた。
「おい、聞いてるか。」
「……あ。」
訝し気な声に思わず呟けば、小さく嘆息される。
「……もう一回言うからちゃんと聞いとけよ。実際はオーナーは自殺じゃなく事故。さらに死亡場所もここじゃない。ただこのビルに何らかの怪奇現象が起きている事は事実だ。被害数は大小含めて四十。そのうち死亡者は」
そこで言葉を区切り、オレの頭から手を離した燎がトントンと指先で叩いた画面には『九』という数字が表示されていた。
「……九。少なくない数だよね。」
「ああ。これだけ手にかけてるとなると、ここにいる何か――恐らく亡者の類だろうがすでに悪霊化してても可笑しくないな。それが、全く関係のない奴かそれともネットの噂通りオーナーかは分からねえが。」
「んーー……」
燎の言葉にタブレットから視線を外し、周囲を見回し鼻を一回だけすん、と鳴らす。
瞬間、鼻孔に感じた匂いにオレは顔を顰めた。
…………これって。
「……多分まだぎりぎり悪霊化はしてないけど、時間の問題だと思う。あと、匂い的にはビルのオーナーの可能性が高い、かな?」
後半はいまいち自信が持てなくて首を傾げながら答えれば燎がすぅっと瞳を細める。
「……相変わらず凄い鼻だな。俺も死期が近い生者の匂いとかなら分かるが、そういうのはさっぱりだ。」
「あはは。そもそも『死者が道に迷わぬよう冥府へと導く役割を持った存在』である燎がこんな匂い感じる方が問題でしょ。」
――――ね、死神さん?
少しだけ軽い調子で言えばさらに瞳を細めた燎が廃ビルへと視線を向ける。
「で、どうする? 正面から突っ込むか?」
「それでもいいけど、ここから逃がすと厄介かも。……二手に分かれよっか。オレ、屋上で待ってるから燎連れてきてよ。燎のアレ見れば大抵の亡者ビビッて逃げ惑うし。それでうまく屋上に追い込んで。」
そう伝えへらりと笑いかけるとベシリと頭を軽くはたかれた。
「いった!!」
「……お前な。俺は牧羊犬か。」
ああ、うん確かに羊たちを吠え立て追いかけまわすように見せかけて、その恐怖心をうまく利用して目的の場所に誘導するところは牧羊犬と通ずるものもあるけど……。
「燎、そんな可愛くないじゃん。」
「今、何か言ったか?」
そう漏らした瞬間低く落とした声に共にガッとヘッドロックをかけられる。
「ちょ、ギブギブギブ!!」
「うるさいぞこの性別迷子が。この前の潜入捜査の時だって何の違和感もない女装披露しやがって。逆にビビったわ。」
「なっ!!? しょうがないじゃん、あの時は潜入先が女子高だったんだから! そもそもあの時嬉々としてオレの服?いで女装させたのお前だろ!?」
「他人が聞いたら誤解するような言い方をするな!」
ぎりぎりと力を込められた燎の腕を叩きながらも喚き、しばらくぎゃーぎゃーと騒いでいればふと燎の腕の力が緩んだ。
「……燎?」
不思議に思って顔をあげれば真剣な顔をした燎と視線が絡む。
「……追い込むのは別にいい。実際、室内ではオレの力の方がそういうのに向いているしな。ただ、気を付けろよ? ――千影。」
そのいやに真摯的な声に小さく笑い頷いた。
「うん。燎もね。燎が強い事は知ってるし、オレ達に『死』っていう概念は存在しないけど、油断だけはしないで。さっきも言ったけど、時間の問題なのは確かだから。――大分美味しそうな匂いになってきてるからさ。」
***
――――…………こんなつもりじゃなかったんだ。
徐々に降りる夜の帳に合わせるように薄暗くなっていく廃ビルの中、『男』は独り向こう側が透けて見える自らの両手を見下ろした。
最初は些細な事だった。
折角静かに眠っている自分の持ち物であったこの廃ビルに夜な夜な肝試しと称して大声で馬鹿話をしながら我が物顔でビルの中を歩き回るだけでは飽き足らず、時には物を壊したり、ごみを散らかし帰っていく若者達が訪れるのが不快で仕方がなかった。
静かに寝かせてくれ。
私は眠っていたいだけなんだ。
頼むから邪魔をしないでくれ。
そんな小さな不満が塵のように心に降り積もり、鬱々とした日々を過ごしていたある夜。
まだ火が付いている煙草の吸い殻が捨ててあるのを見た時、『男』の我慢は限界を超えた。
それ以来、『男』は肝試しに来る連中を誰彼構わず攻撃した。
最初は若者達の前に姿を現し、「出ていけええええええええ!!!」と腹の底から叫ぶという単純な方法だった。
それが、ポルターガイストでそこらビル内に残されていたものを飛ばすのは当たり前になり、いつしか若者達が怪我をしてもなんとも思わなくなった。
それどころか階段を上っていた若者の足を思い切り引っ張り転ばせてそこら中に撒いてあったガラス片で若者が怪我をした時は、スッと胸がすいた思いさえした。
どんどんエスカレートする行為を頭の片隅で理解しながらもそれを抑える事がどうしても『男』にはできなかった。
そして。
「きゃあああああああ!!!!」
老朽化により一部崩れ落ちていた床を恐る恐る覗き込んでいた見るからにギャル系の女性の背中を突き飛ばした時、『男』は決して越えてはいけない一線を越える。
下の階に落下し、ピクリとも動かない女性を見た時に、その心を占めたのは紛れもなく愉悦感。
そこから先はまさに坂道を転がる石のようだった。
坂で加速した石が減速することは愚か自らを止める事など出来ないように、『男』もまた自らの感情の赴くままに次から次へと若者達をその手にかけていった。
そうしてある時、体のあちらこちらに黒いシミのようなものが浮き出ている事に『男』は気が付いた。
普通ならば皮膚科にでもいくところだが、男はもうすでにこの世を去った所謂霊という存在だ。
どうすればいいかも分からずにいるうちに、初めは小さかった「黒」は徐々に大きく広がり、『男』の体を浸食し始めた。
体が黒に侵食されれば浸食される程、『男』の中に積もっていた小さな不満は憎しみとなり若者達に対する行為をさらにエスカレートさせていく。
「……私は一体どうしてしまったんだ。」
――否、どうなってしまうんだ。
ほぼ黒に染まった両手を見つめながら『男』は不安げな声をあげる。
しかし、その時。
閉鎖されている筈のこの廃ビルの中に唯一侵入できる箇所。
若者達が出入り口として利用していた非常口の扉が軋み開いた音に『男』は目をぎらつかせる。
最近では「入ると呪われる」という噂が立ち始めているようで、肝試しに来る若者達の数も減っている。
それでも、減っただけで、なくなったわけではない。
やがて、『男』がいる空間へと一人の青年が入ってきた。
シンプルな黒のローブコートの下に黒のナポレオンジャケット、黒のスラックスに黒い革靴。
ジャケットの下には白いシャツを着て、黒いネクタイを締めている年の頃は二十代半ばから後半と言ったアイドルやモデルと見間違うほど端正な男前の顔立ちの長身の青年は『男』の存在に気が付いてすらないようでコートのポケットから取り出したスマホを何やら操作している。
それがさらに『男』の憎しみと、加虐心を煽った。
『男』は腕を一振りする事で自らの足元に散らばっていたガラス片を宙に浮かせる。
――あいつらが悪いんだ。
俺はただ静かに眠っていたいだけなのに、それを邪魔するからこういう目に合うんだ。
「死ねえええええ!!」
自らが歪みきった笑みを浮かべている事にも気が付かない『男』の声と共に、ガラス片が一気に青年へ降り注ぐ。
普通の人間ならばそれだけで逃げ惑う光景に、青年は眉一つ動かさず徐に開いた右手を前に突き出す。
瞬間、彼の掌からまるで火炎放射器のように激しく燃え盛る炎が放たれ、ガラス片を全て燃やし尽くした。
「――――っ!?」
あり得ない光景にヒュッと息を飲んだ『男』に構わず、右手を下した青年――燎がその口端を吊り上げた。
「”アオサカショウヘイ”さんですね。初めまして、冥府庁現世万取締課の火坂燎と言います。貴方を、お迎えにあがりました。」
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