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第一章 誕生
悲劇の誕生
しおりを挟む「オギャア……オギャア」
机の上に置かれている赤ん坊の周りでは真っ黒な空気が漂っていた。側から見ると、黒い小さな靄が泣いているかのようだ。
部屋の中は煙が舞っており、空のバケツを持ち、立ち尽くしている男がいた。
赤子を産み落とした母親と思われる女性は、赤子を抱く訳でもなく、ぐったりと倒れたまま、動かない。
「なんで……だ」
部屋に一人で立ち尽くす男は赤ん坊を見ながら静かに呟いていた。
「なんで、闇…なんだ」
彼の立つ横には棚があった。そこには、今部屋で倒れている女性と、立ち尽くしている男性が、笑顔で写っている写真が何枚も置かれている。写真の中の女性は、細身には似合わない大きなおなかに手を置いて優しくほほ笑み、男性が彼女の肩を優しく包み込んでいた。
「なんで……」
男は目を見開く。目の前に広がる光景を焼き付けるかのように。そして、男はふらふらと歩き出し、台所にある包丁を手にした。
「なぜだ…」
まるで独り言のようにつぶやく男。包丁を持ち、彼はゆっくりと黒いもやに近付いて行く。
黒いもや一点を見つめ、彼は再びつぶやき始めた。
「ハンナと…おまえが産まれて来るのを、楽しみにしていた」
時折鼻をすする音を出す男は、黒いもやの前で立ち止まると、さらに赤ん坊に向かって、話し続けた。
「なのになんで……闇なんだ……」
「なんで、おまえを産んだら家が焼けるんだ」
「なんで……ハンナは」
彼は手にした包丁を赤ん坊の前に突き立てる。赤ん坊の横で倒れる女から、赤い液体がベッドを伝って床に落ちて行く。
「オギャア オギャア」
赤ん坊の大きな声に答えるように母親の血は地面に広がり
「オギャア オギャア」
赤ん坊の声に答えるように、父親は最後の言葉を浴びせた。
「おまえは、産まれて来るべきではなかった」
父親が、初めて我が子の顔を見て話しかけた瞬間、包丁は振り下ろされた。
赤ん坊は泣く。この世に産み落とされた闇の力を宿した赤ん坊は、何も理解する事もなく、何も見る事もなく、ただ、大きな声で泣いていた。
赤ん坊が初めて感じた体感は、母の胸の温もりではなく、体を貫く激痛だった。
黒い靄から驚くほどの血が地面に垂れ始める。血まみれの包丁を引き抜いた父親は、後退りするように、後ろへ一歩下がった。
「オギャア オギャア」
赤ん坊は泣き続ける。まるで、体の激痛を嘆くように。耳を貫くほどの泣き声だったのか、父親は包丁を持ちながら耳をふさいだ。
小さな黒いもやから放たれる声は、もはや悲鳴のようだった。
「ハミットさん!」
勢いよく開けられた戸から入って来たのは、ヤンと数人の男たちだった。
父親は、急に入って来た男たちに驚いたかのように目を丸くした。
ヤンは彼が持つ包丁を見た後、黒いもやの中、泣き叫ぶ血まみれの赤ん坊と、倒れている母親に視線を向ける。一見何があったのかわからない様子だったが、父親がひどく動揺している事だけは把握したようで、彼らはそっと父親に近付いて行った。
「う…」
彼らを目にした父親は、顔をひどくゆがませて腰を折った。
彼は「う…あ…あ」と、絞り出すような声を上げて、地面に座り込んだ。同時に、包丁は彼の手から離れ、金属が固い床にぶつかる音が響いた。
「ハミットさん…何があったんだ」
ヤンの後ろにいる男たちの一人が、低い声を出す。
ヤンは父親の隣に座り込み、嗚咽をはくように泣きじゃくる彼の背中を無言でさすり続けた。
「闇の子を産んだら……妻がし……んだ。その後、急に……家が燃え…て…」
途切れ途切れに話すハミットは、時折せき込みながらも懸命に声を出す。
「子供はどんどん真っ黒くなって…皆は助けを呼びに…俺は…残った」
ハミットは下を向いて「子供を…刺した」と低い声で話した。
男たちの一人が子供の側に駆け寄り「真っ黒でよく見えない」と、焦りを含んだ口調で言った。
「オギャア オギャア」
赤ん坊は変わらず泣き続ける。ハミットは顔を上げ、自分の子供に目を向けた。
「刺した……刺したんだ」
ヤンは、目を見開いて赤ん坊を見る彼の顔を目にした瞬間「ハミットさん、一回外に出ましょう」と早口で言った。
「オギャア オギャア」
赤ん坊の泣き声は無事に産まれた証。元気に産まれ、健全である証。
「オギャア オギャア」
「なんで…。なんでだよ…」
赤子を見つめるハミットの顔は更に青ざめて行く。
「なんで、なんで死なない!」
ハミットは叫ぶように、赤ん坊に向けて言い放った。
彼の手にも付くおびただしい血と、床に円を描き広がる血は、赤ん坊が生きていられる血の量をはるかに超過していた。
「ここにいたらダメだ。一度外に出て落ち着いて」
赤ん坊に起こるただならぬ事態を察したヤンは、動揺しきっている父親を外に連れ出そうと腕を引っ張る。
ヤンに連れられるまま、覚束ない足取りで進み出す父親は、赤ん坊から目を逸らす事はなかった。
部屋の中にいる男たちも、非現実的な光景を目の前に、真っ黒な空気に身を包む赤ん坊に触れる事すらかなわず、立ち尽くして見ている事しか出来なかった。
血まみれで大量に出血しているのにもかかわらず、赤ん坊の元気な泣き声は止まず、すぐ横には母親の遺体が横たわっているのだ。
異様な光景は、辺りに妙な空気を漂わせた。
「まず…奥さんを……!」
一人の男が、辺りに活を入れるように声を出した。われに帰ったように、周りの男たちも、ようやく赤ん坊から視線を外した。だが、再び彼らはあっけに取られる事になる。それは、父親の妻の下に駆け寄り、彼女を覆う薄い膜を見た時だった。
「なんだこれは」
戸惑うような声を響かせた男たちは、ハミットの妻を持ち上げようと、彼女の体に触れるが、遺体は1ミリも動かなかった。
「どうなってんだよ」
懸命に力を振り絞るも、やはり彼女の体は動かない。
薄い膜は、まるでガラスのように固い。
明らかに死後硬直ではないと思わせるのは、彼女に触れた彼らの手はツルツルと滑り、力を加える事も難しかったからである。
「おい!」
声を張った男に周囲の目線は集まる。彼は、すぐ隣で泣き声を上げている赤ん坊を見ていた。
母親に近付くと言う事は、すぐ隣にいる赤ん坊との距離も近くなる。真っ黒な闇の中に潜む赤ん坊の姿を、彼らは目の当たりにしたのだった。
赤ん坊の体にも、母親と同様の薄い膜が貼られていた。だが、顔や手足には薄い膜は見られず、胴体だけだ。
「…………」
辺りは暫し無言になり、部屋に入って来たヤンに向かって、男たちが口を開く。
「ハミットさん、刺したって言ってたよな」
ハミットを落ち着かせに行っていたヤンは、彼らの青くなった顔を見て目を見開いていた。
「あぁ」
返事を返しながらヤンも赤ん坊と母親の下へ歩いて行く。彼らの側に駆け寄り、母親を覆う膜を見たヤンは、一瞬、眉をひそめたが、すぐに赤ん坊に目を向けた。
「傷が、ないんだ」
男の一人が戸惑うように、言葉を口にする。
「これは」
ヤンは赤ん坊を見ながら呟くように言った。
「神々の力…か」
「噂の不老不死の力か。傷が治るとも聞いたが」
神々の力…すなわち、火、水等の力。神々の力を宿りし子供は、不老不死の力を宿しているとも言われていた。闇の子は闇の力以外に、炎の力も宿して産まれている。不老不死の力は、その炎の力に宿っている力である。
「まさか本当だったとは…」
「待て。この薄い膜みたいなのが、闇の子の不老不死の力…傷を治す力なら、奥さん、助かるかもしれない」
ヤンの言葉に続き、周りも話し始める。母親が生きているかもしれないと言う事が分かったのに、この異様な空気は何なのだろうか。
中心に立つヤンが、辺りを覆う正体の知れない不気味な空気の原因を、はっきりと言い放つ。
「問題は…。闇の子は、火の力を…不老不死の力を持って産まれたという所…」
辺りの男たちは目を見開いて赤ん坊を視界に入れる。
「この子は、死なないんだ」
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