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第21話 新しい風(前篇)
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趣味の世界は、孤独の世界。
孤独の世界は、自分一人だけで満たされる世界。
「趣味」とは俺にとって、自分の孤独を埋める行為だった。周りの人達がどんなに温かくても、俺自身が一人である事には変わりない。自分の両親を失った少年が、その寂しさを紛らわす行為に変わりなかった。それは、これからも変わらない。そう自分では思っていたが、彼女が「それ」をすっかり変えてしまった。彼女は不可思議な神秘として、俺の意識をまるきり入れかえてしまったのである。まるで春の微風のように、ある時は強く、またある時は弱くなって、隣の俺に様々な風景を見せては、その心を見事に掻きみだしてしまった。
俺は、その風に戸惑った。その風に潜んでいたモノが、あまりに危険すぎたからである。特に俺のような人間には、自分の封土を砂糖に、館の中を蜜に、家の召使い達を飴に変えてしまう程の力があった。今日の朝食を食べようとした時も、俺の隣にゆっくりと腰かけて、その小食を食べはじめた姿には、領主の俺もそうだが、流石の料理長も「え?」と驚いてしまった。「彼女には、『迷い』と言う物がないのか?」と、そう内心で思ってしまったのである。俺は彼女が今日の朝食を食べおえた後も、間抜けな顔でその横顔を眺めていた。
「あ、あの?」
「うん?」
「い、いや、別に。ただ」
「ただ?」
「凄いね。どう凄いのかは、上手く言えないけど。とにかく普通じゃないのは、確かだ」
精霊はその言葉に瞬いたが、やがて「クスッ」と笑いだした。それがとても可愛かったが、胸の痛みに意識が向いていたせいで、それに上手く応えられなかった。彼女が俺の目を見つめてきた時も、それにうっとりするあまり、その顔から何故か視線を逸らしてしまった。彼女はそれらの行為をまったく咎めず、俺の頬をまたそっと触っては、優しげな顔でその表面をしばらく撫でつづけた。
「普通は、あなたの幻想。あなたが、そう思っている幻」
「それじゃ、今の感覚も?」
「そう、あなたの幻。幻は、人間の良心を壊す。わたしは、そういうのをたくさん見てきた。自分で自分の魂を壊してしまう、その本質から離れてしまう人を。わたしは、それが悲しい。だから、あなたにはそうなってほしくない。あなたは、とても優しい人だから」
俺は、その言葉に胸を打たれた。彼女の言葉には、俺の心を打つ何かがある。
「う、うん、分かった。これからは、気をつけるよ。自分の本質を損なわないように」
「うん」
彼女は、「ニコッ」と笑った。俺も、それに笑いかえした。俺達は互いの顔をしばらく見あったが、料理長がそれに咳払いしたので、その顔から視線をすぐに逸らしあった。これにはお互い、何処か気はずかしくなってしまったらしい。実際の年齢は分からないが、見かけ上ではそう変わりないのだから。「意識するな」と言うのが、無理な話だろう。例の世話係は何故かイライラしていたようだが、俺にとっては、そんなのは実にどうでもよかった。
彼女と同じ時間を生きられればいい。それには終わりが必ずあるが、初めての気持ちに酔っていた事や、現実の辛さをまったく忘れていた事で、その終わりが意識からすっかり抜けおちていた。今はただ、目の前の幸せに浸っていたい。苦しみも、悲しみも、憎しみも忘れて、この新しい世界に酔っていたい。彼女がまた俺に「今日も、あの森にいこう」と言ってきた時も、召使いの注意を聞くどころか、それを見事に遮って、その言葉に「分かった。今日も、行こう」とうなずいていた。「あそこは、俺も大好きだからね」
俺は「ニコッ」と笑って、椅子の上から立ちあがった。彼女もそれにつづいて、椅子の上から立ちあがった。俺達は召使いに今日の生き場所を伝え、それに怒った召使いを無視し、食堂の中から出て、一度は俺の部屋に行き、部屋の中から様々な道具、特にカメラの関係品を持ったが、「この時間ですらも惜しい」と思って、玄関の中から勢いよく飛びだした。玄関の外はもちろん、晴れている。最近は晴れの日が続いているせいか、封土の風景もよく見え、館の馬小屋も光り輝いていた。馬小屋の中では、俺の馬が干し草を食べている。今日の朝食をもりもりと食べて、俺が馬小屋の中からそいつを出した時も、嬉しそうな様子で俺の身体に顔をこすりつけたり、精霊の彼女に頭を下げたりしていた。
俺は、馬の上に乗った。精霊も、その後ろに乗った。俺は手元の手綱を引いて、自分の馬を走らせた。馬は、爽快に走った。封土の道を進む時はもちろん、そこから森の中に入った時も、目の前の障害物に時折驚きはしたが、俺が手元の手綱を操ると、一瞬の安心感を覚えて、またいつもの調子に戻っていった。馬は俺の指示に従い、木々の間に止まった。
俺は、馬の上から降りた。彼女も、その後につづいた。俺達は地面の上に立って、周りの景色をじっと眺めはじめた。周りの景色は、やはり美しかった。木々の間に朝日が差しこんでいるおかげで、あらゆる風景が輝いている。それが水面に映っている森の川も、その川辺に生えている水草も、空の青さに相まって、この時だけの美を見せていた。これを見のがせば、せっかくの気分が損なわれてしまう。花びらの片側に光が当たっている野花も、それを自分なりに察しているのか、風の力に従って、自分の身体をふわりと揺らしていた。
俺は、その光景に胸を打たれた。それらの光景は元々好きだったが、自分の隣に彼女がいる事で、それらにいつも以上の感動を覚えてしまったからである。隣の彼女が「クスッ」と笑った表情にも、それと同じくらいの感動を覚えてしまった。この感情はたぶん……いや、「愛」に必ず違いない。少年の恋や、少女の愛とは違う、人間の愛。あらゆる濁りを取りのぞいた純愛。その純愛が、遅咲きの少年に咲きほこったのだ。本当ならずっと前に、思春期の入り口で咲きはじめていた筈の蕾が、ようやく咲きみだれたのである。
俺は、その花に胸が苦しくなった。花の色は、とても美しいのに。それを思うと、何だかクラクラしてしまう。自分の気持ちが惚けてしまう。あらゆる匂いが芳香に、あらゆる景色が桃色に、あらゆる感触が甘美にすっかり変わってしまうのだ。彼女が俺の手を取って、俺に「一緒にあるきましょう?」と言った時も、それに思わず酔いしれてしまって、その答えをまったく忘れてしまったのである。
俺は彼女の手を握ったまま、間抜けな顔でその場にしばらく立ちつづけてしまった。
「う、うん、いいよ」
おぼつかない返事。だが今は、それが精一杯だった。
「俺も、一緒に歩きたい」
精霊は「歩きたい」の部分にうなずいて、俺の手をそっと引いた。
俺は、その手に従った。彼女の手には、逆らいたくない。彼女が俺の手を引いて、森の中をくるりと舞う動きにも。彼女は俺のしらない世界を、「しっている」と思いこんでいた世界を、自然の循環さながらに掻きまわしては、その趣味もひっくるめて、すっかり変えてくれたのである。「趣味も純愛も、結局は自然の一部」ってね。それを言葉では発しなかったが、俺の手をそっと握る力や、舞踊の時に生まれる風を使って、俺にそれを教えてくれたのである。
「ずっと一緒にいたい」
「ずっと一緒にいられる。ずっと一緒にいられるから、ずっと一緒にいられない」
俺は、その言葉に思わず驚いた。その言葉は、かなり矛盾に満ちている。
「どうして?」
「どうしても」
「君が、風の精霊だから?」
「あなたが、自然の一部だから」
彼女は穏やかな顔で、俺の目を見つめた。その目は、とても澄んでいる。
「わたしは、自然そのモノ。自然は、すべてのモノを包む。だから一緒にいられて、一緒にいられない。わたしはいつも、あなたの隣にいる。だから、一緒にいられない」
「そんな」
絶望だ。目の前が真っ暗になるような絶望。自分の好きな事が、すべて否まれるような絶望。それが一気に襲ってきて、彼女の手を思わず放してしまった。
「嫌だよ」
そんなの……。
「絶対に嫌だ! 俺は、君と一緒にいたい。これからも、ずっと!」
彼女は、その言葉に微笑んだ。微笑んだが、その顔は憂いを帯びていた。彼女もまた、ある種の哀しみを覚えていたようである。
「孤独は、人間の宿命」
「え?」
「だから、周りの人間を愛する。周りの人間を愛して、次の命に未来を託す。あなたにも、その資格がある」
「俺にも、その、資格が?」
「それを放しては、だめ。あなたの資格は、あなただけの物。あなたの命を輝かせる宝物」
精霊は「クスッ」と笑って、俺の口に口づけした。その口づけは、甘かった。甘い上に切なかった。周りの景色をすっかり消して、その音すらも殺してしまう程に。それは少年が大人になる過程で味わう甘み、そして、それに伴う苦みだった。彼女は自分の顔を離して、俺の右手をそっと指さした。俺の右手には、例のカメラが握られている。
「撮って」
「え?」
「それは、自然の一部を切りとる道具。わたしの姿を写す道具」
彼女はまた、「クスッ」と笑った。
「写真の風は、消えない」
俺は、その言葉にうなずいた。それが意味するところを分かっていながらさ。夢中で彼女の写真を撮りはじめたのだ。自分の気持ちから逃げだすように。それでいながら、その気持ちとずっと向きあうように。あらゆる感情を忘れて、彼女の写真を一心不乱に撮りつづけたのである。俺は彼女が俺に「泣かないで」と言った時も、真剣な顔でカメラのシャッターを切りつづけていた。
「う、ううう」
ある瞬間だ。
「くっ、はっ!」
身体の力がすべて抜けてしまった。
「う、うううっ」
俺は地面の上に座りこんで、その場に思わず泣きくずれた。
「いやだよぉ」
精霊は、その言葉を遮った。俺の頭を撫でてね、その涙を少しだけ止めてくれたのである。
「だいじょうぶ」
「なにが、だよ!」
「あなたには、これから新しい風が吹く。それがあなたの心を救ってくれる」
「そんな事」
分かりっこない! と、俺は叫んだ。
「新しい風が、俺を救ってくれるなんて」
「わかる」
「え?」
「わたしには、わかる。ぜんぶわかる。だから、これでお別れ」
「なっ! 待って!」
その手は、彼女に届かなかった。俺が彼女に手を伸ばした瞬間、何処からか強い風が吹いてきて、両目の瞼を思わず閉じてしまったからである。俺は急いで両目の瞼が開けたが、俺が森の中を見わたした時にはもう、彼女の姿は綺麗に消えてしまっていた。
「あ、あああ」
思考が止まった。
「うわぁあああ!」
理性も、止まった。
「ぐっ、うっ、はっ!」
残っているのは、言いようのない哀しみだけだった。
「どうしてだよぉ!」
俺は自分の感情を吐きだしつづけたが、それもやがて辛くなってしまうと、地面の上から静かに立ちあがり、馬の上にまた乗って、自分の館にゆっくりと帰っていった。館の前では召使いが俺を待っていたが、俺の様子がおかしい事に気づいたらしく、最初は俺に「大丈夫ですか?」と話しかけていただけだったものの、俺が馬の上から降りた時には「なるほど」とうなずいて、その背中をそっと摩りはじめた。
俺は、その手に抗わなかった。
「帰ってしまった」
無言の返事。それが無性に腹立たしかった。
「自然の世界に。自分の世界に。彼女は俺を置いて、その世界に帰ってしまった」
「それが自然の理です。自然は、人間の手には余る物。彼女はただ」
そこまで聞いて、ある事に気づいた。召使いには、彼女の正体を教えていない。正体の事は、「ただの迷子だ」とだけ伝えていた。それなのに?
「いつ気づいたんだ?」
「確かな証拠はありませんでしたが、それとなく。今のそれで、すべてが繋がりましたけど」
「そうか、うん。育ての親には、やっぱり敵わないな。俺以上に俺の事を分かっている」
召使いは、その言葉に何も返さなかった。
「切ないですね」
「うん……」
「でも、それが人生です。多くの哀しみを越えて、人間は大人になってく。貴方はまだ、その入り口にしか立っていない」
「そう、かもね。あの子も、そう言っていたよ」
「そうですか。それなら」
「うん?」
「それを乗りこえるしかありません」
「どうやって?」
「それは、既にご存じの筈です」
俺は、その言葉にうつむいた。それが意味するところを瞬時に察したからである。
「結婚?」
「ええ。正確には、お世継ぎの問題ですが。貴方も、それと向きあわなければなりません」
「できるかな? 俺に?」
「それは、分かりません。何事もやってみない限りはね。予想の世界に甘んじるのは、臆病者の戯れです。貴方は、臆病者ではないでしょう?」
「さあ? そんなのは、分からないよ。俺は、俺に自信がないからね」
「だったら、尚更です。自分の運命を恐れてはならない」
俺は、その言葉に震えあがった。未来への恐怖がなくなったわけではないが、そこに一筋の光が見えたおかげで、前よりも恐怖を感じなくなっていたからである。俺は震える拳を抑えつつ、真面目な顔で召使いの顔を見かえした。
「俺は、自分の趣味を止めない」
「結構です。それが、貴方の生き方なのでしょう? 私も、それは否めません。事実、それで救われている者も大勢いますから。貴方の趣味は、多くの人を楽しませる。それを分かった上で、自分の妻も幸せにすればいい」
「うん」
俺は「ニコッ」と笑って、封土の空を見あげた。封土の空は、やはり澄んでいる。
「来月だったよね? そのご令嬢と会うのは」
「ええ、今の予定が変わらなければ。司祭の方にも、そう言う方向で話を進めています。彼も、貴方の結婚を喜んでいましたよ?」
「そうか、それならいい。周りのみんなも、喜んでくれるなら」
俺は、召使いの顔に視線を戻した。未来の自分に微かな希望を抱いて。
孤独の世界は、自分一人だけで満たされる世界。
「趣味」とは俺にとって、自分の孤独を埋める行為だった。周りの人達がどんなに温かくても、俺自身が一人である事には変わりない。自分の両親を失った少年が、その寂しさを紛らわす行為に変わりなかった。それは、これからも変わらない。そう自分では思っていたが、彼女が「それ」をすっかり変えてしまった。彼女は不可思議な神秘として、俺の意識をまるきり入れかえてしまったのである。まるで春の微風のように、ある時は強く、またある時は弱くなって、隣の俺に様々な風景を見せては、その心を見事に掻きみだしてしまった。
俺は、その風に戸惑った。その風に潜んでいたモノが、あまりに危険すぎたからである。特に俺のような人間には、自分の封土を砂糖に、館の中を蜜に、家の召使い達を飴に変えてしまう程の力があった。今日の朝食を食べようとした時も、俺の隣にゆっくりと腰かけて、その小食を食べはじめた姿には、領主の俺もそうだが、流石の料理長も「え?」と驚いてしまった。「彼女には、『迷い』と言う物がないのか?」と、そう内心で思ってしまったのである。俺は彼女が今日の朝食を食べおえた後も、間抜けな顔でその横顔を眺めていた。
「あ、あの?」
「うん?」
「い、いや、別に。ただ」
「ただ?」
「凄いね。どう凄いのかは、上手く言えないけど。とにかく普通じゃないのは、確かだ」
精霊はその言葉に瞬いたが、やがて「クスッ」と笑いだした。それがとても可愛かったが、胸の痛みに意識が向いていたせいで、それに上手く応えられなかった。彼女が俺の目を見つめてきた時も、それにうっとりするあまり、その顔から何故か視線を逸らしてしまった。彼女はそれらの行為をまったく咎めず、俺の頬をまたそっと触っては、優しげな顔でその表面をしばらく撫でつづけた。
「普通は、あなたの幻想。あなたが、そう思っている幻」
「それじゃ、今の感覚も?」
「そう、あなたの幻。幻は、人間の良心を壊す。わたしは、そういうのをたくさん見てきた。自分で自分の魂を壊してしまう、その本質から離れてしまう人を。わたしは、それが悲しい。だから、あなたにはそうなってほしくない。あなたは、とても優しい人だから」
俺は、その言葉に胸を打たれた。彼女の言葉には、俺の心を打つ何かがある。
「う、うん、分かった。これからは、気をつけるよ。自分の本質を損なわないように」
「うん」
彼女は、「ニコッ」と笑った。俺も、それに笑いかえした。俺達は互いの顔をしばらく見あったが、料理長がそれに咳払いしたので、その顔から視線をすぐに逸らしあった。これにはお互い、何処か気はずかしくなってしまったらしい。実際の年齢は分からないが、見かけ上ではそう変わりないのだから。「意識するな」と言うのが、無理な話だろう。例の世話係は何故かイライラしていたようだが、俺にとっては、そんなのは実にどうでもよかった。
彼女と同じ時間を生きられればいい。それには終わりが必ずあるが、初めての気持ちに酔っていた事や、現実の辛さをまったく忘れていた事で、その終わりが意識からすっかり抜けおちていた。今はただ、目の前の幸せに浸っていたい。苦しみも、悲しみも、憎しみも忘れて、この新しい世界に酔っていたい。彼女がまた俺に「今日も、あの森にいこう」と言ってきた時も、召使いの注意を聞くどころか、それを見事に遮って、その言葉に「分かった。今日も、行こう」とうなずいていた。「あそこは、俺も大好きだからね」
俺は「ニコッ」と笑って、椅子の上から立ちあがった。彼女もそれにつづいて、椅子の上から立ちあがった。俺達は召使いに今日の生き場所を伝え、それに怒った召使いを無視し、食堂の中から出て、一度は俺の部屋に行き、部屋の中から様々な道具、特にカメラの関係品を持ったが、「この時間ですらも惜しい」と思って、玄関の中から勢いよく飛びだした。玄関の外はもちろん、晴れている。最近は晴れの日が続いているせいか、封土の風景もよく見え、館の馬小屋も光り輝いていた。馬小屋の中では、俺の馬が干し草を食べている。今日の朝食をもりもりと食べて、俺が馬小屋の中からそいつを出した時も、嬉しそうな様子で俺の身体に顔をこすりつけたり、精霊の彼女に頭を下げたりしていた。
俺は、馬の上に乗った。精霊も、その後ろに乗った。俺は手元の手綱を引いて、自分の馬を走らせた。馬は、爽快に走った。封土の道を進む時はもちろん、そこから森の中に入った時も、目の前の障害物に時折驚きはしたが、俺が手元の手綱を操ると、一瞬の安心感を覚えて、またいつもの調子に戻っていった。馬は俺の指示に従い、木々の間に止まった。
俺は、馬の上から降りた。彼女も、その後につづいた。俺達は地面の上に立って、周りの景色をじっと眺めはじめた。周りの景色は、やはり美しかった。木々の間に朝日が差しこんでいるおかげで、あらゆる風景が輝いている。それが水面に映っている森の川も、その川辺に生えている水草も、空の青さに相まって、この時だけの美を見せていた。これを見のがせば、せっかくの気分が損なわれてしまう。花びらの片側に光が当たっている野花も、それを自分なりに察しているのか、風の力に従って、自分の身体をふわりと揺らしていた。
俺は、その光景に胸を打たれた。それらの光景は元々好きだったが、自分の隣に彼女がいる事で、それらにいつも以上の感動を覚えてしまったからである。隣の彼女が「クスッ」と笑った表情にも、それと同じくらいの感動を覚えてしまった。この感情はたぶん……いや、「愛」に必ず違いない。少年の恋や、少女の愛とは違う、人間の愛。あらゆる濁りを取りのぞいた純愛。その純愛が、遅咲きの少年に咲きほこったのだ。本当ならずっと前に、思春期の入り口で咲きはじめていた筈の蕾が、ようやく咲きみだれたのである。
俺は、その花に胸が苦しくなった。花の色は、とても美しいのに。それを思うと、何だかクラクラしてしまう。自分の気持ちが惚けてしまう。あらゆる匂いが芳香に、あらゆる景色が桃色に、あらゆる感触が甘美にすっかり変わってしまうのだ。彼女が俺の手を取って、俺に「一緒にあるきましょう?」と言った時も、それに思わず酔いしれてしまって、その答えをまったく忘れてしまったのである。
俺は彼女の手を握ったまま、間抜けな顔でその場にしばらく立ちつづけてしまった。
「う、うん、いいよ」
おぼつかない返事。だが今は、それが精一杯だった。
「俺も、一緒に歩きたい」
精霊は「歩きたい」の部分にうなずいて、俺の手をそっと引いた。
俺は、その手に従った。彼女の手には、逆らいたくない。彼女が俺の手を引いて、森の中をくるりと舞う動きにも。彼女は俺のしらない世界を、「しっている」と思いこんでいた世界を、自然の循環さながらに掻きまわしては、その趣味もひっくるめて、すっかり変えてくれたのである。「趣味も純愛も、結局は自然の一部」ってね。それを言葉では発しなかったが、俺の手をそっと握る力や、舞踊の時に生まれる風を使って、俺にそれを教えてくれたのである。
「ずっと一緒にいたい」
「ずっと一緒にいられる。ずっと一緒にいられるから、ずっと一緒にいられない」
俺は、その言葉に思わず驚いた。その言葉は、かなり矛盾に満ちている。
「どうして?」
「どうしても」
「君が、風の精霊だから?」
「あなたが、自然の一部だから」
彼女は穏やかな顔で、俺の目を見つめた。その目は、とても澄んでいる。
「わたしは、自然そのモノ。自然は、すべてのモノを包む。だから一緒にいられて、一緒にいられない。わたしはいつも、あなたの隣にいる。だから、一緒にいられない」
「そんな」
絶望だ。目の前が真っ暗になるような絶望。自分の好きな事が、すべて否まれるような絶望。それが一気に襲ってきて、彼女の手を思わず放してしまった。
「嫌だよ」
そんなの……。
「絶対に嫌だ! 俺は、君と一緒にいたい。これからも、ずっと!」
彼女は、その言葉に微笑んだ。微笑んだが、その顔は憂いを帯びていた。彼女もまた、ある種の哀しみを覚えていたようである。
「孤独は、人間の宿命」
「え?」
「だから、周りの人間を愛する。周りの人間を愛して、次の命に未来を託す。あなたにも、その資格がある」
「俺にも、その、資格が?」
「それを放しては、だめ。あなたの資格は、あなただけの物。あなたの命を輝かせる宝物」
精霊は「クスッ」と笑って、俺の口に口づけした。その口づけは、甘かった。甘い上に切なかった。周りの景色をすっかり消して、その音すらも殺してしまう程に。それは少年が大人になる過程で味わう甘み、そして、それに伴う苦みだった。彼女は自分の顔を離して、俺の右手をそっと指さした。俺の右手には、例のカメラが握られている。
「撮って」
「え?」
「それは、自然の一部を切りとる道具。わたしの姿を写す道具」
彼女はまた、「クスッ」と笑った。
「写真の風は、消えない」
俺は、その言葉にうなずいた。それが意味するところを分かっていながらさ。夢中で彼女の写真を撮りはじめたのだ。自分の気持ちから逃げだすように。それでいながら、その気持ちとずっと向きあうように。あらゆる感情を忘れて、彼女の写真を一心不乱に撮りつづけたのである。俺は彼女が俺に「泣かないで」と言った時も、真剣な顔でカメラのシャッターを切りつづけていた。
「う、ううう」
ある瞬間だ。
「くっ、はっ!」
身体の力がすべて抜けてしまった。
「う、うううっ」
俺は地面の上に座りこんで、その場に思わず泣きくずれた。
「いやだよぉ」
精霊は、その言葉を遮った。俺の頭を撫でてね、その涙を少しだけ止めてくれたのである。
「だいじょうぶ」
「なにが、だよ!」
「あなたには、これから新しい風が吹く。それがあなたの心を救ってくれる」
「そんな事」
分かりっこない! と、俺は叫んだ。
「新しい風が、俺を救ってくれるなんて」
「わかる」
「え?」
「わたしには、わかる。ぜんぶわかる。だから、これでお別れ」
「なっ! 待って!」
その手は、彼女に届かなかった。俺が彼女に手を伸ばした瞬間、何処からか強い風が吹いてきて、両目の瞼を思わず閉じてしまったからである。俺は急いで両目の瞼が開けたが、俺が森の中を見わたした時にはもう、彼女の姿は綺麗に消えてしまっていた。
「あ、あああ」
思考が止まった。
「うわぁあああ!」
理性も、止まった。
「ぐっ、うっ、はっ!」
残っているのは、言いようのない哀しみだけだった。
「どうしてだよぉ!」
俺は自分の感情を吐きだしつづけたが、それもやがて辛くなってしまうと、地面の上から静かに立ちあがり、馬の上にまた乗って、自分の館にゆっくりと帰っていった。館の前では召使いが俺を待っていたが、俺の様子がおかしい事に気づいたらしく、最初は俺に「大丈夫ですか?」と話しかけていただけだったものの、俺が馬の上から降りた時には「なるほど」とうなずいて、その背中をそっと摩りはじめた。
俺は、その手に抗わなかった。
「帰ってしまった」
無言の返事。それが無性に腹立たしかった。
「自然の世界に。自分の世界に。彼女は俺を置いて、その世界に帰ってしまった」
「それが自然の理です。自然は、人間の手には余る物。彼女はただ」
そこまで聞いて、ある事に気づいた。召使いには、彼女の正体を教えていない。正体の事は、「ただの迷子だ」とだけ伝えていた。それなのに?
「いつ気づいたんだ?」
「確かな証拠はありませんでしたが、それとなく。今のそれで、すべてが繋がりましたけど」
「そうか、うん。育ての親には、やっぱり敵わないな。俺以上に俺の事を分かっている」
召使いは、その言葉に何も返さなかった。
「切ないですね」
「うん……」
「でも、それが人生です。多くの哀しみを越えて、人間は大人になってく。貴方はまだ、その入り口にしか立っていない」
「そう、かもね。あの子も、そう言っていたよ」
「そうですか。それなら」
「うん?」
「それを乗りこえるしかありません」
「どうやって?」
「それは、既にご存じの筈です」
俺は、その言葉にうつむいた。それが意味するところを瞬時に察したからである。
「結婚?」
「ええ。正確には、お世継ぎの問題ですが。貴方も、それと向きあわなければなりません」
「できるかな? 俺に?」
「それは、分かりません。何事もやってみない限りはね。予想の世界に甘んじるのは、臆病者の戯れです。貴方は、臆病者ではないでしょう?」
「さあ? そんなのは、分からないよ。俺は、俺に自信がないからね」
「だったら、尚更です。自分の運命を恐れてはならない」
俺は、その言葉に震えあがった。未来への恐怖がなくなったわけではないが、そこに一筋の光が見えたおかげで、前よりも恐怖を感じなくなっていたからである。俺は震える拳を抑えつつ、真面目な顔で召使いの顔を見かえした。
「俺は、自分の趣味を止めない」
「結構です。それが、貴方の生き方なのでしょう? 私も、それは否めません。事実、それで救われている者も大勢いますから。貴方の趣味は、多くの人を楽しませる。それを分かった上で、自分の妻も幸せにすればいい」
「うん」
俺は「ニコッ」と笑って、封土の空を見あげた。封土の空は、やはり澄んでいる。
「来月だったよね? そのご令嬢と会うのは」
「ええ、今の予定が変わらなければ。司祭の方にも、そう言う方向で話を進めています。彼も、貴方の結婚を喜んでいましたよ?」
「そうか、それならいい。周りのみんなも、喜んでくれるなら」
俺は、召使いの顔に視線を戻した。未来の自分に微かな希望を抱いて。
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