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はじめのいっぽ

プロジェクト

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4:30
 目覚めは青空、天井には白く流れる雲があった。両手両足を伸ばし羽布団の心地よさを堪能する。生成色のカーテンを開ければ黒瓦くろがわらの金沢の街が広がっていた。

「すごーーい!もう、ここに一生住みたい!」

 すると扉をノックする音、次いで笑いを堪えきれぬといった具合の失笑が聞こえた。

「一生、それは大歓迎です」
「あっ!おはようございます!」
「おはようございます果林さんは早起きですね」

 パティシェールとブーランジェリーを兼ねていた果林は毎朝4:00に起床、始発のバスに揺られ菓子工房に入りケーキやバケッドを焼いていた。

「宗介さんも今起きられたんですか?」
「あぁ、私は玉川公園たまがわこうえん辺りを一周して来ました」
「走って」
「ウォーキングです」

(ウォーキング、ランニングじゃないのか)

「健康的ですね」
「元気が取り柄です」

 部屋着に着替えて朝のコーヒーでもどうですかと誘われた。身なりを整えた果林はリビングに漂う芳しい珈琲の香りと白い皿に山盛りになったサンドイッチに感動した。

ぐぅ

 腹の虫が鳴いた。

「これ、どうしたんですか!」
「厨房を借りて作って来ました」
「ふ、副社長直々の手作りサンドイッチ!」
「ここでは宗介でお願いします」

 宗介は顔の前で指を左右に振った。

「はぁ」
「仕事とプライベートは区別したいんです」
「なるほど、了解しました」
「では、どうぞ」
「いただきます!」

 手作りサンドイッチはブラウン食パンにハムと胡瓜、スライスチーズが挟まれていた。見様見真似で作ったのかバターの量が多めで噛むとにゅっと顔を出した。

「宗介さんが仰る温かい味、分かりました」
「そうですか!良かったです!」
「いつも作る方だったから、こうして作って頂いたサンドイッチ、こんなに美味しいんですね」

 果林は目頭が熱くなるのを感じた。

「果林さんにお出しするには恥ずかしい出来栄えですが喜んで頂けて嬉しいです」
「美味しいです、いつも作られるんですか?」
「いえ、初めてです」
「初めて!」
「果林さんが父と食事するには緊張されるかと思って作りました」
「えええええ、ありがとうございます」

 そう話しつつも果林の手は止まらない。その姿を眺めていた宗介がまたとんでもない事を言い出した。


「父と母には追い追い紹介します」
「は、はい?」
 
 社長は仕事上会う事はあっても御母堂様と個人的にお会いする必要はないのでは無いだろうか、サンドイッチが喉に詰まった。

「い、いえ。そんな」
「まぁ、追い追いですが」
「はぁ、追い追い」
(同じ食堂でお食事を頂く訳だし、まぁそれもありか)



ふあああああ


 熱々の珈琲と手作りのサンドイッチで満腹になった果林は緊張の糸が解け、宗介の前でなにもかもを吸い込みそうな大欠伸おおあくびをしてしまった。

「あっ、失礼しました!」
「それで良いんですよ、嬉しいです」
「いえ、でも、そんな」
「こうして訳ですから自然体で」
(住んでゆく、とは?)



ふあああああ


「おっと!」

 宗介が木製の壁掛け時計を見て慌てて立ち上がった。

「もうこんな時間ですね」
「あっ、着替えないと!」
「お仕事ですよ。よろしくお願い致します」
「はい!」

 果林は手際よくリビングテーブルの上を片付けた。

「お皿とコーヒーカップは洗います!」
「お願いします」

 真新しい白いカッターシャツに黒いパンツ、ウエストのベルトを締めると気分も引き締まった。化粧はナチュナルに口紅は宗介から贈られた小町紅をうっすらと塗り髪はまとめて結えた。

「お待たせしました」
「はい、似合っていますよ」

 宗介も部屋着から濃灰のスーツと白いワイシャツに着替え、焦茶のネクタイを締めていた。玄関先に並んだ新品の黒いパンプスと赤茶の革靴。

「さぁ、行きましょうか」
「はい」

 羽柴果林、勤務1日目の朝。
 

 果林は総務課で社員証を受け取り首から下げ、3階の企画室の面々に挨拶をした。なんのプロジェクトメンバーなのか教えて貰っていないと話すとメンバーの1人、宗介と同期入社だという男性社員宇野うのが果林に耳打ちした。

「羽柴さんの人生を左右しちゃう計画だよ」
「そ、そんな大きなプロジェクトなんですか!?」
「そうなんだよ、頑張って」

 丸めた書類で肩を軽く叩かれたが意味がよく分からない。

(人生を左右、確かに宗介さんにはお世話になっているな)

 離婚届が準備され翌日晴れて離婚成立、過酷な結婚生活から解放され、更に衣食住を無償で提供する宗介かみが降臨し新しい職場、給与まで支給されるこの優遇措置。

(実はこれ、ドッキリでした!とか看板出たりしない!?)

 果林は周囲を見回したが黙々と図面に向かう社員にその様な気配はない。そこへ書類を持った宗介が現れた。

「これが企画室ですか」
「はい」
「意外と殺風景ですね」

 企画室といってもスチールデスクが4つ、パイプ椅子が4脚、大きなホワイトボードがひとつ、あとは壁紙や木材、布、革の見本が壁に掛けられているだけ。

(これはーーーなにかを造る、造る!?)

 辻崎ビルで工事が行われているのは2階フロアchez tsujisakiしぇ つじさきの向かいの店舗しか思い付かない。

「ここがです」
「新店舗ですか」
「現在の案では入り口はオープンテラスになる予定です」
「や、ちょっと待って下さい、私の店舗って意味が分かりませんが!」
「そのままの意味です」
「私がオーナーという事ですか?」
「オーナーといってもパティシエールとして勤務して頂きたいです」

 宗介は壁に並んだ木材の見本を1枚、1枚と指差しながら話を続けた。

「果林さんはchez tsujisakiしぇ つじさきから引き抜かれたのです」
「引き抜かれた」
「あなたの温かな味はあの場所では活かされません」
「ーーーはい」

 確かに、和寿の自己中心的な物言いやその時々の気分に左右される劣悪な環境では来店者に満足な接遇をする事さえ許され無かった。

(なるほど!)

 あれはchez tsujisakiしぇ つじさき木古内家から引き抜くための離婚届だったのか!果林は自分に都合の良い解釈で宗介の好意を受け取る事にした。

 スチールデスクの上に広げられた大判の紙には果林が予想した通りchez tsujisakiしぇ つじさきの真向かいに位置する店舗の図面が引かれていた。

「ここもパティスリーブーランジェリーのお店なんですね」
「はい」
chez tsujisakiしぇ つじさきと同じジャンルです、重複すると思うんですが」
「それは問題ありません」
「どういう意味ですか」
「いずれ分かります」




 果林はこの店舗のコンセプトは<癒し>だと聞かされた。その由来は人事課部長が評価した果林の人柄を反映したものだという。

「そんな事言われるとなんだか照れます」
「果林さんは癒しそのものですよ、ねぇ副社長」
「あ、あぁ」
「副社長どうされました、顔が赤いですよ」
「なんでもない」



 そして果林は実店舗で勤務していた経験から菓子工房やカウンターの位置、テーブルやソファーの配置まで実に有意義な発言をした。

「羽柴さん、逸材じゃないか」
「宇野」
「副社長の気まぐれかと思ってたよ」
「そうか」
「カウンターから奥のテーブルまでの動線も最短距離で無駄がない」
「そんなに褒めるなよ」
「なんでおまえが照れるんだよ」



 天井のはりには秋田杉、フローリングの床材候補にアサダや柞の木いすのきなどはどうかと知識も豊富で周囲を驚かせた。

「羽柴さん、詳しいのね」
「父が建具屋たてぐやを営んでいて」
「なるほどね!確かにこの素材なら傷みも少なそうね」

「果林ちゃん、頑張っていますよ」
「そうか、ありがとう」
「副社長、どうされました、照れてます?」



 新店舗はオープンテラス、そして果林の思惑は当たり青いビニールシートの向こうは芝生が広がり辻崎のシンボルツリーけやきの樹が大きく枝を広げていた。いや、植樹されていると図面には記されていた。

「どうして私は見に行ってはいけないんですか?」

 店舗の基礎工事の進捗状況は良いと聞かされていたが何故か果林は2階フロアに立ち入る事は禁じられた。

「どうしてですか?」
「工事中だから危ないからです」
「他の皆さんは行かれていますよ?」
「それは、その、とにかく危ないからです」

 実際の理由は他にあった。chez tsujisakiしぇ つじさきのフロアに果林を行かせる訳にはゆかなかった。和寿が果林を血眼になって探していたからだった。

 宗介の読みは当たった。chez tsujisakiしぇ つじさきの真の職人、パティシエールは果林だった。素材の仕込みや焼き加減、エスプレッソの一杯までもが彼女の手腕に支えられ、また穏やかで温かみのある接遇に社員は癒しを求めてこの店を利用していた。

「なんで客が来ねぇんだよ!」

 果林不在のchez tsujisakiしぇ つじさきにはお飾りのパティシエとブーランジェリーだけが残り和寿が作るケーキには愛情が感じられず杉野恵美の粗雑な接遇に金銭を払う価値など無かった。自然と社員の足は遠のいた。

「ちょっと!私のお給料まだ!?」
「うるせぇ!に払うテナント料がねぇんだよ!おまえにやる金なんかねぇよ!」
「タダ働きじゃない!」

 不倫相手の愛人との関係も殺伐とし苛立ちが隠せない。それでも昼になれば菊代が無銭飲食にやって来る。

「ばばぁ!なに呑気に食ってるんだよ!皿の一枚も洗えよ!」
「和ちゃん!ママに向かってなんて言葉遣いなの!」
「出てけよ!」

 そこで和寿は果林を連れ戻そうと躍起やっきになってその行方を探している。

「お義父さん、果林は来ていますか!」
「おまえは離婚したんだろう!もう関係ない、帰ってくれ!」

 羽柴の実家にも居ない。来るのは借金の督促状ばかりで和寿は転落の道を辿っていた。

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