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情熱
獅子座流星群
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莉子は24日の夜の外出をいつ切り出せば良いのか迷った。ただの友人ならば気軽に「あのね、今度飲みに行こうと思うんだ」そう話せる。直也も笑顔で「飲みすぎちゃ駄目だよ」と送り出してくれるだろう。
「ーーーあの」
「なに、言いたいことがあったら言った方が良いよ」
「やっぱりいいや、勘違いだった」
何度も同じ言葉を飲み込んだ。
20日土曜日
思いも寄らぬ事が起きた。
「直也、あのね」
「今度の24日の水曜日の事だよね」
「ーーーえ」
時計の秒針の音が耳に付いた。まさか直也の口から24日という言葉が転がり出るとは思ってもみなかった。蛇口から流れ出た水がタライの中で弾きシンクを濡らした。莉子は泡だらけの食器用スポンジを手に身動きが取れなくなった。
「莉子、水」
「あ、うん」
「茶碗を洗ったら座って」
直也はソファーの座面を叩くと階段を上って行った。2階でなにかを動かす音がした。莉子の指先は震え視線が左右に動いた。血管の中を血が逆流しこめかみが激しく脈打った。
最後の茶碗の泡を濯ぎ終えダスターで水回りを拭いた。エプロンを外し台所の電気のスイッチを消すと白い蛍光灯色のシーリングライトが酷く眩しく見えた。震える脚がソファに腰掛けた瞬間、軋む音に心臓が跳ねた。
(ーーー24日、24日、如何して直也が24日の事を知ってるの)
莉子が俯いていると直也がなにかを手にしてリビングに降りて来た。
(ーーーー!)
それは蔵之介と遣り取りした紙飛行機の数々が入ったクッキー缶だった。直也はその在処を知っていたのだと莉子は後頭部を殴られた様な衝撃を受けた。直也は心痛な面持ちでそれをリビングテーブルに置くとソファに腰掛けた。静寂が2人を包んだ。膝の上に置いた莉子の握り拳は震え落ち着かなかった。
「悪かった」
頭を下げたのは直也だった。莉子が驚いていると直也はその顔に向き直り口を開いた。
「俺はこの紙飛行機の事は知っていた」
「ーーーい、いつから」
「7年前、この家に引っ越した時に誤って床に落としてしまった」
「7年前」
「中身を見るつもりは無かった。ただばら撒いた紙飛行機に莉子の名前を見付けた興味本位だった」
「なんて書いてあったの」
「莉子、愛してる」
直也は7年も前から紙飛行機の事に気が付いていた。
「もう1枚開いたら、莉子 受験頑張れ そう書いてあった。文字も鉛筆で幼かったから学生の頃のものだろうと思った」
「知っていたの」
「知っていた、けれどただの思い出だと思って言わなかった」
直也は両膝に肘を突くと手のひらで顔を覆った。そして絞り出すような声で話を続けた。
「骨董市に行ってから莉子の様子がおかしかった。ぼんやり考え事をしたり夜もうなされていた。泣いている事もあった」
「直也」
直也は莉子の僅かな変化を感じ取っていた。
「それでついこれを開けて見た。如何してこれを見ようと思ったのか分からない。気が付いたらクッキーの缶を手に取っていた」
「ーーーー」
「見た事の無い紙飛行機が入っていた」
「それって」
直也は莉子を凝視した。
「英字新聞の紙飛行機だった。中は見ていない」
莉子の鼻腔は鼻息を軽く吸い上げた。
「骨董市でその男と会ったと思った」
「ーーーー」
「だから遠藤さんにLINEした」
「遠藤さん」
遠藤と呼ばれる人物は莉子の高等学校時代からの友人で直也の会社に勤めていた。莉子と直也は遠藤の紹介で付き合いが始まり結婚した。以前、直也が深夜にLINEでメッセージの遣り取りをしていた相手は遠藤だった。
「遠藤さんなら莉子の付き合っていた相手を知っていると思った」
「なんて、遠藤さんはなんて言っていたの」
「事故に遭った」
当時の交通事故は地方新聞に大きく掲載され高等学校内でもその噂はあっという間に広がった。莉子の額には大きな傷が出来、蔵之介が休学した事でそれは明らになった。
「ーーー事故」
「2人はとても仲が良かった」
「それで」
「事故の後、理由は分からないが2人は会えなくなった」
「そう、みんな知っていたんだ」
「そうなのか」
「ーーーうん」
妻の不貞が明らかになれば激昂し叱咤する事だろう。然し乍ら直也の目は穏やかで悲しい色をしていた。
「水曜日に会っていたのは雨月蔵之介さんなのか」
蔵之介の名前も知っていた。莉子が頷くと直也は伏目がちになった。
「スポーツジムに通うというのは嘘だったんだな」
「ごめんなさい」
「24日も、俺が言わなければ31日も、この先ずっと会い続けたのか」
「わからない」
「そうか、わからないのか」
「うん」
莉子はいつ頬を打たれるか、離婚を言い渡されるのだろうかと観念しきつく目を瞑った。ところが直也は莉子の手を握った。
「莉子、選んでくれ」
「ーーーえ」
「あの紙飛行機を見た時からいつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた」
「どういう事」
「怖かった。いつかその男が現れて莉子が心変わりをするんじゃないかと思っていつも怖かった」
「ーーーそんな筈なじゃない」
「水曜日に行っていたじゃないか」
なにも言えなかった。
「ーーー俺に隠れて会いに行っていたじゃないか」
その悲痛な言葉は頬を叩かれるよりも痛かった。
「選んでくれ、俺とその男とどちらと生きていくのか選んでくれ」
「直也」
「選んでくれ」
直也が泣く姿はいつ以来だろう、あれは結婚式で流した嬉し涙だった。
(ーーー直也を傷付けていた、直也は、直也はこんなに私を思ってくれていたのに)
莉子は直也を抱き締めていた。
7月24日
日が暮れた市営住宅の窓にはひとつふたつと明かりが点き楽しげな声が漏れ聞こえていた。莉子は約束の時間に蔵之介の家の扉をノックした。暫くすると鍵が開く音がして扉の中から無邪気な笑顔が顔を覗かせた。
(ーーー蔵之介)
莉子は涙を堪えながらその場に立ち竦んだ。
「莉子?入らないの?」
莉子は銀のマーガレットの指輪を蔵之介に差し出すと精一杯の笑顔を作った。
「これは返すね」
「なんで、なにかあったの」
蔵之介は児童公園の向こうの道路に黒い高級車が停まっている事に気が付いた。運転席側に立つスーツ姿の背の高い男性は蔵之介に深々とお辞儀をした。その人物が莉子の夫である事を直感した蔵之介はその時が来たと思った。
「そうなんだ」
「楽しかった、会えて嬉しかった」
莉子の涙が頬を伝うその時、蔵之介は「わかった」とだけ言ってその扉を閉めた。足元には白いマーガレットの花が揺れ、ポプラの樹々は騒めいた。莉子は直也と歩む人生を選択した。蔵之介と過ごした1ヶ月は呆気なく終わりを告げた。
(終わった)
莉子は涙を流しながら踵を返すと神妙な面立ちの直也に向かって迷う事なく歩いた。その時、背後で玄関の扉が開く音がした。
「莉子!」
莉子が振り向くと一機の白い紙飛行機が薄暗闇を真っ直ぐに飛びその足元に落ちた。蔵之介はいつかの日の様に「開けて見て」と身振り手振りで微笑んだ。その紙には換気扇交換のお知らせとあり、莉子が紙飛行機をゆっくりと開くと少し癖のある文字が並んでいた。
莉子 幸せになれ
莉子は頷くと頭の天辺で大きく丸を作った。蔵之介は玄関の扉を閉め、莉子は直也が運転する車の助手席の扉を閉めた。
直也の車は金沢市を見下ろす卯辰山のキャンプ場に停まっていた。緩やかな下り坂を降りた展望台からは煌びやかな街の明かりが一望出来、それは金沢港まで続いて烟って見えた。
「本当に良いの?」
「うん」
「俺に気を遣ってーー」
「そんなんじゃないわ、そうしたいの」
「思い出なんだろう」
莉子はキャンプ場の灰捨て場に紙飛行機を並べた。
莉子 頑張れ
莉子 受験合格
莉子 会いたい
莉子 大好き
莉子 愛してる
莉子 結婚しよう
直也のポケットからライターが手渡され、莉子は涙を浮かべながら紙飛行機に火を点けた。一機、また一機と煙となり18歳の幼かった恋心は天高く登って行った。
「莉子、流れ星だ」
「えっ、どこどこ」
「もう流れて消えたよ」
「見たかったな」
莉子 幸せになれ
了
「ーーーあの」
「なに、言いたいことがあったら言った方が良いよ」
「やっぱりいいや、勘違いだった」
何度も同じ言葉を飲み込んだ。
20日土曜日
思いも寄らぬ事が起きた。
「直也、あのね」
「今度の24日の水曜日の事だよね」
「ーーーえ」
時計の秒針の音が耳に付いた。まさか直也の口から24日という言葉が転がり出るとは思ってもみなかった。蛇口から流れ出た水がタライの中で弾きシンクを濡らした。莉子は泡だらけの食器用スポンジを手に身動きが取れなくなった。
「莉子、水」
「あ、うん」
「茶碗を洗ったら座って」
直也はソファーの座面を叩くと階段を上って行った。2階でなにかを動かす音がした。莉子の指先は震え視線が左右に動いた。血管の中を血が逆流しこめかみが激しく脈打った。
最後の茶碗の泡を濯ぎ終えダスターで水回りを拭いた。エプロンを外し台所の電気のスイッチを消すと白い蛍光灯色のシーリングライトが酷く眩しく見えた。震える脚がソファに腰掛けた瞬間、軋む音に心臓が跳ねた。
(ーーー24日、24日、如何して直也が24日の事を知ってるの)
莉子が俯いていると直也がなにかを手にしてリビングに降りて来た。
(ーーーー!)
それは蔵之介と遣り取りした紙飛行機の数々が入ったクッキー缶だった。直也はその在処を知っていたのだと莉子は後頭部を殴られた様な衝撃を受けた。直也は心痛な面持ちでそれをリビングテーブルに置くとソファに腰掛けた。静寂が2人を包んだ。膝の上に置いた莉子の握り拳は震え落ち着かなかった。
「悪かった」
頭を下げたのは直也だった。莉子が驚いていると直也はその顔に向き直り口を開いた。
「俺はこの紙飛行機の事は知っていた」
「ーーーい、いつから」
「7年前、この家に引っ越した時に誤って床に落としてしまった」
「7年前」
「中身を見るつもりは無かった。ただばら撒いた紙飛行機に莉子の名前を見付けた興味本位だった」
「なんて書いてあったの」
「莉子、愛してる」
直也は7年も前から紙飛行機の事に気が付いていた。
「もう1枚開いたら、莉子 受験頑張れ そう書いてあった。文字も鉛筆で幼かったから学生の頃のものだろうと思った」
「知っていたの」
「知っていた、けれどただの思い出だと思って言わなかった」
直也は両膝に肘を突くと手のひらで顔を覆った。そして絞り出すような声で話を続けた。
「骨董市に行ってから莉子の様子がおかしかった。ぼんやり考え事をしたり夜もうなされていた。泣いている事もあった」
「直也」
直也は莉子の僅かな変化を感じ取っていた。
「それでついこれを開けて見た。如何してこれを見ようと思ったのか分からない。気が付いたらクッキーの缶を手に取っていた」
「ーーーー」
「見た事の無い紙飛行機が入っていた」
「それって」
直也は莉子を凝視した。
「英字新聞の紙飛行機だった。中は見ていない」
莉子の鼻腔は鼻息を軽く吸い上げた。
「骨董市でその男と会ったと思った」
「ーーーー」
「だから遠藤さんにLINEした」
「遠藤さん」
遠藤と呼ばれる人物は莉子の高等学校時代からの友人で直也の会社に勤めていた。莉子と直也は遠藤の紹介で付き合いが始まり結婚した。以前、直也が深夜にLINEでメッセージの遣り取りをしていた相手は遠藤だった。
「遠藤さんなら莉子の付き合っていた相手を知っていると思った」
「なんて、遠藤さんはなんて言っていたの」
「事故に遭った」
当時の交通事故は地方新聞に大きく掲載され高等学校内でもその噂はあっという間に広がった。莉子の額には大きな傷が出来、蔵之介が休学した事でそれは明らになった。
「ーーー事故」
「2人はとても仲が良かった」
「それで」
「事故の後、理由は分からないが2人は会えなくなった」
「そう、みんな知っていたんだ」
「そうなのか」
「ーーーうん」
妻の不貞が明らかになれば激昂し叱咤する事だろう。然し乍ら直也の目は穏やかで悲しい色をしていた。
「水曜日に会っていたのは雨月蔵之介さんなのか」
蔵之介の名前も知っていた。莉子が頷くと直也は伏目がちになった。
「スポーツジムに通うというのは嘘だったんだな」
「ごめんなさい」
「24日も、俺が言わなければ31日も、この先ずっと会い続けたのか」
「わからない」
「そうか、わからないのか」
「うん」
莉子はいつ頬を打たれるか、離婚を言い渡されるのだろうかと観念しきつく目を瞑った。ところが直也は莉子の手を握った。
「莉子、選んでくれ」
「ーーーえ」
「あの紙飛行機を見た時からいつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた」
「どういう事」
「怖かった。いつかその男が現れて莉子が心変わりをするんじゃないかと思っていつも怖かった」
「ーーーそんな筈なじゃない」
「水曜日に行っていたじゃないか」
なにも言えなかった。
「ーーー俺に隠れて会いに行っていたじゃないか」
その悲痛な言葉は頬を叩かれるよりも痛かった。
「選んでくれ、俺とその男とどちらと生きていくのか選んでくれ」
「直也」
「選んでくれ」
直也が泣く姿はいつ以来だろう、あれは結婚式で流した嬉し涙だった。
(ーーー直也を傷付けていた、直也は、直也はこんなに私を思ってくれていたのに)
莉子は直也を抱き締めていた。
7月24日
日が暮れた市営住宅の窓にはひとつふたつと明かりが点き楽しげな声が漏れ聞こえていた。莉子は約束の時間に蔵之介の家の扉をノックした。暫くすると鍵が開く音がして扉の中から無邪気な笑顔が顔を覗かせた。
(ーーー蔵之介)
莉子は涙を堪えながらその場に立ち竦んだ。
「莉子?入らないの?」
莉子は銀のマーガレットの指輪を蔵之介に差し出すと精一杯の笑顔を作った。
「これは返すね」
「なんで、なにかあったの」
蔵之介は児童公園の向こうの道路に黒い高級車が停まっている事に気が付いた。運転席側に立つスーツ姿の背の高い男性は蔵之介に深々とお辞儀をした。その人物が莉子の夫である事を直感した蔵之介はその時が来たと思った。
「そうなんだ」
「楽しかった、会えて嬉しかった」
莉子の涙が頬を伝うその時、蔵之介は「わかった」とだけ言ってその扉を閉めた。足元には白いマーガレットの花が揺れ、ポプラの樹々は騒めいた。莉子は直也と歩む人生を選択した。蔵之介と過ごした1ヶ月は呆気なく終わりを告げた。
(終わった)
莉子は涙を流しながら踵を返すと神妙な面立ちの直也に向かって迷う事なく歩いた。その時、背後で玄関の扉が開く音がした。
「莉子!」
莉子が振り向くと一機の白い紙飛行機が薄暗闇を真っ直ぐに飛びその足元に落ちた。蔵之介はいつかの日の様に「開けて見て」と身振り手振りで微笑んだ。その紙には換気扇交換のお知らせとあり、莉子が紙飛行機をゆっくりと開くと少し癖のある文字が並んでいた。
莉子 幸せになれ
莉子は頷くと頭の天辺で大きく丸を作った。蔵之介は玄関の扉を閉め、莉子は直也が運転する車の助手席の扉を閉めた。
直也の車は金沢市を見下ろす卯辰山のキャンプ場に停まっていた。緩やかな下り坂を降りた展望台からは煌びやかな街の明かりが一望出来、それは金沢港まで続いて烟って見えた。
「本当に良いの?」
「うん」
「俺に気を遣ってーー」
「そんなんじゃないわ、そうしたいの」
「思い出なんだろう」
莉子はキャンプ場の灰捨て場に紙飛行機を並べた。
莉子 頑張れ
莉子 受験合格
莉子 会いたい
莉子 大好き
莉子 愛してる
莉子 結婚しよう
直也のポケットからライターが手渡され、莉子は涙を浮かべながら紙飛行機に火を点けた。一機、また一機と煙となり18歳の幼かった恋心は天高く登って行った。
「莉子、流れ星だ」
「えっ、どこどこ」
「もう流れて消えたよ」
「見たかったな」
莉子 幸せになれ
了
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