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第1章 雨宮凛
追憶
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意識がぼんやりしている──俺は今何をしていたのだろう?
ふと目の前に意識を持っていくと、漫画のコミックスが目に入ってきた。どうやら俺はベッドの上で寝ころびながら少女漫画を読んでいた様だった。内容は入ってこない。
周りに意識を向けてみる。そこは、どことなく女の子っぽい部屋だった。シンプルでモダンなデザインではあるが、大きな全身鏡やアロマオイルを入れるおしゃれな容器がある。
壁には女子のブレザーの制服が掛っていた。それは俺が通っていた高校のものではないというのはすぐにわかった。そして、その制服を見ると、どことなく落ち込まされた。
(最近見なくて済んでいたのに、どうしてこんなものを今更……?)
もぞっと、体の横で何かが動いた。
その時、横に誰かがいると知った。暖かく、柑橘系の良い匂いがした。懐かしい香りだった。
俺の横には、並ぶ様にしてくっついて寝ている女の子がいた。いや、女の子というよりは、女性だ。背は女性にしては高く、体は細いくせに出るとこは出ているモデル体型。制服のスカートに、上はキャミソールだけという、非常に魅惑的な格好で、彼女は俺に寄り添っていた。彼女の体温を肌で感じられて、暖かかった。肩にかかるかかからないからくらいの真っ黒な黒髪が、今はベッドと自分の顔で挟まれて、くしゃっとなっている。きつい目つきをしているが、今はその瞳は閉じられ、ぎゅっと俺の腕にしがみつく様にして寝ているのだった。
俺はこの子を知っている。忘れられるはずがなかった。
「ショー……?」
眠っていたと思われる女性が俺の名前を呼んだ。相沢翔で、ショー。彼女は俺をそう呼んでいた。
こうして名前で呼ばれのはいつ以来だろうか? この日以来、この声で、そしてこの発音でこの名を呼ばれた事はない。懐かしくて、胸が痛む。
彼女は目を開けて、呆れる様にこちらを見ていた。
「それ好きだね。読むの何回目?」
〝それ〟とは、おそらく今手にしている漫画の事だ。
「さぁ、何回目かな?」
記憶の通りの返答を俺がしていた。そのまま頁をめくりつつも、内容は全く頭の中に入ってこなかった。三角関係の男女の物語だったと思うけれど、多分もう内容なんてどうでもよかったのだ。
彼女は体を御越し、俺と一緒にその漫画を覗き込んだ。
「私といるの、つまんない?」
「そんな事ない」
「そう? その割に、最近全然求めてこなくなったけど……単純に、私に魅力がないだけ?」
彼女は自嘲する様に言った。
「今はそういう気分じゃないだけなんだ。気にしないでくれ」
そんなわけがなかった。彼女は魅力的だった。誰よりも魅力的で、誰よりも頭脳明晰で、非のつけどころがない。俺の憧れの女性だった。
ただ、俺は⋯⋯彼女を求める度に、彼女の知らないところで彼女を傷つけてしまうのだ。そして、彼女もまた、無意識のうちに俺を傷つけている。
もちろん、彼女に責任はない。全ては俺の所為なんだ。
そして、その事に気付いた俺は──いや、やめよう。考えただけで嫌な気持ちになる。自分の矮小さなんて、誰だって目を背けたいに決まっている。
——好きだよ。
心の籠っているのか籠っていないのかわからない言葉が口から出て、俺は彼女の頬に口付けた。彼女は寂しそうに笑っていた。
今度は彼女の方から唇を寄せてくる。お互いの舌と唾液が絡み合い、彼女の柔らかい舌先は脳味噌の奥からとろけてしまいそうになる。
(なのにどうして、こんなに悲しい味がするんだろう?)
それは、今の俺がこの後に起こる事を知っているからだろうか。それとも、ただ、この時から辛かったのだろうか。
「今日はもう帰るよ。課題あるし」
俺はそう言って口付けを終わらせ、ベッドから立ち上がる。
「……そう」
彼女は悲しそうに呟き、溜息を吐いて制服のブラウスを羽織った。
「バス停まで送って行く」
「いいよ。雨降りそうだし」
窓の外は、黒い雲が覆っていた。
「……私がそうしたいだけだから」
彼女は寂しそうな笑顔で、微笑んだ。今日はいつもより表情が豊かだったのが印象的だった。
彼女の家を出てしばらく住宅街を歩いていると、空は更に雨雲で暗くなった。バス停が見えてきたところで、スコールの様な大雨に見舞われ、俺達は慌ててバス停の屋根の下に逃げ込んだ。
冷たい雨に降られ、二人ともびしょ濡れになっていた。
肩にかかるかどうかの大人ショートカットの黒髪から滴り落ちる水滴が落ちて、彼女の着ていたブラウスは雨に濡れて透けてしまっていた。無意識のうちに、俺は溜息を漏らしていた。
「だから、別に送らなくていいって言ったのに」
ハンカチを鞄の中から取り出し、広げて彼女の頭に乗せてやる。彼女はハンカチを取ろうともせず、俯いたままだった。
その唇は強く噛まれていて、体が震えていた。どうした、と訊く前に、彼女は呟く様に言った。
「……もう、終わりにしよっか? 私達」
「え……⁉ どうして?」
いきなりの言葉に、そんな間の抜けた返答しかできなかった。いきなり別れを切り出されるとは、思ってもいなかったからだ。
「ショーは私に負い目を感じてる。約束を守れなかったって、一人で自分を責めてる。私はそんな事気にしていないのに」
「——そんな事ッ」
「無理しなくていいよ」
宥める様に優しく彼女は言った。もともと彼女はキツい目つきをしているのだけれど、この日だけはそのキツさがなく……諦めたような、優しい瞳を向けている。ただ、そんな表情とは裏腹に、声は震えていた。
「そんなショーを見ているの、もう辛い……」
言いながら、彼女は自分の額を押し付けるように、俺の胸にもたれかかってきた。
「もし、〝あの時の勝負〟で私が勝っていたら⋯⋯何て命令していたと思う?」
「わからない……」
答えると、彼女は悲しそうに微笑み──
「一生私の傍から離れないで、だよ」
「──え?」
驚いて彼女の方を向くと、彼女はそのタイミングで俺の唇を奪った。
さっきのように深い愛情表現を示す口付けではなく、ただ触れるだけのキス。最後に触れたその唇はとても冷たくて、震えていた。
「もし私が勝ってたら……未来は違っていたのかな」
唇を離すと、彼女はそう呟き、一滴の水滴が彼女の頬を伝った。そして、俺に背を向けて、暗い雨の中を走り去った。
──待ってくれ。
必死に彼女の名前を記憶から探し出す。だけど、名前がすぐに出てこない。だから、俺は叫ぶしかない。
──待ってくれ!
ふと目の前に意識を持っていくと、漫画のコミックスが目に入ってきた。どうやら俺はベッドの上で寝ころびながら少女漫画を読んでいた様だった。内容は入ってこない。
周りに意識を向けてみる。そこは、どことなく女の子っぽい部屋だった。シンプルでモダンなデザインではあるが、大きな全身鏡やアロマオイルを入れるおしゃれな容器がある。
壁には女子のブレザーの制服が掛っていた。それは俺が通っていた高校のものではないというのはすぐにわかった。そして、その制服を見ると、どことなく落ち込まされた。
(最近見なくて済んでいたのに、どうしてこんなものを今更……?)
もぞっと、体の横で何かが動いた。
その時、横に誰かがいると知った。暖かく、柑橘系の良い匂いがした。懐かしい香りだった。
俺の横には、並ぶ様にしてくっついて寝ている女の子がいた。いや、女の子というよりは、女性だ。背は女性にしては高く、体は細いくせに出るとこは出ているモデル体型。制服のスカートに、上はキャミソールだけという、非常に魅惑的な格好で、彼女は俺に寄り添っていた。彼女の体温を肌で感じられて、暖かかった。肩にかかるかかからないからくらいの真っ黒な黒髪が、今はベッドと自分の顔で挟まれて、くしゃっとなっている。きつい目つきをしているが、今はその瞳は閉じられ、ぎゅっと俺の腕にしがみつく様にして寝ているのだった。
俺はこの子を知っている。忘れられるはずがなかった。
「ショー……?」
眠っていたと思われる女性が俺の名前を呼んだ。相沢翔で、ショー。彼女は俺をそう呼んでいた。
こうして名前で呼ばれのはいつ以来だろうか? この日以来、この声で、そしてこの発音でこの名を呼ばれた事はない。懐かしくて、胸が痛む。
彼女は目を開けて、呆れる様にこちらを見ていた。
「それ好きだね。読むの何回目?」
〝それ〟とは、おそらく今手にしている漫画の事だ。
「さぁ、何回目かな?」
記憶の通りの返答を俺がしていた。そのまま頁をめくりつつも、内容は全く頭の中に入ってこなかった。三角関係の男女の物語だったと思うけれど、多分もう内容なんてどうでもよかったのだ。
彼女は体を御越し、俺と一緒にその漫画を覗き込んだ。
「私といるの、つまんない?」
「そんな事ない」
「そう? その割に、最近全然求めてこなくなったけど……単純に、私に魅力がないだけ?」
彼女は自嘲する様に言った。
「今はそういう気分じゃないだけなんだ。気にしないでくれ」
そんなわけがなかった。彼女は魅力的だった。誰よりも魅力的で、誰よりも頭脳明晰で、非のつけどころがない。俺の憧れの女性だった。
ただ、俺は⋯⋯彼女を求める度に、彼女の知らないところで彼女を傷つけてしまうのだ。そして、彼女もまた、無意識のうちに俺を傷つけている。
もちろん、彼女に責任はない。全ては俺の所為なんだ。
そして、その事に気付いた俺は──いや、やめよう。考えただけで嫌な気持ちになる。自分の矮小さなんて、誰だって目を背けたいに決まっている。
——好きだよ。
心の籠っているのか籠っていないのかわからない言葉が口から出て、俺は彼女の頬に口付けた。彼女は寂しそうに笑っていた。
今度は彼女の方から唇を寄せてくる。お互いの舌と唾液が絡み合い、彼女の柔らかい舌先は脳味噌の奥からとろけてしまいそうになる。
(なのにどうして、こんなに悲しい味がするんだろう?)
それは、今の俺がこの後に起こる事を知っているからだろうか。それとも、ただ、この時から辛かったのだろうか。
「今日はもう帰るよ。課題あるし」
俺はそう言って口付けを終わらせ、ベッドから立ち上がる。
「……そう」
彼女は悲しそうに呟き、溜息を吐いて制服のブラウスを羽織った。
「バス停まで送って行く」
「いいよ。雨降りそうだし」
窓の外は、黒い雲が覆っていた。
「……私がそうしたいだけだから」
彼女は寂しそうな笑顔で、微笑んだ。今日はいつもより表情が豊かだったのが印象的だった。
彼女の家を出てしばらく住宅街を歩いていると、空は更に雨雲で暗くなった。バス停が見えてきたところで、スコールの様な大雨に見舞われ、俺達は慌ててバス停の屋根の下に逃げ込んだ。
冷たい雨に降られ、二人ともびしょ濡れになっていた。
肩にかかるかどうかの大人ショートカットの黒髪から滴り落ちる水滴が落ちて、彼女の着ていたブラウスは雨に濡れて透けてしまっていた。無意識のうちに、俺は溜息を漏らしていた。
「だから、別に送らなくていいって言ったのに」
ハンカチを鞄の中から取り出し、広げて彼女の頭に乗せてやる。彼女はハンカチを取ろうともせず、俯いたままだった。
その唇は強く噛まれていて、体が震えていた。どうした、と訊く前に、彼女は呟く様に言った。
「……もう、終わりにしよっか? 私達」
「え……⁉ どうして?」
いきなりの言葉に、そんな間の抜けた返答しかできなかった。いきなり別れを切り出されるとは、思ってもいなかったからだ。
「ショーは私に負い目を感じてる。約束を守れなかったって、一人で自分を責めてる。私はそんな事気にしていないのに」
「——そんな事ッ」
「無理しなくていいよ」
宥める様に優しく彼女は言った。もともと彼女はキツい目つきをしているのだけれど、この日だけはそのキツさがなく……諦めたような、優しい瞳を向けている。ただ、そんな表情とは裏腹に、声は震えていた。
「そんなショーを見ているの、もう辛い……」
言いながら、彼女は自分の額を押し付けるように、俺の胸にもたれかかってきた。
「もし、〝あの時の勝負〟で私が勝っていたら⋯⋯何て命令していたと思う?」
「わからない……」
答えると、彼女は悲しそうに微笑み──
「一生私の傍から離れないで、だよ」
「──え?」
驚いて彼女の方を向くと、彼女はそのタイミングで俺の唇を奪った。
さっきのように深い愛情表現を示す口付けではなく、ただ触れるだけのキス。最後に触れたその唇はとても冷たくて、震えていた。
「もし私が勝ってたら……未来は違っていたのかな」
唇を離すと、彼女はそう呟き、一滴の水滴が彼女の頬を伝った。そして、俺に背を向けて、暗い雨の中を走り去った。
──待ってくれ。
必死に彼女の名前を記憶から探し出す。だけど、名前がすぐに出てこない。だから、俺は叫ぶしかない。
──待ってくれ!
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