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第三十七話

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「グゥォオオオオオオッ!」

 ヒュドラの三つ首が咆哮を上げる。

「〈炎球〉!」

 僕は炎のルーン文字を宙に浮かべる。
 すぐには放たず、ネロのマナを引き出して炎の球を大きくしていく。

 小さな〈炎球〉ではきっと駄目だ。
 頑丈なヒュドラの鱗を突破できない。

 ヒュドラはその巨大な前脚で、僕へと紫の大きな爪を振り下ろしてきた。

「ぐっ!」

 僕は触手で床を弾いてヒュドラの攻撃を躱す。
 危なかったが、〈炎球〉を保ったまま死角へと回り込むことができた。

「ここなら……当たる!」

 直径五メートルまで膨らませた、最大の〈炎球〉を放つ。
 ゴブリン達の砦を一発で吹き飛ばしたこともある。
 さすがの大精霊とて無事では済まないはずだ。

 床を削りながら真っ直ぐに向かった大きな炎の球は、ヒュドラの肩に当たって爆ぜた。
 爆風で土煙が舞う。

『いかん、マルク! 避けよ!』

 ネロの叫び声で、僕は咄嗟に背後へと跳んだ。
 刹那、土煙の中から鋭い鉤爪が飛来する。
 このままでは避けきれない……!

「うっ!」

 僕はネロの触手を盾に用いて、左半身を守る。
 触手越しに、身体に鈍い衝撃が走った。

『し、しっかりせよ、マルク!』

 一瞬意識が途切れ……気が付くと僕は、壁際でネロの触手に抱き上げられていた。
 どうやらネロが僕の飛ばされた先へ回り込み、壁に叩きつけられるのを防いでくれたようだ。

「ありがとう……危なかったよ」

 あのままだと、生身で直接壁に叩きつけられていた。
 そうなっていれば無事では済まなかっただろう。
 僕はネロの触手から降りて床に立ち、向かって来るヒュドラを睨む。

「あいつも〈炎球〉で多少はダメージが……」

 魔弾が直撃したはずのヒュドラの肩は、表面の鱗数枚に薄く亀裂が入っているだけだった。

「う、嘘……」

『……〈炎球〉で奴の鱗を突破するには、同じ部位に十発はぶちかましてやる必要がありそうであるな。黒武者の刀で直接叩き斬るしかあるまい』

 十発もあんな火力で魔弾を放つことはできない。
 先に僕の方のマナが尽きる。

 でも、あんな頑強な精霊の竜を相手に、至近距離で戦えるのか……?
 斬っても一撃で倒れてくれるとは思えない。
 大振りした後に、返しの一撃を受けてバラバラにされる。

『お、おい、マルク、いかん! 触手が奴の魔法毒にやられておる!』

 ネロの言葉に、僕は左腕の袖から伸ばしていた触手へと目を向ける。
 大きく抉れた痕ができており、そこから紫色の液体が溢れていた。

「うっ……!」

 僕は腕を振り、精霊融合の触手をただのマナの塊へと戻して一旦消すことにした。

『マナの消耗が激しいであろうが、奴の毒を受けた触手は使い捨てにするしかない……。気を付けよ、甘い受け方次第では生身も侵されるぞ。一発もらえば、それで終わりである』

「まだ勝てるつもりでいるのかな? たかだか人間が、ちょっと力を借りたくらいで大精霊に敵うわけがないじゃないか! 大精霊は世界の法則の一部のようなものだ! 僕達矮小な人間とは、生物としての、在り方の格が違うんだよ!」

 ヒュドラの奥でヨハンが笑う。

 僕はヒュドラの爪を見る。
 赤紫色の、毒々しい色の爪をしていた。
 その後……あのヒュドラが最初に尾で叩き、破壊した床へと目を向けた。
 そちらには毒は広がっていなかった。

「……もしかして、あの爪以外に、毒はないの?」

『あの爪は恐らく魔法毒の結晶である。だが、だからといって爪以外に毒がない……とは限らん。奴の本質は、己のマナから凶悪な毒を造り出せることにある。他の手段も有していると、考えるべきであろう』

「そっか……」

 てっきり全身が猛毒なのかと思っていた。
 爪以外に毒がないのであれば、まだやりようはあるかもしれない。

「期待に応えて見せてあげるよ! 〈毒竜瀑布どくりゅうばくふ〉!」

 ヨハンが叫ぶと、ヒュドラの口の前に、赤紫の魔法陣が展開された。

『奴め……ヒュドラのマナを直接用いて、魔法を……!?』

「グゥオオオオオオッ!」

 ヒュドラの咆哮が魔法陣を穿つ。
 大量の赤紫の毒液が放たれた。

 僕は触手で地面を叩き、右へ、左へと跳んで毒液を躱す。
 壁際へと追い詰められて、天井に触手を突き刺して自身の身体を引き上げ、寸前のところで躱した。

 僕の立っていた周囲の地面が黒く変色し、溶けていた。
 直接毒水を放射された部分は大きな溝ができている。

「なんて規模の魔法……」

 僕は天井にぶら下がりながら、息を呑んだ。
 本当に、こんな大精霊が暴走したら、都市一つなんて簡単になくなってしまう。

『我を知っておった時点で怪しく思っておったが、奴め……精霊について恐ろしく熟知しておる。一体あの歳で、どこであれだけの知識を得たというのだ……?』

 ネロがヨハンを睨んで、そう口にした。

「さようなら、マルク君。君のことは忘れないよ。〈毒牙水晶〉」

 またヒュドラの前方に魔法陣が広がる。
 魔法陣が宙へ広がるように消えたかと思えば、無数の赤紫の結晶となり、その鋭利な先端を僕へと向けていた。

「こんなの避けようが……!」

 僕は天井から飛び降りて瓦礫の上に降り立ち、とにかく触手を広げて全身を覆い尽くした。
 刹那、毒の結晶が暴雨の如く、僕の身体へと降り注ぐ。

 その内……幾つかの細い結晶が、触手を貫通したのがわかった。
 身体に鋭い激痛が走った。

「あ、あが……」

 掠めた……毒の結晶が、脇腹と胸部を。
 身体から急激に、体温、マナ……生命力が抜け落ちていくのを感じる。
 身体の奥から汗が噴き出してきた。

『マルク……!』

「ふむ、〈毒牙水晶〉をこれだけの被害に抑えるなんてね。精霊融合でこれだけ頑強だなんて、さすがネロディアスの触手だよ。運も君を助けたか。いや、即死できなかった分、不幸というべきかな。微量であっても、人間はその毒には抗えないよ。苦しいだろう? 介錯してあげよう、マルク君」

 ゆっくりと近づいてきたヒュドラが、尾を持ち上げて僕へと照準を向ける。
 頭が痛い……視界が、安定しない。

「マルク君……! や、止めろぉっ!」

「お、おい、お前! 吾輩から離れるな!」

 タルマン侯爵様の護衛をしていたギルベインさんが、剣を振り上げてヨハンへと襲い掛かる。
 いつもの黄金剣は僕が壊してしまったため、侯爵邸内で拾った私兵の剣だ。

 振り下ろされたヒュドラの尾が地面を叩き、その衝撃でギルベインさんを吹き飛ばした。

「ぶふぉっ!」

 ヨハンは退屈そうな目をギルベインさんへと向ける。

「小者が。万が一僕を殺しても、ヒュドラは止まらないよ。マナの供給源はトーマス殿だし、契約者の指揮が途絶えた後のことも契約には織り込んである。何の意味もない行為だ。非生産的な弱者の慰めを、僕は心底侮蔑する」

「無意味じゃありませんよ……」

 僕は刀を構えた。
 ギルベインさんが時間を稼いでくれたお陰で、どうにか立ち上がることができた。

「ギルベインさん、ありがとうございます」

「おや……まだ動けるのかい?」

 ヨハンが目を丸くする。

『マルクよ、マナで対抗するのだ! 魔法毒は、マナ自体が抗体となり得る! 我が領域で鍛えたそちのマナと、我の供給するマナさえあれば、数分は持ち堪えられるはずだ! ヒュドラさえ精霊界に追い返せば、奴の毒はただのマナへと分解される!』

 ネロの言葉通り、魔法毒へと対抗するイメージでマナを循環させながら、呼吸を整える。
 マナの消耗は激しいようだが、魔法毒によるダメージそのものは和らいできた。

「そんな死にかけの状態で、かい? できるものなら、やってみるがいいさ。ヒュドラ、そろそろこの戦いに終止符を打とうじゃないか」
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