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第1章 ノンナの生活
01-淫婦の娘
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「ごきげんよう、ふしだらな女の娘」
夜も更けた頃、フォートハイト伯爵次女ノンナの部屋の扉が静かに開いた。凍えるような冷気が流れ込み、薄い仕事着しかまとっていないノンナの肌に容赦なくまとわりつく。
ノンナは背筋を伸ばしたまま立って継母の訪問を待っていた。
その部屋は、本邸ではなく離れの小屋にある。伯爵の実の娘でありながら、ノンナは幼少時からここで寝起きしていた。
希少な魔獣の⽑⽪で作られた華やかなコートが⽬に⼊る。
それを纏うフォートハイト伯爵夫人エリゼーヌの外見は、高貴で威厳に満ちている。だが、その声と表情には冷たい蔑みと憎しみが色濃く宿っていた。
ノンナは膝を折り、冷たい石床にひざまずいた。
「ごきげんうるわしくあられますことをお喜び申しあげます、母上様」
石の冷たさが膝を刺す。それでもノンナは恭しい表情を崩さない。ほんのわずかでも作法に乱れがあれば、彼女に降りかかる罰がさらに増えることを知っている。
ノンナの挨拶の後、エリゼーヌはしばらく無言だった。
冷たい視線をノンナに注ぐ。汚らわしい所有物を値踏みするように見下ろしていた。
「お前の優しい姉リリアーヌを、反抗的な目付きで見たと聞いているわ」
リリアーヌはノンナより数か月年上の姉で、エリゼーヌの実の娘だ。
――寒い冬の朝に、桶いっぱいの冷たい水を、いきなり頭からかけてくる姉に、尊敬のまなざしってちょっと難しいわ。
「申し訳ございません。感謝を忘れた行動を取ってしまいました。いかようにも罰してくださいませ」
ノンナの声には感情がなかった。だが、それが正しい返答だった。反論や弁解は罰を悪化させるだけで、意味を持たない。
「その後、学校で机の準備がギリギリだったというじゃないの。髪も乱れていたそうね」
「机の準備」というのは、リリアーヌの座席にその日の授業の教科書や筆記用具を整えることだ。
――髪が濡らされるなんて、想定外だった。乾かしてざっと整えるだけで手間がかかったし、急いで走ったけれど、それでも間に合わなかったのよ。
「リリアーヌがどれほど恥をかいたか考えたことがある?」
「申し訳ございません」
謝罪を繰り返すノンナを見下ろしながら、エリゼーヌは冷ややかな視線を向け続けた。
「さらに、エドワール様にも生意気な口を利いたそうね」
――それは……あちらのルール違反だから。
ノンナは心の中で反論を呟くが、口には出さない。ただ、「申し訳ございません」と繰り返すだけだった。
***
書類上の夫婦であるエドワールとノンナが顔を合わせる機会は多くない。彼女は使用人同然の仕事や、リリアーヌの宿題や予習の準備に追われているからだ。だが、その少ない接触の中でも、彼の本性を知るには十分だった。
エドワールは美しい。
細身で筋肉質、姿勢は良く、動作には洗練がある。初対面の人々は彼を「非の打ち所がない紳士」と評するだろう。その整った顔立ちの奥に潜む冷たい光や、薄笑いの裏に隠れた薄情さを見抜ける人はほとんどいない。
リリアーヌはエドワールを「完璧な紳士」と称賛し、お茶会に招いて談笑している。
エドワールもリリアーヌの評価を喜んでいるように見える。だが、ノンナはその笑顔の奥に潜む影を見逃さない。
――怯え。
リリアーヌが、彼の無能さに気づいたらどうなるだろう。彼の取り繕う技術だけでは覆い隠せない虚しさが露わになったとき、彼女はどんな目で彼を見るだろう。それを想像するだけで、彼は恐怖に耐えられないのだろう。
その恐怖から逃れるため、彼は時々気まぐれにノンナを見下し、虐げる。
「自分は支配できる存在がいる」と自分に言い聞かせ、支配欲にすがりついているのだ。
とはいえ、エドワールがどんな顔を見せようと、それ自体はノンナにとって重要ではない。
彼女にとっての問題は別のこと……彼が、王国の慣例を無視して、幼いころからノンナの身体だけを「妻」として扱おうとしていることだ。
リリアーヌとお茶会を楽しんだ帰り、エドワールは小屋の扉を蹴破り、ノンナを無理やり従わせようとした。
低い声は命令を繰り返す。その様子は言外にこう告げている。「どう足掻いても無駄だ」と。
幸い、小屋の番人が彼を追い返してくれた。
エリゼーヌはふしだらな女の娘が、婚前に身ごもることを避けたいと公言し、エドワールを惑わすノンナを罵った。罵るべきなのは本来エドワールだが、ノンナのせいだそうだ。
だが、それが永遠に続く保証などどこにもない。エリゼーヌが方針を変えれば、見張り自らがノンナを屈辱に追いやることになるだろう。
ノンナの暮らしは四季を通じて絶望的だった。。暮らしている部屋は、冬には凍えるように寒く、夏は身体中を茹で上げるように熱い。気候が良い時期も、何かしら不快な事情がある。気候、人間関係、労働環境。あらゆることが常に過酷だった。
***
ノンナはエリゼーヌとエドワールへの「不遜な態度」への罰を待ちながら、静かに頭を垂れた。
夜も更けた頃、フォートハイト伯爵次女ノンナの部屋の扉が静かに開いた。凍えるような冷気が流れ込み、薄い仕事着しかまとっていないノンナの肌に容赦なくまとわりつく。
ノンナは背筋を伸ばしたまま立って継母の訪問を待っていた。
その部屋は、本邸ではなく離れの小屋にある。伯爵の実の娘でありながら、ノンナは幼少時からここで寝起きしていた。
希少な魔獣の⽑⽪で作られた華やかなコートが⽬に⼊る。
それを纏うフォートハイト伯爵夫人エリゼーヌの外見は、高貴で威厳に満ちている。だが、その声と表情には冷たい蔑みと憎しみが色濃く宿っていた。
ノンナは膝を折り、冷たい石床にひざまずいた。
「ごきげんうるわしくあられますことをお喜び申しあげます、母上様」
石の冷たさが膝を刺す。それでもノンナは恭しい表情を崩さない。ほんのわずかでも作法に乱れがあれば、彼女に降りかかる罰がさらに増えることを知っている。
ノンナの挨拶の後、エリゼーヌはしばらく無言だった。
冷たい視線をノンナに注ぐ。汚らわしい所有物を値踏みするように見下ろしていた。
「お前の優しい姉リリアーヌを、反抗的な目付きで見たと聞いているわ」
リリアーヌはノンナより数か月年上の姉で、エリゼーヌの実の娘だ。
――寒い冬の朝に、桶いっぱいの冷たい水を、いきなり頭からかけてくる姉に、尊敬のまなざしってちょっと難しいわ。
「申し訳ございません。感謝を忘れた行動を取ってしまいました。いかようにも罰してくださいませ」
ノンナの声には感情がなかった。だが、それが正しい返答だった。反論や弁解は罰を悪化させるだけで、意味を持たない。
「その後、学校で机の準備がギリギリだったというじゃないの。髪も乱れていたそうね」
「机の準備」というのは、リリアーヌの座席にその日の授業の教科書や筆記用具を整えることだ。
――髪が濡らされるなんて、想定外だった。乾かしてざっと整えるだけで手間がかかったし、急いで走ったけれど、それでも間に合わなかったのよ。
「リリアーヌがどれほど恥をかいたか考えたことがある?」
「申し訳ございません」
謝罪を繰り返すノンナを見下ろしながら、エリゼーヌは冷ややかな視線を向け続けた。
「さらに、エドワール様にも生意気な口を利いたそうね」
――それは……あちらのルール違反だから。
ノンナは心の中で反論を呟くが、口には出さない。ただ、「申し訳ございません」と繰り返すだけだった。
***
書類上の夫婦であるエドワールとノンナが顔を合わせる機会は多くない。彼女は使用人同然の仕事や、リリアーヌの宿題や予習の準備に追われているからだ。だが、その少ない接触の中でも、彼の本性を知るには十分だった。
エドワールは美しい。
細身で筋肉質、姿勢は良く、動作には洗練がある。初対面の人々は彼を「非の打ち所がない紳士」と評するだろう。その整った顔立ちの奥に潜む冷たい光や、薄笑いの裏に隠れた薄情さを見抜ける人はほとんどいない。
リリアーヌはエドワールを「完璧な紳士」と称賛し、お茶会に招いて談笑している。
エドワールもリリアーヌの評価を喜んでいるように見える。だが、ノンナはその笑顔の奥に潜む影を見逃さない。
――怯え。
リリアーヌが、彼の無能さに気づいたらどうなるだろう。彼の取り繕う技術だけでは覆い隠せない虚しさが露わになったとき、彼女はどんな目で彼を見るだろう。それを想像するだけで、彼は恐怖に耐えられないのだろう。
その恐怖から逃れるため、彼は時々気まぐれにノンナを見下し、虐げる。
「自分は支配できる存在がいる」と自分に言い聞かせ、支配欲にすがりついているのだ。
とはいえ、エドワールがどんな顔を見せようと、それ自体はノンナにとって重要ではない。
彼女にとっての問題は別のこと……彼が、王国の慣例を無視して、幼いころからノンナの身体だけを「妻」として扱おうとしていることだ。
リリアーヌとお茶会を楽しんだ帰り、エドワールは小屋の扉を蹴破り、ノンナを無理やり従わせようとした。
低い声は命令を繰り返す。その様子は言外にこう告げている。「どう足掻いても無駄だ」と。
幸い、小屋の番人が彼を追い返してくれた。
エリゼーヌはふしだらな女の娘が、婚前に身ごもることを避けたいと公言し、エドワールを惑わすノンナを罵った。罵るべきなのは本来エドワールだが、ノンナのせいだそうだ。
だが、それが永遠に続く保証などどこにもない。エリゼーヌが方針を変えれば、見張り自らがノンナを屈辱に追いやることになるだろう。
ノンナの暮らしは四季を通じて絶望的だった。。暮らしている部屋は、冬には凍えるように寒く、夏は身体中を茹で上げるように熱い。気候が良い時期も、何かしら不快な事情がある。気候、人間関係、労働環境。あらゆることが常に過酷だった。
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