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帳倶楽部
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僕は点火士の仕事をやめた。
非常にあっさりとした手続きで、僕はもう火をつけて回る必要がなくなってしまった、ただの男になった。
通りを歩くと、今でも花火の音が聞こえてくるし、それは確かに耳障りな音だった。
どこまでいっても、暗闇で、偽物で、僕は誰かに嘘をつかれ続けているような感じがする。
歩いていると、自分がつけて回っていたガス灯の灯りと対面せずにはいられなかった。
彼等は常に偽物の世界の中で、唯一本物のような灯りを灯し続けているようだったが、僕にはもうどうでも良いことのように思えた。既に職業をやめ、何もする必要のなくなった僕は、暗闇の中、完全に匿名の存在だった。
目の前にリサさんがいた。トミーがいた。例のあの男がいた。
三人とも目が虚ろで、いや、あの蒼い瞳の男だけが澄んだ目をしている。猛禽類のような残酷で剽悍な目つきを。
男が二人に手渡したのは、あの拷問の本で、二人はその本を快く受け取り、それから徐に食べ始めた。
食べれば食べるほど埃を舞い散らせるその本を、二人は嬉しそうに食べ続け、やがて本は骨と皮だけになってしまって、僕は思わず叫んだ。
やめるんだ!
何が? と、口から鮮血を滴らせる二人に問われている気がして、僕は行き場を失ったように、酷く戸惑う。
僕は軽く息を吸って、それから目を覚ました。
尋常ではない汗をかいている事を悟って、僕は、枕元の時計を掴み、灯りをつけ、時刻を確認する。
深夜零時。何もする気が起こらないし、ある者たちは大いに活動を楽しむ時刻だ。
僕は昨日、妻に言われた事を思い出す。
トミーが脱走の疑いで捕まった、と。
僕は妻に問い返した。それで? トミーは、大丈夫なのかい? と。
妻は首を振って答えた。
分からないわ。でも多分、悪いようにはされないんじゃないかって、そんな話を近所の人と話してたわ。何だか物騒だし、点火士の仕事、やめてよかったかもしれないわね。
僕はその時、もう少しで叫び出してしまいそうな気持ちを、喉元の所で押さえていた。
僕は努めて平静を装いながら、それでも、背中に滲み始めた冷たい汗は疑いようはなく、僕は疲れて、ソファに腰を下ろした。
妻は僕が点火士の仕事と、同僚の不幸に疲れてしまったのだと思って、慰めてくれた。
水を持ってきて、僕に差し出してくれた。
そう。昨日妻にもらったコップを、僕はまだ飲まずに、枕元に置いている。
僕は立ち上がり、のろのろとした動作で部屋を横切りながら、これからどうするべきなのかを考えていた。
どうするもこうするも、ないのだが、と、独りごちる。
洗面所の中の、小さな扉を開けて、例の薬を手に取る。
一錠出し、妻から貰ったコップの水で、喉の奥に流し込んだ。
僕は扉を閉め、シンクの淵に手をついて、泣き始めた。
寝ている妻に聞かれないように、声を殺して、唇を噛み締め、とめどなく溢れ出る涙だけを、静かに流していった。
僕が当時、知っていた事実は、この国が夜に包まれている事、そして、働く必要がないという事、そして最後に、一度入ったものは、特別な許可なしには出る事が出来ないという事の、三つだった。
何故帳倶楽部と呼ばれるのか、今の僕には分かる気がした。
この国は一度入ってきた者を、原則として、二度と陽の当たる場所に戻す事は考えてはいない。
この国の、最も中心に近い所にあるという中央政府は、監視するためのサーチライトを周囲に張り巡らせ、常に警戒を怠る事がない。
トミーは恐らく、監獄棟と化しているその中に入れられている事だろう。
映像では時々、惨たらしい拷問の映像が流れ出ることがあるが、それももしかしたら、実際にある、作り物でない、事実を載せているだけなのかもしれなかった。
僕は激情と涙の流れが収まってきたのを感じ取って、荒く息をしながら、シンクの淵から離れた。
僕が何をしなければいけないのか、今なら分かる気がする。
僕は不思議と晴れ渡ったような意識を抱えながら、寝ている妻の隣に戻り、点火士のつけていった青白い光が照らす街の景色を、窓から見た。
その景色の中では、静寂の空気と、人知れぬ興奮の気配と、死と生の境目とが、折り重なって、巨大な沈黙の海の中に沈んでいる気がした。
僕は窓を覆っていた分厚いカーテンを引き直し、寝具に身を投げ、ひと時、天井を見つめ、それから、ゆっくりと瞼を落としていった。
偽物の夜の内側で、僕は静かに、本物の夜と、陽の明かりを想像しながら、眠りの底に沈んでいった。
陽の光がもう二度と、僕の事を照らし出してくれる事がないかのように、感じていながら。
傍で誰かが、僕の為の明かりをつけてくれたような、そんな気がした。
僕は点火士の仕事をやめた。
非常にあっさりとした手続きで、僕はもう火をつけて回る必要がなくなってしまった、ただの男になった。
通りを歩くと、今でも花火の音が聞こえてくるし、それは確かに耳障りな音だった。
どこまでいっても、暗闇で、偽物で、僕は誰かに嘘をつかれ続けているような感じがする。
歩いていると、自分がつけて回っていたガス灯の灯りと対面せずにはいられなかった。
彼等は常に偽物の世界の中で、唯一本物のような灯りを灯し続けているようだったが、僕にはもうどうでも良いことのように思えた。既に職業をやめ、何もする必要のなくなった僕は、暗闇の中、完全に匿名の存在だった。
目の前にリサさんがいた。トミーがいた。例のあの男がいた。
三人とも目が虚ろで、いや、あの蒼い瞳の男だけが澄んだ目をしている。猛禽類のような残酷で剽悍な目つきを。
男が二人に手渡したのは、あの拷問の本で、二人はその本を快く受け取り、それから徐に食べ始めた。
食べれば食べるほど埃を舞い散らせるその本を、二人は嬉しそうに食べ続け、やがて本は骨と皮だけになってしまって、僕は思わず叫んだ。
やめるんだ!
何が? と、口から鮮血を滴らせる二人に問われている気がして、僕は行き場を失ったように、酷く戸惑う。
僕は軽く息を吸って、それから目を覚ました。
尋常ではない汗をかいている事を悟って、僕は、枕元の時計を掴み、灯りをつけ、時刻を確認する。
深夜零時。何もする気が起こらないし、ある者たちは大いに活動を楽しむ時刻だ。
僕は昨日、妻に言われた事を思い出す。
トミーが脱走の疑いで捕まった、と。
僕は妻に問い返した。それで? トミーは、大丈夫なのかい? と。
妻は首を振って答えた。
分からないわ。でも多分、悪いようにはされないんじゃないかって、そんな話を近所の人と話してたわ。何だか物騒だし、点火士の仕事、やめてよかったかもしれないわね。
僕はその時、もう少しで叫び出してしまいそうな気持ちを、喉元の所で押さえていた。
僕は努めて平静を装いながら、それでも、背中に滲み始めた冷たい汗は疑いようはなく、僕は疲れて、ソファに腰を下ろした。
妻は僕が点火士の仕事と、同僚の不幸に疲れてしまったのだと思って、慰めてくれた。
水を持ってきて、僕に差し出してくれた。
そう。昨日妻にもらったコップを、僕はまだ飲まずに、枕元に置いている。
僕は立ち上がり、のろのろとした動作で部屋を横切りながら、これからどうするべきなのかを考えていた。
どうするもこうするも、ないのだが、と、独りごちる。
洗面所の中の、小さな扉を開けて、例の薬を手に取る。
一錠出し、妻から貰ったコップの水で、喉の奥に流し込んだ。
僕は扉を閉め、シンクの淵に手をついて、泣き始めた。
寝ている妻に聞かれないように、声を殺して、唇を噛み締め、とめどなく溢れ出る涙だけを、静かに流していった。
僕が当時、知っていた事実は、この国が夜に包まれている事、そして、働く必要がないという事、そして最後に、一度入ったものは、特別な許可なしには出る事が出来ないという事の、三つだった。
何故帳倶楽部と呼ばれるのか、今の僕には分かる気がした。
この国は一度入ってきた者を、原則として、二度と陽の当たる場所に戻す事は考えてはいない。
この国の、最も中心に近い所にあるという中央政府は、監視するためのサーチライトを周囲に張り巡らせ、常に警戒を怠る事がない。
トミーは恐らく、監獄棟と化しているその中に入れられている事だろう。
映像では時々、惨たらしい拷問の映像が流れ出ることがあるが、それももしかしたら、実際にある、作り物でない、事実を載せているだけなのかもしれなかった。
僕は激情と涙の流れが収まってきたのを感じ取って、荒く息をしながら、シンクの淵から離れた。
僕が何をしなければいけないのか、今なら分かる気がする。
僕は不思議と晴れ渡ったような意識を抱えながら、寝ている妻の隣に戻り、点火士のつけていった青白い光が照らす街の景色を、窓から見た。
その景色の中では、静寂の空気と、人知れぬ興奮の気配と、死と生の境目とが、折り重なって、巨大な沈黙の海の中に沈んでいる気がした。
僕は窓を覆っていた分厚いカーテンを引き直し、寝具に身を投げ、ひと時、天井を見つめ、それから、ゆっくりと瞼を落としていった。
偽物の夜の内側で、僕は静かに、本物の夜と、陽の明かりを想像しながら、眠りの底に沈んでいった。
陽の光がもう二度と、僕の事を照らし出してくれる事がないかのように、感じていながら。
傍で誰かが、僕の為の明かりをつけてくれたような、そんな気がした。
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