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帳倶楽部
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「そうなんですよ。うちの主人ったら、毎日パーティ、パーティで。ろくに家にも帰って来ないんですの。うちの子供もねえ、もう三歳になるんですけど、ちっとも父親の顔を覚えられてなくって。酷くありません? いえ、こういうのはタブーなんでしたかしら? こちらの街では。すみませんね、まだ引っ越してきて間も無くって。オホホホホホ」
午前七時。僕は長い靴下を履こうとしていた。
妻は玄関先で大奥様のケイシーさんの応対をしている。いつもの事だ。午前七時、付近に彼女は決まって僕らの一室にベルを鳴らして、平穏な朝をぶち壊しにする。
そしてトーストすら齧れていないボサボサ髪の妻を出迎え、きっちり二十分は話をしてから、それから買い物に出掛けていく。
妻は二時間よりはマシよ、と笑ってはいるが、毎度甲高い例の嬌声を聞きながら長い靴下を履くのに苦心していると、心が麻痺してくるような感じがする。
僕は妻の分も台所で朝食を用意し、焼き上がったトーストの上にハムと卵を乗せて、ベッドの前のテーブルに持っていった。
僕らは毎日ベッドの前で朝食を摂りながら、小型テレビから流れる映像を見る。
テレビには色々な映像が流れては消える。戦争ものから歯磨き粉の広告、お菓子の作り方から、幼稚園の実況まで、幅広い。一体誰が編集して、誰が選択して流しているのか興味が湧くわけではないのだが、それでも奇妙な流し方だ、と今でも時々思わずにはいられなかった。
いや、きっとこの国に住んでいる人々の殆どは、そう思っている筈だろう、と、僕は思いながら、ハムと卵の乗ったトーストを齧り取った。
テレビを見つめながら、ふと置き時計に目をやると、もう二十分近かった。
ちらっと玄関脇を見つめると、やはりケイシー婦人の話もひと段落しそうな気配が流れてくる。
僕は再び映像に目を移し、虚無以外何ものでもない心を持ちながら、トーストを齧り終えた。ブラックコーヒーをすかさず流し込む。人工的でありながら蠱惑的な苦さが喉を潤して消えていくのが感じられた。
じゃあね、という声が聞こえて扉が閉じられるのと、僕が立ち上がったのが同時だった。妻が少しやつれた表情で部屋の中に戻ってくる。
僕は肩を軽くすくめ、妻はそんな僕の様子を見ながら、少し笑って、再びベッドの中に戻っていった。
彼女はこれから映像を見ながらゆっくりと朝食を摂り、二度寝をする習慣を持っていた。
僕はこれから仕事だ。
妻は僕の方を意味ありげに見つめるので、僕は問いかけるような表情をしてみたつもりだったが、妻はまた微笑って映像に目を移した。
僕もまた微笑って、妻に背中を向けて、部屋を出ていった。
行ってきます、行ってらっしゃいと僕等は言い合うことはない。
妻は幼稚園で働いており、二度寝が済んだら家を出る筈だ。
扉を開け、暖色灯で眩むような廊下に出る間際、妻とケイシーさんの会話の一部が、脳内で大きな音で繰り返された。
執拗な声音で、その声は脅迫的に、僕の頭の内側で繰り返された。
僕は聞かないふりをしながら、外に出て、鍵を閉めるしかなかった。
妻との会話の中で、ケイシーさんはこう言っていた。
「灯りをつけるお仕事なんて、つまらないでしょう? そうじゃありません?」
妻の微苦笑の微かな音を、僕は聴かないふりをしていた。
でも、僕の中でその言葉は、確かな蟠りとなって、暗い渦を巻きながら、自分の心の奥底に広がっていくのを、僕は確かに感じ取っていた。
「そうなんですよ。うちの主人ったら、毎日パーティ、パーティで。ろくに家にも帰って来ないんですの。うちの子供もねえ、もう三歳になるんですけど、ちっとも父親の顔を覚えられてなくって。酷くありません? いえ、こういうのはタブーなんでしたかしら? こちらの街では。すみませんね、まだ引っ越してきて間も無くって。オホホホホホ」
午前七時。僕は長い靴下を履こうとしていた。
妻は玄関先で大奥様のケイシーさんの応対をしている。いつもの事だ。午前七時、付近に彼女は決まって僕らの一室にベルを鳴らして、平穏な朝をぶち壊しにする。
そしてトーストすら齧れていないボサボサ髪の妻を出迎え、きっちり二十分は話をしてから、それから買い物に出掛けていく。
妻は二時間よりはマシよ、と笑ってはいるが、毎度甲高い例の嬌声を聞きながら長い靴下を履くのに苦心していると、心が麻痺してくるような感じがする。
僕は妻の分も台所で朝食を用意し、焼き上がったトーストの上にハムと卵を乗せて、ベッドの前のテーブルに持っていった。
僕らは毎日ベッドの前で朝食を摂りながら、小型テレビから流れる映像を見る。
テレビには色々な映像が流れては消える。戦争ものから歯磨き粉の広告、お菓子の作り方から、幼稚園の実況まで、幅広い。一体誰が編集して、誰が選択して流しているのか興味が湧くわけではないのだが、それでも奇妙な流し方だ、と今でも時々思わずにはいられなかった。
いや、きっとこの国に住んでいる人々の殆どは、そう思っている筈だろう、と、僕は思いながら、ハムと卵の乗ったトーストを齧り取った。
テレビを見つめながら、ふと置き時計に目をやると、もう二十分近かった。
ちらっと玄関脇を見つめると、やはりケイシー婦人の話もひと段落しそうな気配が流れてくる。
僕は再び映像に目を移し、虚無以外何ものでもない心を持ちながら、トーストを齧り終えた。ブラックコーヒーをすかさず流し込む。人工的でありながら蠱惑的な苦さが喉を潤して消えていくのが感じられた。
じゃあね、という声が聞こえて扉が閉じられるのと、僕が立ち上がったのが同時だった。妻が少しやつれた表情で部屋の中に戻ってくる。
僕は肩を軽くすくめ、妻はそんな僕の様子を見ながら、少し笑って、再びベッドの中に戻っていった。
彼女はこれから映像を見ながらゆっくりと朝食を摂り、二度寝をする習慣を持っていた。
僕はこれから仕事だ。
妻は僕の方を意味ありげに見つめるので、僕は問いかけるような表情をしてみたつもりだったが、妻はまた微笑って映像に目を移した。
僕もまた微笑って、妻に背中を向けて、部屋を出ていった。
行ってきます、行ってらっしゃいと僕等は言い合うことはない。
妻は幼稚園で働いており、二度寝が済んだら家を出る筈だ。
扉を開け、暖色灯で眩むような廊下に出る間際、妻とケイシーさんの会話の一部が、脳内で大きな音で繰り返された。
執拗な声音で、その声は脅迫的に、僕の頭の内側で繰り返された。
僕は聞かないふりをしながら、外に出て、鍵を閉めるしかなかった。
妻との会話の中で、ケイシーさんはこう言っていた。
「灯りをつけるお仕事なんて、つまらないでしょう? そうじゃありません?」
妻の微苦笑の微かな音を、僕は聴かないふりをしていた。
でも、僕の中でその言葉は、確かな蟠りとなって、暗い渦を巻きながら、自分の心の奥底に広がっていくのを、僕は確かに感じ取っていた。
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