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序
2節『始まる暴走』
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これまでの調査をまとめよう。
雨宮瞳。十五歳。身長はおよそ160センチ。体重は不明。見た目から40キロ台だと思われる。部活をしている姿は確認できず。成績も不明だが、優等生であるイメージがある。しかし、言葉少なく何を考えているかよくわからず、他にとっかかりが掴めない。
以上、雨宮観察ノートから抜粋。
始業式の翌日から彼女は来たが、一週間経っても他に情報がない。授業中の今も黒板ではなく雨宮を見ていたが、彼女は僕に目もくれない。窓際の席に座り、かりかりと授業の内容を写しているだけだ。その様子にどこかおかしなところはない。むしろ変なのはその周囲だ。
観察記録その二。雨宮が誰かと話している様子がない。いつも自分の席に座ったまま、ずっと一人でいる。話しかけられもしなければ彼女も誰かに話すこともない。
――おかしい。
女子なら誰か一人くらいは話しかけるはずだ。僕じゃあるまいし、そもそも雨宮は美少女だ。放っておかれないはずなのに、クラスの誰もかもが彼女に見えないふりをしている。
そこではたと気づいた。
実は、雨宮が見えているのは僕だけじゃないんだろうか? 今、雨宮が座っている席は実は空席で彼女は昔、この学校で死んだ幽霊か何かなのではないだろうか。そうすれば、関わるなと言われた理由もわかる。名前を呼んでクラス全員が黙ったのも、存在しないはずの女の子だからだ。
僕は前にいる桑谷の背をちょいとつついてみた。怪訝な顔で嫌そうに振り向く彼に聞いてみる。
「なあ、雨宮の席に雨宮いる?」
「…………」
長い沈黙だった。彼は嫌そうな顔のまま首を元に戻した。
仕方ないので隣の席の人にも聞いてみる。
「なあ、雨宮見えてる?」
透けていてもいいからと言うと、なんかものすごい顔をされた。ドン引きだ。
そこで、後ろの席にも聞いてみようかと思った時、桑谷の隣の席の笹本が振り返った。
「ヒミコは幽霊だよ」
「なんだって!」
その前に、ヒミコって雨宮のあだ名だろうか。この人は勝手に変なあだ名をつける人らしい。
「この前ヒミコに触れるかやってみたら、なんかこうすごいふわっとかわすんだよ」
「僕達、霊感あるんだな」
「ねえよ、バカ二人」
そこで桑谷が低い声を出して突っ込んだ。
「幽霊が名簿に載るか」
「そうだよな」
さすがに荒唐無稽だと僕も思い返す。今のは雨宮に煮詰まった挙句の冗談だ。一度は桑谷を馬鹿にしたかったのもあったが、もう一つ意味がある。
再び彼の背をつついて聞いた。
「桑谷って去年、雨宮と同じクラスだよな?」
「なんで知ってる」
「調べた」
人のフルネームをインターネットに打ち込んで調べるエゴサーチ、通称エゴサ。これは人を好きになったら誰もが一般的にやることの一つだ。名前だけでは出なかったけど、学校名を加えることでヒットすることがある。
「去年度の資料を調べたんだ」
「…………」
「探偵みたいだね。あたちも昔、昏睡探偵と呼ばれたことが……」
普通だったら、まずはその子の携帯電話のアドレスなり電話番号を調べるだろう。だが、雨宮は肝心の携帯を持っていなかった。最近はクラスごとにSNSもあるのに、時代錯誤なことだ。ちなみに僕は持っているがSNSに呼ばれていない。
「去年の雨宮って、どうだったの?」
「遠藤に聞け」
「何も言ってくれなくて」
それも何度も聞いた。だが、毎回目をそらして「俺も詳しくは知らない」と、あからさまな嘘をついてくる。雨宮観察記録その三だ。明らかに何かを知っていながら言わない人間と、「は? なんでそんなことお前に言わなきゃいけないんだよ」と言ってくる二通りにしか分かれない。
「笹本も知ってたら教えてよ」
「あたちは幽霊だと思ってた」
「……」
笹本はきょとんとして言った。
「だから、ヒミコに拝んだりお供えものあげたりしたの。団子丸めてだよ」
それはただのいじめか新興宗教だ。隣の桑谷もため息をつく。
「つうかさ、お前。そんなに雨宮が知りたいなら本人に聞けよ」
「できるならしている」
屋上の時はほぼ初対面だったからともかく、今は関わるなと言われた後だ。いきなり話しかけるよりはタイミングを見計らった方がいい。それに恋に落ちているんだ。普通に話せるかわからない。
「好きなパンツの色は、とか言ってしまうかもしれない」
「もう死ねよお前」
「いや、僕が持ってる中の好きな色を言うんだよ」
「死ね」
だんだん桑谷がキレてきた。その時、笹本が言う。
「じゃあ、あたちが仲立ちしてあげるよ。簡単でしょ?」
「笹本が?」
「うん。あたちだって、みんなが仲良くなれたらいいなって思うし」
彼女はにっこりして言った。思わず天使かと見紛える。彼女に雨宮より先に会っていたらと言うのをぐっとこらえ、
「頼む! 一生のお願いだ!」
「いーよ」
手を合わせて言うと笹本はにっこり笑った。そして、
「おーい、ヒミコ~」
笹本は雨宮に手を振って言った。
「あとで肉まん買いに行こ」
「――――」
僕も桑谷も、それどころかクラス中の誰もがぽかんとしていた。授業中――そんな概念は笹本の中にはなかったのか。雨宮を見ると、彼女もまた唖然とした表情をしている。そして、わなわなと震えだすやいなやうつむいた。
「あ、チャイムだ」
誰かが呟く。それと同時に雨宮は脱兎のごとく駆け出した。
「うわ」
やばい。これはやばい。焦って周囲を見るも、全員がわけのわからない顔をしている。こんな時どうすればいい。雨宮を追いかけるか、笹本をぶん殴るか。答えは決まっている。
「う、うわー」
僕は棒読みで叫んだ。
「肉まん買わないと死ぬ発作が今、急に!」
そして、同じく脱兎のように教室から飛び出した。
やばい。今まで恥の多い生涯を送ってきたと言っても、こんなのは初めてだ。っていうか、雨宮はどこだ。廊下に出たはずなのに、忽然と姿を消している。とにかく僕も走り出そうとすると、
「待て、渡!」
遠藤が追いかけてきた。
「遠藤、どうした?」
「決まってんだろ。肉まん、俺の分も買ってきてくれ」
「本気か!?」
そこで、ぐいっと腕をつかまれた。小声で、
「一応言っておくぞ。雨宮は特別扱いされている。生徒からも教師からも」
「知っているけど?」
「変に関われば渡もそうなってしまうぞ?」
振り向けば、遠藤の顔には不安の色があった。僕は足を止め、偽物の笑顔で彼の腕をふりほどく。
「今更過ぎるよ、この性善説野郎」
そう言って僕は遠藤を置いて走り出した。
階段を駆け上がり、わずかに切れた息で屋上の扉を開けた。途端、ごぅと春特有の強い風が吹き抜ける。そして、視界の奥。フェンスにもたれるようにして座っていた雨宮がいた。
彼女ははっと厳しい顔になり立ち上がる。
「やっぱりここか」
他に行きそうな場所はわからなかった。
「ごめん。君を追って来てしまった」
「……」
「怒って、いるよな」
それから何を言えばいいのか迷う。僕は屋上の中間まで来て足を止めた。雨宮は険しい顔をして、彼女の前まで歩けば歩くほど視線に焼かれる感じがする。
「笹本はバカだ。何も考えていない。だから、」
「関わらないでと言った」
はっきりとした言葉だったが、そこでたじろぐ感性はあいにく持ってない。
「どうして?」
「あなたは知らないの?」
今度は雨宮の目が見開かれた。少し視線を下げ、
「そう。あなたは外から来た人なのね」
そんなことを小声で呟いた。僕は意を決して一歩前へ出る。
「雨宮さんは一体何者?」
君は僕と同じ人間じゃないのか。クラスで浮いている理由には何があるのか。
「教えてよ。君と、」
恋人に。
「友達になりたいんだ」
「その前に、あなたの正体は?」
「僕の正体?」
途端に重い衝撃が心に走る。思わず、そうきたかと苦い顔になる。これはお互い言いにくい質問の応酬。どちらかが言わなければ何も生まれない。だが、同時に得も知れない感情に襲われた。おそらく、僕に聞かれる雨宮の気持ちがこれだ。
僕は口が乾いてきた。
「それは君が僕を好きになったら教えてあげる」
「いらない」
吐き捨てるように言って、雨宮は走り出した。そっちは非常階段だ。
「待って!」
僕も慌てて追いかける。非常階段の入り口にはフェンスの高さを半分にした開き戸がある。だが、立て付けの悪いそれを押し開けるでもなく、よじ登ってひらりと上から向こうへと移動した。
「なんて身のこなし」
体当たりして扉を開けるも、彼女はもう階段の下だ。そのフロアの扉を引くもガンッという音。開かないのか彼女はさらに下へと下った。僕の視界から完全に消えるまで数秒。今度は扉が開く音がする。
「中二のフロアか!」
急いで中へと突入すると、雨宮の姿は既に奥。彼女は奥で左右を見るなりまっすぐ走っていく。今は移動教室か、誰もいない廊下を僕も突き進んでいくと玄関に行く階段の前に防火扉が閉まっていた。二又に分かれた廊下の先も閉ざされている。
それに気付いた僕は猛スピードで雨宮を追った。彼女の足音だけを頼りに、奥の道を曲がっていく。いくつかの分かれ道を超え、彼女の足音が鳴りやむ地に僕は着いた。
体育館へとつながる空中回廊。もともと分かれていた校舎と体育館をつなげるために唯一、中二のフロアにのみ増設された回廊だ。
雨宮はその回廊のど真ん中に立っている。そして、雨宮の奥には別の人物がいた。
「防火扉を閉じて行き先を決めたのは君だな」
「ううん、それはどなどなだよ」
「桑谷だって?」
意外なことを笹本が言った。彼女は体育館へつながる扉の前に立ち、雨宮に笑いかけていた。
「そうか、後からあいつが教えたんだな。閉めとけって」
「ほら、どなどなっていいやつなんだよ!」
「一体何の話?」
雨宮が肩で息をしながら僕と笹本を見やる。空中回廊は狭い。全長5メートルもなければ、幅も人が三人通れるくらいの狭さだ。
「雨宮さんと仲良くしたいんだ」
「随分厄介な方法を取ったものね」
「だって逃げるから」
目で合図すると笹本はばっと通せんぼのポーズをした。僕もじりと雨宮に近づく。契機は来た。少し手荒だが諦めろ。僕の正体はストーカーだ。
「雨宮―――!!」
「おーーー!!」
同時に雨宮に突っ込む。だが、
「ごほぉ!?」
ごんっ、という鈍い音と同時に僕達は宙を仰いだ。
雨宮が――消えた!? ぶつかったのは笹本の頭だ。確かに目の前にいたはずなのに、もういない。実体を通り抜けた、いや違う。かすった、かわした!
雨宮が飛んだのだ。
「な、なんだ今の!?」
尻もちをついて前後を見ると、彼女は僕の後ろにいた。着地した姿勢からゆっくりと立ち上がり、僕を見る。その視線には困惑した――それ以上に得も知れない嫌悪感があった。気持ちを読むのが苦手な僕では、はっきり言葉にできないほどに。
「あ……」
雨宮は踵を返すと一目散に走り去っていった。途端に虚脱感のようなものに襲われる。この調子では、追いかけても無駄だろう。仲良くなるどころかより離れてしまった。
「失敗しちゃったね、ばおばお」
「ばおばお……?」
もしかして、それが僕のあだ名なのか。笹本を見やると、彼女は汚れたスカートを振り払っていた。お前こそ何者だ。
「二人きりにするために、さっきあんなことを言ったのか?」
「え? うん」
素直な返事をして笹本は伸びをする。
「それで、どなどなはろくなことにならないから手助けしてやれって。たぶん屋上にいるから、とーそーけいろを封じておくようにって言ったの」
「逃げられることも前提かよ。頭が回るのかあいつは」
怒りを通り越して呆れてしまった。策士とバカのコンビにいつまでも関わっていられないが、今から教室に戻っても雨宮はいないだろう。最初の日と同じだ。そして、この出来事の後じゃ僕も居づらい。他人なんてどうでもいいが、彼女に白い目で見られ続けるのは御免だ。
どうするかと思っていると、笹本が言った。
「そういえば、あたち思い出したんだけど。ヒミコの家は有名だって聞いたことあるよ」
「家が?」
「うん。ヒミコの名前と街の名前で調べろって、ぽいぽい言ってた。確か雨宮神社」
「雨宮神社……?」
頭の片隅で何かが引っ掛かった。そういえば、そこで昔何かあったような――。
星のない夜。白い霧。座り込んでいた僕の前に立った誰かの影。
そんなセピア色の光景が一瞬、よぎった。
あれは一体いつの記憶か。手を離せばあっという間に脳内から消え去ってしまう。
「もしかして雨宮に会ったのはその時か?」
学校で会ったものと思っていたが。
「ありがとう、笹本。僕としたことが灯台もと暗しだった」
「当代毛根なし?」
「見たとおり、ふさふさだよ」
笹本を背に僕は走り出す。一刻も早く神社に行かなければ。神社、つまり家だ。彼女の家の住所がわかるなんて、とてつもない好機。尾行する手間が省ける、いやきっと僕の欲望を満たす何かがあるだろう。
窓から覗く気満々だっだが――僕は後から知ることになる。
今度こそという思いとは裏腹に、きっとやりすぎたからだろう。雨宮はもう現れなかった。完全に家に引きこもり学校に来なくなってしまったのだ。
雨宮瞳
雨宮瞳。十五歳。身長はおよそ160センチ。体重は不明。見た目から40キロ台だと思われる。部活をしている姿は確認できず。成績も不明だが、優等生であるイメージがある。しかし、言葉少なく何を考えているかよくわからず、他にとっかかりが掴めない。
以上、雨宮観察ノートから抜粋。
始業式の翌日から彼女は来たが、一週間経っても他に情報がない。授業中の今も黒板ではなく雨宮を見ていたが、彼女は僕に目もくれない。窓際の席に座り、かりかりと授業の内容を写しているだけだ。その様子にどこかおかしなところはない。むしろ変なのはその周囲だ。
観察記録その二。雨宮が誰かと話している様子がない。いつも自分の席に座ったまま、ずっと一人でいる。話しかけられもしなければ彼女も誰かに話すこともない。
――おかしい。
女子なら誰か一人くらいは話しかけるはずだ。僕じゃあるまいし、そもそも雨宮は美少女だ。放っておかれないはずなのに、クラスの誰もかもが彼女に見えないふりをしている。
そこではたと気づいた。
実は、雨宮が見えているのは僕だけじゃないんだろうか? 今、雨宮が座っている席は実は空席で彼女は昔、この学校で死んだ幽霊か何かなのではないだろうか。そうすれば、関わるなと言われた理由もわかる。名前を呼んでクラス全員が黙ったのも、存在しないはずの女の子だからだ。
僕は前にいる桑谷の背をちょいとつついてみた。怪訝な顔で嫌そうに振り向く彼に聞いてみる。
「なあ、雨宮の席に雨宮いる?」
「…………」
長い沈黙だった。彼は嫌そうな顔のまま首を元に戻した。
仕方ないので隣の席の人にも聞いてみる。
「なあ、雨宮見えてる?」
透けていてもいいからと言うと、なんかものすごい顔をされた。ドン引きだ。
そこで、後ろの席にも聞いてみようかと思った時、桑谷の隣の席の笹本が振り返った。
「ヒミコは幽霊だよ」
「なんだって!」
その前に、ヒミコって雨宮のあだ名だろうか。この人は勝手に変なあだ名をつける人らしい。
「この前ヒミコに触れるかやってみたら、なんかこうすごいふわっとかわすんだよ」
「僕達、霊感あるんだな」
「ねえよ、バカ二人」
そこで桑谷が低い声を出して突っ込んだ。
「幽霊が名簿に載るか」
「そうだよな」
さすがに荒唐無稽だと僕も思い返す。今のは雨宮に煮詰まった挙句の冗談だ。一度は桑谷を馬鹿にしたかったのもあったが、もう一つ意味がある。
再び彼の背をつついて聞いた。
「桑谷って去年、雨宮と同じクラスだよな?」
「なんで知ってる」
「調べた」
人のフルネームをインターネットに打ち込んで調べるエゴサーチ、通称エゴサ。これは人を好きになったら誰もが一般的にやることの一つだ。名前だけでは出なかったけど、学校名を加えることでヒットすることがある。
「去年度の資料を調べたんだ」
「…………」
「探偵みたいだね。あたちも昔、昏睡探偵と呼ばれたことが……」
普通だったら、まずはその子の携帯電話のアドレスなり電話番号を調べるだろう。だが、雨宮は肝心の携帯を持っていなかった。最近はクラスごとにSNSもあるのに、時代錯誤なことだ。ちなみに僕は持っているがSNSに呼ばれていない。
「去年の雨宮って、どうだったの?」
「遠藤に聞け」
「何も言ってくれなくて」
それも何度も聞いた。だが、毎回目をそらして「俺も詳しくは知らない」と、あからさまな嘘をついてくる。雨宮観察記録その三だ。明らかに何かを知っていながら言わない人間と、「は? なんでそんなことお前に言わなきゃいけないんだよ」と言ってくる二通りにしか分かれない。
「笹本も知ってたら教えてよ」
「あたちは幽霊だと思ってた」
「……」
笹本はきょとんとして言った。
「だから、ヒミコに拝んだりお供えものあげたりしたの。団子丸めてだよ」
それはただのいじめか新興宗教だ。隣の桑谷もため息をつく。
「つうかさ、お前。そんなに雨宮が知りたいなら本人に聞けよ」
「できるならしている」
屋上の時はほぼ初対面だったからともかく、今は関わるなと言われた後だ。いきなり話しかけるよりはタイミングを見計らった方がいい。それに恋に落ちているんだ。普通に話せるかわからない。
「好きなパンツの色は、とか言ってしまうかもしれない」
「もう死ねよお前」
「いや、僕が持ってる中の好きな色を言うんだよ」
「死ね」
だんだん桑谷がキレてきた。その時、笹本が言う。
「じゃあ、あたちが仲立ちしてあげるよ。簡単でしょ?」
「笹本が?」
「うん。あたちだって、みんなが仲良くなれたらいいなって思うし」
彼女はにっこりして言った。思わず天使かと見紛える。彼女に雨宮より先に会っていたらと言うのをぐっとこらえ、
「頼む! 一生のお願いだ!」
「いーよ」
手を合わせて言うと笹本はにっこり笑った。そして、
「おーい、ヒミコ~」
笹本は雨宮に手を振って言った。
「あとで肉まん買いに行こ」
「――――」
僕も桑谷も、それどころかクラス中の誰もがぽかんとしていた。授業中――そんな概念は笹本の中にはなかったのか。雨宮を見ると、彼女もまた唖然とした表情をしている。そして、わなわなと震えだすやいなやうつむいた。
「あ、チャイムだ」
誰かが呟く。それと同時に雨宮は脱兎のごとく駆け出した。
「うわ」
やばい。これはやばい。焦って周囲を見るも、全員がわけのわからない顔をしている。こんな時どうすればいい。雨宮を追いかけるか、笹本をぶん殴るか。答えは決まっている。
「う、うわー」
僕は棒読みで叫んだ。
「肉まん買わないと死ぬ発作が今、急に!」
そして、同じく脱兎のように教室から飛び出した。
やばい。今まで恥の多い生涯を送ってきたと言っても、こんなのは初めてだ。っていうか、雨宮はどこだ。廊下に出たはずなのに、忽然と姿を消している。とにかく僕も走り出そうとすると、
「待て、渡!」
遠藤が追いかけてきた。
「遠藤、どうした?」
「決まってんだろ。肉まん、俺の分も買ってきてくれ」
「本気か!?」
そこで、ぐいっと腕をつかまれた。小声で、
「一応言っておくぞ。雨宮は特別扱いされている。生徒からも教師からも」
「知っているけど?」
「変に関われば渡もそうなってしまうぞ?」
振り向けば、遠藤の顔には不安の色があった。僕は足を止め、偽物の笑顔で彼の腕をふりほどく。
「今更過ぎるよ、この性善説野郎」
そう言って僕は遠藤を置いて走り出した。
階段を駆け上がり、わずかに切れた息で屋上の扉を開けた。途端、ごぅと春特有の強い風が吹き抜ける。そして、視界の奥。フェンスにもたれるようにして座っていた雨宮がいた。
彼女ははっと厳しい顔になり立ち上がる。
「やっぱりここか」
他に行きそうな場所はわからなかった。
「ごめん。君を追って来てしまった」
「……」
「怒って、いるよな」
それから何を言えばいいのか迷う。僕は屋上の中間まで来て足を止めた。雨宮は険しい顔をして、彼女の前まで歩けば歩くほど視線に焼かれる感じがする。
「笹本はバカだ。何も考えていない。だから、」
「関わらないでと言った」
はっきりとした言葉だったが、そこでたじろぐ感性はあいにく持ってない。
「どうして?」
「あなたは知らないの?」
今度は雨宮の目が見開かれた。少し視線を下げ、
「そう。あなたは外から来た人なのね」
そんなことを小声で呟いた。僕は意を決して一歩前へ出る。
「雨宮さんは一体何者?」
君は僕と同じ人間じゃないのか。クラスで浮いている理由には何があるのか。
「教えてよ。君と、」
恋人に。
「友達になりたいんだ」
「その前に、あなたの正体は?」
「僕の正体?」
途端に重い衝撃が心に走る。思わず、そうきたかと苦い顔になる。これはお互い言いにくい質問の応酬。どちらかが言わなければ何も生まれない。だが、同時に得も知れない感情に襲われた。おそらく、僕に聞かれる雨宮の気持ちがこれだ。
僕は口が乾いてきた。
「それは君が僕を好きになったら教えてあげる」
「いらない」
吐き捨てるように言って、雨宮は走り出した。そっちは非常階段だ。
「待って!」
僕も慌てて追いかける。非常階段の入り口にはフェンスの高さを半分にした開き戸がある。だが、立て付けの悪いそれを押し開けるでもなく、よじ登ってひらりと上から向こうへと移動した。
「なんて身のこなし」
体当たりして扉を開けるも、彼女はもう階段の下だ。そのフロアの扉を引くもガンッという音。開かないのか彼女はさらに下へと下った。僕の視界から完全に消えるまで数秒。今度は扉が開く音がする。
「中二のフロアか!」
急いで中へと突入すると、雨宮の姿は既に奥。彼女は奥で左右を見るなりまっすぐ走っていく。今は移動教室か、誰もいない廊下を僕も突き進んでいくと玄関に行く階段の前に防火扉が閉まっていた。二又に分かれた廊下の先も閉ざされている。
それに気付いた僕は猛スピードで雨宮を追った。彼女の足音だけを頼りに、奥の道を曲がっていく。いくつかの分かれ道を超え、彼女の足音が鳴りやむ地に僕は着いた。
体育館へとつながる空中回廊。もともと分かれていた校舎と体育館をつなげるために唯一、中二のフロアにのみ増設された回廊だ。
雨宮はその回廊のど真ん中に立っている。そして、雨宮の奥には別の人物がいた。
「防火扉を閉じて行き先を決めたのは君だな」
「ううん、それはどなどなだよ」
「桑谷だって?」
意外なことを笹本が言った。彼女は体育館へつながる扉の前に立ち、雨宮に笑いかけていた。
「そうか、後からあいつが教えたんだな。閉めとけって」
「ほら、どなどなっていいやつなんだよ!」
「一体何の話?」
雨宮が肩で息をしながら僕と笹本を見やる。空中回廊は狭い。全長5メートルもなければ、幅も人が三人通れるくらいの狭さだ。
「雨宮さんと仲良くしたいんだ」
「随分厄介な方法を取ったものね」
「だって逃げるから」
目で合図すると笹本はばっと通せんぼのポーズをした。僕もじりと雨宮に近づく。契機は来た。少し手荒だが諦めろ。僕の正体はストーカーだ。
「雨宮―――!!」
「おーーー!!」
同時に雨宮に突っ込む。だが、
「ごほぉ!?」
ごんっ、という鈍い音と同時に僕達は宙を仰いだ。
雨宮が――消えた!? ぶつかったのは笹本の頭だ。確かに目の前にいたはずなのに、もういない。実体を通り抜けた、いや違う。かすった、かわした!
雨宮が飛んだのだ。
「な、なんだ今の!?」
尻もちをついて前後を見ると、彼女は僕の後ろにいた。着地した姿勢からゆっくりと立ち上がり、僕を見る。その視線には困惑した――それ以上に得も知れない嫌悪感があった。気持ちを読むのが苦手な僕では、はっきり言葉にできないほどに。
「あ……」
雨宮は踵を返すと一目散に走り去っていった。途端に虚脱感のようなものに襲われる。この調子では、追いかけても無駄だろう。仲良くなるどころかより離れてしまった。
「失敗しちゃったね、ばおばお」
「ばおばお……?」
もしかして、それが僕のあだ名なのか。笹本を見やると、彼女は汚れたスカートを振り払っていた。お前こそ何者だ。
「二人きりにするために、さっきあんなことを言ったのか?」
「え? うん」
素直な返事をして笹本は伸びをする。
「それで、どなどなはろくなことにならないから手助けしてやれって。たぶん屋上にいるから、とーそーけいろを封じておくようにって言ったの」
「逃げられることも前提かよ。頭が回るのかあいつは」
怒りを通り越して呆れてしまった。策士とバカのコンビにいつまでも関わっていられないが、今から教室に戻っても雨宮はいないだろう。最初の日と同じだ。そして、この出来事の後じゃ僕も居づらい。他人なんてどうでもいいが、彼女に白い目で見られ続けるのは御免だ。
どうするかと思っていると、笹本が言った。
「そういえば、あたち思い出したんだけど。ヒミコの家は有名だって聞いたことあるよ」
「家が?」
「うん。ヒミコの名前と街の名前で調べろって、ぽいぽい言ってた。確か雨宮神社」
「雨宮神社……?」
頭の片隅で何かが引っ掛かった。そういえば、そこで昔何かあったような――。
星のない夜。白い霧。座り込んでいた僕の前に立った誰かの影。
そんなセピア色の光景が一瞬、よぎった。
あれは一体いつの記憶か。手を離せばあっという間に脳内から消え去ってしまう。
「もしかして雨宮に会ったのはその時か?」
学校で会ったものと思っていたが。
「ありがとう、笹本。僕としたことが灯台もと暗しだった」
「当代毛根なし?」
「見たとおり、ふさふさだよ」
笹本を背に僕は走り出す。一刻も早く神社に行かなければ。神社、つまり家だ。彼女の家の住所がわかるなんて、とてつもない好機。尾行する手間が省ける、いやきっと僕の欲望を満たす何かがあるだろう。
窓から覗く気満々だっだが――僕は後から知ることになる。
今度こそという思いとは裏腹に、きっとやりすぎたからだろう。雨宮はもう現れなかった。完全に家に引きこもり学校に来なくなってしまったのだ。
雨宮瞳
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