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四 斎藤一之章:Betrayal

油小路事件(三)

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 長々と尾を引く夏が終わった。途端に寒くなった。冬十月、とんでもないことが起こった。
「徳川家が朝廷に政権を返還した」
 伊東さんが頬を上気させて言った。その出来事を、朝廷の人間は「大政奉還」と呼んでいるらしい。
 藤堂さんが目をしばたかせた。
「それはつまり、徳川家が自分から倒幕を成しちまったってことか?」
 皆、藤堂さんと同じ疑問を持つ様子だ。伊東さんはぐるりと一同を見回した。
「そのとおり。名目上、幕府は倒れた。しかし、実際のところ、幕府の幹部は権力を失わない。今、天皇を支えている官僚は、幕府に親しい者ばかりだ。朝議によって政治を動かすことになっても、当然、幕府の幹部も官僚として招かれる」
「じゃあ、大政奉還の意図は何だ? どっちにしたって幕府の幹部は政治の中心にいられるなら、なぜ今までの状態を崩す必要があった?」
「倒幕の過激派、薩摩や長州をおとなしくさせるためだ。連中は、倒幕を目標として暴力を振るう。ところが、倒幕がすでに幕府の手によっておこなわれてしまった。ということは、薩長が暴力を振るう名目がなくなる。幕府の幹部はそれを狙ったのだ」
 世間は騒がしい。でも、伊東さんは嬉しそうだ。武力によらない倒幕を、伊東さんは目指していた。思い掛けない形で、一和同心の理想が実現に近付いた。
 これから忙しくなる、と伊東さんは皆に告げた。一和同心の考えをいろんな人に語って回るつもりだという。政治論を掲げる思想家はそれぞれ、私塾を開いたり遊《ゆう》説《ぜい》をしたりして、自分の味方を増やしている。
 そうか、伊東さんは武士というより思想家なのか。今さらのように、それに気付いた。頭がぼんやりとしている。眠りが足りない。
 昼間は高台寺党として過ごして、夜は祇園で過ごして、朝方に少し眠る。いや、眠れる日は、ましだ。それでも剣術の稽古は欠かさない。試合をすれば誰にも負けない。休んでいないのに、動いている。オレはどうかしている。
 伊東さんの外出が増えるなら襲撃の危険も増えるだろうと、藤堂さんが言い出した。新しい警備の仕組みを考えよう。役割を決めて、伊東さんのために働こう。藤堂さんの提案に、久方ぶりに皆が勢いのある声を上げた。
 高台寺党は最近、今くらいの夕刻にもなれば、いつも酒精で濁っている。ああ、だからオレの剣のほうが強いのか。二日酔いの皆より、ましな状態だから。
 一つも発言しないまま、話し合いを聞いた。要点だけ頭に入れる。詳しくは明日ということになって、解散した。
 全員が集まった部屋は熱気が籠《こも》って息苦しかった。外に出ると、湿った冷気が顔を撫でる。高台寺から、暮六ツを告げる鐘の音が降ってくる。すでに薄暗い。
 門の内側に、見知らぬ人影がある。女だ。オレは刀の柄に触れた。
「何をしてる?」
 女が、はっとこちらを向いた。向くと同時に頭を下げた。
「許してくなんしょ。庭の木が見事だったから、つい入っつまったなし」
 凛と澄む声の会津訛りに、覚えがあった。
「と……」
 時尾、と呼ぼうとして、声が詰まる。呼び捨てにしていいほど親しい間柄じゃない。三年前の秋、一度だけ共闘して、一度だけ二人で話した。それ以来、遠目に見掛けることはあっても、挨拶すらしなかった。
 そろそろと顔を上げた時尾が微笑んだ。目尻が垂れて、えくぼができた。
「斎藤さま、お久しぶりだなし。少しお痩せになったんでねぇかし? 」
「さすけねえ」
 反射的に、問題ないと言ってしまった。時尾が小さく笑う。白い手が、ふと門塀のそばの木を指した。
「そこの立派な椿の木は、二百何十年も前に、織田信長公の弟の有《う》楽《らく》斎《さい》という人が植えたんだと、お殿さまがおっしゃっていました。つぼみが膨らんで、可愛《めげ》ごどなあ。咲いたら、きっと綺麗だべし」
「椿なのか。試衛館の庭にもあった。実から油を作って、刀の手入れに使っていた」
「会津でも椿油は使われます。実を炒ってから油を採ると、いい香りになっべし」
「同じ作り方だ。炒らずに潰すと、香りもなくて、べたべたする」
「んだべし。椿の花は鮮やかで、散り際が潔いから、わたしはとても好きだなし。有楽斎の椿が咲くころに見に来ても、さすけねぇがよ?」
「武家の女の一人歩きは危険だぞ。東山には、どこぞの藩士を隠して住まわせる寺が案外多い」
「そっだことおっしゃるなら、今の京都は、どこに花を見に行くのも危険だべし。だけんじょ、月真院なら、知った人たちが住んでおられるから、おっかなくねぇです」
 呑《のん》気《き》なことを言って、時尾は笑っている。肝が据わっているし、腕も立つからだろうか。でも、女は女だ。時尾の細い体くらい、オレなら片腕で簡単にねじ伏せられる。
「やすやすと他人を信用するな。裏のない人間はいない」
「はい。気を付けます。このあたりは妖の匂いも濃いから、少し不気味だなし」
「妖の匂い?」
「斎藤さまは感じねぇがよ? ここに住んでいたら、だんだん慣れっつまいますか?」
 どきりとした。慣れたんじゃなく、鈍ったんだ。感覚を研ぎ澄まそうと試みる。すぐにあきらめた。頭に靄《もや》がかかっている。目も耳も鼻も、自分自身の感覚がひどく遠い。
 オレは時尾の問いに答えずに、逆に問い掛けた。
「あんたは会津に帰らず、ずっと京都に、黒《くろ》谷《だに》の金《こん》戒《かい》光《こう》明《みょう》寺《じ》にいたのか?」
「はい。お殿さまの環の具合《あんべ》は、わたししか診られねぇから。お殿さまは高台寺党のことを心配しておいでだなし」
 容保公の名に、また、どきりとする。あの純粋で偉大な人を思うと、いたたまれない。
「高台寺党は新撰組を離脱した。会津公の期待を裏切ったんだ。心配していただける立場にはない」
「そっだ寂しいこと、おっしゃらないでくなんしょ。お殿さまは本当に高台寺党のこと、特に斎藤さまのことを案じておられます。高台寺党は倒幕派だけんじょ、掲げていることは少しもおっかなくねえ。お殿さまは話し合いてぇとおっしゃっています」
「女は政治のことに口を出さないほうがいい。今の京都では特に」
「だけんじょ、斎藤さま……」
「あんたは高台寺党に何か用があるのか?」
 びしりと言葉を打ち切ったら、時尾は袂《たもと》から紙片を取り出した。手紙のようだ。時尾はそれをオレに差し出した。
「江戸言葉のお侍さまから、斎藤さまに渡してくれと頼まれました。『白い鳩《はと》は夜には飛ばねえ』と言えばわかる、と」
 勝先生だ。
 雷に打たれたように感じた。最後に手紙を送ってから、どれだけ経っただろう? 覚えていない。白い鳩を見掛けることがあったか? それもわからない。オレはここ最近、何を見て過ごしていた? 
 オレは時尾から手紙を受け取って開いた。一言だけ書かれている。
 ――乙部の馴染みの店。
 土方さんと会う料理屋か? 色茶屋の建ち並ぶ一角か? いずれにしても、勝先生にはオレの行動を知られている。オレを見張る間者がどこかにいる。誰だ? 月真院の下働きの男か? それとも祇園乙部に潜んでいるのか?
「斎藤さま? 何《な》如《じょ》したがよ? 顔色が……」
「何でもない。オレは出掛ける」
 時尾のそばをすり抜けて、門をくぐる。歩き慣れた坂を下る。
「斎藤さま、待ってくなんしょ!」
 追いすがってきた時尾は駆け足だ。オレは黙って足を動かす。時尾は離れず付いてくる。東大路を北上する。
 祇園の入口で、オレは立ち止まった。時尾を見下ろす。
「来るな。あんたみたいな女がうろつく場所じゃない」
 時尾は、はっとした顔で、あたりを見回した。時尾を照らす外灯が異様に明るい。紅ひとつ差していない時尾を、化粧の濃い玄人《くろうと》女が横目に見ながら過ぎていく。
「斎藤さまも、こっだ場所でお酒を飲むのかし?」
「さっさと帰れ。女にはわからない」
「お許しくなんしょ。だけんじょ、斎藤さま、どうぞ無理などなさらねぇで」
 時尾は深々と頭を下げて踵《きびす》を返した。小走りに去っていく後ろ姿を、見るともなしに見る。
 唐突に。
「後ろががら空きだぜ」
 硬い感触が背中に押し当てられた。刀の柄だ。オレの真後ろに、勝先生が立っている。勝先生は笑った。
「久方ぶりじゃねぇか。俺には知らせも寄越さずに花街なんぞに入り浸るとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな。ちょいと話をしようか。何、時間はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」
 逃げられない。
 勝先生に連れられて入ったのは、乙部の外れにある町屋だった。貧しい者が住む長屋みたいな構えだ。が、通り庭の奥に案内されると、様子が違う。外から見えない場所に、ひどく上等な造りの建物がある。
 小部屋には、燗《かん》を付けた徳利が二本と盃、肴《さかな》が用意されていた。勝先生は、さっさと飲み食いを始めながら、にやにやしてオレを見る。笑っているはずの目が鋭い。気迫を突き立てられて、息が止まる。
「年の割に青臭ぇ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔付きになりやがったな。大層な床《とこ》上手だって話じゃねえか。長い得《え》物《もの》を振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」
 頬が、かっとした。怒りではない。ただ単に、恥ずかしいと感じた。オレにそんな感情が残っているなんて知らなかった。唇を噛む。胡坐《あぐら》の膝をつかむ手に力が入った。
 勝先生は盃の酒を飲み干した。
「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてぇだしな。なあ、あの夜、銭取橋の上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」
「なぜ、そこまで……」
「俺がおまえさんについてどれだけ知ってるかって? おまえさんは俺にとって、京都でいちばん優秀な間者だが、おまえさんひとりじゃ情報が足りねえ。ほかにもいろいろ子飼いがいるわけさ」
 やはり、と思う。間者だけじゃないだろう。刺客の一人や二人、抱えていてもおかしくない。きっとオレを闇に葬ることだって簡単だ。
 勝先生がそれをしないのは、狗《いぬ》一匹、生きようが死のうが関係ないからか。殺す価値もないのか。あるいは、処分せずに生かしておくのは、眺めて楽しむためか。日本を盤に、人間を駒にした将棋を指すのが、この人の楽しみだからか。
 勝先生が不意に手を振った。飛んできた盃を、胸に当たる直前に払い落とす。勝先生は、にやりと笑みを深くした。
「鈍いねえ。こいつが銃弾なら、おまえさんは死んでたぞ。おかしなもんだ。新撰組三番隊組長の斎藤一は、相手が攻撃の構えを見せた途端に機先を制するくらいの、油断ならねぇ男のはずだが?」
「……あんたの前で、刀は抜けない」
 苦しまぎれの言い訳を、勝先生は笑い飛ばした。オレだってわかっている。刀があろうがなかろうが、オレは反射的に牙を剥《む》くはずなんだ。今のオレには、できない。あまりにも感覚が鈍っている。頭に靄《もや》がかかっている。
「そんなに苦しいかい? おまえさんがあんなに大事にしていた剣客の本能を鈍らせてまで、現実から目を背けたいのかい?」
「逃げている?」
「ちっとぁ自覚しろや。鈍ってる上に、目立ちすぎだぜ。乙部を歩きゃ、引く手あまただろう? 今のおまえさんなら、色男で鳴らす土方とも向こうを張れる」
「意味がわからない」
「困るなあ、斎藤。女の体に逃げることを覚えた今のおまえさんじゃあ、気配が消せねえ。崩れた色気が駄《だ》々《だ》洩《も》れなんだよ。剣客や間者の体《てい》じゃあねえ。そのまま堕ち続けてみろ。隙だらけの背中から刺されて死ぬぞ」
 勝先生が、オレの前にある手付かずの盃を取った。投げた盃の代わりだ。酒を注いで口を付ける。ぎょろりとした目が、また笑いながらオレを見る。よく動く口が、いつものように滔々《とうとう》と語り出した。
「十月十四日、大政奉還が為された。これによって、世の中が一気に動き出した。様相は単純じゃあねえ。佐幕派は武力闘争を回避したが、むろん失意に沈んだ者もいる。倒幕派は肩透かしを食わされたが、勢いに乗じて暗躍し始めた者もいる」
 盃が空になる。徳利から新たに注がれた酒が、盆の上に少しこぼれる。勝先生は指で酒の雫をすくって、ねぶった。
「伊東甲子太郎率いる高台寺党も動き出した。そうだな? おまえさんは高台寺党の情報を新撰組に横流しする。新撰組も動き出すだろう。世の中がどう転ぶか、先が読めねぇんだ。仲間割れの決着なんか、さっさとつけちまうほうがいい」
 喉が干上がっていく。目も耳も鈍らせておきたかったのは、その日の到来に気付きたくなかったからだ。
 情けない。こんな体《てい》たらくじゃ、オレが生きている意味がない。
 勝先生が、なみなみと酒が入ったほうの徳利をオレに押しやった。そのまま飲め、と手振りで命じられる。黙って従う。酒の口当たりが軽すぎる。まるで白《さ》湯《ゆ》だ。
「伏見でいちばん上等な酒蔵から持ってこさせた酒だぜ。甘ぇよな。俺の舌には、灘の辛い酒のほうが合う。おまえさんもそうだろう」
 どうしてこの人は、オレの考えをたやすく見透かすんだ? オレはそんなに隙だらけなのか?
 それで、と勝先生が片膝を立てて身を乗り出した。
「いつやるんだ?」
 決めていない。まだ覚悟が決まっていない。でも、先延ばしにはできない。オレが終わりを告げなければならない。
「今年じゅうには」
 言った途端、ぷつりと糸が切れた気がした。早く終わらせよう。でなきゃ、耐えられない。重ねすぎた嘘に押し潰されて死んでしまう。
 徳利を呷《あお》る。もう空だった。勝先生が冷たく笑った。
「せいぜい頑張れよ。新撰組にはまだ、やってもらわなけりゃならねぇことがごまんとある。乱世は続く。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」
 酒に焼けた舌と喉が、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。
「斎藤一の名は近々変える」
 高台寺党を裏切るときに名前も捨てよう。急にそう思い付いた。名前と一緒に、記憶まで捨ててしまえたらいいのに。
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