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四 斎藤一之章:Betrayal
油小路事件(三)
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長々と尾を引く夏が終わった。途端に寒くなった。冬十月、とんでもないことが起こった。
「徳川家が朝廷に政権を返還した」
伊東さんが頬を上気させて言った。その出来事を、朝廷の人間は「大政奉還」と呼んでいるらしい。
藤堂さんが目をしばたかせた。
「それはつまり、徳川家が自分から倒幕を成しちまったってことか?」
皆、藤堂さんと同じ疑問を持つ様子だ。伊東さんはぐるりと一同を見回した。
「そのとおり。名目上、幕府は倒れた。しかし、実際のところ、幕府の幹部は権力を失わない。今、天皇を支えている官僚は、幕府に親しい者ばかりだ。朝議によって政治を動かすことになっても、当然、幕府の幹部も官僚として招かれる」
「じゃあ、大政奉還の意図は何だ? どっちにしたって幕府の幹部は政治の中心にいられるなら、なぜ今までの状態を崩す必要があった?」
「倒幕の過激派、薩摩や長州をおとなしくさせるためだ。連中は、倒幕を目標として暴力を振るう。ところが、倒幕がすでに幕府の手によっておこなわれてしまった。ということは、薩長が暴力を振るう名目がなくなる。幕府の幹部はそれを狙ったのだ」
世間は騒がしい。でも、伊東さんは嬉しそうだ。武力によらない倒幕を、伊東さんは目指していた。思い掛けない形で、一和同心の理想が実現に近付いた。
これから忙しくなる、と伊東さんは皆に告げた。一和同心の考えをいろんな人に語って回るつもりだという。政治論を掲げる思想家はそれぞれ、私塾を開いたり遊《ゆう》説《ぜい》をしたりして、自分の味方を増やしている。
そうか、伊東さんは武士というより思想家なのか。今さらのように、それに気付いた。頭がぼんやりとしている。眠りが足りない。
昼間は高台寺党として過ごして、夜は祇園で過ごして、朝方に少し眠る。いや、眠れる日は、ましだ。それでも剣術の稽古は欠かさない。試合をすれば誰にも負けない。休んでいないのに、動いている。オレはどうかしている。
伊東さんの外出が増えるなら襲撃の危険も増えるだろうと、藤堂さんが言い出した。新しい警備の仕組みを考えよう。役割を決めて、伊東さんのために働こう。藤堂さんの提案に、久方ぶりに皆が勢いのある声を上げた。
高台寺党は最近、今くらいの夕刻にもなれば、いつも酒精で濁っている。ああ、だからオレの剣のほうが強いのか。二日酔いの皆より、ましな状態だから。
一つも発言しないまま、話し合いを聞いた。要点だけ頭に入れる。詳しくは明日ということになって、解散した。
全員が集まった部屋は熱気が籠《こも》って息苦しかった。外に出ると、湿った冷気が顔を撫でる。高台寺から、暮六ツを告げる鐘の音が降ってくる。すでに薄暗い。
門の内側に、見知らぬ人影がある。女だ。オレは刀の柄に触れた。
「何をしてる?」
女が、はっとこちらを向いた。向くと同時に頭を下げた。
「許してくなんしょ。庭の木が見事だったから、つい入っつまったなし」
凛と澄む声の会津訛りに、覚えがあった。
「と……」
時尾、と呼ぼうとして、声が詰まる。呼び捨てにしていいほど親しい間柄じゃない。三年前の秋、一度だけ共闘して、一度だけ二人で話した。それ以来、遠目に見掛けることはあっても、挨拶すらしなかった。
そろそろと顔を上げた時尾が微笑んだ。目尻が垂れて、えくぼができた。
「斎藤さま、お久しぶりだなし。少しお痩せになったんでねぇかし? 」
「さすけねえ」
反射的に、問題ないと言ってしまった。時尾が小さく笑う。白い手が、ふと門塀のそばの木を指した。
「そこの立派な椿の木は、二百何十年も前に、織田信長公の弟の有《う》楽《らく》斎《さい》という人が植えたんだと、お殿さまがおっしゃっていました。つぼみが膨らんで、可愛《めげ》ごどなあ。咲いたら、きっと綺麗だべし」
「椿なのか。試衛館の庭にもあった。実から油を作って、刀の手入れに使っていた」
「会津でも椿油は使われます。実を炒ってから油を採ると、いい香りになっべし」
「同じ作り方だ。炒らずに潰すと、香りもなくて、べたべたする」
「んだべし。椿の花は鮮やかで、散り際が潔いから、わたしはとても好きだなし。有楽斎の椿が咲くころに見に来ても、さすけねぇがよ?」
「武家の女の一人歩きは危険だぞ。東山には、どこぞの藩士を隠して住まわせる寺が案外多い」
「そっだことおっしゃるなら、今の京都は、どこに花を見に行くのも危険だべし。だけんじょ、月真院なら、知った人たちが住んでおられるから、おっかなくねぇです」
呑《のん》気《き》なことを言って、時尾は笑っている。肝が据わっているし、腕も立つからだろうか。でも、女は女だ。時尾の細い体くらい、オレなら片腕で簡単にねじ伏せられる。
「やすやすと他人を信用するな。裏のない人間はいない」
「はい。気を付けます。このあたりは妖の匂いも濃いから、少し不気味だなし」
「妖の匂い?」
「斎藤さまは感じねぇがよ? ここに住んでいたら、だんだん慣れっつまいますか?」
どきりとした。慣れたんじゃなく、鈍ったんだ。感覚を研ぎ澄まそうと試みる。すぐにあきらめた。頭に靄《もや》がかかっている。目も耳も鼻も、自分自身の感覚がひどく遠い。
オレは時尾の問いに答えずに、逆に問い掛けた。
「あんたは会津に帰らず、ずっと京都に、黒《くろ》谷《だに》の金《こん》戒《かい》光《こう》明《みょう》寺《じ》にいたのか?」
「はい。お殿さまの環の具合《あんべ》は、わたししか診られねぇから。お殿さまは高台寺党のことを心配しておいでだなし」
容保公の名に、また、どきりとする。あの純粋で偉大な人を思うと、いたたまれない。
「高台寺党は新撰組を離脱した。会津公の期待を裏切ったんだ。心配していただける立場にはない」
「そっだ寂しいこと、おっしゃらないでくなんしょ。お殿さまは本当に高台寺党のこと、特に斎藤さまのことを案じておられます。高台寺党は倒幕派だけんじょ、掲げていることは少しもおっかなくねえ。お殿さまは話し合いてぇとおっしゃっています」
「女は政治のことに口を出さないほうがいい。今の京都では特に」
「だけんじょ、斎藤さま……」
「あんたは高台寺党に何か用があるのか?」
びしりと言葉を打ち切ったら、時尾は袂《たもと》から紙片を取り出した。手紙のようだ。時尾はそれをオレに差し出した。
「江戸言葉のお侍さまから、斎藤さまに渡してくれと頼まれました。『白い鳩《はと》は夜には飛ばねえ』と言えばわかる、と」
勝先生だ。
雷に打たれたように感じた。最後に手紙を送ってから、どれだけ経っただろう? 覚えていない。白い鳩を見掛けることがあったか? それもわからない。オレはここ最近、何を見て過ごしていた?
オレは時尾から手紙を受け取って開いた。一言だけ書かれている。
――乙部の馴染みの店。
土方さんと会う料理屋か? 色茶屋の建ち並ぶ一角か? いずれにしても、勝先生にはオレの行動を知られている。オレを見張る間者がどこかにいる。誰だ? 月真院の下働きの男か? それとも祇園乙部に潜んでいるのか?
「斎藤さま? 何《な》如《じょ》したがよ? 顔色が……」
「何でもない。オレは出掛ける」
時尾のそばをすり抜けて、門をくぐる。歩き慣れた坂を下る。
「斎藤さま、待ってくなんしょ!」
追いすがってきた時尾は駆け足だ。オレは黙って足を動かす。時尾は離れず付いてくる。東大路を北上する。
祇園の入口で、オレは立ち止まった。時尾を見下ろす。
「来るな。あんたみたいな女がうろつく場所じゃない」
時尾は、はっとした顔で、あたりを見回した。時尾を照らす外灯が異様に明るい。紅ひとつ差していない時尾を、化粧の濃い玄人《くろうと》女が横目に見ながら過ぎていく。
「斎藤さまも、こっだ場所でお酒を飲むのかし?」
「さっさと帰れ。女にはわからない」
「お許しくなんしょ。だけんじょ、斎藤さま、どうぞ無理などなさらねぇで」
時尾は深々と頭を下げて踵《きびす》を返した。小走りに去っていく後ろ姿を、見るともなしに見る。
唐突に。
「後ろががら空きだぜ」
硬い感触が背中に押し当てられた。刀の柄だ。オレの真後ろに、勝先生が立っている。勝先生は笑った。
「久方ぶりじゃねぇか。俺には知らせも寄越さずに花街なんぞに入り浸るとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな。ちょいと話をしようか。何、時間はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」
逃げられない。
勝先生に連れられて入ったのは、乙部の外れにある町屋だった。貧しい者が住む長屋みたいな構えだ。が、通り庭の奥に案内されると、様子が違う。外から見えない場所に、ひどく上等な造りの建物がある。
小部屋には、燗《かん》を付けた徳利が二本と盃、肴《さかな》が用意されていた。勝先生は、さっさと飲み食いを始めながら、にやにやしてオレを見る。笑っているはずの目が鋭い。気迫を突き立てられて、息が止まる。
「年の割に青臭ぇ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔付きになりやがったな。大層な床《とこ》上手だって話じゃねえか。長い得《え》物《もの》を振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」
頬が、かっとした。怒りではない。ただ単に、恥ずかしいと感じた。オレにそんな感情が残っているなんて知らなかった。唇を噛む。胡坐《あぐら》の膝をつかむ手に力が入った。
勝先生は盃の酒を飲み干した。
「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてぇだしな。なあ、あの夜、銭取橋の上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」
「なぜ、そこまで……」
「俺がおまえさんについてどれだけ知ってるかって? おまえさんは俺にとって、京都でいちばん優秀な間者だが、おまえさんひとりじゃ情報が足りねえ。ほかにもいろいろ子飼いがいるわけさ」
やはり、と思う。間者だけじゃないだろう。刺客の一人や二人、抱えていてもおかしくない。きっとオレを闇に葬ることだって簡単だ。
勝先生がそれをしないのは、狗《いぬ》一匹、生きようが死のうが関係ないからか。殺す価値もないのか。あるいは、処分せずに生かしておくのは、眺めて楽しむためか。日本を盤に、人間を駒にした将棋を指すのが、この人の楽しみだからか。
勝先生が不意に手を振った。飛んできた盃を、胸に当たる直前に払い落とす。勝先生は、にやりと笑みを深くした。
「鈍いねえ。こいつが銃弾なら、おまえさんは死んでたぞ。おかしなもんだ。新撰組三番隊組長の斎藤一は、相手が攻撃の構えを見せた途端に機先を制するくらいの、油断ならねぇ男のはずだが?」
「……あんたの前で、刀は抜けない」
苦しまぎれの言い訳を、勝先生は笑い飛ばした。オレだってわかっている。刀があろうがなかろうが、オレは反射的に牙を剥《む》くはずなんだ。今のオレには、できない。あまりにも感覚が鈍っている。頭に靄《もや》がかかっている。
「そんなに苦しいかい? おまえさんがあんなに大事にしていた剣客の本能を鈍らせてまで、現実から目を背けたいのかい?」
「逃げている?」
「ちっとぁ自覚しろや。鈍ってる上に、目立ちすぎだぜ。乙部を歩きゃ、引く手あまただろう? 今のおまえさんなら、色男で鳴らす土方とも向こうを張れる」
「意味がわからない」
「困るなあ、斎藤。女の体に逃げることを覚えた今のおまえさんじゃあ、気配が消せねえ。崩れた色気が駄《だ》々《だ》洩《も》れなんだよ。剣客や間者の体《てい》じゃあねえ。そのまま堕ち続けてみろ。隙だらけの背中から刺されて死ぬぞ」
勝先生が、オレの前にある手付かずの盃を取った。投げた盃の代わりだ。酒を注いで口を付ける。ぎょろりとした目が、また笑いながらオレを見る。よく動く口が、いつものように滔々《とうとう》と語り出した。
「十月十四日、大政奉還が為された。これによって、世の中が一気に動き出した。様相は単純じゃあねえ。佐幕派は武力闘争を回避したが、むろん失意に沈んだ者もいる。倒幕派は肩透かしを食わされたが、勢いに乗じて暗躍し始めた者もいる」
盃が空になる。徳利から新たに注がれた酒が、盆の上に少しこぼれる。勝先生は指で酒の雫をすくって、ねぶった。
「伊東甲子太郎率いる高台寺党も動き出した。そうだな? おまえさんは高台寺党の情報を新撰組に横流しする。新撰組も動き出すだろう。世の中がどう転ぶか、先が読めねぇんだ。仲間割れの決着なんか、さっさとつけちまうほうがいい」
喉が干上がっていく。目も耳も鈍らせておきたかったのは、その日の到来に気付きたくなかったからだ。
情けない。こんな体《てい》たらくじゃ、オレが生きている意味がない。
勝先生が、なみなみと酒が入ったほうの徳利をオレに押しやった。そのまま飲め、と手振りで命じられる。黙って従う。酒の口当たりが軽すぎる。まるで白《さ》湯《ゆ》だ。
「伏見でいちばん上等な酒蔵から持ってこさせた酒だぜ。甘ぇよな。俺の舌には、灘の辛い酒のほうが合う。おまえさんもそうだろう」
どうしてこの人は、オレの考えをたやすく見透かすんだ? オレはそんなに隙だらけなのか?
それで、と勝先生が片膝を立てて身を乗り出した。
「いつやるんだ?」
決めていない。まだ覚悟が決まっていない。でも、先延ばしにはできない。オレが終わりを告げなければならない。
「今年じゅうには」
言った途端、ぷつりと糸が切れた気がした。早く終わらせよう。でなきゃ、耐えられない。重ねすぎた嘘に押し潰されて死んでしまう。
徳利を呷《あお》る。もう空だった。勝先生が冷たく笑った。
「せいぜい頑張れよ。新撰組にはまだ、やってもらわなけりゃならねぇことがごまんとある。乱世は続く。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」
酒に焼けた舌と喉が、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。
「斎藤一の名は近々変える」
高台寺党を裏切るときに名前も捨てよう。急にそう思い付いた。名前と一緒に、記憶まで捨ててしまえたらいいのに。
「徳川家が朝廷に政権を返還した」
伊東さんが頬を上気させて言った。その出来事を、朝廷の人間は「大政奉還」と呼んでいるらしい。
藤堂さんが目をしばたかせた。
「それはつまり、徳川家が自分から倒幕を成しちまったってことか?」
皆、藤堂さんと同じ疑問を持つ様子だ。伊東さんはぐるりと一同を見回した。
「そのとおり。名目上、幕府は倒れた。しかし、実際のところ、幕府の幹部は権力を失わない。今、天皇を支えている官僚は、幕府に親しい者ばかりだ。朝議によって政治を動かすことになっても、当然、幕府の幹部も官僚として招かれる」
「じゃあ、大政奉還の意図は何だ? どっちにしたって幕府の幹部は政治の中心にいられるなら、なぜ今までの状態を崩す必要があった?」
「倒幕の過激派、薩摩や長州をおとなしくさせるためだ。連中は、倒幕を目標として暴力を振るう。ところが、倒幕がすでに幕府の手によっておこなわれてしまった。ということは、薩長が暴力を振るう名目がなくなる。幕府の幹部はそれを狙ったのだ」
世間は騒がしい。でも、伊東さんは嬉しそうだ。武力によらない倒幕を、伊東さんは目指していた。思い掛けない形で、一和同心の理想が実現に近付いた。
これから忙しくなる、と伊東さんは皆に告げた。一和同心の考えをいろんな人に語って回るつもりだという。政治論を掲げる思想家はそれぞれ、私塾を開いたり遊《ゆう》説《ぜい》をしたりして、自分の味方を増やしている。
そうか、伊東さんは武士というより思想家なのか。今さらのように、それに気付いた。頭がぼんやりとしている。眠りが足りない。
昼間は高台寺党として過ごして、夜は祇園で過ごして、朝方に少し眠る。いや、眠れる日は、ましだ。それでも剣術の稽古は欠かさない。試合をすれば誰にも負けない。休んでいないのに、動いている。オレはどうかしている。
伊東さんの外出が増えるなら襲撃の危険も増えるだろうと、藤堂さんが言い出した。新しい警備の仕組みを考えよう。役割を決めて、伊東さんのために働こう。藤堂さんの提案に、久方ぶりに皆が勢いのある声を上げた。
高台寺党は最近、今くらいの夕刻にもなれば、いつも酒精で濁っている。ああ、だからオレの剣のほうが強いのか。二日酔いの皆より、ましな状態だから。
一つも発言しないまま、話し合いを聞いた。要点だけ頭に入れる。詳しくは明日ということになって、解散した。
全員が集まった部屋は熱気が籠《こも》って息苦しかった。外に出ると、湿った冷気が顔を撫でる。高台寺から、暮六ツを告げる鐘の音が降ってくる。すでに薄暗い。
門の内側に、見知らぬ人影がある。女だ。オレは刀の柄に触れた。
「何をしてる?」
女が、はっとこちらを向いた。向くと同時に頭を下げた。
「許してくなんしょ。庭の木が見事だったから、つい入っつまったなし」
凛と澄む声の会津訛りに、覚えがあった。
「と……」
時尾、と呼ぼうとして、声が詰まる。呼び捨てにしていいほど親しい間柄じゃない。三年前の秋、一度だけ共闘して、一度だけ二人で話した。それ以来、遠目に見掛けることはあっても、挨拶すらしなかった。
そろそろと顔を上げた時尾が微笑んだ。目尻が垂れて、えくぼができた。
「斎藤さま、お久しぶりだなし。少しお痩せになったんでねぇかし? 」
「さすけねえ」
反射的に、問題ないと言ってしまった。時尾が小さく笑う。白い手が、ふと門塀のそばの木を指した。
「そこの立派な椿の木は、二百何十年も前に、織田信長公の弟の有《う》楽《らく》斎《さい》という人が植えたんだと、お殿さまがおっしゃっていました。つぼみが膨らんで、可愛《めげ》ごどなあ。咲いたら、きっと綺麗だべし」
「椿なのか。試衛館の庭にもあった。実から油を作って、刀の手入れに使っていた」
「会津でも椿油は使われます。実を炒ってから油を採ると、いい香りになっべし」
「同じ作り方だ。炒らずに潰すと、香りもなくて、べたべたする」
「んだべし。椿の花は鮮やかで、散り際が潔いから、わたしはとても好きだなし。有楽斎の椿が咲くころに見に来ても、さすけねぇがよ?」
「武家の女の一人歩きは危険だぞ。東山には、どこぞの藩士を隠して住まわせる寺が案外多い」
「そっだことおっしゃるなら、今の京都は、どこに花を見に行くのも危険だべし。だけんじょ、月真院なら、知った人たちが住んでおられるから、おっかなくねぇです」
呑《のん》気《き》なことを言って、時尾は笑っている。肝が据わっているし、腕も立つからだろうか。でも、女は女だ。時尾の細い体くらい、オレなら片腕で簡単にねじ伏せられる。
「やすやすと他人を信用するな。裏のない人間はいない」
「はい。気を付けます。このあたりは妖の匂いも濃いから、少し不気味だなし」
「妖の匂い?」
「斎藤さまは感じねぇがよ? ここに住んでいたら、だんだん慣れっつまいますか?」
どきりとした。慣れたんじゃなく、鈍ったんだ。感覚を研ぎ澄まそうと試みる。すぐにあきらめた。頭に靄《もや》がかかっている。目も耳も鼻も、自分自身の感覚がひどく遠い。
オレは時尾の問いに答えずに、逆に問い掛けた。
「あんたは会津に帰らず、ずっと京都に、黒《くろ》谷《だに》の金《こん》戒《かい》光《こう》明《みょう》寺《じ》にいたのか?」
「はい。お殿さまの環の具合《あんべ》は、わたししか診られねぇから。お殿さまは高台寺党のことを心配しておいでだなし」
容保公の名に、また、どきりとする。あの純粋で偉大な人を思うと、いたたまれない。
「高台寺党は新撰組を離脱した。会津公の期待を裏切ったんだ。心配していただける立場にはない」
「そっだ寂しいこと、おっしゃらないでくなんしょ。お殿さまは本当に高台寺党のこと、特に斎藤さまのことを案じておられます。高台寺党は倒幕派だけんじょ、掲げていることは少しもおっかなくねえ。お殿さまは話し合いてぇとおっしゃっています」
「女は政治のことに口を出さないほうがいい。今の京都では特に」
「だけんじょ、斎藤さま……」
「あんたは高台寺党に何か用があるのか?」
びしりと言葉を打ち切ったら、時尾は袂《たもと》から紙片を取り出した。手紙のようだ。時尾はそれをオレに差し出した。
「江戸言葉のお侍さまから、斎藤さまに渡してくれと頼まれました。『白い鳩《はと》は夜には飛ばねえ』と言えばわかる、と」
勝先生だ。
雷に打たれたように感じた。最後に手紙を送ってから、どれだけ経っただろう? 覚えていない。白い鳩を見掛けることがあったか? それもわからない。オレはここ最近、何を見て過ごしていた?
オレは時尾から手紙を受け取って開いた。一言だけ書かれている。
――乙部の馴染みの店。
土方さんと会う料理屋か? 色茶屋の建ち並ぶ一角か? いずれにしても、勝先生にはオレの行動を知られている。オレを見張る間者がどこかにいる。誰だ? 月真院の下働きの男か? それとも祇園乙部に潜んでいるのか?
「斎藤さま? 何《な》如《じょ》したがよ? 顔色が……」
「何でもない。オレは出掛ける」
時尾のそばをすり抜けて、門をくぐる。歩き慣れた坂を下る。
「斎藤さま、待ってくなんしょ!」
追いすがってきた時尾は駆け足だ。オレは黙って足を動かす。時尾は離れず付いてくる。東大路を北上する。
祇園の入口で、オレは立ち止まった。時尾を見下ろす。
「来るな。あんたみたいな女がうろつく場所じゃない」
時尾は、はっとした顔で、あたりを見回した。時尾を照らす外灯が異様に明るい。紅ひとつ差していない時尾を、化粧の濃い玄人《くろうと》女が横目に見ながら過ぎていく。
「斎藤さまも、こっだ場所でお酒を飲むのかし?」
「さっさと帰れ。女にはわからない」
「お許しくなんしょ。だけんじょ、斎藤さま、どうぞ無理などなさらねぇで」
時尾は深々と頭を下げて踵《きびす》を返した。小走りに去っていく後ろ姿を、見るともなしに見る。
唐突に。
「後ろががら空きだぜ」
硬い感触が背中に押し当てられた。刀の柄だ。オレの真後ろに、勝先生が立っている。勝先生は笑った。
「久方ぶりじゃねぇか。俺には知らせも寄越さずに花街なんぞに入り浸るとは、おまえさんもずいぶん、ぐれちまったな。ちょいと話をしようか。何、時間はそう取らせねえさ。夜が明ける前に、おまえさんの馴染みの店まで送ってやらあ」
逃げられない。
勝先生に連れられて入ったのは、乙部の外れにある町屋だった。貧しい者が住む長屋みたいな構えだ。が、通り庭の奥に案内されると、様子が違う。外から見えない場所に、ひどく上等な造りの建物がある。
小部屋には、燗《かん》を付けた徳利が二本と盃、肴《さかな》が用意されていた。勝先生は、さっさと飲み食いを始めながら、にやにやしてオレを見る。笑っているはずの目が鋭い。気迫を突き立てられて、息が止まる。
「年の割に青臭ぇ表情を見せるやつだと思っていたが、こいつぁまた色気のある顔付きになりやがったな。大層な床《とこ》上手だって話じゃねえか。長い得《え》物《もの》を振り回して刺したり突いたりはお手の物ってわけかい」
頬が、かっとした。怒りではない。ただ単に、恥ずかしいと感じた。オレにそんな感情が残っているなんて知らなかった。唇を噛む。胡坐《あぐら》の膝をつかむ手に力が入った。
勝先生は盃の酒を飲み干した。
「やけっぱちになっちまってるのかねえ? 藤堂平助や伊東甲子太郎を裏切るのが、そんなに苦しいか? 武田観柳斎のときでさえ、勝手が狂っちまったみてぇだしな。なあ、あの夜、銭取橋の上で永倉新八と立ち話をしてたようだが、何を話してたんだ?」
「なぜ、そこまで……」
「俺がおまえさんについてどれだけ知ってるかって? おまえさんは俺にとって、京都でいちばん優秀な間者だが、おまえさんひとりじゃ情報が足りねえ。ほかにもいろいろ子飼いがいるわけさ」
やはり、と思う。間者だけじゃないだろう。刺客の一人や二人、抱えていてもおかしくない。きっとオレを闇に葬ることだって簡単だ。
勝先生がそれをしないのは、狗《いぬ》一匹、生きようが死のうが関係ないからか。殺す価値もないのか。あるいは、処分せずに生かしておくのは、眺めて楽しむためか。日本を盤に、人間を駒にした将棋を指すのが、この人の楽しみだからか。
勝先生が不意に手を振った。飛んできた盃を、胸に当たる直前に払い落とす。勝先生は、にやりと笑みを深くした。
「鈍いねえ。こいつが銃弾なら、おまえさんは死んでたぞ。おかしなもんだ。新撰組三番隊組長の斎藤一は、相手が攻撃の構えを見せた途端に機先を制するくらいの、油断ならねぇ男のはずだが?」
「……あんたの前で、刀は抜けない」
苦しまぎれの言い訳を、勝先生は笑い飛ばした。オレだってわかっている。刀があろうがなかろうが、オレは反射的に牙を剥《む》くはずなんだ。今のオレには、できない。あまりにも感覚が鈍っている。頭に靄《もや》がかかっている。
「そんなに苦しいかい? おまえさんがあんなに大事にしていた剣客の本能を鈍らせてまで、現実から目を背けたいのかい?」
「逃げている?」
「ちっとぁ自覚しろや。鈍ってる上に、目立ちすぎだぜ。乙部を歩きゃ、引く手あまただろう? 今のおまえさんなら、色男で鳴らす土方とも向こうを張れる」
「意味がわからない」
「困るなあ、斎藤。女の体に逃げることを覚えた今のおまえさんじゃあ、気配が消せねえ。崩れた色気が駄《だ》々《だ》洩《も》れなんだよ。剣客や間者の体《てい》じゃあねえ。そのまま堕ち続けてみろ。隙だらけの背中から刺されて死ぬぞ」
勝先生が、オレの前にある手付かずの盃を取った。投げた盃の代わりだ。酒を注いで口を付ける。ぎょろりとした目が、また笑いながらオレを見る。よく動く口が、いつものように滔々《とうとう》と語り出した。
「十月十四日、大政奉還が為された。これによって、世の中が一気に動き出した。様相は単純じゃあねえ。佐幕派は武力闘争を回避したが、むろん失意に沈んだ者もいる。倒幕派は肩透かしを食わされたが、勢いに乗じて暗躍し始めた者もいる」
盃が空になる。徳利から新たに注がれた酒が、盆の上に少しこぼれる。勝先生は指で酒の雫をすくって、ねぶった。
「伊東甲子太郎率いる高台寺党も動き出した。そうだな? おまえさんは高台寺党の情報を新撰組に横流しする。新撰組も動き出すだろう。世の中がどう転ぶか、先が読めねぇんだ。仲間割れの決着なんか、さっさとつけちまうほうがいい」
喉が干上がっていく。目も耳も鈍らせておきたかったのは、その日の到来に気付きたくなかったからだ。
情けない。こんな体《てい》たらくじゃ、オレが生きている意味がない。
勝先生が、なみなみと酒が入ったほうの徳利をオレに押しやった。そのまま飲め、と手振りで命じられる。黙って従う。酒の口当たりが軽すぎる。まるで白《さ》湯《ゆ》だ。
「伏見でいちばん上等な酒蔵から持ってこさせた酒だぜ。甘ぇよな。俺の舌には、灘の辛い酒のほうが合う。おまえさんもそうだろう」
どうしてこの人は、オレの考えをたやすく見透かすんだ? オレはそんなに隙だらけなのか?
それで、と勝先生が片膝を立てて身を乗り出した。
「いつやるんだ?」
決めていない。まだ覚悟が決まっていない。でも、先延ばしにはできない。オレが終わりを告げなければならない。
「今年じゅうには」
言った途端、ぷつりと糸が切れた気がした。早く終わらせよう。でなきゃ、耐えられない。重ねすぎた嘘に押し潰されて死んでしまう。
徳利を呷《あお》る。もう空だった。勝先生が冷たく笑った。
「せいぜい頑張れよ。新撰組にはまだ、やってもらわなけりゃならねぇことがごまんとある。乱世は続く。こんなところで死ぬなよ、斎藤一」
酒に焼けた舌と喉が、じわりと熱い。何も入れていなかった胃が、よじれるように痛んだ。
「斎藤一の名は近々変える」
高台寺党を裏切るときに名前も捨てよう。急にそう思い付いた。名前と一緒に、記憶まで捨ててしまえたらいいのに。
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日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
明治仕舞屋顛末記
祐*
歴史・時代
大政奉還から十余年。年号が明治に変わってしばらく過ぎて、人々の移ろいとともに、動乱の傷跡まで忘れられようとしていた。
東京府と名を変えた江戸の片隅に、騒動を求めて動乱に留まる輩の吹き溜まり、寄場長屋が在る。
そこで、『仕舞屋』と呼ばれる裏稼業を営む一人の青年がいた。
彼の名は、手島隆二。またの名を、《鬼手》の隆二。
金払いさえ良ければ、鬼神のごとき強さで何にでも『仕舞』をつけてきた仕舞屋《鬼手》の元に舞い込んだ、やくざ者からの依頼。
破格の報酬に胸躍らせたのも束の間、調べを進めるにしたがって、その背景には旧時代の因縁が絡み合い、出会った志士《影虎》とともに、やがて《鬼手》は、己の過去に向き合いながら、新時代に生きる道を切り開いていく。
*明治初期、史実・実在した歴史上の人物を交えて描かれる 創 作 時代小説です
*登場する実在の人物、出来事などは、筆者の見解や解釈も交えており、フィクションとしてお楽しみください
座頭の石《ざとうのいし》
とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男『石』は、《つる》という女性と二人で旅を続けている。
旅の途中で出会った女性《よし》と娘の《たえ》の親子。
二人と懇意になり、町に留まることにした二人。
その町は、尾張藩の代官、和久家の管理下にあったが、実質的には一人のヤクザが支配していた。
《タノヤスケゴロウ》表向き商人を装うこの男に目を付けられてしまった石。
町は幕府からの大事業の河川工事の真っ只中。
棟梁を務める《さだよし》は、《よし》に執着する《スケゴロウ》と対立を深めていく。
和久家の跡取り問題が引き金となり《スケゴロウ》は、子分の《やキり》の忠告にも耳を貸さず、暴走し始める。
それは、《さだよし》や《よし》の親子、そして、《つる》がいる集落を破壊するということだった。
その事を知った石は、《つる》を、《よし》親子を、そして町で出会った人々を守るために、たった一人で立ち向かう。
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
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