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三 沖田総司之章:Tragedy
士道に背くまじき事(四)
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探していた人と、呆気なく出会ってしまった。古びた神社の境内の隅に、ぽつりと、山南さんが立っていた。きっちり結った髪に、二本差し。少しだけ遠出をするときの折り目正しい姿で、早咲きの山桜を見上げている。
山南さんが振り返って微笑んだ。
「やはり総司が来てくれた。おまえの顔を見て安心したよ」
おれも微笑んでみせた。
「迎えに来たよ。近藤さんと土方さんは意地を張っちまったから、気まずいんだって。山南さん、おれと一緒に帰ろう。近藤さんたち、謝りたいみたいだよ」
山南さんは山桜を背に、まっすぐにおれに向き直った。笑みを消さないまま、どこかが痛むような目をする。
「何を謝るつもりなのだろう? 近藤さんと土方さんは、何か悪いことをしたか?」
「屯所の移転のこと、山南さん抜きで話を進めていたんでしょ?」
「さて、それが正しくないことだったのか、私には判断できない。私が話に加わったところで、二人の邪魔しかできなかった」
「邪魔って言い方は、違うよ。そうじゃないんだ」
「なあ、総司。最近になってようやく気が付いたのだが、私はどうやら、さほど賢くないらしい。二百数十人の大所帯を率いたり支えたりするには、視野が狭すぎるようでね」
「何言ってるの? 山南さんはおれたちの頭脳だ。山南さんがいなけりゃ、新撰組の中では誰も、ろくに思想や理念を語ることができない。尊攘派が偉そうな口を利いてても、反論する言葉を知らないんだ」
「私は弁論がうまいわけではないよ。弁舌爽やかで博識の学問家なら、私より優れた人材が現れたじゃないか。今の新撰組には伊東さんがいる。伊東さんの知力があれば、学問に対する近藤さんの劣等感は完全に補われる。近藤さんは強い頭領でいられる」
「待ってよ。山南さん、何でそんな言い方するの? 口が立つとか知識が多いとか、そういうところを比べてるんじゃないんだよ」
ふらつきそうな足で、おれは一歩、踏み出した。山南さんと伊東さんが笑い交わすところを思い出す。屈託のない様子にしか見えなかった。でも、その陰で、山南さんは伊東さんに自分の居場所を奪われたことを理解していたんだ。
胸の内側の、病とは違う場所が痛い。笑みを消さない山南さんのまなざしが痛くて、おれは顔をしかめた。
山南さんは口を開いて、何かを言いかけて口を閉ざして、再び口を開いた。
「新撰組は、大きく変わりつつある。そう感じる。しかし、近藤さんや土方さんの人柄が変わったとは思わない。原田さんの胆力、永倉さんの勢いのよさ、源さんの気配り、一の冷静さ、平助の人懐っこさ、総司の純粋さ、皆どこも変わっていない」
「そうだよ。みんな変わってない。近藤さんと土方さんが組織の遣り繰りに頭を抱えてて、原田さんと永倉さんは無鉄砲なところがあって、源さんと斎藤さんはけっこう心配性で、平助とおれは子どもっぽくて、山南さんはみんなを見守ってくれる」
「しかし、新撰組は変わりつつある。あるいは、すでに変わってしまった。一人ひとりの生き様はそのままに、それぞれの方向へとまっすぐに伸びていくせいで、ひとまとまりになったときの姿が丸きり変わった。もとの姿には戻れない」
正しいと思った。山南さんの言いたいことは、おれにもわかる。誰も変わっていないのに、誰かと誰かの間にあるものだけが変わってしまうなんて、奇妙なことだ。でも、確かに何かが昔とは違う。
原田さんや永倉さんや斎藤さんが、近藤さんの振る舞いを咎《とが》める書状を容《かた》保《もり》公に提出した。近藤さんと土方さんが、山南さんを抜きにして屯所の移転の話に決着を付けてしまった。近藤さんや平助は伊東さんと仲がいいけれど、ほかは伊東さんを疎《うと》んでいる。
江戸で貧乏暮らしをしていたころ、おれたちには同じものが見えていた。ばらばらの性格で、別々の流派で、生まれ育ちもてんで違うのに、同じ一つの刀の道を進んでいけると固く信じていた。何の証《あかし》がなくても、きっぱりと信じられた。
今は、なぜ?
指の隙間から大事なものがこぼれ落ちていく。山南さんが微笑んでいる。静かな声が、おれのかけがえのない時間に終わりを告げようとしている。
「総司が知っているよりも長いこと、私は皆と話し合いを重ねたのだよ。そして、話しても堂々巡りになるだけだと悟った。なぜなら、私たちはそれぞれ、決して譲れないものを持ってまっすぐに生きている。誰も間違っておらず、曲がってもいないのだから」
ざあっと音を立てて風が吹いた。湖を渡る春風とは違う。山南さんの体から噴き上がる気迫が、空気を弾き飛ばして風を生んでいる。
花乃さんがおれの半歩前まで駆け出た。印を結んだ手を山南さんのほうへ突き出す。風がおれに触れなくなった。花乃さんが結界を張ったのか。
「戦わはるおつもりどすか?」
山南さんのきっちりと合わさった襟の隙間から、わずかに、赤黒い環の輝きがこぼれて見える。山南さんはまだ微笑んでいた。難しい学問を噛み砕いて教えてくれるときの、見慣れた笑顔だ。
ばさりと音がして、山南さんの背後に純白が広がった。巨大な鳥の翼が二対、山南さんの背中にある。袴《はかま》からのぞく足が、鳥のそれに変化する。翼が空気を打った。山南さんの体が宙に浮かぶ。
花乃さんが息を呑んだ。環を完成させた山南さんの、理性と知性を保った異形の姿は、恐ろしくて猛々しくて美しい。そして悲しい。結界越しにも吹き付けるのは、まぎれもなく闘志だ。山南さんの声が上空から降ってくる。
「己の信ずるがままに、まっすぐに生きる。それが新撰組の士道だ。士道に背けば、死あるのみ。己を曲げたその瞬間に、私たちは生きることを許されなくなる」
知っている。わかっている。何度だって聞かされた。深く深く胸に刻んで生きてきた。覚悟の上で刀を握ってきた。
花乃さんが山南さんを見上げて叫んだ。
「そんなん厳しすぎる! 引き返しても曲げても、ええやないどすか!」
山南さんがかぶりを振った。
「引き返すことも曲げることもできない。新撰組は、人の命を奪いすぎている。誠心誠意まっすぐに生きなければ、奪った命に示しが付かない。なあ、総司。おまえにも教えたはずだ。私たちの士道はどのようにあるべきだ?」
山南さんが答えを促している。おれはただ、二対の翼で羽ばたく山南さんを見上げている。山南さんが刀を抜いた。切っ先を向けられる。山南さんと最後に稽古をしたのはいつだっただろう? 思い出せないくらい前だ。昔は毎日、剣を合わせていたのに。
ちりりと、脛《すね》に痛みを感じた。ヤミがおれを引っ掻いたんだと察しながらも、おれは動けない。
花乃さんがつぶやく。
「勝手や。わがままや。士道なんて言葉、ええ格好しぃの身勝手やないの」
武士じゃない花乃さんにはわからないよ。
命を一つ屠《ほふ》るごとに、おれたちは一つずつ狂っていく。悪ではないものを斬るためには、強烈な理由がなけりゃいけない。後戻りなんかした日には、この手で消した命すべてに呪われて、正気でいられなくなる。
山南さんが両腕を広げた。
「総司よ、私をここで止めてくれ。生き方を変えられず、新撰組を去るしかない。私は逃げた。新撰組の士道から逃げた。私のたどるべき末路は一つだ。誠の一文字を背負うにふさわしい総司が、新撰組の志を載せた刀で、私に裁きを下してくれ」
待ってと言いたかった。言わせてもらえなかった。
山南さんが激しく打った翼から、強烈な波動が吹き付ける。立ち尽くすおれを鎌《かま》鼬《いたち》が襲う。頬に痛みが走って、一瞬の後、頭上に氷の障壁が張られた。
「沖田さま! 何してはりますの!」
花乃さんの叱咤。障壁にぶつかる鎌鼬の風。ひびの入る氷。ヤミが鳴く声。白い翼の羽ばたき。再びぶつかる鎌鼬が、あっさりと氷を割った。降り注ぐ氷の欠片。吹き付ける風と気迫。
どうして戦わなきゃいけない?
いや、わかっているんだ。おれたちが誠心誠意まっすぐに生きていると証《あか》す方法は、刀を抜いて戦うことのほかにはないから。言葉も涙もいらない。ただ精いっぱい、一心に戦ってぶつかり合う。それがおれたちの士道だ。
わかっているのに、どうして苦しい?
花乃さんが飛ばした氷の槍を、山南さんが刀で叩き落とす。ぴたりと上段に構えた剣が振り下ろされた。太刀筋が風の刃となって飛んでくる。花乃さんの障壁が迎え撃つ。硬い音が鳴る。
ヤミがおれに爪を立てる。痛い。体が動かない。動きたくない、刀を抜きたくないと、体も心も拒んでいる。ただ、士道を知る頭が、士道を刻んだ胸が、おれに動けと命じている。山南さんに教わった道を、おれもきちんと証さなければ。
鎌鼬が襲ってくる。花乃さんが防ぐ。防ぎ切れずに皮膚が裂ける。花乃さんが声を上げる。おれは何をしている?
山南さんがおれを叱った。
「総司、迷うな! 私の士道を軽《かろ》んずる気か!」
刀を構えた山南さんが、急降下で突っ込んでくる。刃が夕日にきらめいた。その瞬間、おれの体の奥で本能が爆《は》ぜた。
吠える。
「ああぁぁぁぁああああっ!」
柄に手を触れる。足を踏み込む。抜き打ちを放つ。
強烈な衝撃。ぶつかり合う刀の間に火花が散った。高く澄んだ金属音が一つ。踏ん張る地面のない山南さんが、吹っ飛んだ空中で体勢を立て直した。手にした刀は、中途で折れている。
「さすがだな、総司」
おれは、両腕を下げたいつもの構えを取った。血がたぎりながら凪いでいく。興奮と冷静が同時におれを支配する。山南さんが宿敵にも獲物にも見える。倒さなければならないと、抜き放った刀がおれを導く。
ヤミが、にゃあと鳴いた。おれは命じた。
「おいで。本気で戦おう」
山南さんを倒さなければ、おれの望みは通らない。まじめで信念が固いぶん強情な山南さんを、戦って倒して力ずくで京都に連れ帰ってやる。
ヤミがおれの胸に飛び込んだ。どろりと体が溶け合って、猫又の耳と目と尾がおれを人間から遠ざける。全身の感覚が尖る。人間の肉体の限界が取り払われる。
「花乃さん」
「へえ」
「下がってて」
「……危のぅなったら飛び出しますえ」
駄目だと、おれはかぶりを振った。ここからは手出し無用だ。一対一の真剣勝負でなければならない。花乃さんが黙って後ずさった。それでいい。
山南さんが、折れた刀を構えた。
「いざ参るッ!」
飛ぶ鳥を仕留めるには初めに翼を討つべきだと、猫の本能が知っていた。
桜の古木の幹を蹴って跳び上がる。勢いのままに、翼を狙う三段突き。折れた刀では防ぎ切れず、山南さんの白い羽根が赤く染まって飛び散る。ぐらりと体勢が傾く。
着地と同時におれは土を蹴り上げた。山南さんが腕で顔を庇《かば》う隙に、足下をくぐって背後を取る。跳躍して片翼に刀を振り下ろす。
ざっくりと、手応え。それと同時に、反対側の翼で打たれた。鎌鼬の波動を乗せた打撃に、皮膚が裂ける。
失策だよ、山南さん。
おれは翼をつかんだ。猫又の爪と牙で、翼を引き千切る。山南さんが呻《うめ》いて地面に転がった。
さっき蹴った桜が花びらを散らしている。
山南さんが転がりながら跳ね起きて、晴眼の構えから突進してくる。おれは正面で刀を受ける。鍔《つば》迫《ぜ》り合い。間近に見下ろす山南さんの目。今は、おれのほうが背が高くて力が強い。力比べの主導権を握る。山南さんの刀を、その体ごと弾き返す。
後ずさる山南さんの脚を払う。それでも繰り出される刀に、横薙ぎの一打。山南さんの手から刀が飛んでいく。
座り込んだ格好の山南さんが、おれを見上げた。翼がもげて、あるいは折れて、無残だ。おれのこの手が傷付けた。抜き身の刀がひどく重い。
「おれの勝ちだよ」
「ああ。見事だ」
「疲れたでしょう? 帰って休もう。その傷、ゆっくり養生しなけりゃいけないよ。山南さん、帰ろう」
山南さんが微笑んだ。柔らかい声が歌うようにつぶやいた。
「帰りたかったなあ」
それは一瞬の出来事だった。
山南さんの手がおれの刀をつかんだ。先端を喉に押し当てる。そのまま掻き切る。血しぶき。鮮烈な匂い。刹《せつ》那《な》、強くきらめく山南さんの目。そして光が失せる。
ゆっくりと、山南さんの体がくずおれた。
おれの右手に、喉笛の血管を断った感触が残っている。人を死なせた瞬間の、絶望的な感触が。
「山南さん……?」
応える声はない。血が山南さんを赤く染めていく。駆け寄ってきた花乃さんが、おれの袖をつかんだ。
「山南さまの魂は、赤い環から解き放たれました。ただの刀と違う、沖田さまの力を帯びた刀によって命が絶たれましたさかい。山南さまは救われたのや」
「救われた?」
「へえ。環を断てるのは、環を持つ者だけどす。環を断たんと旅立たはったら、輪《りん》廻《ね》転生できんで永遠に苦しむことになったところを、沖田さまの力が……」
「そんなのが何の救いになるの? 目に見えない世界の出来事なんて、どうでもいいよ。環を持つおれや花乃さんの力が山南さんを救えるって言うなら、生き返らせようよ。おれは、この世に生きる山南さんを救って助けたいんだよ」
「できひんことや。環を断つことと命を絶つことは同《おんな》しやさかい」
「じゃあ、花乃さんはいつかおれを殺すの? おれが環の力を制御できなくなったとき救ってくれるために、あんたはおれのそばにいるんだろ? それはつまり、おれを殺すって意味だよね。今、おれが山南さんを殺しちまったように」
口に出して、はっきりと理解した。結末は覆《くつがえ》らない。死んだ人は生き返らない。
おれは刀を投げ出して、地面に這いつくばって、山南さんを抱き起こした。優しく厳しかった二つの目は澄んだまま、どこでもない場所を見つめている。
美しい死だとか正しい死だとか誉れある死だとか、そんなもの、あるんだろうか。
「死んじまったら、全部一緒じゃないか」
血の匂いに包まれている。山南さんの体は、間もなく冷えて硬くなる。そして腐っていく。山南さんはもうしゃべらない。死んじまっても、今でも、ただまっすぐなその士道が正しかったと、山南さんは思っているんだろうか。答えは聞けない。
ふっと、あたりが暗くなった。山に日が沈んだんだ。おれの肩に花乃さんの手が触れた。
「今夜は大津で休みまひょ。夜の山越えは危険どす。それに、山南さまのお体も清めて差し上げんとあきまへん。明日、お日さんが顔を出さはったら、すぐに、山南さまのお体と一緒に京都に戻りまひょ」
おれの隣にしゃがんだ花乃さんが、そっと合《がっ》掌《しょう》した。それからその手が山南さんのまぶたを閉ざした。
風が吹いた。薄闇の中に、山桜の花びらが舞う。
新撰組ご用達の旅籠《はたご》、かわせみ屋から人を寄越してもらって、山南さんの体を運んだ。体を清める仕事は、島田さんが手際よく務めた。
島田魁という人は江戸にいたころから永倉さんと親しくて、おれたちが京都に来てすぐに仲間に加わった。表立った任務だけじゃなく、隊士に処罰を与える汚れ仕事も引き受ける。切腹の後始末にも多く携《たずさ》わっている。
端正な姿になった山南さんに花乃さんが術を掛けて、氷に閉じ込めた。こうしておけば、山南さんの時が止まる。醜く腐れてしまわない。
翌朝早く、眠るような山南さんを荷車に載せて菰《こも》を被《かぶ》せて、おれたちは京都に戻った。日が高くなる前に屯所に着いて、近藤さんと土方さんに、山南さんと対面してもらった。
近藤さんの切れ上がった目から滂《ぼう》沱《だ》の涙があふれて、抑え切れない声が低く床を這った。黙って青ざめていた土方さんが、冷たく硬い山南さんに触れて、そして自分の太《ふと》腿《もも》を強く殴り付けた。
言葉のない時間が流れる。大津を出て今に至るまで、おれはほとんど口を開いていない。泣いてすらいなかったことには、近藤さんの涙を見て初めて気が付いた。
髪を掻きむしった土方さんが、普段じゃあり得ないほどめちゃくちゃな頭のまま顔を上げて、おれたちを見渡した。言葉がようやく絞り出される。
「山南さんの死は、私闘の果ての討ち死になどと、誰にも言っちゃならねえ。山南さんは脱走の責を負って、士道を曲げることなく、誇り高く切腹して果てたと、皆には公表する。それが山南さんへの餞《はなむけ》になる」
私闘だろうと切腹だろうと、死んじまったら同じじゃないか。そんなことを思うおれは、やっぱり賤《いや》しい孤児《みなしご》に過ぎないんだろう。山南さんが大事にしていたはずの武士としての美しい死に様を、おれは理解できない。
元治二年(一八六五年)二月二十三日、花が咲き始めた春の日に、山南さんは散っていった。野辺送りでは、新撰組の仲間はもちろん、屯所の家主である武家屋敷の人々も、近所の子どもたちも花街の女たちも、たくさんの人が泣いた。
墓は壬《み》生《ぶ》の光縁寺に建てられた。光縁寺の寺紋は三つ葉立葵だから山南さんの家紋と同じだし、気さくな住職は山南さんと同い年で話も合った。山南さんの訃報を聞いた住職は、ぜひ自分に弔《とむら》わせてくれと、近藤さんと土方さんに頼み込んだ。
おれは毎日、山南さんの墓に出向いている。線香の匂いが苦手なくせに、ヤミも必ず付いてくる。花を手向けたことはない。おれが持ってくるまでもなく、山南さんの墓前は綺麗な花であふれているから。
今朝は先客がいた。
「伊東さん」
呼び掛けると、顔を上げた伊東さんは、げっそりと隈のできた目元を無理に微笑ませた。
「山南さんの最期は立派だったそうだね。沖田くんが切腹の介《かい》錯《しゃく》を務めたのだろう? 弟のようにかわいがっていたあなたに武士の最期の作法を示すことができて、山南さんは誇らしかったに違いない」
「ああ……そうだと思いたいね」
「しかし、寂しいね。私は大切な朋友を喪《うしな》ってしまった」
伊東さんは墓石を見つめて手を合わせて、立ち上がった。おれに場所を譲るように、墓石の建ち並ぶ狭い道を去っていこうとする。
花にまぎれて紙片が供えられている。紙片には、流れるような字で歌が書き付けられていた。伊東さんの字だと、わけもなく直感した。
――春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな
「春風ってのは、東から吹くよね。伊東さん自身ってことかい?」
立ち去る足音が止まる。力なく笑う気配がある。
「東から来て東の字を名に持つ私は、芽吹きを促す優しい風ではなく、春先の嵐だった。寺社を巡り、桜を愛でながら歌を詠もうと約束していた矢先に、早咲きの山桜は私の手の届かないところで散ってしまった」
「あんたは何も悪くない。でも、あんたが山南さんの居場所を奪った。おれはきっと、あんたを好きにはなれないよ。おれは善人じゃないからね」
山南さんの墓前で、ひどいことを言っている。ごめんね、山南さん。だけどさ、おれがどんなに行儀の悪いことをしても、もう叱ってもらえないんだよね。
花に埋もれそうな真新しい墓石を見つめても、そこに山南さんの気配なんてこれっぽっちもない。この手にあったはずの、山南さんの喉笛を切り裂いた感触の記憶も、だんだん薄れようとしている。
山南さんが消えていく。
視界が熱くにじんだ。まばたきと同時に涙があふれ出した。ああ、やっとだ。山南さんが死んでから初めて、やっと、おれは泣いている。
墓の前に這いつくばって、声を上げて泣いた。その晩から高熱が出て、幾日も寝付いた。病魔に魅入られた悪夢の中で亡者に追い立てられたけれど、山南さんには出会えなかった。
山南さんが振り返って微笑んだ。
「やはり総司が来てくれた。おまえの顔を見て安心したよ」
おれも微笑んでみせた。
「迎えに来たよ。近藤さんと土方さんは意地を張っちまったから、気まずいんだって。山南さん、おれと一緒に帰ろう。近藤さんたち、謝りたいみたいだよ」
山南さんは山桜を背に、まっすぐにおれに向き直った。笑みを消さないまま、どこかが痛むような目をする。
「何を謝るつもりなのだろう? 近藤さんと土方さんは、何か悪いことをしたか?」
「屯所の移転のこと、山南さん抜きで話を進めていたんでしょ?」
「さて、それが正しくないことだったのか、私には判断できない。私が話に加わったところで、二人の邪魔しかできなかった」
「邪魔って言い方は、違うよ。そうじゃないんだ」
「なあ、総司。最近になってようやく気が付いたのだが、私はどうやら、さほど賢くないらしい。二百数十人の大所帯を率いたり支えたりするには、視野が狭すぎるようでね」
「何言ってるの? 山南さんはおれたちの頭脳だ。山南さんがいなけりゃ、新撰組の中では誰も、ろくに思想や理念を語ることができない。尊攘派が偉そうな口を利いてても、反論する言葉を知らないんだ」
「私は弁論がうまいわけではないよ。弁舌爽やかで博識の学問家なら、私より優れた人材が現れたじゃないか。今の新撰組には伊東さんがいる。伊東さんの知力があれば、学問に対する近藤さんの劣等感は完全に補われる。近藤さんは強い頭領でいられる」
「待ってよ。山南さん、何でそんな言い方するの? 口が立つとか知識が多いとか、そういうところを比べてるんじゃないんだよ」
ふらつきそうな足で、おれは一歩、踏み出した。山南さんと伊東さんが笑い交わすところを思い出す。屈託のない様子にしか見えなかった。でも、その陰で、山南さんは伊東さんに自分の居場所を奪われたことを理解していたんだ。
胸の内側の、病とは違う場所が痛い。笑みを消さない山南さんのまなざしが痛くて、おれは顔をしかめた。
山南さんは口を開いて、何かを言いかけて口を閉ざして、再び口を開いた。
「新撰組は、大きく変わりつつある。そう感じる。しかし、近藤さんや土方さんの人柄が変わったとは思わない。原田さんの胆力、永倉さんの勢いのよさ、源さんの気配り、一の冷静さ、平助の人懐っこさ、総司の純粋さ、皆どこも変わっていない」
「そうだよ。みんな変わってない。近藤さんと土方さんが組織の遣り繰りに頭を抱えてて、原田さんと永倉さんは無鉄砲なところがあって、源さんと斎藤さんはけっこう心配性で、平助とおれは子どもっぽくて、山南さんはみんなを見守ってくれる」
「しかし、新撰組は変わりつつある。あるいは、すでに変わってしまった。一人ひとりの生き様はそのままに、それぞれの方向へとまっすぐに伸びていくせいで、ひとまとまりになったときの姿が丸きり変わった。もとの姿には戻れない」
正しいと思った。山南さんの言いたいことは、おれにもわかる。誰も変わっていないのに、誰かと誰かの間にあるものだけが変わってしまうなんて、奇妙なことだ。でも、確かに何かが昔とは違う。
原田さんや永倉さんや斎藤さんが、近藤さんの振る舞いを咎《とが》める書状を容《かた》保《もり》公に提出した。近藤さんと土方さんが、山南さんを抜きにして屯所の移転の話に決着を付けてしまった。近藤さんや平助は伊東さんと仲がいいけれど、ほかは伊東さんを疎《うと》んでいる。
江戸で貧乏暮らしをしていたころ、おれたちには同じものが見えていた。ばらばらの性格で、別々の流派で、生まれ育ちもてんで違うのに、同じ一つの刀の道を進んでいけると固く信じていた。何の証《あかし》がなくても、きっぱりと信じられた。
今は、なぜ?
指の隙間から大事なものがこぼれ落ちていく。山南さんが微笑んでいる。静かな声が、おれのかけがえのない時間に終わりを告げようとしている。
「総司が知っているよりも長いこと、私は皆と話し合いを重ねたのだよ。そして、話しても堂々巡りになるだけだと悟った。なぜなら、私たちはそれぞれ、決して譲れないものを持ってまっすぐに生きている。誰も間違っておらず、曲がってもいないのだから」
ざあっと音を立てて風が吹いた。湖を渡る春風とは違う。山南さんの体から噴き上がる気迫が、空気を弾き飛ばして風を生んでいる。
花乃さんがおれの半歩前まで駆け出た。印を結んだ手を山南さんのほうへ突き出す。風がおれに触れなくなった。花乃さんが結界を張ったのか。
「戦わはるおつもりどすか?」
山南さんのきっちりと合わさった襟の隙間から、わずかに、赤黒い環の輝きがこぼれて見える。山南さんはまだ微笑んでいた。難しい学問を噛み砕いて教えてくれるときの、見慣れた笑顔だ。
ばさりと音がして、山南さんの背後に純白が広がった。巨大な鳥の翼が二対、山南さんの背中にある。袴《はかま》からのぞく足が、鳥のそれに変化する。翼が空気を打った。山南さんの体が宙に浮かぶ。
花乃さんが息を呑んだ。環を完成させた山南さんの、理性と知性を保った異形の姿は、恐ろしくて猛々しくて美しい。そして悲しい。結界越しにも吹き付けるのは、まぎれもなく闘志だ。山南さんの声が上空から降ってくる。
「己の信ずるがままに、まっすぐに生きる。それが新撰組の士道だ。士道に背けば、死あるのみ。己を曲げたその瞬間に、私たちは生きることを許されなくなる」
知っている。わかっている。何度だって聞かされた。深く深く胸に刻んで生きてきた。覚悟の上で刀を握ってきた。
花乃さんが山南さんを見上げて叫んだ。
「そんなん厳しすぎる! 引き返しても曲げても、ええやないどすか!」
山南さんがかぶりを振った。
「引き返すことも曲げることもできない。新撰組は、人の命を奪いすぎている。誠心誠意まっすぐに生きなければ、奪った命に示しが付かない。なあ、総司。おまえにも教えたはずだ。私たちの士道はどのようにあるべきだ?」
山南さんが答えを促している。おれはただ、二対の翼で羽ばたく山南さんを見上げている。山南さんが刀を抜いた。切っ先を向けられる。山南さんと最後に稽古をしたのはいつだっただろう? 思い出せないくらい前だ。昔は毎日、剣を合わせていたのに。
ちりりと、脛《すね》に痛みを感じた。ヤミがおれを引っ掻いたんだと察しながらも、おれは動けない。
花乃さんがつぶやく。
「勝手や。わがままや。士道なんて言葉、ええ格好しぃの身勝手やないの」
武士じゃない花乃さんにはわからないよ。
命を一つ屠《ほふ》るごとに、おれたちは一つずつ狂っていく。悪ではないものを斬るためには、強烈な理由がなけりゃいけない。後戻りなんかした日には、この手で消した命すべてに呪われて、正気でいられなくなる。
山南さんが両腕を広げた。
「総司よ、私をここで止めてくれ。生き方を変えられず、新撰組を去るしかない。私は逃げた。新撰組の士道から逃げた。私のたどるべき末路は一つだ。誠の一文字を背負うにふさわしい総司が、新撰組の志を載せた刀で、私に裁きを下してくれ」
待ってと言いたかった。言わせてもらえなかった。
山南さんが激しく打った翼から、強烈な波動が吹き付ける。立ち尽くすおれを鎌《かま》鼬《いたち》が襲う。頬に痛みが走って、一瞬の後、頭上に氷の障壁が張られた。
「沖田さま! 何してはりますの!」
花乃さんの叱咤。障壁にぶつかる鎌鼬の風。ひびの入る氷。ヤミが鳴く声。白い翼の羽ばたき。再びぶつかる鎌鼬が、あっさりと氷を割った。降り注ぐ氷の欠片。吹き付ける風と気迫。
どうして戦わなきゃいけない?
いや、わかっているんだ。おれたちが誠心誠意まっすぐに生きていると証《あか》す方法は、刀を抜いて戦うことのほかにはないから。言葉も涙もいらない。ただ精いっぱい、一心に戦ってぶつかり合う。それがおれたちの士道だ。
わかっているのに、どうして苦しい?
花乃さんが飛ばした氷の槍を、山南さんが刀で叩き落とす。ぴたりと上段に構えた剣が振り下ろされた。太刀筋が風の刃となって飛んでくる。花乃さんの障壁が迎え撃つ。硬い音が鳴る。
ヤミがおれに爪を立てる。痛い。体が動かない。動きたくない、刀を抜きたくないと、体も心も拒んでいる。ただ、士道を知る頭が、士道を刻んだ胸が、おれに動けと命じている。山南さんに教わった道を、おれもきちんと証さなければ。
鎌鼬が襲ってくる。花乃さんが防ぐ。防ぎ切れずに皮膚が裂ける。花乃さんが声を上げる。おれは何をしている?
山南さんがおれを叱った。
「総司、迷うな! 私の士道を軽《かろ》んずる気か!」
刀を構えた山南さんが、急降下で突っ込んでくる。刃が夕日にきらめいた。その瞬間、おれの体の奥で本能が爆《は》ぜた。
吠える。
「ああぁぁぁぁああああっ!」
柄に手を触れる。足を踏み込む。抜き打ちを放つ。
強烈な衝撃。ぶつかり合う刀の間に火花が散った。高く澄んだ金属音が一つ。踏ん張る地面のない山南さんが、吹っ飛んだ空中で体勢を立て直した。手にした刀は、中途で折れている。
「さすがだな、総司」
おれは、両腕を下げたいつもの構えを取った。血がたぎりながら凪いでいく。興奮と冷静が同時におれを支配する。山南さんが宿敵にも獲物にも見える。倒さなければならないと、抜き放った刀がおれを導く。
ヤミが、にゃあと鳴いた。おれは命じた。
「おいで。本気で戦おう」
山南さんを倒さなければ、おれの望みは通らない。まじめで信念が固いぶん強情な山南さんを、戦って倒して力ずくで京都に連れ帰ってやる。
ヤミがおれの胸に飛び込んだ。どろりと体が溶け合って、猫又の耳と目と尾がおれを人間から遠ざける。全身の感覚が尖る。人間の肉体の限界が取り払われる。
「花乃さん」
「へえ」
「下がってて」
「……危のぅなったら飛び出しますえ」
駄目だと、おれはかぶりを振った。ここからは手出し無用だ。一対一の真剣勝負でなければならない。花乃さんが黙って後ずさった。それでいい。
山南さんが、折れた刀を構えた。
「いざ参るッ!」
飛ぶ鳥を仕留めるには初めに翼を討つべきだと、猫の本能が知っていた。
桜の古木の幹を蹴って跳び上がる。勢いのままに、翼を狙う三段突き。折れた刀では防ぎ切れず、山南さんの白い羽根が赤く染まって飛び散る。ぐらりと体勢が傾く。
着地と同時におれは土を蹴り上げた。山南さんが腕で顔を庇《かば》う隙に、足下をくぐって背後を取る。跳躍して片翼に刀を振り下ろす。
ざっくりと、手応え。それと同時に、反対側の翼で打たれた。鎌鼬の波動を乗せた打撃に、皮膚が裂ける。
失策だよ、山南さん。
おれは翼をつかんだ。猫又の爪と牙で、翼を引き千切る。山南さんが呻《うめ》いて地面に転がった。
さっき蹴った桜が花びらを散らしている。
山南さんが転がりながら跳ね起きて、晴眼の構えから突進してくる。おれは正面で刀を受ける。鍔《つば》迫《ぜ》り合い。間近に見下ろす山南さんの目。今は、おれのほうが背が高くて力が強い。力比べの主導権を握る。山南さんの刀を、その体ごと弾き返す。
後ずさる山南さんの脚を払う。それでも繰り出される刀に、横薙ぎの一打。山南さんの手から刀が飛んでいく。
座り込んだ格好の山南さんが、おれを見上げた。翼がもげて、あるいは折れて、無残だ。おれのこの手が傷付けた。抜き身の刀がひどく重い。
「おれの勝ちだよ」
「ああ。見事だ」
「疲れたでしょう? 帰って休もう。その傷、ゆっくり養生しなけりゃいけないよ。山南さん、帰ろう」
山南さんが微笑んだ。柔らかい声が歌うようにつぶやいた。
「帰りたかったなあ」
それは一瞬の出来事だった。
山南さんの手がおれの刀をつかんだ。先端を喉に押し当てる。そのまま掻き切る。血しぶき。鮮烈な匂い。刹《せつ》那《な》、強くきらめく山南さんの目。そして光が失せる。
ゆっくりと、山南さんの体がくずおれた。
おれの右手に、喉笛の血管を断った感触が残っている。人を死なせた瞬間の、絶望的な感触が。
「山南さん……?」
応える声はない。血が山南さんを赤く染めていく。駆け寄ってきた花乃さんが、おれの袖をつかんだ。
「山南さまの魂は、赤い環から解き放たれました。ただの刀と違う、沖田さまの力を帯びた刀によって命が絶たれましたさかい。山南さまは救われたのや」
「救われた?」
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「そんなのが何の救いになるの? 目に見えない世界の出来事なんて、どうでもいいよ。環を持つおれや花乃さんの力が山南さんを救えるって言うなら、生き返らせようよ。おれは、この世に生きる山南さんを救って助けたいんだよ」
「できひんことや。環を断つことと命を絶つことは同《おんな》しやさかい」
「じゃあ、花乃さんはいつかおれを殺すの? おれが環の力を制御できなくなったとき救ってくれるために、あんたはおれのそばにいるんだろ? それはつまり、おれを殺すって意味だよね。今、おれが山南さんを殺しちまったように」
口に出して、はっきりと理解した。結末は覆《くつがえ》らない。死んだ人は生き返らない。
おれは刀を投げ出して、地面に這いつくばって、山南さんを抱き起こした。優しく厳しかった二つの目は澄んだまま、どこでもない場所を見つめている。
美しい死だとか正しい死だとか誉れある死だとか、そんなもの、あるんだろうか。
「死んじまったら、全部一緒じゃないか」
血の匂いに包まれている。山南さんの体は、間もなく冷えて硬くなる。そして腐っていく。山南さんはもうしゃべらない。死んじまっても、今でも、ただまっすぐなその士道が正しかったと、山南さんは思っているんだろうか。答えは聞けない。
ふっと、あたりが暗くなった。山に日が沈んだんだ。おれの肩に花乃さんの手が触れた。
「今夜は大津で休みまひょ。夜の山越えは危険どす。それに、山南さまのお体も清めて差し上げんとあきまへん。明日、お日さんが顔を出さはったら、すぐに、山南さまのお体と一緒に京都に戻りまひょ」
おれの隣にしゃがんだ花乃さんが、そっと合《がっ》掌《しょう》した。それからその手が山南さんのまぶたを閉ざした。
風が吹いた。薄闇の中に、山桜の花びらが舞う。
新撰組ご用達の旅籠《はたご》、かわせみ屋から人を寄越してもらって、山南さんの体を運んだ。体を清める仕事は、島田さんが手際よく務めた。
島田魁という人は江戸にいたころから永倉さんと親しくて、おれたちが京都に来てすぐに仲間に加わった。表立った任務だけじゃなく、隊士に処罰を与える汚れ仕事も引き受ける。切腹の後始末にも多く携《たずさ》わっている。
端正な姿になった山南さんに花乃さんが術を掛けて、氷に閉じ込めた。こうしておけば、山南さんの時が止まる。醜く腐れてしまわない。
翌朝早く、眠るような山南さんを荷車に載せて菰《こも》を被《かぶ》せて、おれたちは京都に戻った。日が高くなる前に屯所に着いて、近藤さんと土方さんに、山南さんと対面してもらった。
近藤さんの切れ上がった目から滂《ぼう》沱《だ》の涙があふれて、抑え切れない声が低く床を這った。黙って青ざめていた土方さんが、冷たく硬い山南さんに触れて、そして自分の太《ふと》腿《もも》を強く殴り付けた。
言葉のない時間が流れる。大津を出て今に至るまで、おれはほとんど口を開いていない。泣いてすらいなかったことには、近藤さんの涙を見て初めて気が付いた。
髪を掻きむしった土方さんが、普段じゃあり得ないほどめちゃくちゃな頭のまま顔を上げて、おれたちを見渡した。言葉がようやく絞り出される。
「山南さんの死は、私闘の果ての討ち死になどと、誰にも言っちゃならねえ。山南さんは脱走の責を負って、士道を曲げることなく、誇り高く切腹して果てたと、皆には公表する。それが山南さんへの餞《はなむけ》になる」
私闘だろうと切腹だろうと、死んじまったら同じじゃないか。そんなことを思うおれは、やっぱり賤《いや》しい孤児《みなしご》に過ぎないんだろう。山南さんが大事にしていたはずの武士としての美しい死に様を、おれは理解できない。
元治二年(一八六五年)二月二十三日、花が咲き始めた春の日に、山南さんは散っていった。野辺送りでは、新撰組の仲間はもちろん、屯所の家主である武家屋敷の人々も、近所の子どもたちも花街の女たちも、たくさんの人が泣いた。
墓は壬《み》生《ぶ》の光縁寺に建てられた。光縁寺の寺紋は三つ葉立葵だから山南さんの家紋と同じだし、気さくな住職は山南さんと同い年で話も合った。山南さんの訃報を聞いた住職は、ぜひ自分に弔《とむら》わせてくれと、近藤さんと土方さんに頼み込んだ。
おれは毎日、山南さんの墓に出向いている。線香の匂いが苦手なくせに、ヤミも必ず付いてくる。花を手向けたことはない。おれが持ってくるまでもなく、山南さんの墓前は綺麗な花であふれているから。
今朝は先客がいた。
「伊東さん」
呼び掛けると、顔を上げた伊東さんは、げっそりと隈のできた目元を無理に微笑ませた。
「山南さんの最期は立派だったそうだね。沖田くんが切腹の介《かい》錯《しゃく》を務めたのだろう? 弟のようにかわいがっていたあなたに武士の最期の作法を示すことができて、山南さんは誇らしかったに違いない」
「ああ……そうだと思いたいね」
「しかし、寂しいね。私は大切な朋友を喪《うしな》ってしまった」
伊東さんは墓石を見つめて手を合わせて、立ち上がった。おれに場所を譲るように、墓石の建ち並ぶ狭い道を去っていこうとする。
花にまぎれて紙片が供えられている。紙片には、流れるような字で歌が書き付けられていた。伊東さんの字だと、わけもなく直感した。
――春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな
「春風ってのは、東から吹くよね。伊東さん自身ってことかい?」
立ち去る足音が止まる。力なく笑う気配がある。
「東から来て東の字を名に持つ私は、芽吹きを促す優しい風ではなく、春先の嵐だった。寺社を巡り、桜を愛でながら歌を詠もうと約束していた矢先に、早咲きの山桜は私の手の届かないところで散ってしまった」
「あんたは何も悪くない。でも、あんたが山南さんの居場所を奪った。おれはきっと、あんたを好きにはなれないよ。おれは善人じゃないからね」
山南さんの墓前で、ひどいことを言っている。ごめんね、山南さん。だけどさ、おれがどんなに行儀の悪いことをしても、もう叱ってもらえないんだよね。
花に埋もれそうな真新しい墓石を見つめても、そこに山南さんの気配なんてこれっぽっちもない。この手にあったはずの、山南さんの喉笛を切り裂いた感触の記憶も、だんだん薄れようとしている。
山南さんが消えていく。
視界が熱くにじんだ。まばたきと同時に涙があふれ出した。ああ、やっとだ。山南さんが死んでから初めて、やっと、おれは泣いている。
墓の前に這いつくばって、声を上げて泣いた。その晩から高熱が出て、幾日も寝付いた。病魔に魅入られた悪夢の中で亡者に追い立てられたけれど、山南さんには出会えなかった。
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