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一 土方歳三之章:Spirits

士魂(三)

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 若松の町は今から二百七十年余り前、太《たい》閤《こう》秀吉の時代に蒲生《がもう》氏《うじ》郷《さと》によって築かれた。町の中心、大町四ツ角は五つの街道の起点で、周辺には宿や料理屋、酒屋が並ぶ。
 道の中央には水路が走り、澄んだ水が流れている。辻が直行せず鉤《かぎ》型になっているのは、東から西へと緩やかに傾斜する地形を活かし、流れる水を南北に分かつための工夫らしい。
 江戸にも京都にも似ていない町だ。ひそやかに交わされる戦の噂が聞こえてはくるものの、活気はある。
 昼をとうに回り、日は西へ傾いている。俺は、大町四ツ角のそばにある旅館、清水屋へ出向いた帰りだった。清水屋には幕府お墨付きの名医が滞在している。
 俺の脚は夏のうちに回復すると言われている。敵軍は今、どこにいるだろう? 俺が戦列に復帰するまで、前線は持ち応えてほしい。俺も戦いたい。役立たずのままではいられない。
 藩主の居城、五層の天守を持つ鶴ヶ城を正面に見ながら北《きた》出《で》丸《まる》通《どおり》を行けば、左右に武家屋敷が建ち並んでいる。このあたりに来ると、大町四ツ角のにぎわいが嘘のように、女も子どもも静かで礼儀正しい。
 と思いきや、何気なくのぞいた路地に前髪姿の少年が二人、菓子を立ち食いしようとするところだった。
「あっ、土《ひず》方《かた》さま!」
 丸顔で垂れ目の少年、高《たか》木《ぎ》盛《もり》之《の》輔《すけ》が、あたふたと菓子を背中に隠した。もう一人、鼻筋が通って大人びた顔立ちの少年も、急いで菓子を袂《たもと》に突っ込む。それから二人そろって、ぺこりとお辞儀をした。
 俺は思わず笑ってしまった。
「什《じゅう》の掟《おきて》で戒められているんだったか? 年長者《としうえのひと》にはお辞儀をしなければなりませぬ、戸外で物を食べてはなりませぬ、と」
 愛嬌たっぷりのいたずらっぽい笑顔で、盛之輔が俺に言い訳した。
「んだなし。だけんじょ、物を食いてぇのは仕方がねぇべし。稽古の後はどうにも腹が減っつまって、夕飯まで持たねぇのです。見逃してくなんしょ」
 盛之輔の姉は高木時尾だ。時尾が二十歳を二つ三つ出ただけの割にずいぶんとしっかりしているのに比べ、十五歳の盛之輔はやんちゃで幼い。
 高木家の父親は京都守護の任の折、蛤《はまぐり》御《ご》門《もん》の戦で落命した。家督を継いだ盛之輔だが、いまだ藩校の日《にっ》新《しん》館《かん》で学ぶ身だ。少年兵から成る白《びゃっ》虎《こ》隊《たい》でも幼少組に入る。
 会津に入った当初は、誰もが「土《ひず》方《かた》」だの「新《すん》撰《せん》組《ぐみ》」だのと訛っているのが聞き取りづらかった。が、一月も留まっていれば耳に馴染むものだ。このごろは訊き返さずに話ができるようになった。
 盛之輔のそばに立つもう一人の少年が、ぴしりと背筋を伸ばした。
「土方さま、お初にお目に掛かります。私は、若年寄の山川おお蔵《くら》の弟、健次郎と申します」
「山川どのの弟御か。なるほど、目鼻立ちがよく似ている」
「兄をご存じですか?」
「伏見の戦でな。兄君はロシア帰りの洋装に短髪で、まだ二十四だろう? 新しく買い入れた銃で若手を指揮して、薩摩と対等にやり合っていた。兄君は、会津軍の中で最も目を引いていたぞ」
 健次郎の顔が、ぱっと輝いた。嬉しそうに鼻をひくつかせながら、俺を上から下まで見つめる。
「土方さまも洋装だし、見事な刀も差しておられるから、会津の皆の目を引いておいでです。特に女子《おなご》は、私の家おらいの小《ちん》ちぇ妹まで、土方さまはさすがお江戸の男前だと、熱を上げております」
「そうか、妹御は目が高い。機会があれば、ご挨拶させていただこう。会津の女子は老若を問わず、美人ぞろいだからな」
 殊《こと》更《さら》に気《き》障《ざ》なふりをしてみせると、少年たちはけらけらと笑う。
 斎藤一や沖田総司も昔はこんなふうだった。二人とも江戸の貧乏武士の子だから、会津武家の少年たちと違って行儀が悪く生意気だったが、正直な総司はもちろん、日頃はおとなしい斎藤も、ふとした弾みで子どもっぽい笑顔になった。もう十年も前のことか。
 盛之輔と健次郎は、さっき隠した菓子を取り出した。くすんだ色の餅菓子だ。盛之輔は軽く首をかしげた。
「土方さまも召し上がるかし? おらの祖母《おばんちゃ》が作った、ゆべしです」
 ゆべしは江戸にも京都にも会津にもあるが、それぞれまるで違う。江戸のゆべしは、身を刳《く》り抜いた柚子《ゆず》の中に味噌と胡桃《くるみ》を詰めて固めた、酒の肴《さかな》だ。京都で売られていたゆべしは、もとは備《びっ》中《ちゅう》のもので、柚子の風味を効かせた羊《よう》羹《かん》だ。
 会津のゆべしが俺の口にはいちばん合う。練り込まれた胡桃が香ばしく、ほのかに甘い味付けを醤油の塩気が引き立てる。
 俺は、きっちり三等分しようと真剣な顔をしてゆべしの寸法を測り始めた盛之輔と健次郎に、気にするなと手を振った。
「稽古で腹を減らしているんだろう? 俺に構わず、さっさと食っちまえ。誰かに見付かったら叱り飛ばされるぞ」
 盛之輔はと健次郎は顔を見合わせると、早速ぱくりと、ゆべしを頬張った。
「んめえ。盛之輔さんのおばんちゃのゆべしは、やっぱりいっとう、んめぇな」
「んだべ。おばんちゃは目ぇ見えてねぇのに、ゆべし作りも裁縫も名人だ。誰《だっちぇ》もおばんちゃには敵わねえ」
 無邪気に笑い合う二人に、俺はうらやましさを覚えた。
「俺の田舎じゃ、腹が減ったら、畑の野菜や芋をかじってたな。菓子なんか滅多に口にできなかった。ひどく貧しかったわけじゃねぇが、とにかく土臭ぇ田舎だったんだ。会津の武家は恵まれてるよ。日本一と名高い藩校で武芸も学問も行儀も教わることができるしな」
 先に食べ終わった健次郎が眉間にしわを寄せた。
「だけんじょ、私の兄は、会津は学問も軍制も遅れていると言います。西洋から取り入れねばならねぇものが沢山《でっこら》あって、学問ではとりわけ算学や医学、Physikフィズィークをやらねばならねえ、と」
「学問や軍制の遅れは、会津だけじゃねぇさ。日本全部だ。健次郎、俺が言いたいのは、会津では武士が武士らしく生きられる仕組みが出来上がってるってことだ。それがうらやましい」
「うらやましい、ですか?」
「会津の武士は、幼いころには近所の子どもらと什《じゅう》の仲間を作って、礼儀を覚え合う。十歳で日新館に入学して、望めば十五歳で大学に進める」
「んだなし。大学でも優秀なら、江戸や長崎に留学することもできます」
「京都では会津の武士と関わる機会も多かったが、字もうまけりゃ文も書けるし、洞察力の高い切れ者が多い。子どものころから頭を使っているからだろうな」
「土方さまも切れ者と名高ぇべし? 新撰組の鬼の副長として、数々の戦果を挙げてこられたと聞いています」
 俺は目端が利くだけさ。農民生まれの商人上がりで、武士の血なんぞ一滴も流れていやしねえ。おまえさんたちがきっちり勉強した儒学だの漢文だの、俺はこれっぽっちも知らねぇんだよ。
 正直にそう言ってもよかった。生まれ育ちが何だ、血筋が何だ。今の俺は、幕府と容《かた》保《もり》公から正式に取り立てられた武士だ。新撰組で武勲を立ててきたことも事実だ。今さら恥じることはない。
 俺は別のことを言葉にした。
「日新館を見学できないか? 京都では俺も若手に剣術や砲術を指南する立場にあったが、屯所は仮住まいばかりでね。きちっとした設備はついぞ得られなかった。会津藩士から日新館の話を聞いて、いつか見てみたいと思っていたんだ」
 盛之輔と健次郎が誇らしげに胸を張った。
「ぜひ! 土方さまの京都でのお働きの話もお聞きしてぇです」
「んだなし。大学には儀《ぎ》三《さぶ》郎《ろう》さんたちがいるはずだ。土方さまをお連れしたら、たまげるべ」
 今にも駆け出しそうな勢いだったが、俺の脚を案じる礼儀は、盛之輔も健次郎もしっかりと持ち合わせていた。俺たちは歩いて城西の日新館へ向かった。
 健次郎が不服そうに唇を尖らせた。
「什《じゅう》の掟《おきて》で、虚言《うそ》を言うことはなりませぬ、と教え込まれます。私も盛之輔さんも正直に年齢を言って、白虎隊の幼少組に配属されました。だけんじょ、嘘の年齢を言って白虎隊の本隊に入った者がいるのです」
 会津では、戦に備えて軍制改革が進んでいる。年齢別の隊を編成したのもその一環だ。
 年齢が違えば体力が違う。隊全体の統率と機動力を確保するには、年齢別の編成は上策だろう。それに会津の武士にとって、幼いころの什の仲間は終生の友だ。什を基準に隊を組めば、隊の結束はおのずと強くなる。
 健次郎の不服は、少年兵から成る白虎隊の年齢制限だ。本隊に組み込まれるのは十六歳と十七歳。それより幼ければ、伝令の任を負う幼少組。十八歳以上になれば、会津軍の中核、朱《す》雀《ざく》隊《たい》に編入される。
 俺は健次郎をなだめた。
「白虎隊は、本隊でも若すぎる。戦に放り込むことはできないと、会津公もおっしゃっていた。年齢を偽ってまで本隊に入った者には悪いが、そう張り切るものでもあるまいよ」
 盛之輔が丸い目をきらきらさせて俺を見上げた。
「土方さまの初陣はいつでしたか?」
「京都に出て浪士組として動き始めたのが、二十九のときだ。そのころいちばん若かったうちの一人が斎藤……いや、山口二郎で、あいつは二十歳だった。新撰組の隊士はほとんど、今の会津で言うところの朱雀隊の年代だったよ」
「そんじゃらば、新撰組の隊士は十八歳から三十五歳だったのですか? おらや健次郎さんでは、やっぱり若すぎるのかし?」
「俺の小《こ》姓《しょう》の市《いち》村《むら》鉄《てつ》之《の》助《すけ》たちには会ったか? あいつらは、おまえさんたちと同じ年頃だ。家の事情もあって、京都からここまで付いてきた」
「鉄之助さんたちとは会っていません。お噂だけ聞きました。若ぇのに、土方さまの命令を受けて仙台との連絡役をしていると」
 会津に万が一のことが起こったとき、撤退するなら仙台だ。仙台港で幕府艦隊と連携する手筈はすでに付けてある。鉄之助たちは戦火に巻き込まず、なるべく生かしてやりたい。だから仙台に先行させている。
 そんな打算は胸中に押し込めたまま、俺は盛之輔と健次郎に笑ってみせる。
「新撰組の少年兵には剣術や砲術を訓練させながら、幹部付きの小姓をやらせていた。木刀や銃の重さに振り回されているようじゃ、実戦には出せねえ。しかし、甲州の戦では後衛の鉄之助も流れ弾にやられちまってな。軽傷で済んで安心したが」
 健次郎がまた唇を尖らせた。
「実戦に出せねぇですか。同じことを、蘭学所の川崎先生にも言われました。鉄砲をしっかり構えられねぇようでは力不足で駄目だって」
「んだなし。悔しかったので、その日から、軒にぶら下がったり米俵を担《かつ》いだり健次郎さんと力比べをしたりして鍛えているけんじょ、おらたちの腕、まだ一寸《つぅと》も太くならねえ」
 盛之輔と健次郎は袖をまくって二の腕を出してみせたが、なるほど細い。俺もシャツの袖をまくった。少年たちの二の腕よりも俺の上腕のほうが太いくらいだ。
「すげえ! さわってもいいですか?」
「いいぞ」
「土方さまは痩せているように見えるけんじょ、本当はすげぇんだ」
 新撰組局長、近藤勇は、男が惚れ惚れするほどの肉体の持ち主だったよと、こぼしかけた言葉を呑み込む。近藤さんは死んだ。ここで話題にしたって仕方がない。
「山口二郎も痩せて見えるだろうが、あいつのほうが、すげぇ体をしているよ。俺より上背があるし、本来は左利きだが、右利きの剣術も一通り修めているから、左右の均整が取れている。あいつは強いぞ。前線から戻ったら、剣術の稽古を付けてもらうといい」
「はい、楽しみです!」
 目を輝かせた少年たちに囲まれる斎藤を想像し、思わず噴き出した。斎藤はきっと、たじたじになる。
 斎藤は不器用だ。いや、剣闘に偵察に間諜に前線指揮と、何でもござれの有能な人間なのだが、任務を離れると、口下手で無表情の朴《ぼく》念《ねん》仁《じん》だ。思いのほか細やかな気配りができるのに、言いたいことをうまく言えず黙っているせいで、怖い男だと勘違いされる。
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