誰もいない城

月芝

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019 暗い水底

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 歩きにくい前かがみの姿勢からようやく解放されたとき。
 目の前にあらわれたのは奇妙な空間。
 見た目は、なみなみと黒い水で満たされた学校にある二十五メートルプールといった形状。だが天井がとにかく高い。まるでビルとビルの谷間のよう。
 ここの闇は少し薄い。丹念に塗りつぶした漆黒に近かった水路内とは雲泥の差。ずっと視界が利く。
 けれどもそのせいで奥へとのびる水面の黒さがいっそう際立つ。
 ボクは用心しつつ岸辺へ。
 しゃがんで水をひとすくい。顔を近づけて手の中を確かめる。
 冷たい。でも黒く見えていた水はただのキレイな水であり、むしろとても澄んだものであることがわかった。水特有の気配はするものの、ほぼ無臭といっていいだろう。
 次にボクは上着の右袖をまくると、そろそろと水へ沈めて中を調べる。
 ゆっくり静かに。異変があればいつでも逃げられるように気をつける。
 一瞬、水底からのびた手につかまれて、引きずり込まれるような妄想が脳裏をよぎるも、そのようなことはなく、指先はあっさり底についた。

「浅い。せいぜい肘までぐらいしかないのか」

 見た目からして深さもそれなりにあるのかと考えていたのに……。
 ボクはいささかひょうし抜けしつつも、「よかった」と安堵の吐息をこぼす。
 さすがにこの浅さでは、いままで出会ったような奇異なバケモノが潜んでいることはないだろう。

 ぺたん。

 また、あの音がした。
 前の方からだ。
 ボクは身構え、目を凝らし前方をにらむ。
 ……何もいない。
 向こう岸に見えたのは、ここから別の場所へと通じる扉がひとつ。

  ◇

 悩んだ末に、ボクは湿気ったスニーカーを脱いで肩かけカバンの中へと放り込む。
 足元の安全を考えれば、クツは履いたままのほうがいい。でもその場合は機動力がおおきく損なわれる。濡れて内部に水を貯め込んだクツは足枷にしかならない。
 怪異と遭遇しても逃げることを優先していることから裸足を選んだ。
 肩かけカバンのヒモは短めに結び、胸元の位置にくるようにしておく。中の荷が濡れないための用心。

 静かに左のつま先を水の中へ、そっとつける。
 とたんに冷たさが浸蝕してきた。みるみる奪われる体温。凍えるとまではいわないが若干しびれる指先。深さはたいしたことがないけれども、あまり長いことつかっていたら感覚が失われてしまう。注意をしないと。
 続いて右足も水へと入れたところで、ボクは耳を澄ます。
 何も聞こえない。
 それを確認してから、そろりそろりと動き出す。
 足の裏で水底をさらうようにして探りつつ、前へと前へと。
 もしかしたら手前は遠浅だけれども、途中にて一気に落ち込む急深タイプの地形になっているかもしれない。そのことをボクは警戒している。
 さいわいなことに、真ん中近くまで進んでも水深はずっと変わらず浅いまま。
 この分ならば向こう岸へと渡りきるまで、だいじょうぶそう。

 ぺたん。

 すぐ近くであの音がして、ボクはギクリ。立ち止まったままの姿勢で固まり、息を呑む。
 おそるおそる音がした方へと顔を向ける。
 何もいない。
 ただ音のしたあたりの水面に、小さな波紋がひとつ浮かんでいただけ。

「……なんだ。どこからか水滴でも落ちてきただけか」

 そんなことにまでいちいち反応し、神経をとがらせている自分がちょっとおかしい。
 ボクの口角がやや歪み、自嘲しかけるも、実際に行われることはなかった。
 ハタと気がついたからだ。

 水滴が落ちた? いったいどこから?

 唐突に疑問が浮かぶ。
 あわてて天井を見上げる。
 何も見えない……。それほどに高い吹き抜けの天井は、濃い闇色で埋め尽くされている。
 暗がりの奥に何者かが潜んでいて、じっとこちらの様子をうかがっている。
 不吉な妄想が頭の中をぐるぐると駆け巡り、身の毛がよだつ。
 ここはマズイ。いそいでこの場所を離れないといけない。水からあがらなければ。
 一度、そんな考えにとり憑かれたら、もうダメであった。
 ハリボテの自制心なんてあっさり剥がれて、ボクはじゃぶじゃぶと半ば駆け出すようにして動き出す。
 早く、早く。
 だというのに、まとわりつく水がボクの邪魔をする。
 すり足での移動は水の抵抗をモロにうけて、気がせくほどには前へと進めない。
 だからボクは水の中から右足を抜いて、おおきく踏み出す。
 その足がドボンと音を立てて着水。
 次の瞬間、足の裏に伝わったのは、ぶよっとした柔らかい感触。

「ひっ」

 口から零れる小さな悲鳴。
 得体の知れない何かから逃れるために、ボクは反射的におろした足をあげた。
 間髪入れずにすぐ背後から聞こえたのは、あの音。

 ぺたん。

 片足立ちの不安定な状態で、背後に意識が持っていかれる。
 ぐらりと傾いだ体。転倒するわけにはいかないと、ボクはすぐに右足をおろし安定をはかる。
 けれども踏ん張れない。右足が水の中へと吸い込まれる?
 水底がないっ!
 そのことに気がついたときには、すでにボクの体は足のつけ根あたりまで沈んでいた。
 冷たく暗い水底へと引きずり込まれてゆく。

「いやだ。イヤだ。嫌だーっ」

 ボクは恐怖のあまり絶叫をあげた。


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