白き疑似餌に耽溺す

月芝

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019 昔語り

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 遠ざかるほどに闇が薄まってゆく。
 ねっとりとしていた空気、淀みが消えた。
 いつしか虫の声も戻っていた。

 帰路、歩き始めてすぐに「あまりうしろを気にしないで。やたらとふり返ってはいけません」と阿刀田さんに注意されたので、健斗は言いつけを守る。
 途中、ふっと身が軽くなったような気がした。
 ちょうど畏御山の姿が見えなくなる辺りでのことである。
 おもむろに阿刀田さんが口を開いた。

「いろいろと気になっていることでしょう。順を追って説明していきますが、まずはしばし年寄りの昔話にお付き合いください」

 ぽつぽつと語られたのは、ある女性と兄弟を巡る物語であった。

  ◇

「こんにちわ。お勉強? えらいのねえ」

 喫茶店の窓辺の席にて、参考書を開いていると声をかけられた。
 長い髪をかきあげ、にこやかに挨拶をしてきた年上の女性に、まだ高校生であった阿刀田隆(あとうだたかし)は赤面し、ずいぶんとどぎまぎしたのをよく覚えている。
 楚々としており、十代の若者ならば誰もが憧れるであろう、そんな素敵な女性である。
 でも、だからこそ隆は挨拶を返しつつも、心がふさいでいく。
 なぜなら彼女を連れてきたのが信也(しんや)だからである。

 信也は隆の四つ上の兄で大学生だ。
 兄は幼い頃からそこそこ頭の出来が良かった。加えて要領もよく快活にて、容姿にも優れていたもので、周囲はすっかり騙されているけれども、その本性は極めて酷薄な性質である。
 自分にとって有益なものは大事にするが、飽きたり役に立たないと判断したとたんに、あっさり捨てる。それまでのことなどはするっと忘れてしまい、どれだけ不義理を働こうとも何も感じない。他人の心の痛みには無頓着にて、大事なのは己ばかり。
 傍目には弟を可愛がっているよき兄のように振る舞ってはいるが、根っこにあるのは兄弟愛なんぞではない。
 あるのは自己愛ばかりにて、すべては外聞と評判を気にしてのこと。

 そんな兄の本性に気づくことなく、騙される女性のなんと多いことか。
 ゆえに隆は目の前の女性に淡い羨望を抱くとともに、軽い失望も覚えていた。
 この人もしょせんは過去に信也と付き合っては、弄ばれて捨てられた女たちと同類なのかと。
 けれども、隆はそんな想いをけっして口には出さない。
 無駄だからだ。
 恋は盲目である。忠告をしたところで、相手の耳にはまるで届かない。人は信じたいことだけを信じ、現実を己の都合のいいように捻じ曲げる。たとえそれが、じきに醒める幻想であろうともだ。
 だから良かれとおもった行動が裏目になり、自分が憎まれることになる。
 それを隆は過去の経験から学んでいた。
 どうせこの人も飽きたら捨てられる。それもさほど時を置かずに……

 だがしかし、そんな隆の予想に反して、信也と女性の付き合いはおもいのほかに長続きしたもので、これには隆もちょっと意外であった。
 この女性というのが三峯房江(みつみねふさえ)、のちに飼部健斗を後継者に指名し、莫大な遺産を残してくれた人物である。

 兄信也と房江の付き合いは表向きは順調であった。
 けれどもその陰で、信也が他の女性と遊んでいたことを隆は知っていた。
 兄の恋人ゆえに房江と隆も自然と顔を合わせる機会が増えてゆく。
 そのたびに隆は素知らぬ顔でへらへら笑っている兄をぶん殴りたい衝動にかられ、一方でそんな男の隣で微笑んでいられる房江にも怒りを覚えていた。
 いっそのことすべてをぶちまけようか。
 そう考えたことが何度もある。
 暴露により起こるであろう修羅場を想像するのはとても楽しかった。
 でも、隆にはどうしても出来なかった。
 やればたちまち房江との縁は切れるだろう。それに優しい彼女はきっと泣く。ばかりか悲嘆するあまり首でもくくりかねない。
 一方で信也はどうか?
 兄はきっとケロリとしているだろう。これはそういう男だ。
 むしろ縁が切れるのならば、兄との縁こそを切りたいと隆は本気で思っていた。

  ◇

 数年後……
 隆は大学の法学部に進学し、猛勉強の甲斐もあって現役中に司法試験にも合格して、弁護士の資格を得る。
 このことを誰よりも喜んでくれたのは房江であった。
 でもそんな房江には、近頃やつれが見え隠れしていた。
 原因は兄の信也が、すでに婚約を結んでいるのにもかかわらず、この期に及んで去就をはっきりしないことだ。

 大学を卒業してから某有名デパートに就職した信也は、持ち前の愛想の良さ、要領の良さを活かして、たちまち出世をし、そこそこの地位を得ていた。
 時は高度経済成長の頃である。デパートこそが販売業の花形にて、そこの出世頭である信也は、さながら水を得た魚のように活き活きとしていた。
 成績は群を抜いており、見映えも良く、稼ぎもいい男。
 当然ながら、周囲の女たちが放っておくわけがなく、社の内外から多彩なアプローチを受けるようになる。
 その中でも特に熱心であったのが、とある大会社の社長令嬢である。
 足繁くデパートに通っては、信也を指名し侍らせるをくり返す。

 房江の実家もかなり裕福ではあったが、さりとてこの令嬢には叶わない。
 そこで思い出されるのが信也の酷薄さである。
 ここしばらくは大人しくしていたが、その本性がむくりとかま首をもたげるのは自明の理であったのかもしれない。


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