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117 逃走本能
しおりを挟む「ぜぇぜぇぜぇ」
息も絶えだえにてぐったり横たわるトラ。
と、大の字になっているおっさん探偵。
一人で淡々と同じことをくり返すのは退屈にて苦行。
二百を超えたあたりで早くも泣き言をもらし始めた弟子。
グズる彼女を励ますために途中から師匠であるおれもいっしょになって、化け術千回に付き合う。
その結果がこれである。
年甲斐もなくはしゃいだせいで、すっかりヘロヘロ。
だが肝心なのはここからである。玲花には壁を超えて、限界を突破してもらわねばならない。
ムクリと起きたおれはタバコに火をつけながら弟子に通達。
「十分休憩したら、化け術千回をもう一本やるからな」
倒れているトラがしくしく泣きながら「ひーん」と鳴いた。
そんな修行風景を心配げに見守る姉の孤斗羅美(ことらみ)。何か言いたげではあったが、おれがキッとにらむと黙り込む。
おおかた「もう少し手加減をしてやってくれ」とか頼もうとしたのだろうが、それじゃあダメだ。その甘さがあと少しのところまできている妹ちゃんの成長を妨げている。
それに若い娘相手なので充分に手加減はしているつもり。
おれの修行の時なんてマジで地獄絵図だったからな。
◇
芽衣のジイさまである先代の芝右衛門。
彼に淡路島は岩屋の海岸に打ち上げられているところを拾われ、命を救われたまではよかったが、そのあとがいけない。
「おまえはいろいろダメなやつだが、化け術に関してだけはそこそこだ。だからワシがじきじきに鍛えてやる。ありがたくおもえ」
佐渡の団三郎、香川屋島の太三郎らと並んで、三大化けタヌキと称される淡路の芝右衛門。その血を受け継ぎ当主を名乗るだけあって実力は相当なもの。
だが、蒼雷の異名を持ち武勇伝にはこと欠かぬ葵のバアさんを嫁にもらう勇者だけあって、ジイさんもたいがいイカれていた。
基礎的な修行をちゃっちゃとすませたとおもったら、いきなり滝つぼに落とされるわ、野焼きをしているところに放り込まれるわ、船から鳴門の渦潮に蹴落とされるわ、びゅんびゅん車が往来している明石海峡大橋の道路上に投げ出されるわ、あげくの果てには天高くそそり立つ橋脚の天辺から「さぁ、飛べ」とポイっときたもんだ。
デッド・オア・アライブな修行。
生き残るためには化けるしかなかった。
あっ、思い出したら涙がじわり……。
◇
ひたすら同じことのくり返し。肉体および精神をとことん追い詰める。
くじけそうになったら芽衣がファッション雑誌をぺらぺらめくって見せて「がんばって、玲花ちゃん」と励まし、姉のトラ美も「人化けをマスターしたらいっしょに買い物にいこうな。お姉ちゃん、玲花の欲しいモノ何でも買ってやるから」と応援する。
一方でおれは不甲斐ない弟子に「ふーっ」とタバコの煙を吹きかけて「へっ」と意地の悪い笑みを浮かべる。
「あきらめろ、この程度で根をあげているようじゃ話にならん。いっそのこと何もかもあきらめちまえ。そして種の存続のため、どこぞの絶倫オヤジとでも所帯を持ったらどうだ」
女性陣から大ヒンシュクをかいそうな悪態をついたのは、もちろんわざと。弟子を発奮させるため。
これにより倒れ伏しているトラが「ガルルル」と唸り、瞳には憎悪の炎が灯る。膨れ上がる殺気。怒りのあまりいまにもこちらに飛びかからんほど。
その様子におれは内心で「いいぞ」とつぶやく。
生来備わっている獣性を、闘争本能を存分にたぎらせて、爆発させ、それを化け術へと転化する。なぁに、一度でも成功すればあとは堰が切れたように何もかもがウマくいくはずだ。
だからおれはあえて心を鬼にし、厳しいムチに徹して、弟子をビシバシしばきまくる。
◇
修行初日が終わった。
徹夜はしない。かえって集中力が散漫となり効率が下がるから。
夜更けのことである。
一人寝袋にて外で寝ていたおれの耳元で声がした。「尾白のダンナ」と囁いたのはクマネズミの渡世人の根津。
眠い目をこすりつつ「動いたか」とたずねれば「ええ、おっしゃる通りに」とのこと。
動いたのは孤斗玲花である。
ツラい修行に根をあげての逃亡。
だからとて情けないとか根性ナシという話ではない。これもまた獣に備わった本能。危機的状況に際して発動する逃走本能である。
ではどうしてこの事態があらかじめ予想できたのかというと、身に覚えがあるからだ。
おれも何度も逃げ出してはその都度捕まって、連れ戻されたものである。
「お前たちもそうだろう?」
声をかけると闇の向こうでもそもそ動き出したのは芽衣とトラ美。
狸是螺舞流武闘術(りぜらぶるぶとうじゅつ)と滅爛虎慄紅武爪術(めらんこりっくぶそうじゅつ)を習得しているタヌキ娘とトラ女。
当然ながら修行は厳しく、ときにはイヤになって逃げ出したことも一度や二度ではないはず。
とどのつまり修行と逃亡はセットのようなもの。
むしろ逃げ出さないようでは修行のうちに入らない。
よって玲花の今回の行動は折り込みずみ。
事前に根津に頼んで監視の網は構築してあるから追跡は容易である。なにせ摂津峡界隈にはけっこうな数の齧歯類どもが生息しているもので。
「さてと、では山狩りを始めるとするか」
土地勘はこちらが有利だが、相手は森林の王者。
いかに疲労困憊とて侮るわけにはいかない。
なにせトラは手負いがもっとも危険なのだから。
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