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その八十九 犬神と狒々神

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 倒れ伏したままのコハク。
 トドメを刺すべく歩き出したザクロマダラ。向かいながら自分ではずれた右肩を入れ直す。ゴキリと鈍い音がした。痛みに顔をしかめるザクロマダラ。それでも関節のズレを戻すことには成功したらしく、手を開いたり閉じたりしながら、腕の具合をたしかめる。いちおう元の通りに動く。が、鈍い痛みが残っておりかすかなシビレも、十全とはいかない。しばらくは無理をさせないほうがいいだろう。
 だというのに、直後のことであった。

 背後からドンっと強烈な一撃。

 大狒々の身がつんのめりよろめく。
 まだ安定していない右肩に衝撃を受けて、禍躬ザクロマダラが「うぐっ」と苦しげな声を漏らした。
 うしろから音もなく駆け寄った白狼オウランによる体当たり。
 山狗なみの体躯を誇る大オオカミ。脱臼して痛めているであろう右肩に突進。治したばかりの箇所にぶつかったのである。

 ふり返ったザクロマダラが忌々しげに猛る。

「おのれっ、やってくれたな、おいぼれオオカミめがっ! おとなしく尻尾を丸めて震えておれば、昔馴染みのよしみで楽にくびり殺してやったものを」

 その言葉にオウランが「カカカ」と牙を打ち鳴らしながら笑う。

「そいつはどうもご親切に。だが遠慮しておくよ。サルに殺られるぐらいならば、自分でそのへんの岩に頭でもぶつけて、おっ死んじまったほうがよっぽどマシってもんさ」

 嫌味たっぷりの憎まれ口を叩かれて、ザクロマダラが顔を真っ赤にして怒った。
 コハクより先にオウランを黙らせようと体の向きを変える。
 内心でしてやったりのオウラン。だが余裕があったのはここまでであった。

 いきなり跳躍したザクロマダラ。ひといきに距離を詰めたとおもったら、おもむろに左腕を振り下ろしてきた。
 ぶぅんと唸る剛腕。手刀が脳天をかち割ろうと降ってくる。
 あわててこれを脇へと避けたオウラン。
 空振った腕がしたたかに地面の石床を打ち、砕き、めり込む。
 もの凄い威力を目の当たりにしてオウランは驚愕。その姿を歯茎をむき出しにしてケタケタ笑うザクロマダラ。

「どうだ? おそれいったか。だが、いまのオレさまの力はまだまだこんなものじゃないぞ」

 言うなりザクロマダラが地面にめり込んだ腕を持ち上げる。ガコンとはずれたのは足下に敷かれていた石材。
 厚さ一寸、縦横三尺ほど。重さ十貫はあろうかという固い石の板を、べりりとはがしたかとおもえば、おもむろにこれを投げつけてきたものだから、オウランはギョッ!

 当たればただじゃすまない。
 だからオウランはタンッと跳ねて大きく後退する。
 すると第二、第三の石の板が次々と襲いかかってくるではないか。
 しかも落ちて砕けた欠片が足下に散らばるもので、動きの邪魔をする。なかには尖った石なんぞもあり、うかつに踏めば怪我を負いかねない。

 防戦一方となった白狼。
 逃げ惑う相手を弄るように「ほれ、ほれ、どうした? さっきまでの威勢のよさはどこへいった」とザクロマダラはますます調子に乗る。
 けれどもオウランとて闇雲に逃げていたわけではなかった。
 耳に神経を集中し、探っていたのはザクロマダラの呼吸の律動。
 腕に力を込めるとき、重いものを持ち上げるとき、それを投げるとき、しゃがんでふたたび手をのばすとき……。
 微妙に異なる呼吸、吸う息、吐く息の量、間隔、深い浅いなど。

 ザクロマダラが大きく息を吸って止める。
 それは重量のある石の板を地面からはがす瞬間の呼吸の仕方。
 これに合わせて駆け出したオウラン。いっきに距離を詰めて反撃へと転じる。
 無様に逃げ回るばかりの相手にすっかり油断していたザクロマダラは驚きながらも、真っ直ぐに自分へと向かってくる白狼を、手にした石の板で叩きつぶそうと目論む。
 両手にて高らかに持ち上げられた石板。
 それをオウランへと振り下ろそうとしたとき、右肩に激痛が走りザクロマダラが「うっ」とうめく。

 痛めた箇所に角のある石くれが当たっていた。
 オウランが駆け向かいざまに蹴飛ばしたもの。

「あんた、さっきからずっとそっちの腕を庇っていただろう」

 白狼から図星を指され、大狒々がぎくり。
 あくま健在の左腕を主体として右腕は添えるだけ。
 それをいかにも両腕にて板をぶん投げているようにみせかけていたのは、野生の習性ゆえに。
 自然界では弱味をみせれば、たちまちつけ込まれる。
 だからたとえ足の骨が折れていたとて、他者の前では平気なふりをしなければならない。弱っていることを億尾にもだしてはいけない。また、逆にあえてびっこを引いたふりをして、油断させて、まんまとおびき寄せられた相手を狩るという方法もある。
 野生は弱肉強食にてひと筋縄ではいかない。
 獣は人間が考えているよりもずっと賢い。

 オウランは戦いのさなか、見極めをしていた。
 禍躬は超回復を持つというが、はたしてザクロマダラの負傷はいかほどであろうか? 
 そしてつぶさに観察し、ザクロマダラの右肩はいまだ本復には至っていないとの判断を下す。

「それがどうした? どのみち、おまえのくたびれた牙なんぞは、オレの体に傷ひとつつけられやしないぞ」

 硬質化した体毛の鎧を身にまとうザクロマダラ。山狗の牙をも退ける強度。
 無敵とまでは言わぬが、それに近しい存在であることはたしか。
 そんなことは百も承知。だからオウランがこの局面で放ったのは頭突き。
 狙いはもちろんザクロマダラの右肩の関節。
 地を這うように駆け、対象の直前にていっきに跳ね上がった白狼。全体重を加速にのせて、ズドンと脇の下から抉るような一撃を見舞う。

 これによりせっかくはめた関節がふたたびはずれて、ザクロマダラは「ギャッ!」
 それでも怒りが痛みをわずかに上回る。

「おのれっ、こしゃくな! これでも喰らえ」と左手に握った石板にて横殴りを放つ。

 避けようのないオウランに直撃。
 面の攻撃が炸裂! 衝撃にて石板が砕けた。オウランの身が盛大に吹き飛び、やや離れたところにボテっと落ちた。


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