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その四 コハク

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 額ににじんだ汗をぬぐう。
 見上げると山の稜線がまず目に飛び込んでくる。それを越えた先、どこまでも広がる青い空に浮かぶのは白雲の隆盛。まるで伝説の巨人のごとくそびえ立っている。
 目線を下げれば鮮やかな深緑。
 山々が萌えていた。薫る濃厚な生命の息吹き。この地に集う生きとし生ける者たちが、こぞって気焔をあげている。
 無数の命が寄り集まっては、自然というより大きな命となっている世界の片隅で……。

 鼻からゆっくりと息を吸い込み、存分に山の神気を取り込んだのは滝の上に立つ隻腕の老人。かたわらには一頭の山狗の子の姿がある。
 灰の地に黒が混じった毛並みにて、瞳の色は樹液を煮詰めて固めたような琥珀色。
 伏せの姿勢にて、はっ、はっ、はっ。舌を出しながら尻尾をふり、見つめるのは老人の手元。右手には鉄の棒が握られている。
 老人はぞんざいな仕草にて鉄の棒をぽいと投げ捨てる。
 鉄の棒はくるくると回りながら、上から下へとつながる水の流れに沿って落ちていき、そのままドボンと滝つぼに沈んだ。
 それからゆっくり十を数えてから老人は言った。

「よし、行け、コハク」

 待ってましたとばかりに跳ね起きた山狗の子。
 濡れた岩肌をものともせずに足場としては、シュタ、シュタ、シュタと軽快に降りていく。
 滝を半ばほど降りたところで、おもむろに宙へと踊り出たコハクは、そのままアゴを引いて頭からざぶんと水面へ飛び込む。
 盛大にあがった水飛沫が陽光を受けてきらめき、小さな虹ができた。

  ◇

 上流から大量の水が運ばれてくる滝つぼには、大蛇が荒れ狂うように水流が渦を巻いている。
 その力はとても強い。抗おうとすればするほどに体力を奪われる。けれども逆に流れに身をまかせて利用をすれば、これほど心強い味方はない。
 コハクは四肢をだらりと脱力しながら静かに水と対峙し、全身でもって会話をする。
 水の声に耳を傾け、水の動きを知り、邪魔をすることなく、寄り添いともに歩む。
 轟々と煩わしい音はすぐに聞こえなくなった。

 水底には静謐が充ちている。
 潜るほどに陽の光が遠くなった。かわりに深淵の闇が濃くなっていく。
 すべてを呑み込む闇。はじめてこの鍛錬をしたときには、とても怖くてすぐに浮上してしまったものであったが、何度も繰り返すうちに落ち着いて対処できるようになった。
 幾度も交え知己となってみれば、ここに横たわる闇はとても優しい闇であった。少なくとも夜の森のソレのように、いきなり敵を吐き出すことはない。

 耳と鼻だけでなく目をも封じられ、呼吸もできない状況。
 もしも自身の心臓の鼓動を感じなければ、生きていることを見失いそう。
 気を引き締めなおも進むうちに、ずんと肌寒くなった。
 一定の深度を越えたとたんに水の温度が急激に下がったせいだ。
 骨身に染みる凍てつく雪の夜をおもわせる冷たさ。
 いよいよ水底が近づいている。

 何も見えない。何も匂わない。何も聞こえない。
 けれども闇の向こうに探すべき鉄の棒の存在をたしかに感じる。
 五感のうちの視覚、臭覚、聴覚の三つが使えず、口も閉じているから味覚も当てにはならない。残されたのは触覚のみ。
 それが滝つぼの深淵に漂う冷気と交わるうちに研ぎ澄まされていく。影のごとく薄い刃となり、さらにほつれて糸のようになり、幾筋もの糸が水流に乗ってゆるりふわりと漂っては、その先の様子を伝えてくれるので、コハクは迷うことなく闇の中から鉄の棒を探り当てた。

  ◇

 周囲の緑が映り込んでいるせいで濃緑色をした水面に生じていた波が収まる。
 幾重にも起こっていた波紋もすっかり見えなくなった頃。
 入れちがいにあらわれたのはブクブクという泡。
 はじめは小さな泡が単発的にぽつんぽつんと浮いていたのが、じょじょに増えていき、大小の泡が競うようにあらわれては消えるようになったところで、不意に水の表面が盛りあがった。

 滝つぼの底より帰還したコハク。その口元には鉄の棒がしっかりとくわえられている。
 四肢を前後させて水を掻き、最寄りの岸辺から陸地へとあがったところで、ぶるると全身をふるわし毛に染みついていた水気を払う。
 身軽となったところでコハクは、来た時と同じく滝の濡れた岩場を足場として、今度は登り始める。その速度は降りるときと同等か、それ以上に速かった。
 悪路をものともせずに、主人である隻腕の老人のもとへと駆けてゆくコハク。

 禍躬狩りの相棒として、一流の山狗となるべく日々課せられる鍛錬は厳しくつらい。
 ときにはへこたれ、尻尾をしゅんと丸めることもある。
 けれどもがんばってうまくいったときには、主人がごつごつとした武骨な手で頭を撫でてくれる。「でかしたぞ」「よくやった」と褒めてくれる。
 それがたまらなくうれしくい。胸の奥が温かくなり、どうにも心が踊る。
 だからコハクはひたすら主人のいる場所を目指し駆け続ける。


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