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#8 むらさきかがみ

#8-13 本音

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 あれから一か月。俺は未だに、自分の感情の整理ができないでいる。俺の頭の中は、言い表しようの無い奇妙な感情で埋め尽くされ、それがずっと消えない。
 感情を押し殺すのが得意だった代わりに、こういう時に自分の事が分からなくなるのが、俺の人間的な部分の欠点らしかった。俺はこの感情から目を背けようと、任務に没頭した。
 少しも心は晴れなかった。次第に眠れなくなり、必然、俺の部屋には本が溢れ返った。
「ねえ、最近三時間しか寝てないでしょ?大丈夫なの?」
「ああ……大丈夫だよ。しかし、もうこんな時間か」
 時計の針は、もう午前二時を指している。俺は読んでいた本を閉じ、本棚にそれを仕舞い、ベッドに寝転がる。何もする事が無くなった俺の頭には、かつての岩戸咲良の顔と言葉が浮かぶ。
『良いのかい!?悪いね!』『この本好きなんだよね』『これは私の趣味だ!とやかく言われる筋合いは無い!』『まだ……事務所に居てくれるんだね』『ごめんよお……八神君……』『生活力テストだ!』

『帰ろう』

 うんざりした俺は、毛布を頭まで被ってから、早く眠れるように目を固く閉じる。それでも頭が晴れる事は無く、俺は結局、目の下に黒いクマを作る事になった。

 翌日。俺の目の前には、また一人、面倒臭い訪問者が現れた。
「おい八神蒼佑!どういう事だ!?」
 そう。修司君だ。どうやら彼は、ここ最近海外に行っていたらしく、俺と岩戸咲良の事に関する情報が来なかったらしい。
「朝から煩いな……寝不足なんだ。労ってくれ」
「惚れた女を泣かせたお前にかける慈悲はねえ!さあ!どういう事か教えろ!」
 やっぱり修司君は人間的な部分で素晴らしい人だ。馬力もあるし冷静だし頼りになるし。それに、今回はいつも以上に都合が良いかも知れないぞ。岩戸咲良についてなら、恐らく俺よりも詳しい。この感情の整理に役立つかも知れない。
「話すが……ここじゃ場所が悪いな」
「なら俺の部屋で……」
「いや。少し外に行こう」
 俺達は協会本部を出て、最寄りの駅から電車に乗り込む。取り敢えず、多少落ち着いてもらえないかな。凄い人殺しそうな目してるし。周りの人も足一本分程度引いてるし。
「で?説明は?」
「目的地に着いたらな」
「目的地?」
 俺達は竹下通りに向かった。確かこの人は食べる事が好きだった筈。多少は落ち着いてくれると良いんだが。
「歩きながら話そう。何か食いたい物は?」
「クレープ」
 即答したな。まあ良いか。好都合だ。俺はクレープを一個買ってから、今現在分かっている事、そして今の俺の状態を話した。修司君は終始、『信じられない』と言わんばかりに目を見開いていた。
「……で、そんな事があっても話せないと」
「話そうにも、どんな事を話せば良いのか分からないというのが現状だ。岩戸咲良がどの時点でこの件について知ったのか、どこまで関わっているのかが分からない以上、どう話せば良いんだ?それより前に、この使えない頭をスッキリさせたい」
 修司君は少し俯いてから、俺の額を指で弾いた。俺は少し驚いて、若干目を見開く。
「それはお前の恋心って奴だな。多分」
「……恋心か」
「……驚かないんだな?」
「いやまあ、岩戸咲良への好意は前から自覚してたからな。それよりも、案外気持ち悪い物なんだな。恋心って」
 修司君は、「推測だがな」と言って、また一口クレープを齧る。
「まあ、俺も似たような経験があるからだろうな。初恋の中学校の先輩に大学生の恋人が居た時に」
「そういうのあるんだな」
「俺も健全な男の子だからな」
 しかし、ならどうやってこの感情を晴らすべきなのだろうか。俺は買ったアイスティーを少し飲みながら、考える。そして、俺が結論を出すよりも先に、修司君が話し始めた。
「埃がなんで灰色か知ってるか?」
「いや」
「埃って無数の糸くずが集まってできた物で、顕微鏡で見ると、案外色んな色の糸があるそうだ」
 そうなのか。それは初耳だ。だが俺は、なんでそんな話をするのかが分からないので、少し首を傾げる。だが修司君は、俺より一歩前を歩いている状態で、変わらず話し続ける。
「人を多面体に見て、それぞれの面に感情を当てはめる人も居るらしいが、俺はどちらかと言うと、埃のような物として見ている。感情は絡まった糸くずで、全体を見ると訳が分からない。そして、汚く見える」
「哲学的だな」
「だけど、岩戸だけは違って見えた……アイツは、まるで芸術作品かのような人間だ。分からない部分が多いのは変わらんが、加える所も削る所も無く、ただそこにあるだけで美しい」
 そうだな。あの人は様々な面において、とても優秀と言って良い。だらしない所もあるが、そこも含めて、岩戸咲良という人間だと言える。長所も短所も全て含めて、まるで満月のように完璧だ。
「しかし、いやだからこそ、誰もアイツと必要以上に近寄ろうとしなかった。俺が知っている岩戸咲良の記憶は、虚ろな目をした少女で始まっている」
「それは……にわかには信じられない話だな」
「そうだな。それが目に見えて変わった時があった。八神、お前が岩戸家に来てからだ」
 俺?何故俺が出て来るのかが分からず、俺は首を傾げる。修司君は、クレープを一口齧ってから、また話し始める。その目はここではない、どこか遠くを見つめるような、まるで昔を懐かしむようだった。
「俺は驚いたぜ。アイツが何歳かも知らねえが、あの顔はまるで、恋する少女のそれだった」
「恋……ねえ……」
 まるで信じられない。あの人が俺に好意を抱いているとは思えないからだ。あの人は俺と、どこか一線を引いた態度で接していた。親、兄弟、友人、恋人、その他のどの関係とも違う、それら全てからかけ離れたような目線だ。
 俺が考えるあの人は、個人で完成されているのだ。満月や芸術作品、その他全ての美しい物と同じように、そしてそのどれよりも。寂しさや虚しさを他者で埋める必要の無いあの人が、誰かに必要以上に好意を抱くとは思えない。
「つまりだ。俺が思うに、俺達の誰もが思うよりも遥かに、岩戸は一人の人間で、お前が考えるよりも遥かに、岩戸から見たお前は大きいって事だ。人間は感情的な位が丁度良い。お前のその感情、気持ち悪くても汚くても、改めて見ると綺麗だったりするモンだぜ」
「そうか……」
 ぐちゃぐちゃの感情は変わらずあるが、今はそれの輪郭が、少しだけはっきりとしたような気がする。俺はまだぼんやりとしたソレを、少しだけ見つめる。

『お前は何がしたい?』

 俺はその問いに即答できない。だが、今なら答えられそうだ。解答する枠をはみ出すかも知れないが、それでも答えられるだけ上等だ。そう思えた俺は、少しだけ、上を向く。
「ありがとう。何を話せば良いか、少しだけ分かった気がするよ」
「ならそれで良い。親友だ。またどっか、遊びに行こうぜ」
 そう言って修司君は、最後の一口を食べた。俺はアイスティーを飲みながら、何を話そうかを考え始める。
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