銀のリボンを結んで

吉岡果音

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契約

悪魔

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「だいたい、契約ってなんの契約なのよ! 私、ほんとに知らないんだから!」


 ミルゼは穏やかな口調でとんでもないことを告げた。


「凜子さん。これは労働契約です」


「はっ!?」


 ――労働、契約!?


「冗談じゃないわよ! 私、そんなの応募してないし、望んでない! そんな契約無効よ!」


「凜子さんはこれから私と一緒に働いてもらいます」


「な、なんですって!?」


「安心してくださいね。多額の報酬がありますから」


 ――一方的すぎる! こんなわけのわからないところに私を連れてきて……!


「……人さらい!」


「え?」


「早く、家に帰してよ!」


 凜子の目には涙がたたえられていた。有無を言わせぬミルゼの様子に次第に恐怖を感じていた。


 ――も……、もしかして角もあるし、不思議なことばかりだし……。「契約」、とか言い出すし、この人は人じゃなくて……。悪魔……?


 悪魔、そんなものが存在するのだろうか――。しかし今いる風景はどう見ても普通じゃない、と凜子は思う。非現実的な世界に関心のない凜子だが、悪魔と契約して魂をとられる物語のエピソードをなんとなく思い出していた。


「家? これから学校に行く、と先ほどおっしゃってましたが?」


「学校でも家でもなんでもいい……! 私を帰して……」


 大粒の涙が溢れだす。凜子は小さく震えていた。


「どうして泣くんです!?」


 ミルゼは驚き慌てた。凜子が泣くとはまったく思っていなかった様子だ。


「凜子さん! 大丈夫ですか?」


 ――あんたのせいで大丈夫じゃないのよ!


 そう凜子は叫びたかったが、悪魔にたてつくのは怖くもあり、嗚咽でうまく言葉がでないのもありただ涙を流し続けた。


 ――え!?


 ミルゼに抱きしめられていた。頭をよしよし、と撫でられて。


「泣かないでください」


 ――だから、あんたのせいで涙が出るのよ!


 ミルゼを突き飛ばし、叫びたかったが、思いのほかミルゼの手が優しく、ぬくもりが心地よかったのでなにも言えなくなってしまった。


 ――え。ちょ、ちょっとどうしよう! 私、男の人に抱きしめられてる――。


「泣かないでください」


 もう一度、ミルゼは同じ言葉を発した。耳元に聞こえる、ささやくような優しい声。とても優しい、抱擁。


 ――「男の人」じゃない、「男の悪魔」、か。いい匂い。悪魔っていい匂いがするのかな――。


 心が安らぐ甘い香り。悪魔はこうやって人を誘惑するのかもしれない、ぼんやりする頭で凜子はそんなことを考えていた。


 ――いや! ぼんやりしてる場合じゃない! これは乙女の危機よ!


 凜子はミルゼの腕から逃れた。思いのほか簡単に腕の中から逃げ出すことができたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。


「すみません。まったく覚えていないんですよね。それでは不安になって当たり前です」

 
 ミルゼは心配するような表情で凜子の瞳を見つめる――。だから、私が泣いたのはあなたのせいなんだから、諸悪の根源にそんな顔で見つめられても! と凜子は思いながら涙を手で拭おうとした。凜子の頭にはハンカチで、などという女の子らしい発想は浮かばない。


 ――え?


 ミルゼの細い指のほうが先だった。頬に流れた涙を、しなやかな指でそうっと拭ってくれた。


 ――そ、そんなことしたって、騙されないんだから! 


「ここでは他の人の目もありますし、移動しましょう」


「人の目?」


 すっかり周りのことなど意識から消えていたが、改めて辺りを見ると、通行人の好奇の目。凜子はとたんに真っ赤になった。


 ――あーっ! なにこれ! 朝っぱらから人目もはばからず二人の世界に浸ってる痛いカップルみたいに見られてるーっ!


「違いますっ! 違うんですっ! 私、そんなんじゃありませんっ!」


 凜子は誰になにを弁解しているのかわけがわからないが、いたたまれずつい叫んでしまった。


 ――あーっ! もう、ありえないーっ! こんなの全然私らしくないーっ!


「仕事の待ち合わせにはまだ早い時間ですし、おいしいお茶でもいただきながらお話しましょう」


 ――仕事の待ち合わせ?


 お茶でもいただきながらお話しする、というのん気な提案もツッコミ所満載だが、それより「仕事」、というワードをなんとかせねば、と凜子は思った。


「……ほんとに、私を働かせる気?」


「はい!」


 ミルゼは満面の笑みを浮かべた。純粋に嬉しそうな、無邪気な笑顔だった。


 ――う。なんでそんなに笑顔がかわいいのよ! 悪の権化のくせに!


「では参りましょう」


 行きたくなかった。しかし、このわけのわからない現実離れした空間に、一人置き去りにされるわけにもいかず、また、今この状態で自分が知っている人物といえばミルゼしかおらず、凜子は渋々ミルゼに従うことにした。


「凛子さん。本当にありがとうございます」


「な、なんで礼を言うのよ!?」


「あなたに会えて私は嬉しいんですよ」


 ミルゼはにっこりと笑った。


「…………」


 私は、別に嬉しくないんだけど、と凛子は心の中で呟いた。

 空は透き通るようなペールブルー。浮かぶのどかな白い雲。どこからかパンの焼けるよい香りが漂ってきた。


 ――そもそも、ここは日本なのかな。


 頭ではとても困ったことになったと思うが、歴史を感じさせるような趣のある街並み、綺麗な空――。いつの間にか心は落ち着いていた。


 ――変なやつ。


「今日は気持ちのいいお天気ですね」


「…………」


「お散歩日和ですね。あっ! あんなところに猫! かわいいですねえ!」


「…………」


 こいつ、のんびりしてるなあ、と凛子は思う。ゆっくりした話し方と柔らかな微笑みのせいだろうか、どこか憎めない。

 凜子は朝日を受けて輝く銀の髪を見つめる。


 ――三つ編みにでも、したろーか。


 目の前で揺れている美しい銀色をした髪を、ひっつかんで三つ編みにしたい衝動をこらえながら、ミルゼの少し後ろをついていく。


 ――リボンは、角につけたほうがかわいいかもしれない。


 凜子は心の中でミルゼをかわいく仕立てることで、ちょっとだけ復讐してやった気分になっていた。


 ――フラワーレースのリボンに、おまけにパールもつけちゃうんだから!


 きらきら光る銀の髪。凜子はいつの間にか笑顔になっていた。
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