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第5章 山
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「勇太君、着いたよ。……んもぉ、勇太君ったらぁ」
肩を優しく小突かれながら、勇太は顔を真っ赤にして泣いていた。人目を憚って生きてきた小心者とは思えないほど顔をぐしゃぐしゃにして、零れ落ちる涙を止められなかった。爽快感と達成感に満ちていたはずの心から、栓が引き抜かれたようだった。
留めていた水分が決壊したダムのように流れ出し、無様な嗚咽が車内に響いた。
別れたくなかった。終わらせたくなかった。本当は日常に戻っていくのが怖くて、ずっとこのまま逃避行を続けて居たかった。
瑛莉香は何も言わず、小突いた左手を勇太の肩に乗せ続けた。彼女の温もりが全身の血を震わせ、際限なく零れる涙を加速させた。
「…ふふっ、どうする?今度はサンダル脱いでもう一周だけぐるっと運転しよっか?エンジンも掛け直すよ?」
茶化しながら気を遣った瑛莉香の声に首を振った。十分すぎるほど、瑛莉香から貰った一瞬一瞬は自分の中で大きく育っている。
「勇太君、大丈夫だよ。こっち向いて」
赤子を宥めるように、瑛莉香の声は愛情と誇りに満ちていた。止めどなく溢れる涙を無理やり拭い、滑稽な顔のまま瑛莉香の微笑んだ表情を見つめた。
「ハンドルがあれば、エンジンがあれば、オンボロだって、どこにでも行けるんだから」
シートベルトを外した瑛莉香は勇太をそっと抱き寄せた。汗ばんだ後頭部から長く伸びた襟足までを、何度も優しく撫でた。緩んだ涙腺は再び水分の調整を狂わせ、瑛莉香の上品なガウンを濡らした。
「勇太君がどんな日常を送ってきたのか細かいことまでは知らないけど、少なからず、ネットの片隅にあるような掲示板を開いて、見知らぬ女の企画に乗ってくれて、しっかりと丁寧にお返事をくれて、途中で投げ出さないでこの場所で私と会ってくれて、よく分かんない女の隣にずっと乗り続けてくれて、一つ一つに自分の言葉で真剣に返してくれて、崩れそうになった私を力強く支えてくれて…。そして最後はちゃんと………ふふっ、男性としての素直な気持ちを打ち明けてくれたね」
瑛莉香は頭を撫でながら言葉をつづけた。
「そんな勇太君の優しさとか、謙虚さとか、素直さとか、情熱とか、男らしさとか、その、変態さんなとことか?そういう勇太君の姿はきっとこれからも沢山の人を勇気づけて、幸せに導いていくんだって信じてるよ。……私がその一人だからね」
「…すみません……本当に……すみません……!」
むせび泣きながら誰に向かって言うわけでもなく、ただただ零れ出る言葉を漏らした。
瑛莉香は一段と強く抱きしめた。背中のシャツを長い指先でぎゅっと掴み、自分自身も崩れないように持ちこたえてるようだった。
ハザードランプがカチカチと点滅する音を何度聞いたか分からないほど、時間が止まったように感じた。古い軽自動車の中で男女が抱き合う姿は、街ゆく人々にどう映っているだろうか。車内に満ち溢れた、形容しがたい数々の思い。たった二人にしか知り得ない世界。きっと、これからの人生を彩り続けるかけがえのない財産になるのだろう。ダークブラウンの髪に残るシャンプーの匂い、上半身を包み込む体温、耳元で響く甘い声。頬をつねるまでもない確かな感触を全身で堪能し、勇太はゆっくりと身を起こした。
「……本当に、本当に、ありがとうございました…!」
深々と、堂々と、頭を下げた。瑛莉香は「うん…うん…!」と相槌を打ちながら鼻をすすった。
「こちらこそ、本当にありがとう…!勇太君と一緒に旅が出来て心の底から良かったって思ってる…!勇太君とじゃなきゃ絶対にここまで来れなかったよ…!二人で作ってきた思い出、絶対に忘れないからね…!」
瑛莉香の迷いのない凛々しい声が車内に響いた。燦々と降り注ぐ真夏の太陽に照らされながら、一台の軽自動車は路肩で静かに止まり続けた。
泣き腫らした目を乱暴に拭いて、勇太は助手席のドアを開けた。都会の生暖かく濁った風が、勇太を元の日常へと少しずつ戻していく。
ありとあらゆる感情を浄化し切った身体で、後部座席に乗せていたバッグを手に取った。久々にちゃんと背負うバッグは重たかった。数週間前の高揚した気分でこの場所へ訪れた時には気づかない重みだった。
瑛莉香はトランクを開け、忘れ物がないか隅々まで目を配った。一通り確認すると、大きく頷いてトランクを力強く閉めた。
「……よし、忘れ物は無さそうだね!」
瑛莉香が勇太と向かい合った。蒸し暑い夏の昼下がりが似合わないほど透き通った素肌と爽やかな微笑みが勇太の瞳に映った。
「…じゃあ、勇太君、ここでお別れだね」
「……はい…!……本当は…もっと一緒にいられたら…いいんですけど…」
「うん、それは私も同じだよ。……まぁでも、お互いのこれからに向けて……ねっ」
「………そうですね…。僕、頑張ります…!必ず、またいつか瑛莉香さんに、沢山のこと報告できるように…!」
「ぜひぜひ、楽しみにしてるよ。私も、とりあえずはちゃんと職に就いて、人間関係も一から考え直すよ。あと、これからも車の運転、頑張るから。もちろん素足でね。ふふっ」
瑛莉香の柔らかな笑顔に応えるように、勇太も口角を上げて笑い返した。
素足にサンダルを履いた年上の美人ドライバーは、吹き抜ける夏の風に薄手の白いガウンを揺らしながら運転席へと向かっていく。
「…あっ、あの…!」
勇太は思わず叫んだ。瑛莉香と、歩道を歩く数人が思わず振り向いたのが見えた。
「…………また迎えに来てくれますか………?」
刹那の沈黙が流れた後で、瑛莉香がそっと微笑んだ。
「……車検が通ったら、ねっ」
運転席のドアが開き、間もなくセルが回転を始める。大都会に乾いた音が鳴り響き、2度、3度と繰り返される。低く唸るエンジン音がその余韻を掻き消し、排気口から黒い煙が吐き出された。
ハザードランプが消え、方向指示器が右側で点滅を繰り返す。色白の長い腕が窓から伸び、上空に向かって親指を立てた。
一台の青い軽自動車が、忙しなく流れていく車の波に紛れ込んでいく。非力なエンジンで、大都会を颯爽と駆け抜ける。
日常の向こう側へと消えていくその車を、勇太はただ静かに見つめていた。
肩を優しく小突かれながら、勇太は顔を真っ赤にして泣いていた。人目を憚って生きてきた小心者とは思えないほど顔をぐしゃぐしゃにして、零れ落ちる涙を止められなかった。爽快感と達成感に満ちていたはずの心から、栓が引き抜かれたようだった。
留めていた水分が決壊したダムのように流れ出し、無様な嗚咽が車内に響いた。
別れたくなかった。終わらせたくなかった。本当は日常に戻っていくのが怖くて、ずっとこのまま逃避行を続けて居たかった。
瑛莉香は何も言わず、小突いた左手を勇太の肩に乗せ続けた。彼女の温もりが全身の血を震わせ、際限なく零れる涙を加速させた。
「…ふふっ、どうする?今度はサンダル脱いでもう一周だけぐるっと運転しよっか?エンジンも掛け直すよ?」
茶化しながら気を遣った瑛莉香の声に首を振った。十分すぎるほど、瑛莉香から貰った一瞬一瞬は自分の中で大きく育っている。
「勇太君、大丈夫だよ。こっち向いて」
赤子を宥めるように、瑛莉香の声は愛情と誇りに満ちていた。止めどなく溢れる涙を無理やり拭い、滑稽な顔のまま瑛莉香の微笑んだ表情を見つめた。
「ハンドルがあれば、エンジンがあれば、オンボロだって、どこにでも行けるんだから」
シートベルトを外した瑛莉香は勇太をそっと抱き寄せた。汗ばんだ後頭部から長く伸びた襟足までを、何度も優しく撫でた。緩んだ涙腺は再び水分の調整を狂わせ、瑛莉香の上品なガウンを濡らした。
「勇太君がどんな日常を送ってきたのか細かいことまでは知らないけど、少なからず、ネットの片隅にあるような掲示板を開いて、見知らぬ女の企画に乗ってくれて、しっかりと丁寧にお返事をくれて、途中で投げ出さないでこの場所で私と会ってくれて、よく分かんない女の隣にずっと乗り続けてくれて、一つ一つに自分の言葉で真剣に返してくれて、崩れそうになった私を力強く支えてくれて…。そして最後はちゃんと………ふふっ、男性としての素直な気持ちを打ち明けてくれたね」
瑛莉香は頭を撫でながら言葉をつづけた。
「そんな勇太君の優しさとか、謙虚さとか、素直さとか、情熱とか、男らしさとか、その、変態さんなとことか?そういう勇太君の姿はきっとこれからも沢山の人を勇気づけて、幸せに導いていくんだって信じてるよ。……私がその一人だからね」
「…すみません……本当に……すみません……!」
むせび泣きながら誰に向かって言うわけでもなく、ただただ零れ出る言葉を漏らした。
瑛莉香は一段と強く抱きしめた。背中のシャツを長い指先でぎゅっと掴み、自分自身も崩れないように持ちこたえてるようだった。
ハザードランプがカチカチと点滅する音を何度聞いたか分からないほど、時間が止まったように感じた。古い軽自動車の中で男女が抱き合う姿は、街ゆく人々にどう映っているだろうか。車内に満ち溢れた、形容しがたい数々の思い。たった二人にしか知り得ない世界。きっと、これからの人生を彩り続けるかけがえのない財産になるのだろう。ダークブラウンの髪に残るシャンプーの匂い、上半身を包み込む体温、耳元で響く甘い声。頬をつねるまでもない確かな感触を全身で堪能し、勇太はゆっくりと身を起こした。
「……本当に、本当に、ありがとうございました…!」
深々と、堂々と、頭を下げた。瑛莉香は「うん…うん…!」と相槌を打ちながら鼻をすすった。
「こちらこそ、本当にありがとう…!勇太君と一緒に旅が出来て心の底から良かったって思ってる…!勇太君とじゃなきゃ絶対にここまで来れなかったよ…!二人で作ってきた思い出、絶対に忘れないからね…!」
瑛莉香の迷いのない凛々しい声が車内に響いた。燦々と降り注ぐ真夏の太陽に照らされながら、一台の軽自動車は路肩で静かに止まり続けた。
泣き腫らした目を乱暴に拭いて、勇太は助手席のドアを開けた。都会の生暖かく濁った風が、勇太を元の日常へと少しずつ戻していく。
ありとあらゆる感情を浄化し切った身体で、後部座席に乗せていたバッグを手に取った。久々にちゃんと背負うバッグは重たかった。数週間前の高揚した気分でこの場所へ訪れた時には気づかない重みだった。
瑛莉香はトランクを開け、忘れ物がないか隅々まで目を配った。一通り確認すると、大きく頷いてトランクを力強く閉めた。
「……よし、忘れ物は無さそうだね!」
瑛莉香が勇太と向かい合った。蒸し暑い夏の昼下がりが似合わないほど透き通った素肌と爽やかな微笑みが勇太の瞳に映った。
「…じゃあ、勇太君、ここでお別れだね」
「……はい…!……本当は…もっと一緒にいられたら…いいんですけど…」
「うん、それは私も同じだよ。……まぁでも、お互いのこれからに向けて……ねっ」
「………そうですね…。僕、頑張ります…!必ず、またいつか瑛莉香さんに、沢山のこと報告できるように…!」
「ぜひぜひ、楽しみにしてるよ。私も、とりあえずはちゃんと職に就いて、人間関係も一から考え直すよ。あと、これからも車の運転、頑張るから。もちろん素足でね。ふふっ」
瑛莉香の柔らかな笑顔に応えるように、勇太も口角を上げて笑い返した。
素足にサンダルを履いた年上の美人ドライバーは、吹き抜ける夏の風に薄手の白いガウンを揺らしながら運転席へと向かっていく。
「…あっ、あの…!」
勇太は思わず叫んだ。瑛莉香と、歩道を歩く数人が思わず振り向いたのが見えた。
「…………また迎えに来てくれますか………?」
刹那の沈黙が流れた後で、瑛莉香がそっと微笑んだ。
「……車検が通ったら、ねっ」
運転席のドアが開き、間もなくセルが回転を始める。大都会に乾いた音が鳴り響き、2度、3度と繰り返される。低く唸るエンジン音がその余韻を掻き消し、排気口から黒い煙が吐き出された。
ハザードランプが消え、方向指示器が右側で点滅を繰り返す。色白の長い腕が窓から伸び、上空に向かって親指を立てた。
一台の青い軽自動車が、忙しなく流れていく車の波に紛れ込んでいく。非力なエンジンで、大都会を颯爽と駆け抜ける。
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