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第5章 山
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いつの間にか眠りに落ちていた。興奮で高ぶった脳は冷め、無の状態のまま天井を見つめた。
隣に顔を向けると、綺麗に畳まれたシーツだけが残っていた。瑛莉香は早々と起きだし、朝の光でも浴びているのだろう。
コテージのカーテンを開け、煌々と差し込む朝日に目を細め、順応した頃には雲一つない青空が眼前に広がっていた。自分の記憶の中にあるこれまでの淀んだ空模様を浄化するようにボーっと眺めた。旅を終えるのに相応しい天気だ。
気まぐれな夏空に認められた気分で、熱帯夜で汗ばんだシャツとパンツを脱ぎ、バッグに詰めていたシャツとパンツを取り出して着替えた。瑛莉香とは対照的に、靴下をしっかりと両足に通してたくし上げ、泥の撥ねたスニーカーを履いてコテージの扉を開ける。
木々のさざめきとアブラゼミの鳴き声に迎えられ、標高の高いこの場所に吹く風が汗で粘つく肌を優しく撫でた。
タイミングよく、瑛莉香がコテージへと向かってくる姿が見える。
「…あっ、おはよー!」
瑛莉香がビニール袋を提げた手を上げてぎこちなく振った。繁茂する木々の間にふち取られた爽やかな青と湿気の少ない乾いた日の光が彼女の垢抜けた風采とよく合っていた。小走りで近寄ってくる彼女は、グレーのタンクトップに白の薄いガウンを羽織り、デニムのショートパンツとトングサンダルを履いていた。駅前で初めて出会った時の彼女の格好だった。
「おはよー。ごめんごめん、散歩がてらコンビニで朝ごはん買ってきちゃった。一緒に食べよっ」
朝食を済ませ、しばらく他愛もない時間を過ごした後でシーツを畳み、コテージの中を軽く見回して置き忘れがないか確認した。
瑛莉香が曇りのない笑みで軽く頷いて、重たい荷物を抱えて外へ出る。扉を施錠し、木漏れ日に照らされた車へと向かった。ガウンを靡かせながら、背筋を真っ直ぐに張った瑛莉香と並んで歩く自分が小さく見えてしまう。いつ考えても不思議だった。まさか自分が、理想形とも言える女性とここまで交わることがあるとは思ってもいなかった。ましてや、素足での運転姿を真横で堪能し、エンジン不調も立ち往生も全て目の前で起きた。何も悔いは無かった。鬱屈とした日常にヒビを入れることが出来た先、自分はどんな人生を送ることが出来るだろうか。
鍵を開け、後部座席へ荷物を詰め込んだ。台風の時、見知らぬ女子大生をここへ乗せたことが遠い日のように思えた。
後部座席のドアを閉め、瑛莉香と勇太はそれぞれ運転席と助手席へ乗り込んだ。
シートベルトを締め、ルームミラーを左手で軽く上下させ、トングサンダルを履いた素足でブレーキを踏み押さえた。
シリンダーにキーが差し込まれ、熱の籠った車内に冷房の風が勢いよく吹き出した。
「……ふぅ………いよいよだね」
瑛莉香が肩をすくめ、勇太に微笑んだ。非日常を追求した濃密な旅が今日で終わる。
勇太は何も言わず頷いて答え、いつも通り瑛莉香がキーを回す瞬間を待ち望んだ。
キーに右手をかけた瑛莉香は、しばらく前方を見つめて口を結んでいた。瞳を少しだけ震わせながらも、瞼を下ろして一度だけ頷き、勢いよくキーを回した。
眠っていたエンジンにオイルが流れ込み、セルモーターが勢いよく回転し始める。高くそびえる木々の枝葉を傘にした静穏な空間に、軽自動車の乾いたセルモーターの音が鳴り響く。
いつも通り、エンジンは一発で掛からず、瑛莉香は再度キーをひねる。キュルキュルと空転する音が数秒間続くが、エンジンは入りそうにない。
サンダルでアクセルを小刻みに踏みながら再びキーをひねった。アクセルを踏むごとに回転数が一瞬上がるも、点火まで行き着かない。
息遣いが荒くなる勇太を横に、瑛莉香は根気強くアクセルを踏み続けながらキーを回した。
「あれ~?おかしいなぁ…。アクセル踏んでも掛かんないんだけど…」
眉間に皺を寄せ、何気なくシリンダーを覗き込んだ。事故の影響もあるのだろうが、いずれにしてもエンジンが不調な時ほど勇太にとって都合がいい。
思わず両手で股間を押さえ、エンジンの始動に手こずる瑛莉香の様子をじっと見守っていた。
「やっぱ帰ったら修理出さないとダメかな…?」
瑛莉香は何度か同じようにキーを回し、サンダルでアクセルを煽った。何度か始動に失敗した後で、ようやくエンジンが点いた。
唸りを上げる音を聞き、安堵した表情でアクセルを吹かした。エンジンが不調なせいか、いつもより空吹かしの時間が長かった。
「…やだぁ、勇太君ったら」
瑛莉香が勇太の両手を軽く叩いた。もうしらばっくれることは出来ない。
「…す…すみません…。なかなか慣れなくて…」
勇太は緊張で身体に熱を感じながらも、昨夜の出来事が瑛莉香と共有出来ていることに底知れぬ安心感を抱いた。
「もうほんと、靴下持ってくればよかったよ」
瑛莉香がブレーキを踏みながらギアをドライブに入れ、アクセルへと右足を移し替えた。日常へ向かって一台の車は走り出した。
快晴の下、長く伸びた高速道路から飛び込む景色の一部一部を、勇太は助手席で揺られながら眺めていた。真夏の太陽が、遮蔽するもの一つもない上空で燦然と灼熱の光を放っている。道路上に設置された電光掲示板には33℃の数値が表示され、冷房の効いた車内から出る時が億劫に思えた。曇天が続いたせいか、忌々しい夏の温度が少し懐かしかった。
瑛莉香はサングラスをかけ、長い指先でハンドルを握り続ける。洋風を思わせる瀟洒な格好が、見慣れない異国の地まで来たような気分にさせた。
色白い素足にサンダルを突っかけて器用にペダルを踏み、馬力の弱い古びた軽自動車を果敢に走らせる。右側の車線を駆け抜ける新型のSUVや大型のトラックを前方に見送りながら、鼻筋の通った横顔は自信に満ち溢れていた。
「…勇太君は、これから先どうするの?」
唐突に瑛莉香が質問した。以前も聞かれたことがあったが、その時から答えはあまり変わらなかった。
「…そ、そうですね…。全然何も決められてなくて…」
「…だよね。私もそう。私なんて大学4年の時に就活してないんだもん。ヤバいよね」
瑛莉香は鼻でふふっと笑った。非日常に守られていた彼女も、元の生活に戻れば現実的な課題が待っている。非日常は日常の中にしかない。そう言葉にした彼女が、この先どんな風にその日常をつくり上げていくのか気になった。
「勇太君は社会人経験あるから大丈夫だと思うよ。経済情勢はちょっと、あれかもだけど」
ちょうど、自国の総理大臣が変わって間もない時期だった。政治についてはよく分かっていなかったが、国のトップが変わることで経済の予測がやり直されることはなんとなく理解しているつもりだった。
「…でも結局、大した結果も残さないまま辞めちゃいましたし…。学歴も資格も無いんで、雇ってくれる場所があるかどうか…」
「んー、まぁ不安だよねー。でも私も資格という資格無いしなぁ………あっ、じゃあ公務員とかはありなんじゃない?割と学歴不問で、試験さえ通れればクビ切られることも無いし。まぁ、私はそういうお堅い仕事は嫌なんだけどね~」
「…こ、公務員……ですか…」
非日常の旅を終える前に、鉛のような重苦しい感情が胸に宿った。自分が迎え入れる日常は、やはり想像以上に過酷そうだ。勉強や就職に高い熱量を持つ人間が多く集まるような環境にいた瑛莉香とは違い、自分にはそういった学も知恵もない。高校を卒業した段階での視野でしか考えられていない自分をまざまざと見せつけられているようで、オンボロの軽自動車がジェットコースターのように怖くなった。
「……勉強とか全然なんで…不安です」
「ふふっ、そっか。まっ、私も勉強とか嫌いだから。何も考えず、色んなとこ出かけてる方が楽しいよね」
瑛莉香は優しく微笑してベタ踏みしていたアクセルから足を離した。ブレーキに踏み替え、車の速度を徐々に落としていく。パーキングエリアを示す標識が前方に確認できた。
「あっ、ねぇねぇ、ちょっと休憩しない?お手洗い行きたくなっちゃった」
トイレ休憩を済ませ、特に目的もないまま売店に立ち寄った。土産を持って帰りたいのか、サングラスを額にかけながら品物を真剣に見つめる瑛莉香の高揚感が伝わってくる。「ねぇねぇ、これ良くない?」とか「待って、これ可愛くない?」とか、商品を手にしては勇太に共感を求める彼女に終始緊張した。その高い波長と素肌が何度も触れる距離感は、本当に恋人同士のような気持になった。
結局、いくつかの思わせぶりな発言と夜毎に突然キスをされたことの真相を、彼女の口から告げられる様子は感じられなくなった。そんな境目の曖昧な立ち振る舞いこそが彼女の本質なのかもしれない。絶妙な距離感に葛藤しながらも、自分の知らない自分を思い切り引きずり出されたような気がした。
買い物を済ませ、昼食をとった。朝に食べたコンビニのおにぎりとサンドイッチだけでは少々物足りず、フードコートで注文したハンバーガーセットを胃袋に詰め込んだ。瑛莉香は長い指先でポテトを上品に摘まみながら、ハンバーガーには大きな口を開いてかぶりついた。肉汁を無造作に下へと垂らしながら幸せそうな表情で味わう豪快さが印象的で、食事の時間も不思議と楽しかった。
勇太にとって、本田瑛莉香という女性はやはり非日常な存在だった。
食事を済ませて車へと戻り、いつものようにキュルキュルと鈍そうに回るセルの音を聞いた。車体が小刻みに振動するこの感覚は、この先もう味わえないかもしれない。環境に優しく壊れにくい自動車が続々と世に売り出されていく中で、黒い煙を大量に吐き出して走るエンジンの不調な軽自動車を乗り続ける女性も珍しいだろう。
キーを何度か回す手つきとアクセルを小刻みに踏むサンダル履きの素足を見つめながら、勇太は至福の一場面を余すことなく堪能した。
「…よし、掛かった。じゃ、出発するよ~」
瑛莉香は再び車を発進させ、パーキングエリアの出口へと向かっていった。
車は甲高いエンジン音を響かせながら高速道路を走り続けた。速度の遅さを考慮して左車線へ落ち着き、やきもきした後続車は次々と車線を切り替えて瑛莉香の車を抜かしていく。
途中、渋滞に巻き込まれ、思うように車が進まない時間がしばらく続いた。
「…やばっ、エンストしちゃった…!」
突如、ガクンと車体が大きく揺れ、車内が静寂に包まれた。停車時間が長くなったせいか、エンジンの回転数が落ちて停止したらしい。勇太はまたしても瞬間的に興奮を覚え、濁流のごとく血液が心臓へと流れ込んでいくのが分かった。
前方の車がゆっくりと動き出す中、瑛莉香は急いでギアをパーキングに入れてサイドブレーキをかけてキーを回した。
キュルキュルと乾いた音を立てながら始動を試みるが、1発では掛からなかった。
「もう…!」
再度キーを回してエンジンを掛けようとするが、セルが空回りを続けるだけでなかなか点火しない。アクセルを小刻みに踏み、再びキーを回す。セルの回転する音に交じって後方からクラクションが響いた。
前方の車と距離が開いていく中、瑛莉香は粘り強くキーを回しながらサンダルを履いた素足で繰り返しアクセルを踏んだ。勇太は息遣いが荒くなり、その光景から目が離せなかった。サングラスを下ろすスマートな風貌の中に満ちた焦りの表情がいじらしかった。
どうにかしてエンジンが掛かり、瑛莉香は急いでサイドブレーキを外してギアを入れ直し、アクセルを強めに踏み込んだ。
「はぁ~、焦った~。真面目にヤバいかもこの車」
額から噴き出した汗を拭いながら、瑛莉香はハンドルを握り直した。
それからしばらくは、停車時にエンジンが止まらないようにその場でアクセルを何度か吹かした。黒い煙が後続車に吹きかかることを気にしながらも、被害を最小限に抑えるためには仕方がなかった。恐る恐るアクセルを吹かす彼女の足に欲情し、勇太は冷静さを保つことで精いっぱいだった。
悶々とした渋滞もやがて少しずつ解消され、車の速度が徐々に上がっていった。変わり映えのない景色と躊躇なくペダルを踏む瑛莉香の足を交互に見ながら、沈黙の続く車内の助手席に身をうずめていた。
「…勇太君」
不意に、瑛莉香が小さく呟いた。サングラスを額にかけ、美麗な瞳を覗かせた。
「…えっと……あの、ごめんね、色々と」
「……えっ…?……あっ、えと……」
突然の謝罪に思わず動揺し、腑抜けた身体を勢いよく起こした。
「…あっ、ううん、別にその……なんていうか、勇太君が気にしていなかったらいいんだけど……なんか、ほら、私、結構変なとこ馴れ馴れしくてさ…。なんか、変な風に思われたかな…とか」
瑛莉香が神妙な面持ちでたどたどしく言葉を繋げた。一瞬何なのか分からなかったものの、ふと何かの予感がした。
目に見えない采配が振るわれたように、自分の口から感情が飛び出した。
「…あ、あの……そういえば……その…瑛莉香さんとの……キス……が…、個人的に……忘れられなくて…」
唐突な言葉にもかかわらず、瑛莉香は何も言わず激しく頷いた。過ぎ行く景色が早回しをしたかのように、車内に流れ出した時間はとめどなく遅かった。
「だよね…そうだよね…!ごめんね…、ごめん…」
瑛莉香の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。何故泣き出したのか分からなかった。
「……ほんとは…ね…。ほんとは…勇太君のこと…いつの間にか、男の人としても見ちゃってた。なんか分かんないけど…すごくなんか…温かくて…」
溢れ出す感情を押し殺すように声を漏らしながら、頬を伝う涙を手の甲で必死に拭った。
その様子から目を離すことが出来なかった。なだれ込んできた感情のどれにどの名前をつければいいのか分からなくなった。今までの記憶が走馬灯のようにフラッシュバックし、目の前で起きている現象の輪郭を次々とぼかした。
「……うん、でも、こういった形で出会って、お互いがこれからの人生を良い方向に持っていけるようにするためで、私ももっと強くなんなきゃなって…。ちゃんと、いい人と出会って、お金稼げるようにして、もっともっと前向きに生きなきゃって」
鼻をすすりながら、瑛莉香は心の奥底から湧き出る情動を冷静に言語化していった。彼女が男女関係で傷ついてきたことは海辺での会話で理解していた。何かを匂わせるような言い回しも突然のキスも、旅の継続を持ち掛けてから数日ぐらいの出来事だった。自分の勘は間違っていなかったようだ。ただ、理想形とも言える女性から真剣に好意を持たれたことを俄かには信じられなかった。長く蓄積した女性に対する劣等感や自分という男への自信の無さは思った以上に厄介だった。これほど今、少し指の関節を伸ばせば掴めるほどの距離だというのに。
「……ほんと、ごめんね。でもやっぱ、非日常の中で作った思い出は、非日常の中に閉じ込めておくのがいいんだろうな…って」
「………ぼ、僕も……それがいいのかなって…思いました…。ほ、本当は……本当は瑛莉香さんともっともっと過ごせたら…もっともっと近くで関われたら…本当に幸せだと思うんですけど………なんか……瑛莉香さんとの思い出を壊してしまいそうで……」
「…うん、きっとそうなんだと思う……きっと。……まぁ、足はちゃんと見せられたから良かったのかな……なんて言ってはみるけど…」
涙で目を充血させた瑛莉香が笑みをこぼした。素足の女性ドライバーに興奮する自分と、軽率に性の対象になることに疑念があった彼女とは、きっと今の距離感が丁度いいのかもしれない。そう感じられた瞬間、たった数週間前の自分が別人格のように思えた。
車は高速道路の出口へと進行方向を変え、追い越し車線の雑音が消えて軽自動車のエンジン音だけが鳴り響いた。どこを走っているのか全く見当がつかなかったが、青々とした若葉が消え、ビル群や工場を連ねた都会の街並みがフロントガラスから見えた。
見慣れない土地から馴染みのある風景に戻り、心なしか緊張感が薄れていくのを感じた。
「…でもほんと、ありがとね。勇太君」
前方を見据えながら、瑛莉香が物腰の柔らかい声で呟いた。
「…いえ、こちらこそ…本当に…ありがとうございました…!」
勇太は力強く返した。次々と通り過ぎていく景色が、少しずつピースを増やしてあの日見慣れた1枚の景色を作り出していく。
町中に堂々と設えた大きな駅舎、高架線の上を走行する年季の入った電車。歩道に点々と植えられた木々の横を忙しなく歩く人々。昼下がりの暑さに負けんばかりの賑わいを湛えた都会のまち。
あの日、"Erika"と出会った最初の場所に、戻ってきた。
隣に顔を向けると、綺麗に畳まれたシーツだけが残っていた。瑛莉香は早々と起きだし、朝の光でも浴びているのだろう。
コテージのカーテンを開け、煌々と差し込む朝日に目を細め、順応した頃には雲一つない青空が眼前に広がっていた。自分の記憶の中にあるこれまでの淀んだ空模様を浄化するようにボーっと眺めた。旅を終えるのに相応しい天気だ。
気まぐれな夏空に認められた気分で、熱帯夜で汗ばんだシャツとパンツを脱ぎ、バッグに詰めていたシャツとパンツを取り出して着替えた。瑛莉香とは対照的に、靴下をしっかりと両足に通してたくし上げ、泥の撥ねたスニーカーを履いてコテージの扉を開ける。
木々のさざめきとアブラゼミの鳴き声に迎えられ、標高の高いこの場所に吹く風が汗で粘つく肌を優しく撫でた。
タイミングよく、瑛莉香がコテージへと向かってくる姿が見える。
「…あっ、おはよー!」
瑛莉香がビニール袋を提げた手を上げてぎこちなく振った。繁茂する木々の間にふち取られた爽やかな青と湿気の少ない乾いた日の光が彼女の垢抜けた風采とよく合っていた。小走りで近寄ってくる彼女は、グレーのタンクトップに白の薄いガウンを羽織り、デニムのショートパンツとトングサンダルを履いていた。駅前で初めて出会った時の彼女の格好だった。
「おはよー。ごめんごめん、散歩がてらコンビニで朝ごはん買ってきちゃった。一緒に食べよっ」
朝食を済ませ、しばらく他愛もない時間を過ごした後でシーツを畳み、コテージの中を軽く見回して置き忘れがないか確認した。
瑛莉香が曇りのない笑みで軽く頷いて、重たい荷物を抱えて外へ出る。扉を施錠し、木漏れ日に照らされた車へと向かった。ガウンを靡かせながら、背筋を真っ直ぐに張った瑛莉香と並んで歩く自分が小さく見えてしまう。いつ考えても不思議だった。まさか自分が、理想形とも言える女性とここまで交わることがあるとは思ってもいなかった。ましてや、素足での運転姿を真横で堪能し、エンジン不調も立ち往生も全て目の前で起きた。何も悔いは無かった。鬱屈とした日常にヒビを入れることが出来た先、自分はどんな人生を送ることが出来るだろうか。
鍵を開け、後部座席へ荷物を詰め込んだ。台風の時、見知らぬ女子大生をここへ乗せたことが遠い日のように思えた。
後部座席のドアを閉め、瑛莉香と勇太はそれぞれ運転席と助手席へ乗り込んだ。
シートベルトを締め、ルームミラーを左手で軽く上下させ、トングサンダルを履いた素足でブレーキを踏み押さえた。
シリンダーにキーが差し込まれ、熱の籠った車内に冷房の風が勢いよく吹き出した。
「……ふぅ………いよいよだね」
瑛莉香が肩をすくめ、勇太に微笑んだ。非日常を追求した濃密な旅が今日で終わる。
勇太は何も言わず頷いて答え、いつも通り瑛莉香がキーを回す瞬間を待ち望んだ。
キーに右手をかけた瑛莉香は、しばらく前方を見つめて口を結んでいた。瞳を少しだけ震わせながらも、瞼を下ろして一度だけ頷き、勢いよくキーを回した。
眠っていたエンジンにオイルが流れ込み、セルモーターが勢いよく回転し始める。高くそびえる木々の枝葉を傘にした静穏な空間に、軽自動車の乾いたセルモーターの音が鳴り響く。
いつも通り、エンジンは一発で掛からず、瑛莉香は再度キーをひねる。キュルキュルと空転する音が数秒間続くが、エンジンは入りそうにない。
サンダルでアクセルを小刻みに踏みながら再びキーをひねった。アクセルを踏むごとに回転数が一瞬上がるも、点火まで行き着かない。
息遣いが荒くなる勇太を横に、瑛莉香は根気強くアクセルを踏み続けながらキーを回した。
「あれ~?おかしいなぁ…。アクセル踏んでも掛かんないんだけど…」
眉間に皺を寄せ、何気なくシリンダーを覗き込んだ。事故の影響もあるのだろうが、いずれにしてもエンジンが不調な時ほど勇太にとって都合がいい。
思わず両手で股間を押さえ、エンジンの始動に手こずる瑛莉香の様子をじっと見守っていた。
「やっぱ帰ったら修理出さないとダメかな…?」
瑛莉香は何度か同じようにキーを回し、サンダルでアクセルを煽った。何度か始動に失敗した後で、ようやくエンジンが点いた。
唸りを上げる音を聞き、安堵した表情でアクセルを吹かした。エンジンが不調なせいか、いつもより空吹かしの時間が長かった。
「…やだぁ、勇太君ったら」
瑛莉香が勇太の両手を軽く叩いた。もうしらばっくれることは出来ない。
「…す…すみません…。なかなか慣れなくて…」
勇太は緊張で身体に熱を感じながらも、昨夜の出来事が瑛莉香と共有出来ていることに底知れぬ安心感を抱いた。
「もうほんと、靴下持ってくればよかったよ」
瑛莉香がブレーキを踏みながらギアをドライブに入れ、アクセルへと右足を移し替えた。日常へ向かって一台の車は走り出した。
快晴の下、長く伸びた高速道路から飛び込む景色の一部一部を、勇太は助手席で揺られながら眺めていた。真夏の太陽が、遮蔽するもの一つもない上空で燦然と灼熱の光を放っている。道路上に設置された電光掲示板には33℃の数値が表示され、冷房の効いた車内から出る時が億劫に思えた。曇天が続いたせいか、忌々しい夏の温度が少し懐かしかった。
瑛莉香はサングラスをかけ、長い指先でハンドルを握り続ける。洋風を思わせる瀟洒な格好が、見慣れない異国の地まで来たような気分にさせた。
色白い素足にサンダルを突っかけて器用にペダルを踏み、馬力の弱い古びた軽自動車を果敢に走らせる。右側の車線を駆け抜ける新型のSUVや大型のトラックを前方に見送りながら、鼻筋の通った横顔は自信に満ち溢れていた。
「…勇太君は、これから先どうするの?」
唐突に瑛莉香が質問した。以前も聞かれたことがあったが、その時から答えはあまり変わらなかった。
「…そ、そうですね…。全然何も決められてなくて…」
「…だよね。私もそう。私なんて大学4年の時に就活してないんだもん。ヤバいよね」
瑛莉香は鼻でふふっと笑った。非日常に守られていた彼女も、元の生活に戻れば現実的な課題が待っている。非日常は日常の中にしかない。そう言葉にした彼女が、この先どんな風にその日常をつくり上げていくのか気になった。
「勇太君は社会人経験あるから大丈夫だと思うよ。経済情勢はちょっと、あれかもだけど」
ちょうど、自国の総理大臣が変わって間もない時期だった。政治についてはよく分かっていなかったが、国のトップが変わることで経済の予測がやり直されることはなんとなく理解しているつもりだった。
「…でも結局、大した結果も残さないまま辞めちゃいましたし…。学歴も資格も無いんで、雇ってくれる場所があるかどうか…」
「んー、まぁ不安だよねー。でも私も資格という資格無いしなぁ………あっ、じゃあ公務員とかはありなんじゃない?割と学歴不問で、試験さえ通れればクビ切られることも無いし。まぁ、私はそういうお堅い仕事は嫌なんだけどね~」
「…こ、公務員……ですか…」
非日常の旅を終える前に、鉛のような重苦しい感情が胸に宿った。自分が迎え入れる日常は、やはり想像以上に過酷そうだ。勉強や就職に高い熱量を持つ人間が多く集まるような環境にいた瑛莉香とは違い、自分にはそういった学も知恵もない。高校を卒業した段階での視野でしか考えられていない自分をまざまざと見せつけられているようで、オンボロの軽自動車がジェットコースターのように怖くなった。
「……勉強とか全然なんで…不安です」
「ふふっ、そっか。まっ、私も勉強とか嫌いだから。何も考えず、色んなとこ出かけてる方が楽しいよね」
瑛莉香は優しく微笑してベタ踏みしていたアクセルから足を離した。ブレーキに踏み替え、車の速度を徐々に落としていく。パーキングエリアを示す標識が前方に確認できた。
「あっ、ねぇねぇ、ちょっと休憩しない?お手洗い行きたくなっちゃった」
トイレ休憩を済ませ、特に目的もないまま売店に立ち寄った。土産を持って帰りたいのか、サングラスを額にかけながら品物を真剣に見つめる瑛莉香の高揚感が伝わってくる。「ねぇねぇ、これ良くない?」とか「待って、これ可愛くない?」とか、商品を手にしては勇太に共感を求める彼女に終始緊張した。その高い波長と素肌が何度も触れる距離感は、本当に恋人同士のような気持になった。
結局、いくつかの思わせぶりな発言と夜毎に突然キスをされたことの真相を、彼女の口から告げられる様子は感じられなくなった。そんな境目の曖昧な立ち振る舞いこそが彼女の本質なのかもしれない。絶妙な距離感に葛藤しながらも、自分の知らない自分を思い切り引きずり出されたような気がした。
買い物を済ませ、昼食をとった。朝に食べたコンビニのおにぎりとサンドイッチだけでは少々物足りず、フードコートで注文したハンバーガーセットを胃袋に詰め込んだ。瑛莉香は長い指先でポテトを上品に摘まみながら、ハンバーガーには大きな口を開いてかぶりついた。肉汁を無造作に下へと垂らしながら幸せそうな表情で味わう豪快さが印象的で、食事の時間も不思議と楽しかった。
勇太にとって、本田瑛莉香という女性はやはり非日常な存在だった。
食事を済ませて車へと戻り、いつものようにキュルキュルと鈍そうに回るセルの音を聞いた。車体が小刻みに振動するこの感覚は、この先もう味わえないかもしれない。環境に優しく壊れにくい自動車が続々と世に売り出されていく中で、黒い煙を大量に吐き出して走るエンジンの不調な軽自動車を乗り続ける女性も珍しいだろう。
キーを何度か回す手つきとアクセルを小刻みに踏むサンダル履きの素足を見つめながら、勇太は至福の一場面を余すことなく堪能した。
「…よし、掛かった。じゃ、出発するよ~」
瑛莉香は再び車を発進させ、パーキングエリアの出口へと向かっていった。
車は甲高いエンジン音を響かせながら高速道路を走り続けた。速度の遅さを考慮して左車線へ落ち着き、やきもきした後続車は次々と車線を切り替えて瑛莉香の車を抜かしていく。
途中、渋滞に巻き込まれ、思うように車が進まない時間がしばらく続いた。
「…やばっ、エンストしちゃった…!」
突如、ガクンと車体が大きく揺れ、車内が静寂に包まれた。停車時間が長くなったせいか、エンジンの回転数が落ちて停止したらしい。勇太はまたしても瞬間的に興奮を覚え、濁流のごとく血液が心臓へと流れ込んでいくのが分かった。
前方の車がゆっくりと動き出す中、瑛莉香は急いでギアをパーキングに入れてサイドブレーキをかけてキーを回した。
キュルキュルと乾いた音を立てながら始動を試みるが、1発では掛からなかった。
「もう…!」
再度キーを回してエンジンを掛けようとするが、セルが空回りを続けるだけでなかなか点火しない。アクセルを小刻みに踏み、再びキーを回す。セルの回転する音に交じって後方からクラクションが響いた。
前方の車と距離が開いていく中、瑛莉香は粘り強くキーを回しながらサンダルを履いた素足で繰り返しアクセルを踏んだ。勇太は息遣いが荒くなり、その光景から目が離せなかった。サングラスを下ろすスマートな風貌の中に満ちた焦りの表情がいじらしかった。
どうにかしてエンジンが掛かり、瑛莉香は急いでサイドブレーキを外してギアを入れ直し、アクセルを強めに踏み込んだ。
「はぁ~、焦った~。真面目にヤバいかもこの車」
額から噴き出した汗を拭いながら、瑛莉香はハンドルを握り直した。
それからしばらくは、停車時にエンジンが止まらないようにその場でアクセルを何度か吹かした。黒い煙が後続車に吹きかかることを気にしながらも、被害を最小限に抑えるためには仕方がなかった。恐る恐るアクセルを吹かす彼女の足に欲情し、勇太は冷静さを保つことで精いっぱいだった。
悶々とした渋滞もやがて少しずつ解消され、車の速度が徐々に上がっていった。変わり映えのない景色と躊躇なくペダルを踏む瑛莉香の足を交互に見ながら、沈黙の続く車内の助手席に身をうずめていた。
「…勇太君」
不意に、瑛莉香が小さく呟いた。サングラスを額にかけ、美麗な瞳を覗かせた。
「…えっと……あの、ごめんね、色々と」
「……えっ…?……あっ、えと……」
突然の謝罪に思わず動揺し、腑抜けた身体を勢いよく起こした。
「…あっ、ううん、別にその……なんていうか、勇太君が気にしていなかったらいいんだけど……なんか、ほら、私、結構変なとこ馴れ馴れしくてさ…。なんか、変な風に思われたかな…とか」
瑛莉香が神妙な面持ちでたどたどしく言葉を繋げた。一瞬何なのか分からなかったものの、ふと何かの予感がした。
目に見えない采配が振るわれたように、自分の口から感情が飛び出した。
「…あ、あの……そういえば……その…瑛莉香さんとの……キス……が…、個人的に……忘れられなくて…」
唐突な言葉にもかかわらず、瑛莉香は何も言わず激しく頷いた。過ぎ行く景色が早回しをしたかのように、車内に流れ出した時間はとめどなく遅かった。
「だよね…そうだよね…!ごめんね…、ごめん…」
瑛莉香の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。何故泣き出したのか分からなかった。
「……ほんとは…ね…。ほんとは…勇太君のこと…いつの間にか、男の人としても見ちゃってた。なんか分かんないけど…すごくなんか…温かくて…」
溢れ出す感情を押し殺すように声を漏らしながら、頬を伝う涙を手の甲で必死に拭った。
その様子から目を離すことが出来なかった。なだれ込んできた感情のどれにどの名前をつければいいのか分からなくなった。今までの記憶が走馬灯のようにフラッシュバックし、目の前で起きている現象の輪郭を次々とぼかした。
「……うん、でも、こういった形で出会って、お互いがこれからの人生を良い方向に持っていけるようにするためで、私ももっと強くなんなきゃなって…。ちゃんと、いい人と出会って、お金稼げるようにして、もっともっと前向きに生きなきゃって」
鼻をすすりながら、瑛莉香は心の奥底から湧き出る情動を冷静に言語化していった。彼女が男女関係で傷ついてきたことは海辺での会話で理解していた。何かを匂わせるような言い回しも突然のキスも、旅の継続を持ち掛けてから数日ぐらいの出来事だった。自分の勘は間違っていなかったようだ。ただ、理想形とも言える女性から真剣に好意を持たれたことを俄かには信じられなかった。長く蓄積した女性に対する劣等感や自分という男への自信の無さは思った以上に厄介だった。これほど今、少し指の関節を伸ばせば掴めるほどの距離だというのに。
「……ほんと、ごめんね。でもやっぱ、非日常の中で作った思い出は、非日常の中に閉じ込めておくのがいいんだろうな…って」
「………ぼ、僕も……それがいいのかなって…思いました…。ほ、本当は……本当は瑛莉香さんともっともっと過ごせたら…もっともっと近くで関われたら…本当に幸せだと思うんですけど………なんか……瑛莉香さんとの思い出を壊してしまいそうで……」
「…うん、きっとそうなんだと思う……きっと。……まぁ、足はちゃんと見せられたから良かったのかな……なんて言ってはみるけど…」
涙で目を充血させた瑛莉香が笑みをこぼした。素足の女性ドライバーに興奮する自分と、軽率に性の対象になることに疑念があった彼女とは、きっと今の距離感が丁度いいのかもしれない。そう感じられた瞬間、たった数週間前の自分が別人格のように思えた。
車は高速道路の出口へと進行方向を変え、追い越し車線の雑音が消えて軽自動車のエンジン音だけが鳴り響いた。どこを走っているのか全く見当がつかなかったが、青々とした若葉が消え、ビル群や工場を連ねた都会の街並みがフロントガラスから見えた。
見慣れない土地から馴染みのある風景に戻り、心なしか緊張感が薄れていくのを感じた。
「…でもほんと、ありがとね。勇太君」
前方を見据えながら、瑛莉香が物腰の柔らかい声で呟いた。
「…いえ、こちらこそ…本当に…ありがとうございました…!」
勇太は力強く返した。次々と通り過ぎていく景色が、少しずつピースを増やしてあの日見慣れた1枚の景色を作り出していく。
町中に堂々と設えた大きな駅舎、高架線の上を走行する年季の入った電車。歩道に点々と植えられた木々の横を忙しなく歩く人々。昼下がりの暑さに負けんばかりの賑わいを湛えた都会のまち。
あの日、"Erika"と出会った最初の場所に、戻ってきた。
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