ユーズド・カー

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第4章 平野

4-4

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 全てをリセットしたかのように、瑛莉香は普段と変わらぬ声色で布団から起き上がった勇太に微笑んだ。砂利を敷き詰めた道路に大きな雨粒が打ち付け、建付けの悪い窓ガラスが強い風でガタガタと音を立てている。床に座り込んで冷蔵庫に保管していたコンビニのおにぎりとパンを貪りながら、瑛莉香は窓の外を見つめていた。

「おはよ~。見て?雨すごくない?これから台風上陸するかもって」
 瑛莉香は至って普通だった。昨晩の激しい鼓動と全身を焼き焦がすようなほとばしりは夢だったのだろうか。無機質な雨音と瑛莉香の咀嚼音が、勇太の浮足立つ心を冷やしていく。

「とりあえずあと1時間ぐらいしたら出るから、早めに朝ご飯食べちゃって!」



 冷えて固くなった消費期限ギリギリのおにぎりとパンを腹に入れ、荷物をまとめて雨の降るバンガローの外へと瑛莉香とともに飛び出した。湿った風が大きな雨粒を纏って吹き荒ぶ。小走りで青いプレオまで向かい、ドアを解錠し荷物を詰め込んだ。室内に残ったものがないことを確認し、勇太はいつものように助手席へと駆け込んだ。

「外ヤバいね~。忘れ物なさそう?」
 運転席に座り、おもむろにビーチサンダルを脱いだ瑛莉香が尋ねた。白のノースリーブとデニムのショートパンツを身につけて、さり気なく裸足で車を運転しようとする彼女に興奮を覚えた。

「大丈夫です…!」
「うん、よし、じゃあ行こっか」
 瑛莉香はサンダルをシートの下に潜り込ませ、そのまま裸足でブレーキペダルを踏み押さえて車のキーを差し込んで奥へ捻った。重たそうにセルが回転するが、やはり1発では掛からない。数秒間鳴らすと、瑛莉香はキーを戻して再度奥まで回した。弱々しく回るセルに伴って車体が小刻みに震え、勇太の尻に振動が伝わる。心拍数が上昇し興奮する勇太の隣で、瑛莉香はその後も何度かキーを回した。しかし、車はキュルキュルと音を立てるだけでエンジンは一向に点火しなかった。

「朝ほんと調子悪いなぁ…」
 瑛莉香が眉間にしわを寄せて小さく呟いた。旅を始めた時よりもエンジンの掛かりが悪くなっているのが勇太にも分かった。助手席からの性的な視線には目もくれず、瑛莉香はブレーキに乗せていた右足をアクセルペダルの上に乗せる。キーを回すとともに足指の付け根でペダルを奥まで倒し、キュルキュルと乾いた音を澄んだ空気で響かせるエンジンの着火を待った。しかしなかなかエンジンが入りそうにない。

「あれ?待って、掛かんない」
 勇太の鼓動がさらに激しく脈打った。瑛莉香が裸足でアクセルを煽ってエンジンを掛けようとした姿を目撃したのは初めてだった。その上、今日はいつも以上にエンジンの掛かりが悪いらしい。瑛莉香は数回小刻みにアクセルを踏み、キーをもう一度捻る。屋根に打ち付ける鋭い雨音の中に、弱々しく回転するセルの音が鳴り響いた。車体は再び鈍く震えて勇太と瑛莉香の身体を揺らし続けた。

「やだ、ウソでしょ…?」
 瑛莉香は焦りながらキーシリンダーを覗き込んだ。勇太はメーターを振り切るように最大限まで紅潮しながら雨粒の残る瑛莉香の足と端正な横顔に視線を向けていた。瑛莉香は怪訝な表情を浮かべながら指先でハンドルをトントンと叩き、右足をアクセルの上に乗せた。エンジンが掛からず困惑する裸足の女性に欲情を覚えながら、勇太は息を殺してその様子を見つめていた。

 細い指先でキーをつまんで捻り、頑なに回り続けるセルを起こそうと瑛莉香は裸足で小刻みにアクセルを踏んだ。セルが徐々に回転数を上げ、ようやくエンジンが点火して吹き出した。

「ほっ…よかった」
 瑛莉香の表情に明るさが戻り、そのまま数回アクセルを吹かして満足げにハンドルを握り直した。

「ごめんごめん。じゃあ出発しよっか!」
「はい…!」
 瑛莉香がギアを入れ、負傷した左足でサイドブレーキを外して車がゆっくりと動き出した。そのまま受付へと向かって精算を済ませ、車は元来た細い山道を走り始めた。




 黒い乱層雲から絶え間なく零れる大粒の雨の下、瑛莉香の運転する車は大通りを走っていた。ゆっくりと動くワイパーは激しく打ち付ける雨水を左右へ流し、メトロノームのように一定のリズムで軋んだ音を鳴らしている。雨で遮られた前方を注意深く見据えて裸足のまま運転する瑛莉香を、勇太はこの上なく興奮気味に見つめていた。心を完全に開かれているのか、一人の冴えない年下の男を横に、裸足での運転でも特段気にする様子もない。恥じらいのない凛々しく完璧な横顔のせいか足元を露出したラフな姿が”隙”になっているようで、勇太の血流は地面を下る火砕流のごとく熱く瞬間的に身体中を駆け巡った。

「バンガロー行くの今日じゃなくて良かったね~。これじゃ釣りも花火も出来なかったよ多分」
 赤信号で一時停止し、瑛莉香が厚い胸元をハンドルに寄せて窓の外を覗き込む。勇太は覇気のない視線を瑛莉香の足から外の景色へ移した。気が逸れたのも束の間、唇を塞いだ柔らかい感触が甦る。蛍光灯に照らし出された無邪気で、悪戯っぽく、しかしどこか毅然としたあの眼差しをとらえてから今まで味わったことのない生温かく湿った感触が去るまでの刹那は、勇太の心を計り知れない力で揺さぶった。あれは何だったのか。酔った勢いのノリなのか、覚悟を決めたのか。「普通の人間」というのはこんなにも大胆な行為をいとも容易く、曖昧にやってのけてしまうのか。彼女の突き抜けるような快活さを持ち合わせたことはなく、それだけに昨晩の出来事が上手く処理できなかった。せめて性的な欲求を感じるに過ぎない、近いようで遠く離れた存在が、勇太の現実世界に圧倒的な力を伴って訴えかけてきた。自分はどう何をどう応えるべきか。

 途方もない憶測の世界へ耽っていると、突然身体がガクンと前に投げ出された。

「やーっ!ごめんごめんごめん…!」
 赤信号になる前に交差点を抜け切れないと判断した瑛莉香がブレーキを力強く踏み込んだせいだった。雨水で濡れた摩擦力の低い道路で停止線を超えた状態で停車し、歩道の白線を少しオーバーするように静止した。

「…あー、今の行けたかなぁ……まぁいっか……………あれ?」
 瑛莉香の声に混じりながらエンジンが急停止する音を勇太は聞き逃さなかった。間もなくそれに気づいた瑛莉香がまだ痛みの残る左足でサイドブレーキを踏み込み、ギアをPに戻してすかさずキーを捻った。小刻みな振動とともにセルが回転する音が車内に低く鳴り響く。横断歩道を渡る人々を前にエンジンが掛からない。

「えっ?待って?エンスト?」
 瑛莉香は焦った声色で呟いた。後続車は次々とバックミラーに映し出され、前屈みに傘を差す歩行者たちが足早に目の前を通り過ぎていく。再びキーを捻り、裸足でアクセルを吹かした。突然のトラブルに焦る瑛莉香を横に、勇太の興奮は絶頂まで達していた。エンジンは頑固にも掛からず、歩行者用の信号機は一定の時間を過ぎて赤色に変わろうとしていた。瑛莉香は後方を確認し、呼び起こすようにハンドルをトントンと叩いた。

「ヤバいヤバい…!信号変わっちゃう…!」
 キーを回すもセルモーターは空転し続け、なかなかエンジンの点火まで行きつかない。信号は青色に移り、右折レーンに停止していた車がゆっくりと動き出した。青信号を前にしてセルの弱々しい回転音の響く車内。アクセルを小刻みに踏む瑛莉香の足を見つめながら、興奮が極限に達して思わず股間を押さえつけた。全身が硬直し、熱が放出していく。漏れそうな声を必死に押し殺し、ひたすら平静を装った。

 間もなくエンジンが入り、瑛莉香は勢い余った足で数回アクセルを吹かした。痺れを切らした後続車が甲高いクラクションの音を浴びせ、瑛莉香は「すみませーん、今行きます…!」と後方へ向いて謝った。色白い裸足でアクセルをベタ踏みし、黒い排気ガスを吐き出しながら車のタイヤを転がしていった。

「ふぅ…焦ったぁ…!」
 瑛莉香は大きな溜め息を漏らし、呼吸を整える。勇太は股間を押さえた手が離せなかった。冷静さを取り戻した神経が瑛莉香の足を初めて肉体の一部位として捉えた。

「ごめんね古くて…!………あれ?大丈夫?トイレ?」
「…あっ、いや…そうですね…」
 勇太の異変に気付いた瑛莉香が問いかけた?勇太は動揺してぎこちなく返事をした。足への欲情を知る由もない自然体の表情が余計に勇太の胸を掻き立てた。エンジンを掛けようとペダルを必死に踏み込む足と焦りで崩れる凛々しい横顔を冷静に見過ごすことは出来なかった。

 途中で見つけたコンビニの駐車場に車を停め、無垢な笑みで「私、車の中で待ってるから」と告げられた。勇太は替えの下着を購入してトイレにこもり、何事もなかったように助手席へ落ち着いた。

「…よし、しゅっぱーつ」
 瑛莉香は勇太が片手に持っていたビニール袋に視線を移しながらも、特段コメントすることなく再び裸足の状態で車を動かした。



 豪雨に晒される長い1本道を、瑛莉香は果敢に車を走らせた。立ち並ぶ水田には大粒の雨が叩きつけ、青緑の山稜に根を張った木々がバネのようにうねった。この日訪れた台風は強大な勢力を伴う大型台風だった。太平洋の海水を瞬く間に吸い上げながら北上を続け、各地に豪雨と暴風をもたらしているらしい。先日から続く空一面を覆った曇天の空模様が巨大低気圧の影響だったと合点がいったが、せっかくの旅には忌まわしい天候だった。

「…もぉ~全然見えないじゃん…!」
 瑛莉香が気色ばんだ表情で呟いた。ハンドルを握る両手に力が入り、凛々しく伸びていた背筋が不安げに前方へ屈んでいた。容赦なくなだれ込む雨水に比してゆったりと左右する古びたワイパーでは処理が追いつかず、絶えず視界を遮られる。アクセルを果敢に踏み込んでいた足は躊躇うようにスピードを緩め、ラジオから流れるキャスターの冷静沈着とした声が雨音に掻き消された。

「勇太君、なんかあったらサポートお願いね!」
「は、はい…!」
 彼女の咄嗟のお願いに反射的に答えた。激しく打ち付ける豪雨を前にわずかな間隙から外の障害物が無いかを確認しようと首を動かした




「……ヤバいなぁ…もうどこ走ってんだか分かんなくなっちゃったよ」
 しばらく続いた沈黙を破り、瑛莉香が弱々しく言葉を漏らした。彼女がどこまで地理を把握しているのかが未だに分からなかったが、窓の外は商業施設が要所要所に並ぶ景色からから田畑の多い閑散とした田舎道へと変化していた。人通りはなく、今日のこの天候を考慮してか車もほとんど走っていない。低速で慎重に走る分には好都合だったが、見知らぬ土地で大雨に見舞われながらの走行はどことなく不安と孤独感に襲われた。会話もなく、ただ大きな雨粒が絶え間なく跳ねる音を耳にしながら、一台の古い軽自動車は道路を走り続けた。

 動きの遅いワイパーが刹那、外の景色を明瞭に映す。その間隙を突くように左側の歩道から小さな人影が勇太の視界に飛び込んだ。間もなく瑛莉香もそれに気づき、スピードを緩めて左斜めの方向を見据えた。それは身を乗り出すようにこちらに向かって手を左右に振っているのが分かった。瑛莉香は迷うことなく裸足でブレーキを踏み込んだ。徐々に輪郭がハッキリと見えてくる。

 車が止まるや否や、助手席側の窓にその顔が近づいた。見る限り、勇太と同じような年頃の女性だった。ずぶ濡れの状態で肌は少し青白く、安堵と懇願の複雑な心情が淑やかな微笑に現れていた。

「すみません…!」
 助手席側の窓ガラスを開け、風に飛ばされた雨粒とともに女性の声が車内へ入り込んだ。

「すみません突然…!ちょっと…道に迷っちゃって…」
 茶色に染めたストレートの髪が暴風で靡いた。迷子になったようだ。初めての土地で一人旅をしていたが携帯電話の充電が切れ、地図も何も持っていない状態で途方もなく嵐の中を歩いてきたという。片手に持つビニール傘は無残にも骨が折れ使い物にならない状態だった。

「…なるほど…!…えーっと…じゃあ、うん、とりあえず乗っちゃってください!」
 瑛莉香は状況を把握すると、逡巡することなく後部座席を軽く見回して乗車を促した。決断の速さと度胸に感心しながらも、たまたま遭遇した人間を乗せることに勇太は緊張した。女性は申し訳なさそうに会釈した後、後部座席のドアを開け、濡れた身体を狭いシートの上へと預けた。彼女が乗り込んだことを確認し、瑛莉香はブレーキからアクセルへとペダルを踏み変えた。
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