ユーズド・カー

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第4章 平野

4-2

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 朧げだった意識はセルの空転する音と振動で真夏の朝へと呼び起こされた。3回ほどエンジンの始動に失敗する音を聞き、瞼に乗った鉛を押しのけて目が開いた。瑛莉香が再び数秒間キーを回し続け、ビーチサンダルを突っ掛けた足でアクセルを煽ってエンジンを始動する。アクセルを奥まで踏み込んだ唸りとともに、冷房の風が勢いよく火照った顔に吹き付けた。

「…あっ、おはよ。起こしちゃった?ごめんごめん、エンジンの掛かりが悪くて」
 恥じらいの滲んだ微笑が勇太に向けられた。勇太はどもった後で、「おはようございます…!」と呟いた。

「さーて、今日は山に行くよ!ハイキングとか出来るらしいから」
 瑛莉香は車のギアを入れてサイドブレーキを外した。車輪がゆっくりと転がり出し、慣れた手つきでハンドルを大きく回して駐車場を後にした。


 道中、勇太はいつものように瑛莉香の足に目が行く。透き通るような白い素肌にハーフパンツとビーチサンダルというラフな格好が夏らしい。露出度の高い彼女の姿は勇太の脈を揺さぶった。
 車道の両側は稲の伸びた田んぼが連綿と繋がり、商業施設は徐々に姿を消していった。曇り空に覆われた地平線には山の稜線が薄く浮かび上がっている。瑛莉香との旅が始まってまだ1週間。暑苦しい都会を抜けてから今日の景色までを思い返すと、短いようで随分と時間が経ったように思えた。いつしか景色は豊穣な緑で染まり、鬱屈とした日常の面影をなくしていた。勢いよくペダルを踏み込む瑛莉香の素足を見つめながら、勇太は次なる旅に期待と不安を湛えていた。



「…よし、着いた!」
 平たいアスファルトの上に真っ直ぐに引かれた白線と平行になるように、瑛莉香は華麗に車を停めた。車のキーを抜いて車内に束の間の静寂が訪れる。フロントガラスの向こう側に見えるのは若々しい緑で覆われた山々だった。登山経験に乏しいせいか、無性に緊張が走った。

「…えーっと…、とりあえず飲み物と…絆創膏と…虫除けと……お昼は……んー、休憩場所に売店とかあるのかな?」
 瑛莉香はシートベルトを外して身体を窮屈そうにねじりながら、後部座席に置いたコンビニのビニール袋をまさぐった。山を前に最低限の準備しかしていない瑛莉香の大雑把さは相変わらずだったが、話を前へ進めていく彼女に全てを委ねた。

「勇太君、腕貸して~」
 車を降りて、霧状の液体を素肌に撒かれた。白く苦味のある臭いが両腕に噴射され、跳ね返った液体から反射的に顔をそむけた。瑛莉香は顔をしかめながら勇太の身体にスプレーをかけ終えると、容器を小刻みに振って勇太より多く露出した肌にスプレーを噴きかけた。虫が得意じゃないと言っていたように、膝の裏や足の指先まで念入りに液体をかけたようだ。

「これで大丈夫かな!よし、行こっ!」
 晴れやかな笑顔に吸い込まれるように、勇太は瑛莉香とともに歩き始めた。


 草木の繁茂する薄暗い登山道に、勇太と瑛莉香はゆっくりと足を踏み入れた。露に濡れた大木の根が絡み合い、柔らかい土で敷かれた道の上を覚束ない足取りで進んでいく。
 瑛莉香は無地のシャツの上から薄手の白いガウンを羽織り、黒いハーフのジャージと薄紫のビーチサンダルを履いている。連日の雨でぬかるんだ不安定な足場にもかかわらず、華奢な足に突っかけたビーチサンダルで山道を悠々と歩く姿は細々とした通念を気にしない瑛莉香らしかった。最低限の備品だけを詰めた大きめのビニール袋を片手に艶めいた木々の美しさに浸りながら歩いている。

「はぁ~、涼しい~」
 瑛莉香が安堵するように溜め息を吐いた。憎らしいほど暑い太陽は厚い雲に遮られて、山道は冷たい空気が漂っている。露を付けた木々の匂いが香り、冷たいそよ風がその隙間を縫って汗ばんだ肌を撫でた。

「勇太君は山とか登ったことある?」
「…や、山ですか…?……えと、全然ないです…」
 少しだけ嘘をついた。正確には、小学4年生の頃に校外学習で小さな山をクラスで登ったことがある。ただそんな小学生向けの授業の一環を「山登り」と称していいのかがよく分からなかった。

「だよねぇ。私もあんまないんだよね~。都会だと周りビルばっかだし。なかなか行く機会なくてさ」
 瑛莉香は腕組みをしながらポロポロと言葉を呟いた。確かに、いくらアクティブな瑛莉香でも登山を好んでいるイメージは全くなかった。山に挑むには無防備すぎる格好が現にそれを示している。

「まっ、こうしてせっかくいい機会が出来たし、思い切って飛び出して正解だったね」
 瑛莉香は同意を求めるようにその端正な顔を覗かせた。勇太が下した決断を肯定しようと気遣うような微笑を浮かべていた。勇太はぎこちない笑みで返事をしたが、心のどこかでは自信がなかった。


 山道は緩やかな上り坂に差し掛かった。大きな板を埋め込んで舗装された足場を一段一段踏みしめていった。リズムよく一定の間隔で上っていくと太腿に刺激が走り、息が上がってきた。思えば、仕事を辞めてからまともに身体を動かす時間を作っていなかった。鈍っていた心身がほぐれていき、底に眠っていた活力を呼び起こすようだった。瑛莉香の息遣いを聞きながら頂上へと続く草深い散歩道を歩いていく。

「……えーっと、多分こっちだよね」
 瑛莉香が辺りをキョロキョロと見回して指差したのは緩やかに流れる川だった。舞い落ちる葉を水面に漂わせ、無機質に転がる岩を掻き分ける。マイナスイオンの冷気に包まれた静穏な森林に響くせせらぎは妙に心地よかった。

 瑛莉香はつま先でサンダルの鼻緒を強く握りながら川へと続くぬかるんだ泥道を下っていった。
 勇太も彼女の後に続いた。片足を踏み出した途端スニーカーの底が滑り、心臓が飛び出そうになった。

 川間に平たい石がいくつか埋まり、向こうの歩道にまで繋がっていた。瑛莉香は躊躇うことなく川辺から長い脚を伸ばして一つ目の石段に上った。底の湿ったビーチサンダルにもかかわらず、バランスを崩すことなく軽快な足取りで反対側の川辺まで進んでいく。
 勇太は焦りながらも石の上に足をつけた。落ちまいとする執念が裏目に出て身体がギクシャクし、思わずバランスを崩した。すぐさま両手をついて四つ足で立った。こちらの様子を伺う瑛莉香の視線を感じ、耳が火照るのを感じた。

「勇太君、大丈夫ー?」
「…あっ、すみません…!今行きます…!」
 焦って体勢を立て直そうと恐る恐る背筋を伸ばすと、瑛莉香が勇太の下へ戻ってきた。白くて長い手先が目の前に差し伸べられた。

「いいよ、掴まって!」
 凛々しく直立した瑛莉香が微笑んだ。勇太は緊張しながらも、自分の指先を彼女のそれと重ね合わせた。手を握られたと同時に利き足を一歩踏み出し、瑛莉香に引っ張られた。足場が小さく、体幹の育ってない身体はまたもバランスを崩して瑛莉香の肩に手をついた。

「おとと、大丈夫?」
「…す、すみません…!」
 鼻筋の通った顔が勇太の視界を覆った。甘い匂いが香り、二重に割れた大きな瞳とさりげなく背中に回った片手の温もりに思わず意識を浮かされた。

「さすがに二人は狭いね。待ってて、先行くから」
 何事もなかったかのように瑛莉香は軽やかに石段を渡り、同じように勇太に手を貸してサポートした。



 川を渡り切ってから頂上まで、勇太は知覚したことをイマイチ覚えていなかった。ただただ時に前を、時に横を、悠長に歩く瑛莉香の姿だけが鮮明に焼き付いた。快活で毅然としていていながら、物腰の柔らかい微笑みと女性らしい繊細な気遣いが僅かな時間の中で勇太の心を十分に潤わせた。
 特段何か気の利いたことも出来ないまま、ゴツゴツとした岩の段差を不器用に上って街が一望できる頂上へとようやくたどり着く。
 節々を刺激する筋肉の疲労を感じながら、曇天の中に見える景色は美しかった。深緑の森林に正方形に区切られた無数の田畑、それを囲うように密集したミニチュアサイズの家々。決して都会には現れることのない澄んだ街並みが織りなす絶景が登山の疲れを一気に吹き飛ばした。

「わー!きれーい!」
 瑛莉香が感嘆した。360度見渡すことのできるパノラマに大きな瞳を燦然と輝かせていた。

「景色すごいね!」
 感想をこぼすたび温かい笑顔が勇太に向けられた。感情表現な下手なせいで、相変わらずぎこちない笑みを浮かべて返すことで精一杯だった。
 瑛莉香はもう一度前へ向き直ると、意地悪そうな笑みを一瞬浮かべて大きく息を吸い込んだ。

「ヤッホーーー!!!」
 両手で口元を囲って芯の通った透明な声を山頂から大きく放った。しかし同じ高さの山はなく、反響もしないまま美しい景色の中にその声は放物線を描いて落ちていった。

「……ふふ、なーんて。1回やってみたかったの」
 瑛莉香が苦笑した。やまびこが返らないことを理解しながら無邪気に興奮する彼女を可愛らしく思えた。
 それから十数分、景勝に浸りながら勇太は瑛莉香との時間を味わうように噛み締めた。



 美しい風景を余すことなく記憶に刻み、元来た道とは違うルートで下山した。互いに余韻に浸りながらの下山は沈黙が多いながらもどこか温もりを感じられた。
 勇太は悠々自適に足を進める瑛莉香の後ろをただただついていった。凹凸の激しい道に足をつける度に瑛莉香の長く伸びた髪が揺れ、引き締まったふくらはぎに浮き出る筋が美しかった。

「…だいじょぶ?」
 瑛莉香が小さく口角を上げながら後ろを歩く勇太を気遣った。ついて来れているかどうか確認されるのは少し恥ずかしかった。

「大丈夫です…!」
「うん、オッケー」
 瑛莉香はそう答えた瞬間、突然左側に身体を傾けた。勇太は驚いて思わず立ち止まった。目の前に片膝を立てて地面に座り込む瑛莉香が映った。

「…え、瑛莉香さん、大丈夫ですか…!?」
「いたたたたぁ…!……ごめん、バランス崩しちゃって…」
 瑛莉香は手についた泥を払って立ち上がろうとしたが、地面に吸い込まれるようにして再び座り込んだ。

「…いったぁ…!ごめん、足挫いちゃったみたい…」
 色白い左足首をさすりながら憂いを浮かべた表情を勇太に向けた。ビーチサンダルで登山道に臨んだ時点でケガの危険性は高かったが、案の定不安定な足場にやられて足首を変な方向に捻ってしまったみたいだ。
 勇太は緊張で身体が硬直したが、瑛莉香に肩を貸すことをすぐさま決意した。

「…あ…あの……良かったら掴まって下さい…!」
「あっ、ありがとう…!ごめんね。もう、サンダルでこういうとこ来ちゃダメだね」
 瑛莉香の右腕を自分の右肩に回し、ゆっくりと立ち上がった。彼女の体重を乗せながら、疲弊した太腿を強引に動かした。負傷した足首を悪化させないよう、瑛莉香の様子を気にかけながら一歩一歩静かに下っていく。首周りに感じる華奢な腕の感触と温かさが勇太の気持ちを密かに高ぶらせた。常にリードを続けてきた瑛莉香を今、自分が主体となって支えている。しおらしい毛先の痒みも耳元で抜けていく鼻息も、きっと旅を続けなければ感じられなかったかもしれない。一人の女性としての本田瑛莉香が少しずつ形を成していくその形容し難い感覚を、勇太は確かに感じていた。
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