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第4章 平野
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一台の青い中古車は薄暗い雲に覆われた空の下を颯爽と駆けていた。助手席の固いシートに身をうずめた勇太は、移り変わる景色を茫然と眺めていた。
今日もこうして素足にサンダルを履いた年上の美しい女性が運転する車で日常生活から逃れられるのが不思議だった。広大な海原を前に束の間の旅を終えるはずのその女性を引き留め、日常に返そうとしなかった。まだそう遠くに行ってない光景が勇太の脳裏に粘り付き、夜が明けても未だむせかえるように激しく神経を高ぶらせる。
初めてだった。誰の声も聞かず、都合も慮らず、ただ勢いに任せて誰かの心を突き動かしたのは。
そして同時に罪悪感と責任感、恥じらい、戸惑い、様々な感情が縦横無尽に暴れては衝突し、頭の中を容赦なく圧迫していった。本当に正しかったのだろうか。これで彼女の望む世界へと誘うことが出来るのだろうか。自分にその役割を果たせるのだろうか。
口を噤んで窓の外に映る景色を淡い瞳で捉え続けた。ここから先、瑛莉香とともにどこへ向かい何を目撃するのか、ただただ分からなかった。
「……ごめんね、勇太君」
濁った空気を静かに震わせたのは瑛莉香だった。勇太はゆっくりと顔を向けて彼女を見つめた。端正な容貌が憂色に染まり、二重の瞼は重たげに下がっている。
「昨日は色々と迷惑かけちゃったよね。ごめんね。忘れよう忘れようって、ずっと思ってたのに。やっぱり日常から逃げ出すって難しいね」
瑛莉香の声色は淡々としていた。小さくため息を吐いて、悔しさと諦念を含んだ笑みをそっと浮かべた。
「いえ………むしろ僕の方こそ……瑛莉香さんを巻き込んじゃってるような気がして…」
謙遜でもなく、本音だった。自分の一方的な気持ちで旅を引き延ばしたことがどう転ぶのか見当もつかず、自信はない。
「…ううん。勇太君の判断は正しいよ。まだ帰りたくないもん、私。もうちょっと勇太君と一緒に旅を続けたい」
雲の隙間から日差しが顔を覗かせるように、瑛莉香の表情に一縷の光が差し込んだ気がした。彼女の前向きな返答に、神経の興奮が少しだけ和らいだ。窓の外に向けられていた空虚な視線は彼女の横顔から太腿、つま先へと滑るように移った。
浜辺を歩いて以来、瑛莉香は薄紫色のビーチサンダルを履き続けていた。運転をしている今もそれを白い足指に突っかけて、ペダルを踏んでいる。勇太にとってはかけがえのないひと時だった。トングサンダルよりも僅かに露出度が高まり、妖艶さの増幅したビーチサンダルでの運転姿はより一層興奮を掻き立てるものだった。自らが果たした決断の副産物としてはこの上ない喜びだった。
車は木々に囲まれた一本の幅広い道路を走り抜ける。賑わいだ街から夕立の泥水を張った田んぼへ、大きく揺れる海から夏の生温かいそよ風に吹かれた森林へ、景色は瞬く間に勇太の目の前で変わっていった。気味の悪い曇天が深緑の山稜に浸かり、真夏の朝にしては薄暗かった。
交差点に差し掛かり、ウインカーが右向きの矢印で点滅し始めた。ハンドルを握る瑛莉香の目はいつもの輝きを取り戻し、期待で胸を膨らませていた。
目の前に立てられた看板の文字を正確に読み切る前に車体は思い切り右へ振れた。アクセルを奥まで踏み込む彼女の足に視線を取られているうちに車が広々とした駐車場へと進入していく。自然環境に囲まれたレジャー施設を揃える大公園だった。
「ひろーい!…ねぇ、どっから回ろっか」
駐車場に車を停め、入場ゲートをくぐった。ガイドマップを見つめる瑛莉香は溢れんばかりの期待を湛えた表情だった。
「…そ、そうですね…」
勇太はどのエリアからにするか決めきれなかった。地図上ではフラワーパークやアスレチック場、レストラン、キャンプ場などがそれぞれ区分けされているが、紙の隅々まで描かれたマップは実寸大だとどれくらいになるだろうか。1日で回り切れるものなのかも分からなかった。
ハッキリとした答えを出す前に、瑛莉香の細い人差し指がフラワーガーデンのエリアの上を滑った。
「あっ、私ここ行きたい!お花でも見ながら散歩しよ!」
フラワーパークのエリアまでたどり着いて間もなく視界に飛び込んできたのは、キバナコスモスの花畑だった。黄やオレンジの鮮やかな色彩が丘一面を飾り、薄暗い空に向かって真っすぐに伸びている。整えられた長い散歩道がジグザグに何度も折れ曲がり、多くの人々が悠長に咲き乱れるコスモスの花を眺め歩いていた。
「わ~、綺麗~!」
眼前に広がる風景を大きな瞳に映しながら、瑛莉香の声のトーンが一段階上がった。
「ねっ、早く行こっ!」
手招きされ、勇太はぎこちなく頷いた。瑛莉香の表情にかかった淀みは一気に雲散霧消して澄み切った笑顔が戻った。
蒸し暑い真夏の曇り空の下で、舗装されたアスファルトを瑛莉香と並んで道なりに歩き始めた。両脇で乱舞する幾輪ものキバナコスモスをロープ越しに捉えながらゆっくりと足を進めていく。汗ばんだダークブラウンの長髪に安物のジャージを纏い、履き慣らしたビーチサンダルを突っ掛けた格好にもかかわらず、瑛莉香の凛とした風采は一面の美麗な景色と遜色なかった。
「めっちゃすごいね~!私こういうとこ歩くの結構好きかも!」
その明るい声色から興奮している様子が伺えた。勇太は花に関しては何かの知識も関心もあるわけでもなかったが、瑛莉香との時間の中に植えられた花の美しさが鮮明に視界を覆った。
「…すごい綺麗ですよね」
勇太は恐る恐る感想を述べてみた。普段心の機微を口にする癖がないせいか、恥ずかしさで頬が火照った。
「ね~。来る予定なかったけど、来れてよかった!勇太君のおかげだよ!」
瑛莉香は破顔して勇太の方を振り向いた。勇太は照れるように笑い返した。
橙色に輝くキバナコスモスのエリアを抜け、差し掛かったのはヒマワリ畑だった。黄色の花びらを全方位に伸ばし、大きな葉を携えながら頑丈な茎を空へと伸ばして人の姿が隠れるほどの高さだ。瑛莉香の表情は一層明るみを増し、僅かに歩く速度が上がっていた。
「やばー!ヒマワリじゃん!」
エリアに入るやいなや、瑛莉香が左右に首を振って両脇に咲く数多のヒマワリに目を向けた。勇太にとっても馴染みのある花だが、自分の身長よりも高い位置に花の顔が来ていることに驚いた。
「わ~。めっちゃ綺麗~」
瑛莉香は恍惚の眼差しを一輪一輪に向けながら足を進めた。夏の代表とも言える花は時折吹き付ける生温かい風に揺られながらも、太陽のごとく逞しく輝かしい姿で辺り一面を鮮やかに覆っていた。
「…私さ、ヒマワリめっちゃ好きなんだよね」
唐突に瑛莉香が静かに喋り出した。勇太は視線を瑛莉香の横顔に向けた。
「綺麗なのはもちろんそうなんだけど、花言葉がなんかいいなって」
「…花言葉…ですか…?」
花言葉。雑学系のテレビ番組で何度か目にしたことはあったが、特段興味を持ったわけでもなく、何の花が何の意味を持つのかなど覚えていなかった。知的で毅然とした瑛莉香の女性らしいロマンチックな一面が見えた気がした。
「勇太君はヒマワリの花言葉、知ってる?」
「…あっ…いや…全然知らないです…」
勇太が申し訳なさそうに控えめな返事をするのを想定していたのか、意地悪そうに微笑んで言葉を続けた。
「でね、ヒマワリの花言葉はね、”憧れ”なんだって」
「…憧れ……」
勇太は花言葉を聞いてもピンと来なかった。ロマンは感じるものの、いつも花と言葉の意味が頭の中で結びついた試しがない。やはり女性の感性をしっかりと理解することは自分には難しいのではないかと、少しだけ心が疼いた。
「憧れ……とか、あとは”あなたを見つめる”とか?……なんか良くない?」
瑛莉香の言葉に勇太はギクシャクとしながら賛同した。そんな様子を見た瑛莉香が小さく吹き出すように笑った。
「…って、男の人は花言葉とかそんな興味ないよね」
「…あっ…いえ…すみません…!」
変に気を遣わせてしまったと思い、勇太は慌てて反応した。
「ううん、いいのいいの。でもなんか、素敵じゃない?こんなに綺麗で、元気で、堂々としてる花を、”憧れ”って例えるの。確かにいつもこうやって大きな花を咲かせて、色んな人を笑顔にさせて、でも雨風が吹いても簡単に折れずに、凛々しく物静かに佇んでるっていう。ヒマワリらしい花言葉だよね」
瑛莉香は歩く速度を落としながら前方を見据えて語った。花を見てただ綺麗だから好きというわけではなく、花の持つ意味を理解した上で愛着を持っていることに瑛莉香の知性が現れている気がした。不本意ながらも受験勉強や読書を人一倍重ねてきた彼女の過去を知ったせいか、自分自身の野暮ったさに後ろめたい気持ちを覚えた。
「憧れ……うん、いいなぁ。私もいつも何かに憧れてきたし、羨んできたし、自分が持ってないものを持ってる人ってすごいなぁって思うんだよね」
瑛莉香の、自分以外の誰かに対する漠然とした憧れが今となっては理解できた。散々葛藤を繰り返してきた彼女には、きっと大したことのないありきたりな人生でも余計なものがない澄んだ心地の良いものだったのかもしれない。「すごい」という気持ちは尊敬の念ではなく、自分自身が平凡で単純な世界で生きることを許してほしいSOSでもあるのだろうと。
「…瑛莉香さんの憧れって…やっぱり普通の人生なんですか…?」
「んー……まぁ、そうかも。普通っていうのもまた定義が難しいけど、でも本当によくあるような人生?…とりあえず行きたくもないような大学行かされんのはヤダよ?」
瑛莉香は自嘲気味に吹き出した。自分の歩んできた人生が瑛莉香にとってどれくらい羨望出来るものなのか分からないが、もしかしたら自分の荒み切った人生も誰かにとってはある種の理想形だったりするのかもしれない。
「ほんと、法律とか学んだって…………きゃっ!」
突然、瑛莉香が甲高い声を発した。間髪入れずに細い腕が絡みつき、全身が膨らんだ胸の方へと強く引き寄せられ、心臓が飛び上がった。
目の前を大きなクマバチが横切り、ヒマワリ畑の中へと潜り込んでいった。
「………行った…?」
ものの数秒、色白い素肌と柔らかな胸の感触、荒くなった鼻息が勇太の全身を包み込んだ。恐る恐る顔を上げた瑛莉香は不安に満ちた瞳を四方八方に忙しなく向け、安堵のため息をついた。腕の力が弱まって開放されても、勇太の心拍数は極限まで上がっていた。
「…はぁ…ごめん急に飛びついちゃって…!私あんま虫得意じゃなくて…」
瑛莉香は乱れた呼吸を整わせるようにその場に立ったまま胸に手を当てた。勇太は愛想笑いを浮かべたものの、突然のことで処理が追いつかなかった。
瑛莉香に初めて抱きつかれた瞬間だった。ハッキリと、鮮明に、半袖のシャツを通した汗ばむ素肌に彼女の感触が残っている。色鮮やかだったヒマワリ畑が霞んでいき、瑛莉香の姿だけが切り取られたように浮かび上がっていった。
今日もこうして素足にサンダルを履いた年上の美しい女性が運転する車で日常生活から逃れられるのが不思議だった。広大な海原を前に束の間の旅を終えるはずのその女性を引き留め、日常に返そうとしなかった。まだそう遠くに行ってない光景が勇太の脳裏に粘り付き、夜が明けても未だむせかえるように激しく神経を高ぶらせる。
初めてだった。誰の声も聞かず、都合も慮らず、ただ勢いに任せて誰かの心を突き動かしたのは。
そして同時に罪悪感と責任感、恥じらい、戸惑い、様々な感情が縦横無尽に暴れては衝突し、頭の中を容赦なく圧迫していった。本当に正しかったのだろうか。これで彼女の望む世界へと誘うことが出来るのだろうか。自分にその役割を果たせるのだろうか。
口を噤んで窓の外に映る景色を淡い瞳で捉え続けた。ここから先、瑛莉香とともにどこへ向かい何を目撃するのか、ただただ分からなかった。
「……ごめんね、勇太君」
濁った空気を静かに震わせたのは瑛莉香だった。勇太はゆっくりと顔を向けて彼女を見つめた。端正な容貌が憂色に染まり、二重の瞼は重たげに下がっている。
「昨日は色々と迷惑かけちゃったよね。ごめんね。忘れよう忘れようって、ずっと思ってたのに。やっぱり日常から逃げ出すって難しいね」
瑛莉香の声色は淡々としていた。小さくため息を吐いて、悔しさと諦念を含んだ笑みをそっと浮かべた。
「いえ………むしろ僕の方こそ……瑛莉香さんを巻き込んじゃってるような気がして…」
謙遜でもなく、本音だった。自分の一方的な気持ちで旅を引き延ばしたことがどう転ぶのか見当もつかず、自信はない。
「…ううん。勇太君の判断は正しいよ。まだ帰りたくないもん、私。もうちょっと勇太君と一緒に旅を続けたい」
雲の隙間から日差しが顔を覗かせるように、瑛莉香の表情に一縷の光が差し込んだ気がした。彼女の前向きな返答に、神経の興奮が少しだけ和らいだ。窓の外に向けられていた空虚な視線は彼女の横顔から太腿、つま先へと滑るように移った。
浜辺を歩いて以来、瑛莉香は薄紫色のビーチサンダルを履き続けていた。運転をしている今もそれを白い足指に突っかけて、ペダルを踏んでいる。勇太にとってはかけがえのないひと時だった。トングサンダルよりも僅かに露出度が高まり、妖艶さの増幅したビーチサンダルでの運転姿はより一層興奮を掻き立てるものだった。自らが果たした決断の副産物としてはこの上ない喜びだった。
車は木々に囲まれた一本の幅広い道路を走り抜ける。賑わいだ街から夕立の泥水を張った田んぼへ、大きく揺れる海から夏の生温かいそよ風に吹かれた森林へ、景色は瞬く間に勇太の目の前で変わっていった。気味の悪い曇天が深緑の山稜に浸かり、真夏の朝にしては薄暗かった。
交差点に差し掛かり、ウインカーが右向きの矢印で点滅し始めた。ハンドルを握る瑛莉香の目はいつもの輝きを取り戻し、期待で胸を膨らませていた。
目の前に立てられた看板の文字を正確に読み切る前に車体は思い切り右へ振れた。アクセルを奥まで踏み込む彼女の足に視線を取られているうちに車が広々とした駐車場へと進入していく。自然環境に囲まれたレジャー施設を揃える大公園だった。
「ひろーい!…ねぇ、どっから回ろっか」
駐車場に車を停め、入場ゲートをくぐった。ガイドマップを見つめる瑛莉香は溢れんばかりの期待を湛えた表情だった。
「…そ、そうですね…」
勇太はどのエリアからにするか決めきれなかった。地図上ではフラワーパークやアスレチック場、レストラン、キャンプ場などがそれぞれ区分けされているが、紙の隅々まで描かれたマップは実寸大だとどれくらいになるだろうか。1日で回り切れるものなのかも分からなかった。
ハッキリとした答えを出す前に、瑛莉香の細い人差し指がフラワーガーデンのエリアの上を滑った。
「あっ、私ここ行きたい!お花でも見ながら散歩しよ!」
フラワーパークのエリアまでたどり着いて間もなく視界に飛び込んできたのは、キバナコスモスの花畑だった。黄やオレンジの鮮やかな色彩が丘一面を飾り、薄暗い空に向かって真っすぐに伸びている。整えられた長い散歩道がジグザグに何度も折れ曲がり、多くの人々が悠長に咲き乱れるコスモスの花を眺め歩いていた。
「わ~、綺麗~!」
眼前に広がる風景を大きな瞳に映しながら、瑛莉香の声のトーンが一段階上がった。
「ねっ、早く行こっ!」
手招きされ、勇太はぎこちなく頷いた。瑛莉香の表情にかかった淀みは一気に雲散霧消して澄み切った笑顔が戻った。
蒸し暑い真夏の曇り空の下で、舗装されたアスファルトを瑛莉香と並んで道なりに歩き始めた。両脇で乱舞する幾輪ものキバナコスモスをロープ越しに捉えながらゆっくりと足を進めていく。汗ばんだダークブラウンの長髪に安物のジャージを纏い、履き慣らしたビーチサンダルを突っ掛けた格好にもかかわらず、瑛莉香の凛とした風采は一面の美麗な景色と遜色なかった。
「めっちゃすごいね~!私こういうとこ歩くの結構好きかも!」
その明るい声色から興奮している様子が伺えた。勇太は花に関しては何かの知識も関心もあるわけでもなかったが、瑛莉香との時間の中に植えられた花の美しさが鮮明に視界を覆った。
「…すごい綺麗ですよね」
勇太は恐る恐る感想を述べてみた。普段心の機微を口にする癖がないせいか、恥ずかしさで頬が火照った。
「ね~。来る予定なかったけど、来れてよかった!勇太君のおかげだよ!」
瑛莉香は破顔して勇太の方を振り向いた。勇太は照れるように笑い返した。
橙色に輝くキバナコスモスのエリアを抜け、差し掛かったのはヒマワリ畑だった。黄色の花びらを全方位に伸ばし、大きな葉を携えながら頑丈な茎を空へと伸ばして人の姿が隠れるほどの高さだ。瑛莉香の表情は一層明るみを増し、僅かに歩く速度が上がっていた。
「やばー!ヒマワリじゃん!」
エリアに入るやいなや、瑛莉香が左右に首を振って両脇に咲く数多のヒマワリに目を向けた。勇太にとっても馴染みのある花だが、自分の身長よりも高い位置に花の顔が来ていることに驚いた。
「わ~。めっちゃ綺麗~」
瑛莉香は恍惚の眼差しを一輪一輪に向けながら足を進めた。夏の代表とも言える花は時折吹き付ける生温かい風に揺られながらも、太陽のごとく逞しく輝かしい姿で辺り一面を鮮やかに覆っていた。
「…私さ、ヒマワリめっちゃ好きなんだよね」
唐突に瑛莉香が静かに喋り出した。勇太は視線を瑛莉香の横顔に向けた。
「綺麗なのはもちろんそうなんだけど、花言葉がなんかいいなって」
「…花言葉…ですか…?」
花言葉。雑学系のテレビ番組で何度か目にしたことはあったが、特段興味を持ったわけでもなく、何の花が何の意味を持つのかなど覚えていなかった。知的で毅然とした瑛莉香の女性らしいロマンチックな一面が見えた気がした。
「勇太君はヒマワリの花言葉、知ってる?」
「…あっ…いや…全然知らないです…」
勇太が申し訳なさそうに控えめな返事をするのを想定していたのか、意地悪そうに微笑んで言葉を続けた。
「でね、ヒマワリの花言葉はね、”憧れ”なんだって」
「…憧れ……」
勇太は花言葉を聞いてもピンと来なかった。ロマンは感じるものの、いつも花と言葉の意味が頭の中で結びついた試しがない。やはり女性の感性をしっかりと理解することは自分には難しいのではないかと、少しだけ心が疼いた。
「憧れ……とか、あとは”あなたを見つめる”とか?……なんか良くない?」
瑛莉香の言葉に勇太はギクシャクとしながら賛同した。そんな様子を見た瑛莉香が小さく吹き出すように笑った。
「…って、男の人は花言葉とかそんな興味ないよね」
「…あっ…いえ…すみません…!」
変に気を遣わせてしまったと思い、勇太は慌てて反応した。
「ううん、いいのいいの。でもなんか、素敵じゃない?こんなに綺麗で、元気で、堂々としてる花を、”憧れ”って例えるの。確かにいつもこうやって大きな花を咲かせて、色んな人を笑顔にさせて、でも雨風が吹いても簡単に折れずに、凛々しく物静かに佇んでるっていう。ヒマワリらしい花言葉だよね」
瑛莉香は歩く速度を落としながら前方を見据えて語った。花を見てただ綺麗だから好きというわけではなく、花の持つ意味を理解した上で愛着を持っていることに瑛莉香の知性が現れている気がした。不本意ながらも受験勉強や読書を人一倍重ねてきた彼女の過去を知ったせいか、自分自身の野暮ったさに後ろめたい気持ちを覚えた。
「憧れ……うん、いいなぁ。私もいつも何かに憧れてきたし、羨んできたし、自分が持ってないものを持ってる人ってすごいなぁって思うんだよね」
瑛莉香の、自分以外の誰かに対する漠然とした憧れが今となっては理解できた。散々葛藤を繰り返してきた彼女には、きっと大したことのないありきたりな人生でも余計なものがない澄んだ心地の良いものだったのかもしれない。「すごい」という気持ちは尊敬の念ではなく、自分自身が平凡で単純な世界で生きることを許してほしいSOSでもあるのだろうと。
「…瑛莉香さんの憧れって…やっぱり普通の人生なんですか…?」
「んー……まぁ、そうかも。普通っていうのもまた定義が難しいけど、でも本当によくあるような人生?…とりあえず行きたくもないような大学行かされんのはヤダよ?」
瑛莉香は自嘲気味に吹き出した。自分の歩んできた人生が瑛莉香にとってどれくらい羨望出来るものなのか分からないが、もしかしたら自分の荒み切った人生も誰かにとってはある種の理想形だったりするのかもしれない。
「ほんと、法律とか学んだって…………きゃっ!」
突然、瑛莉香が甲高い声を発した。間髪入れずに細い腕が絡みつき、全身が膨らんだ胸の方へと強く引き寄せられ、心臓が飛び上がった。
目の前を大きなクマバチが横切り、ヒマワリ畑の中へと潜り込んでいった。
「………行った…?」
ものの数秒、色白い素肌と柔らかな胸の感触、荒くなった鼻息が勇太の全身を包み込んだ。恐る恐る顔を上げた瑛莉香は不安に満ちた瞳を四方八方に忙しなく向け、安堵のため息をついた。腕の力が弱まって開放されても、勇太の心拍数は極限まで上がっていた。
「…はぁ…ごめん急に飛びついちゃって…!私あんま虫得意じゃなくて…」
瑛莉香は乱れた呼吸を整わせるようにその場に立ったまま胸に手を当てた。勇太は愛想笑いを浮かべたものの、突然のことで処理が追いつかなかった。
瑛莉香に初めて抱きつかれた瞬間だった。ハッキリと、鮮明に、半袖のシャツを通した汗ばむ素肌に彼女の感触が残っている。色鮮やかだったヒマワリ畑が霞んでいき、瑛莉香の姿だけが切り取られたように浮かび上がっていった。
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