ユーズド・カー

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第3章 海

3-1

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 狭い湾岸道路を抜けた先には広大な海が広がっていた。悠々とたゆたう紺碧の水面を湛え、巨大な入道雲を浮かべた波の上を、それよりも色褪せた青の中古車が颯爽と駆け抜ける。長く伸びた海上の高速道路には幾台の車が一定の間隔で連なり、無味乾燥としたコンクリートの上を滑らかに走っていた。

「やば!きれーい!」
瑛莉香の感嘆する声が湧き、勇太も助手席側から外を覗いた。燦々と降り注ぐ太陽の光を波間に浮かべながら水平線の向こうまで鮮やかな青で一色に染めた海。商業施設や住宅に囲まれた窮屈な都市部から解放され、夏らしい爽やかな景勝が勇太の瞳に眩い色を付けた。瑛莉香は前を走る車に注意を向けながらも、高揚した様子で両脇に広がる壮大な海に忙しなく目を向ける。心なしかアクセルを踏む彼女の透き通った素足が勢いづき、車が一段加速したように感じた。

「わ~、こんなとこでドライブ出来るなんて最高~」
上機嫌な彼女の口からポロポロと言葉が漏れ出し、怜悧で凛とした普段の姿から覗ける無邪気な一面に心を惹かれる。勇太は特段の感情表現もなく沈黙していたものの、瑛莉香と目撃する一瞬一瞬の景色はやはり特別に思えた。


 車は高速道路を一直線に走り抜け、海洋の真ん中に浮かぶ孤島に辿り着いた。そこは全方位を海に囲まれたパーキングエリアだった。レジャースポットとして有名なのか、車は長い列をなし、赤いテールランプが息をつく暇もなく光り続けている。

「うわー、混んでるね~」
膨らんだ胸元をハンドルに押し当てて、瑛莉香が脱力するように呟いた。

「あっ、ここでちょっと休憩しつつご飯食べたり景色眺めたりするね!」
「…は…はい…!分かりました…!」
勇太がぎこちなく返事をする。正午より少し手前。腹に入れたサンドイッチが胃液で溶かされて食欲が再び湧き出てくる頃だった。




 渋滞を抜け出して駐車場内へと進入し、瑛莉香が停車できるスペースを大きな瞳を四方八方に配って探し当てた。
 車体を斜めに振って体勢を整えると、助手席に左手を回して後方を覗き込んで車をバックさせた。朝につけ直したラベンダーの香水の匂いが仄かに伝わり、勇太は少しだけ緊張した。


「…さて、まずは美味しいご飯でも食べよっか!いい時間だし」
軽やかな手捌きで駐車を終えると、瑛莉香はドアミラーを畳んでエンジンを切り、シートベルトを外した。勇太はぎこちなく返事をし、シャツの上に薄手のガウンを羽織った彼女の愛車を後にして店内へと入っていった。


 空調の効いた涼しい風で肌を纏う熱を放散しながら、勇太は瑛莉香とともにフードコートのある場所まで辿り着いた。食事を堪能しながらガラス越しに海を一望できるこの憩いの場には正午を回ったせいもあってか多くの客でごった返していた。
 瑛莉香はゆっくり歩きながら各方位に首を向けた。そして二人分の空席が視界に入ると勇太を手招きし、歩く速度を少し上げて座席へと向かっていった。

 二人は長テーブルの一番端にある席にお互い向かい合う形で落ち着いた。海を展望できる窓側から一番離れていたものの、一列に立ち並ぶ店舗に近かった。座りながらでもどこに行くか決めることが出来たところは都合が良い。

「…勇太君は決まった?」
各店舗の看板を一通り大雑把に見た後、瑛莉香が問いかけた。

「…あっ、はい…!一応…」
「うん、じゃあ先に行ってきていいよ!私ここで待ってるからさ」
瑛莉香はそう告げると財布からおもむろに千円札を取り出した。

「はいこれ。足りなかったらごめんね」
「…えっ…いや…そんな…」
瑛莉香の気前のいい振る舞いに思わずたじろいだ。振り返ってみても最初に出会ったカフェを除いて、全て瑛莉香の出費だった。

「やだ、今更遠慮しなくていいって。ご飯ぐらい」
長い指先で皺のついた札を挟む手が、温もりに満ちた笑みとともに勇太の前に差し出される。勇太は罪悪感に呑まれながらもお金を受け取り、席を立ちあがって目的の店に向かって歩き出した。


「お帰り~。どれにしたの?」
「…あっ…えと…あそこの塩ラーメンです…!」
呼び出しベルを片手に席に戻るやいなや、瑛莉香の問いかけに対して後方を指さして答えた。

「塩ラーメンか!いいね!私もそうしよっかな~。買ってくるね!」
瑛莉香は手のひらを軽く左右に振って軽やかな足取りでラーメン屋へと向かった。

しばらくして勇太と瑛莉香の順番に呼び出しベルが机の上で振動し、割り箸と紙コップに入った水をセットにして席に戻った。あさりが複数入った塩ラーメンが二つ、向き合う二人の目の前で湯気をゆっくりと湾曲させて宙に放っていく。

「いただきま~す」
瑛莉香が割り箸を両手指の関節に挟んで容器へ顔を近づけた。勇太もそれに倣って習慣のない言葉をボソボソと口にしながら頭を上下に軽く振った。割り箸を左右非対称に割った瑛莉香は前に垂れる髪を空いた方の手で押さえながら掴んだ麺を冷まし、丁寧に口へと運んだ。

「んー!美味しい~」
塩味の利いた柔らかい細麺を噛み締めながら、口元を指先で抑えて感想をこぼす。勇太も一口すすってスープの絡んだ麺を塩と脂に飢えた舌で味わった。

「勇太君、良いチョイスするね!」
「…い、いえ…そんな…」
瑛莉香は勇太を大げさに褒めてあさりの身を殻から剥ぎ取った。思えば自分は今、瑛莉香と同じものを食べている。男女二人が味も中身も全く同一のものを口に運ぶ様子はただの恋人同士だと思われてもおかしくはない。彼女の性格上、立ち並ぶ店舗の多さに辟易して素早く決めただけだと解釈するのが自然であったが、お揃いの品を食事することが出来たことは勇太にとって決して意味がないものではないように思えた。




 昼食を終えて二人は再び照り付ける日差しの下に全身を晒した。購入したばかりの三色のヨーグルトジェラートを片手に吹き抜けのデッキを軽く散策し、大海原を展望できる屋上へと足を運んだ。淀みを根こそぎ洗い流したように澄み切った青空の下、海から吹き付ける風が潮の香りとともに頬を撫ぜた。

「えー、めっちゃ綺麗~!」
瑛莉香が周囲を見渡しながら声のトーンを上げた。果てしなく続く水面に心酔しながら眺め歩き、鮮やかなブラウンで塗装されたベンチを見つけて腰かけた。

「ふぅ…」
瑛莉香が一息ついてからしばらく沈黙が流れた。夏の暑さを押し出すように吹く潮風、酸味と冷たさで麻痺した舌、何にも阻害されずに揺れる紺碧の大海、彼女の白い素肌から香る心地よい匂い、口に含んだジェラートを味わい噛み締める音、ガウン越しに伝わる彼女の体温。広大な景色の前で興奮に滾る神経を癒すように、勇太は悠然と流れる時間に身を委ねた。

「…勇太君って家族でこういうとこ来たことある?」
瑛莉香が口を開いて沈黙を破った。勇太は視線を落として過去の記憶を想起した。

「…あんまり無いですけど、出かけに行くことは多かったです。……高校入ってからはほとんど無いですけど…」
「そっか~。いいなぁ…」
瑛莉香がふと肩をすくめる。そしてピンク色に染まるプラスチックの小さなスプーンでジェラートをすくって口の中に閉じ込め、言葉をつづけた。

「私あんまそういう旅行とかなかったの。父親が仕事人間で、ちゃんと遊んでもらったことなかったんだよね~」
ジェラートを溶かす瑛莉香の口から不意に家庭の話がこぼれ出し、勇太は一瞬だけ動揺した。

「…そ、そうだったんですか…?」
「うん。父親が今、地銀の常務取締役で。私が生まれる前までは全然ヒラだったらしいけど、そこから割とバリバリやってたらしくてさ。物心ついてからは残業も多いし出張も頻繁で、家で母親と二人で過ごす時間がすごい多かったの」
瑛莉香の語調が強くなった気がした。それと同時に、またも彼女の”階層”を前に劣等感が湧き出した。

「…常務って、すごいですね…!」
銀行の人事の知識など皆無だったが、組織の役員であることだけは朧げに記憶していた。

「でもさ、言うて地銀じゃん?私はそんなすごいとは思わないんだよね。大学の同級生の親とかもっとヤバかったし。それこそ大病院の院長とか中央省庁の部長とか」
瑛莉香はさっぱりとした様子で言い切った。父親に対する嫌悪感を募らせているようなぶしつけな物言いだったが、大学入試の話や重なる出費に対する寛容で気前のいい振る舞いにも合点が行った。所謂「お嬢様」「エリート」なのだろうと。そして自分自身とはスタート地点からして何もかもが対照的だと改めて思い知った。

「私は……ほら、なんていうの?こうやって美味しいものを食べて、ドライブして、綺麗な景色を見て、色々な人と色々な会話をしてっていう、そういうことの方が幸せに思えるんだよね。そういう意味で、勇太君との時間だって私にとってはすごい大切だし、すごい幸せなものだよ」
背をもたれた瑛莉香は張り詰めた糸を緩めるように穏やかな笑みを浮かべた。

 形容し難い複雑な気持ちで勇太の顔の筋肉が強張った。瑛莉香の幸せとは、勇太にとって散々憧れても上手くつかみ取ることの出来なかったものだ。日々の冴えない人間関係や同調されることのない感性、さして際立つこともなかった能力。それ故か、何気ない食事も旅行も会話も、全て忌々しい人種たちが人生を謳歌するための一手段という印象でしかなかった。瑛莉香はそんな若者としての課題を難なくクリアし、その上で希少性の高い存在として煌々とした22年間を過ごしてきたはずだ。瑛莉香にとっての非日常が勇太にとっての日常だとしたら、瑛莉香の追い求めるそれは自分自身が忌み嫌ってきたものとでもいうのだろうか。思い出すたび心に鈍痛を呼び起こす苦い記憶たちが、瑛莉香にとって何か特別な価値をもたらすとでも言うのだろうか。

「…でも普通に、瑛莉香さんは僕が欲しいものを全部持ってる気がします…」
彼女の顔色を伺いながら、彼女を真似るようにしてフォローを試みた。
「えー、そうかなぁ?」ととぼけながらも効いたのか、緩んだ頬が一層脱力したように見えた。

「…でも私みたいなのは大変だよ。勇太君は勇太君で素敵なの持ってるんじゃない?」
いつもの調子で気遣いに気遣いで返す彼女の毅然とした姿がまたしても輝いて見える。謙遜して再びフォローを入れようと思ったが、埒が明かなくなるだろうと愛想笑いで返して済ませた。

「まぁどっちにしろ、今が楽しければ何でも良し、だよ!……犯罪はダメだけどね」
瑛莉香はそう付け加えて小さく吹き出した。

 常に輝きを失うことのない彼女の真実がまた少し顔を覗かせた。周囲からさしたる期待も特段の付加価値も与えられたことがなかった勇太にとって、瑛莉香の追求する「非日常」が少しだけ理解できたような気がした。
 本田瑛莉香という才色兼備な女性のベールが秒針とともに少しずつ削られていっているように思えた。
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