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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

モンブラン

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 部員も消えた美術室で、大迫おおさこ季李きい鷺池さぎいけ幸二だけが椅子にも座らず残っていた。もう日暮れだ。

「で、信じる?」

 と言う鷺池の言葉に彼女は頬を膨らます。二人は家一軒離れた幼馴染だ。とはいっても、この島でも誰も彼もが学校の幼馴染だ。

「絶対違う。そんな雰囲気じゃなかったから。従姉だったらもっと雰囲気とか似てるもんだし。なんかあるのよ絶対」

「半年前の幽霊もか?」

「多賀岬にいたんだって。髪の長い女の人と。それであのお化け病院に入ったと思ったらいなくなって」

「それ、わざわざ見に行ってたんだろ」

「違うわよ! 岬の方からスケッチしたいなって行っただけ。それで偶然見つけたの」

 五月の日は長い。ゆっくりと窓枠の影を伸ばしながら室内を限りなく水平に照らしてゆく。

「でもさ、もうミツハルのことあきらめたら? キイのこと少しでも気になってんだったら部活にもちょっとは顔出すだろ」

「そいうのじゃないって。三年生最後の制作なのに。それくらい真面目にやって終わって欲しいんだって。悔しいけど私の画力じゃ負けてるし」

「ま、俺もそれくらいだったら伝言出来るけど」

「いい。自分で言うから。ゴメンね。練習抜けて来てくれて」

 彼はおどけたように左右へ首を振り、

「じゃあ、怒られに戻るわ。お前も早く帰れよ」



 相楽さがらがホテルへ着いたと聞き、三分待たせて夏雪なゆきはドアを出た。

「先生ゴメンなさい。お風呂のあと、着替えてなかったもので」

「いや、いいんです。上がりましょうか」

 診察カバンを持った相楽と彼女を乗せ、エレベーターは五階に向かう。

「今日の食事は?」

「朝はホテルの朝食でトーストとサラダとゆで卵。それからお昼はシミズっていう喫茶店でカレー。夜も同じくでナポリタンとコンソメスープ」

 あごに人差し指を当てて夏雪が答えると、彼はさっとメモを取り、

「毎回、タンパク質と炭水化物は取ってください。食物繊維も便通のために多目に。ビタミン類は気休めでフルーツなど取ってください」

「そういえば、あの下剤。今回も同じなんですか。すごく味が苦手で」

「あれが得意な人はいません。それでも効果は絶大ですから。覚悟していてください」

 お互いに苦笑いを交わして、ふっと静けさが襲う。それを破るのは相楽だ。

「それで、やっぱり理由は教えて頂けませんか。あくまで私個人の興味ですので、それで研究がどうこうという話ではないのですが」

 彼女はペットボトルのミネラルウォーターのキャップをひねり、

「それは――」

 ひと口飲んで続ける。

「最初に申し上げたでしょ? お金が必要なんです。ある人のために」

「あなたは全国で登録された被験者の候補の中から、何重もの選抜を受けて十四人残った人間の一人です。まずは健康な二十代の男女。病歴・既往症を持たないこと。それからいちばんは親族の有無。これは被験者がこの研究に参加するためいくつもの承諾書を得る手間暇の発生を抑えることが目的でした。そしてあなたはその条件に適った。膨大なリスクのある実験内容にも承諾した。やがて実験から解放されれば高額の報酬も受け取れる。なのにあなたは期限を決めなかった。それが不思議なんです。誰かのためであれば尚更」

 彼女は相楽の言葉を上の空で聞いていたが、すぐに短く答える。

「私は、先生の研究そのものを信用しているだけです」

「そう――ですか。分かりました。これ以上の追及はやめましょう。ところで今回の中途覚醒は一週間。残りは四日ですが特に望みはありましたか。ああ、バイクの件がありましたね。明日の朝、ホテルに届きます。鍵はフロントへ預けるように言ってます」

 彼女はもう一度ペットボトルを傾け、

「他には、そうですね。日曜日、ミツハ君とタンデムツーリング出来れば」

「それはあなたがヘルメットを二つ、と仰った時から分かってましたよ。ただ、心配ではあるので私も車で伴走させてもらいます。これは実験継続の条件です。よろしいですか」

 彼女は充分に間を持たせ、

「ええ、もちろんです」

 相楽はそれで諸々を納得するしかなく、カバンを手に立ち上がった。そこへ、

「先生。この期間であればアルコールは?」

「ほどほど、ならばOKです。では、おやすみなさい」

 午後十一時を待って彼女はコンビニへ出向き、安いワインを買う。島のコンビニは十二時に閉まる。
 部屋へ戻ると薄く黄色に色づいたワインを開け、色気のないホテルのコップへ注ぐ。それをひと息に煽ると三年前を思い出す。

 モンブラン――。

 フランスとイタリアの国境をまたぐ、標高五千メートルに手が届きそうなヨーロッパアルプスの最高峰。山頂は常に白く雪を被り、登山者も多く、また多くの死傷者を出している。

 夏雪の五つ年上の恋人は登山家だった。初めはツーリング中の何もない山のふもとで偶然出会った。一瞬で話が合う相手だとお互いに理解した。三年前、現地ガイドなしのモンブラン登頂を四人のパーティで決行し、そして晴天にもかかわらず足元を見失いクレバスへ滑落した。捜索隊の手の届かぬところまで。遺体は今も発見されていない。

 彼女は一年、二年と悲しみに暮れた。仕事も一年で辞め、この先どうなっても構わないという理由だけで、那須中央大学の被験者募集へ応募した。そのことすら忘れていた半年後、ポストに赤い封書で通知が入っていた。難しい話は分からなかったが、そこには光が見えた。この身体一つを実験に差し出すだけで多額の報酬が入るという。しかも内容はいたって簡単。彼女はすぐに連絡を入れた。ハイバネーションクーリングという希望の響きと共に。
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