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10・I LOVE YOU-②
しおりを挟む「どうやって出たらいいと思う?」
一階ロビーで、ニーナがやはり不安な顔を見せた。フロントで鍵を返すとビール代を請求された。ポケットに有り余る小銭で支払った。
「どうって――普通に出るしかないと思うけど」
僕も不安だ。時刻は午前十時。出口から外の光が漏れている。覚悟を決めるしかない。
「出よう――」
ニーナの手を引いて、素早く自動ドアを抜けた。重くて厚いシートをかき分けて表へ出ると朝の街。どちらからともなく走り始めた。手をつないだまま、どこまでも走った。赤と金縁の飾りの多い中華街を抜けて、行商の並ぶ電車通りまでの路地を抜けて、ギターケースを振り回して、バーガーショップの前まで来るとようやく足を止めて、顔を見合わせると二人で笑った。
「どうする? 僕はいつ帰ってもいいから。朝ごはんでも食べようか。まだ昨日のチップ残ってるから」
「ううん。私はいい。お昼にはパパも帰ってくるし。それまでに戻らなきゃ」
胸の奥が針で突かれる。
「明日――会えるかな」
頼りない僕の声が、騒々しくなってきた街中の隅に落ちる。ビルの影の中で。
「駅にいる?」
「分からない。雨が降ると対処できないから。でも、夜はこっちにいるよ」
「じゃあ、抜け出してくる。一時間くらいだけど」
「八時にはいるから」
タイムアップの刻限がやってきたようだ。僕は彼女の首筋の香りを思い出す。
「あのさ、ニーナ――」
彼女は透き通る瞳で僕を見つめ返す。
「うん」
「三月まででいい。ニーナのこと、好きでいさせてくれないかな」
路面電車が信号で止まるブレーキ音に紛れて、
「私もそうする。いつか終わる約束っていうのもいいよね」
彼女は聞き取れないほどの小声で何か言うと、横断歩道へ向かって駆け出した。
「昨夜はありがとう! またね!」
そう言って手を振る彼女を、僕はコートのポケットへ手を入れたまま見送った――。
家へ帰ったのは正午。玄関先に戻った僕の姿を認めた母が、静かな口調で言う。
「あんた。今日は必ず家におりなさいよ。お父さんから話のあるとやけん」
僕は答えず、ギターを抱えて二階へ上がる。
弟が友達を呼んでゲームをしていた。僕は構わず布団を引っ張り出して包まる。ゲームの電子音が子守歌になり、夕方まで眠った。
日曜日の夕食には家族八人が揃う。狭い食卓に大皿が並ぶ。
家族には、一つの空気がある。決めるのはたいてい父だった。そのお株を最近の僕は奪っている。ただし、今夜は父にその権限があるらしい。
食事の終わりを見計らって、すでに焼酎の湯割りを飲んでいた父が口を開く。
「尋生は、学校はどうするつもりとか。田中先生と話したとか」
まずは穏やかな調子で尋ねてくる。四番目の弟と五番目が雰囲気を読んで、茶碗を下げると自室へ戻る。
「だけん、辞めて仕事する」
簡潔に答えると、
「苑田建具屋さんで、人ば集めとる」
まるで決まったような口ぶりに、僕は抵抗する。
「自分で決めるよ。もう、半分はそこで働きよる」
「なんば勝手に決めよるとか。そういうことは親に言うてからやろう」
「どうせ反対するやろ」
「そこはどこか」
「思案橋のちゃんぽん屋。皿洗い」
ウソが容易く口を突いて出た。
「高校辞めて皿洗いばして、何になるとか。いくらもらえるとか」
「一日――四千円。これからは月に五万円、生活費に納めるよ」
言うと父は黙る。楽勝だと思った。ギターさえあれば。
「学校はどうする」
話が戻った。
「辞めるって。そうせんと、皿洗いしかやらせてもらえん。あとは退学届けに名前書いてよね」
僕は話を打ち切る。まだ父は何か言っていたが、構わず部屋に戻った。そのあと十分かけてコンビニへ歩き、煙草とハイネケンを二本買った。
机に座って缶ビールを空けていると、兄貴が一階から戻る。そのまま何も言わずテレビの前に座った。チャンネルをいくつも回した挙句、結局ファミコンのスイッチを入れる。
「お前、思案橋のとこで唄いよったろ――」
背中を向けたまま、唐突に尋ねられた。僕も背中を向けたままで答える。
「見とったとね――。あれが今の俺の仕事さ。一回、一万円にはなる」
兄貴はしばらく黙って、
「一緒におったとは彼女か。金髪やったばってん」
「ニーナは――クォーターやけん、外国の血が入っとるけん。不良の真似して染めとる訳じゃなか。普通の女の子やけんね」
「普通の女の子やったら、迷惑かけんごとせろよ。その子になんかあれば、その子の親が迷惑するとたい」
その通りではあった。僕と深夜にいれば、また補導されかねない。
「迷惑も心配もかけん。ちゃんとするさ」
彼女か――と尋ねられて否定しなかったのは、僕の覚悟の表れだ。僕はニーナを彼女だと思うことにする。三月までという期限付きであっても――。
言いたいことをひと通り話した僕は、翌日から生活パターンを決めた。夜の七時にギターを持って街へ向かい、ニーナと会って歌を聴かせた。彼女が帰ると本番開始で、思案橋に出て一人で演奏を続けた。ビルのエントランスには屋根があり、雨が降ってもギリギリ濡れずに演奏ができた。そういう時はケースを前ではなく横に置くので、少しチップは減る。
朝までのつぶし方も覚えた。フロントで荷物を預けてサウナに入ると、三千円で十時のバスまでつぶせた。十七歳の若造が湯船で目を閉じていても、誰も何も言わない――。
「ヒロキ、時間だから帰るね。頑張ってきて」
午後九時五十分。くろがね橋の上。
「うん。ニーナも気をつけて。おやすみ」
「おやすみ――」
彼女に会える時間はそれだけじゃない。日曜日は毎週、街中で会った。夕方までずっと一緒で、そのそばには必ずギターがある。昼間の湊公園のベンチで、彼女のためだけに演奏もした。彼女がねだるので眼鏡橋まで行って演奏していると、期せずして観光客にチップをもらうこともあった。そんな時は二人で顔を見合わせて笑う。季節は着実に冬へと向かっていたけれど、心の中は平穏そのものだった。いや、いつも高鳴っていた。
夕暮れの公園で人目を避けてキスを交わすことも覚え始めた頃――。
「へえ。じゃあ、なるようになったって訳たい」
明日から十二月という火曜日の深夜。一時で思案橋を撤収してくろがね橋にいると、お店帰りのジュリさんに会えた。
「ジュリさんのお陰です。ジュリさんに言ってもらわなかったら、いつまでもダラダラしてたと思うんです」
「あらそう。よかった。コークハイ飲む?」
「頂きます」
コタツを出したのだというジュリさんの部屋で足を伸ばし、出されたコークハイを飲んでいると、彼女がどうでもいいことのように切り出した。
「でもその子、四月には外国に行く訳やろ」
「はい。でも今はそれでいいんです」
彼女はメンソールの煙草に火をつける。
「そりゃあ、今はよかばってん。ユウスケ、その子とどこまでいったと? もうセックスした?」
オブラートもワンクッションもない言葉で返事に戸惑っていると、
「しとった方がよかよ。悲恋ってやつで同じ後悔するなら、好きになった相手とは一回寝た方がよか。二人目以降はどうでもよかけどね。それはユウスケの初恋さ。高校の女の子とは違う、本気の初恋。初恋の相手とは結ばれんもんやけん、チャンスのあったら、もう一回ホテルに連れ込まんね。駅前の商店街さ、奥の方に細か階段上って行くとこのあるやろ? 狭かばってん、二時間、三千五百円。『赤い風船』って。サッと入れば人目につかん。高校生でも私服なら気にされん」
ジュリさんのアドバイスは、いつもながら具体的だ。
「そういうことには――こだわってないです。今は彼女といられるだけで幸せなんです」
「あちゃあ。青少年やね。ウチもそういう頃に戻ってみたか」
コークハイがそれぞれ二杯目になると、一つ頼みたいことを思い出した。
「ジュリさん。お店っていつも何時に出てるんですか」
「あ? 五時半に家ば出るけど。なんで?」
「ギターを、預かっててもらえないかなって。親にはバイトに行くって言ってるんで、毎回ギターを持ち出すのを不審がられているんです。僕、その時間には取りに来ますから」
僕が言うと、彼女は煙草を灰皿で消した。
「ユウスケ。それはあんたの大切なもんやろ? 商売道具やろ? 簡単に人に預けたりしたらいけんよ。簡単に人ば信じたらいけん。理由のどうあれ、それはあんたが肌身離さず持っときなさい」
断られた。
「あんたが親を騙しとるように、人は人を騙すけんね。騙しとる人間は自分が騙されるとは思っとらん。それが危険とさ。ウチがなんば言うても、そのうちユウスケも誰かに騙されて痛か目に遭うやろうけど。その時に相手を恨まんために、人は人を騙すものってことを覚えとかんね」
彼女はまた煙草に火をつけると大きく息を吸い、何かのおまじないのように天井へ煙を吐き出した。
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