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3・長崎駅ー②

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「学校、行ってないんだ。辞めようか迷ってる」

 ニーナは缶コーヒーをベンチの角でコツンと鳴らして、

「誤った世界での間違えた選択――。そういうのはいつだって溢れてる。人間って、道は一つしか選べないからね。その一つを選ぶために必死にならなきゃいけないって私は思うんだ。私はね、小学生の時に見た目のことで男の子によくいじめられてて、『学校なんかもう行きたくない』ってママに言ったの。ママは外交官をやってるんだけど、そのママが言うには『学校に行かなくても世の中の役に立つ方法をあなたは三日以内に見つけなさい。そうすれば学校には行かなくていいわ』って。私はそれから必死に考えた。けど結局、子どもは学校に行かなきゃ何もできないって分かって、頑張って行くことにしたの。ヒロキは今、何に必死になってるの?」


 答えられることはなかった。僕は必死に逃げているだけなのだから。迫られた選択のすべてから逃げているのが僕だった。このまま高校を卒業するまで心を殺し続けるのも、学校を辞めて本当は何がやりたいのかも、誰かが決めてくれるのならばそれでいいと、その程度の気持ちで生きていた。


 ニーナは言う。

「学校はいいわ。いろんな人間に会える。ねえ、大学を出て就職したら周囲の知り合いなんて数える程度になるのよ? だからね、私は大学にも行くし、できるだけいろんな人間に会ってみたいの。皆と仲よくする必要はないわ。ヒロキは友達いる?」

 それにも僕は答えられない。いない、と口にすることが悲しかった。仲のよかった中学の同級生は誰も別の高校へ行ってしまっていた。けれど、本当の友達ならそれだけで縁が切れてしまうものだろうか。

「でも学校は大切だよ。自分を磨く場所だから」

 ニーナの言葉はすべて胸にすとんと落ちる。学歴だけを強く説く大人たちの言葉よりも深い場所に収まった。それだけにどこへも逃げ場はなくなってしまうのだった。

「僕――もう帰る時間だから」

 立ち上がると、彼女がジャケットの袖をつかんだ。

「困らせた? ゴメン、そういうつもりじゃなかったの。ただ、ヒロキといろんな話をしたくて」

 それが今はつらかった。

「でも帰るから。つき合ってくれてありがとう――」


 ギターケースを担ぎ直すと、彼女の手を振りほどくような形になってしまった。心が痛んだ。痛みながらも僕はベンチから離れる――。



 混雑したバスに揺られて家へ帰ると夕食時で、

「あんた、どこに行っとったね。また学校も行かんで――」

「月曜に――行ってくる。ちゃんと田中先生と話してくるけん」

 一日、間を空けて読んだ担任からの手紙は温かなもので、それだけには誠実に答えなければと思っていた――。


 翌々日は久しぶりに詰め襟の学生服を着て自主的に学校へ向かった。といっても放課後だ。

 背中を後押ししたのがニーナの言葉だけだとは言い切れなかったけれど、燻っていた反抗心に追い風を吹かせたのは彼女に間違いなかった。彼女の前で煮え切らない態度を取るしかなかった自分が心の底から嫌になったのだ。男らしさというものがあるとして、僕にはその持ち合わせがなかったのだから。


 校門から出てくる生徒たちとすれ違い、特にいたずらされた様子もない上履きに履き替えると、真っ先に旧校舎の四階へ上がった。

 美術室の戸は開け放たれていて、ベランダ側から回った僕の影に気づいた誰かが外へ出てきた。

「鍋内、お前どげんしとったとや?」

 島育ちの鷺池が言うと、中村貴子が走り寄ってきた。

「なんで? なんでなんも言わずに出てくると? びっくりするやろ」

 僕はどちらから先に答えようかと考えて、楽な方を選んだ。

「ああ鷺池。どうもしとらんよ。職員室に行く前に寄っただけやけん。おう前島、相変わらずデッサンひどかなあ」

 そのまま中村貴子には構わず、僕は美術室を一回りしてからドアの前に立った。

「俺、やっぱり学校辞めるけん。世話になった。ゴメン」

 午後四時半の職員室へ入ると、小さく頭を下げた。担任は机にいた。こちらを見て驚いた顔を見せたものの、すぐに立ち上がって保護者面会室の方へ呼んだ。


「気持ちは変わらんとか――」

「はい。辞めたあとのことはまだはっきり言えないですけど」

 担任は組んだ腕をほどいて諭すように言う。煙草に火をつけて。

「毎年、二人か三人が辞めていく。入学してすぐに辞めていくパターン。それが一つ。もう一つは学期明け。それが鍋内、お前やったな」

 僕が学校へ通わなくなったのは確かに九月の上旬からだった。

「でもな、鍋内。お前は辞める方の生徒じゃなか。戻ってくればまだ間に合うし、少し補習も入れれば追いつける。何より辞める理由がはっきりしとらんなら、通いながら考えてみろ。それでもお前が辞めたかて言うなら引き止めん」

 担任はそう言うが、そんなことは僕だって考えた。辞めて何をするか。けれど違うのだ。辞めることからしか始められないものが心にある。確かにあった。それだけが譲れない僕の答えだった。

「もう一回、親御さんとも相談してみろ。親御さんはな、お前ば学校に入れるとにお金かかっとるとやけん。そういう大人の事情を考えてもよか歳やろう」


 大人はいつもそうして金を盾にして子どもを責める。誰が育ててやったと思っている、誰の金で生活していると。


 ――「誰が生んでくれって頼んだか!」


 初めて本気で父親に殴られた時の僕の言葉だ。今となっては理由も覚えていない些細な口論のあとだった。


 放課後の生徒たちが行き来する廊下を感情もなく歩き、次にくぐる時は退学届を提出する時だと決めて手ぶらで校門を抜けた。長い坂道で振り返れば桜の木々。もう、それが咲くのを見ることはない。そう思ったことだけが、唯一の感傷的な気持ちだった。


 窮屈な制服のボタンを二つはずして、そのままでは吸えもしない煙草をポケットに歩いた。いつものバス停を通り過ぎ、歩き疲れるまで歩くつもりだった。次のバス停へ差しかかると、制服姿の少年少女が群れをなして見えた。そこをまったく無関係な顔で歩いていると、ニーナの声が聞こえた。

「ヒロキ――?」

 制服の群れの中にひときわ目立つブロンドは、間違いなく彼女しかいない。どうして、と考える間もなく、ニーナは話していた友人たちに手を振り、こちらへ向かってくる。学校が近いということがすっかり頭から抜け落ちていた。

「ヒロキ、学校行ったんだ」

 嬉しそうな顔が僕を見上げる。バス停からは他校の男子生徒のやっかむような視線が集まってくる。

「ちょっと、場所考えてよ」

 言うと、僕は彼女を置き去りに歩き出した。

「待ってヒロキ。待ってって――」

 そのままずっとついてくる彼女に負けて、僕は振り返る。

「担任と話があっただけで。授業は出てない。それに、やっぱり辞めることに決めたから。ニーナには、せっかくいろいろ言ってもらったけど」

 僕が目を伏せると、

「そっか。だったらそれでいいよ。ヒロキがちゃんと決めたのなら応援する。私、バス停向こうだから。またね。また電話して」

 ニーナは手を振るとカバンを揺らして横断歩道へと走っていった――。



 帰宅すると、食事時にしかそういう話ができないので、自然と母の話は僕のことになる。

「田中先生、なんて言わしたね」

「変わらんよ。まだ間に合うとか」

 僕は煮物の里いもを箸でつかむのに格闘していた。

「ほら。やっぱりそうした方がよかと。大人の言うことは間違っとらんとやけん」


 話はいつもの場所へ落ち着く。僕は素直な胸の内を話せない。何ひとつ進展のないまま、その場を静かに収めるだけの会話が終わると部屋へ向かう。


 CDコンポからカセットテープの佐野元春を流していると、気まずさが胸に込み上げる。突き放すような態度を取ってしまったニーナへ謝りたかった。

 女の子、というものにどう接すればいいのか、男ばかり5人の家に育った僕には、距離の測り方がまったく分からない。小中高と、クラスの女子と話したのは数えるほど。高校に入って初めての恋愛というものに舞い上がってはいたものの、それはひと時の昂りで、キスから先に進めないと分かると急に熱は冷めた。僕は女の子をそういう対象としてしか見ていなかったのだろう。背伸びを競うクラスメイトの中で頭一つ抜け出してみたくて恋人を作ったに過ぎない。女の子というものに興味はあったけれど、いざつき合ってみると、その頭の中の子どもっぽさについていけなかった。彼女らは子どもである立場と環境を甘受して、その限られた水槽の中で楽しそうに泳いでいるのだ。その現実に嫌悪感を覚えたのは確かだ。

 だからといって自分が大人だとも思っていない。親の財布から金を盗んではパチンコへ出かけて、煙草を吹かしてどれだけ夜を自由に過ごしても、朝になれば家へ帰るしかなかった。そのジレンマに包まれて、僕はとにかく誰よりも早く大人になりたかった。


 食事のあとの風呂から上がった兄貴が部屋に入ってくると、

「おう。佐野元春とか聴きよるとや」

「――うん。友達から借りた」

「尾崎よりよかろうが。尾崎の歌はうつになる」

 兄貴はタオルで頭をごしごしやって、床に座り込む。僕は何も答えない。その代わりに、

「大人って、いつから大人になるとやろうか」

 子供じみた質問を投げてみた。兄貴は手元にコーラとポテトチップスと灰皿を置いてドラクエのセッティングを進めながら、煙草に火をつけた。

「自分で稼いで家に金ば納めてから考えてみろ。仕事は何でもよかさ」

 高卒で設計会社に勤める兄貴が答えてみせる。兄貴は家計のために大学進学を捨てた。学生である限りは大人にはなれないのだと、そう言われた気がした。

 僕はカセットの佐野元春をウォークマンに入れ替えて、上着を羽織るとギターケースを担いだ。兄貴がすでにコントローラーを手にしつつ、

「バス代は――」

 尋ねてくる。その目はブラウン管だ。

「行きはあるけん」

「帰りは――」

「街でギター弾いたら、二千円くらいもらえるけん」

 少し誇張して答えると、

「タフやな。捕まるなよ」

 背中だけで笑ってみせた。兄は僕の深夜の逃避行を止めようとはしない。そして何も訊かない。


 僕はベランダへ出ると肩にかけたギターに注意しながら鉄柵を滑り降りる。
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