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第二部「折り鶴の墓標」
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筧が黙ったのをきっかけにして、伏し目がちに息子の顔を覗き込んでいた三木の母が、遥香へと歩み寄った。老いた指先が彼女の前で組まれると、乾いた指の擦れる音が聞こえるようだった。しかしそれもすぐに静寂へ飲み込まれる。
遥香が塞ぎ続けた耳を、何かが払おうとしていた。あの日以来、彼の歌声で塞ぎ続けたその耳を、否応なしに静寂が襲った。静寂は空回りを始める音へと空気を変え、それは遥香の頭の中にもようやくで響く。あるべき姿へとすべてを導くための宣告が、始まるのだ。
「ハルちゃん。祐亮はねえ」
宣告に激しく抵抗しようとする遥香の耳には、三木の唄う『墓標』が鮮やかに流れ始める。繰り返し聴いたCDの上手に作られた伴奏ではなく、繁華街の道端に座り込んで聴いた、酒に酔った彼のその声で、彼のギターで、ハーモニカで、三木の歌声が激しく遥香の耳を塞いだ。
「ハルちゃん。祐亮は、家に連れて帰るごとしたけん」
遥香の耳には、三木の歌が聴こえる。車に背を向けて、膝を抱いて、座り込んで聴いた彼の歌。夜の街にどこまでも散っては溶けてゆく、彼の声。
行く手も見えない広大な荒れ地に響き渡る、孤独な声。吹き付ける風を睨みつけては耐えている折れそうな細い身体と、翼のない背中を嘆く事もなく引きずる足と、絶えることのない生への執着と幸福への抵抗。どうして彼は、生きることをやめないのか。幸せを避けて、温もりを捨てて、なのにどうしてあんなにも生きることを貫いていたのか。遥香には今も、彼の声しか聴こえない。
「まあだ若い娘さんに、これ以上、この子のことで迷惑はかけられんけん」
遥香には、三木の歌が聴こえる。
真夜中の海を小船が往く。裸の足をそのままに、遥香はそれを土砂降りの浜辺でじっと見送った幻の記憶がある。照らす星も月の光もなく、闇に導かれて船は海を往く。荒れた海は波の高さで船を襲い、しかし、尚もそこに歌が聴こえる。母たる海が鬼の顔を見せ、抗う命を飲み込むための銀河に変わり、天の川の煌きのひとつに手招きを見せる。彼はそこで唄う。私はその歌を聴いていればよかった。荒れ狂う彼の海が人生でほんの一瞬だけ見せる、夕凪の静けさを待ち焦がれていればよかった。けれどもう、彼の航海はあの瞬間に終わっていたのだろうか。旅を終えた小船は、その安らかな故郷の港で眠る時が来ていたのだろうか。
違う。
彼は、唄わなくなっていた。紗恵がお酒を飲まなくなったように。紗恵がお酒を飲まなくてもよくなったように、彼も唄わなくてよくなったのだと、私は、そう思うフリをした。違うのだ。彼は唄わなくてもよくなったのではない。唄わなければいけなかったのだ。彼は。彼から歌を奪ったのは、紗恵なのか。違う。私だ。私が奪ったのだ。私は彼の歌を奪った。酔えるものならば何でもよかった紗恵と、彼は違った。が、それを一緒にしてしまった私が彼の歌を奪った。彼の小船を、風もない、波もない、夕凪の海に沈めてしまったのは、この私だ。彼にとって、歌の代わりなど、どこにもなかったというのに。
三木の歌が聴こえる。
誰かが、彼女の両手をしっかりと握っている。
しかしそれは、決して彼ではあり得ないのだった。
遥香は目の前の老いた女性を見た。なんと疲れ果てて、そして弱々しいのだろう。この老いた人を、これ以上、遠い街から呼びつけるなどできるはずもない。
どうしようもない憐れみが遥香の抵抗を挫いた時、彼の歌声は静かに消えていった。この人の涙をやっと目にすることができたと、遥香は手のひらに温もりを感じる。温もりは手首から両の肘へと伝い、肩先を柔らかく包み、喉元を熱くとらえた。とらえられた喉はそのまま素直に震え始め、目の前の、手を握りしめる女性と同じ温もりが、遥香の両の眼から溢れ落ちた。
「私……」
聞きとれそうもない小さな声に、それでも三木の母がゆっくりと頷く。成り行きを見守って窓の外を眺めるだけだった筧もまた、腕を組んだまま遥香へと身体を向ける。
「私……」
ようやく絞り出せた遥香の声も、しかし、それが精一杯だった。
「ハルちゃんよ」
筧が咳払いのひとつもなく割って入ったのは、これ以上、見届けるあつかましさを持ち合わせていなかったからだ。もちろん、間もなく搬送用の車も到着するだろう。三木を取り巻く事態はいつも、感傷を挟む余地のないものばかりになってしまっているのだ。
「もう、急がんと時間もないけえ」
抑揚を殺して筧が言うと、遥香は泣き崩れながらも外へ出た。その日を境に、病室の四人が生きて顔を合わせる事はなかった。
遥香が塞ぎ続けた耳を、何かが払おうとしていた。あの日以来、彼の歌声で塞ぎ続けたその耳を、否応なしに静寂が襲った。静寂は空回りを始める音へと空気を変え、それは遥香の頭の中にもようやくで響く。あるべき姿へとすべてを導くための宣告が、始まるのだ。
「ハルちゃん。祐亮はねえ」
宣告に激しく抵抗しようとする遥香の耳には、三木の唄う『墓標』が鮮やかに流れ始める。繰り返し聴いたCDの上手に作られた伴奏ではなく、繁華街の道端に座り込んで聴いた、酒に酔った彼のその声で、彼のギターで、ハーモニカで、三木の歌声が激しく遥香の耳を塞いだ。
「ハルちゃん。祐亮は、家に連れて帰るごとしたけん」
遥香の耳には、三木の歌が聴こえる。車に背を向けて、膝を抱いて、座り込んで聴いた彼の歌。夜の街にどこまでも散っては溶けてゆく、彼の声。
行く手も見えない広大な荒れ地に響き渡る、孤独な声。吹き付ける風を睨みつけては耐えている折れそうな細い身体と、翼のない背中を嘆く事もなく引きずる足と、絶えることのない生への執着と幸福への抵抗。どうして彼は、生きることをやめないのか。幸せを避けて、温もりを捨てて、なのにどうしてあんなにも生きることを貫いていたのか。遥香には今も、彼の声しか聴こえない。
「まあだ若い娘さんに、これ以上、この子のことで迷惑はかけられんけん」
遥香には、三木の歌が聴こえる。
真夜中の海を小船が往く。裸の足をそのままに、遥香はそれを土砂降りの浜辺でじっと見送った幻の記憶がある。照らす星も月の光もなく、闇に導かれて船は海を往く。荒れた海は波の高さで船を襲い、しかし、尚もそこに歌が聴こえる。母たる海が鬼の顔を見せ、抗う命を飲み込むための銀河に変わり、天の川の煌きのひとつに手招きを見せる。彼はそこで唄う。私はその歌を聴いていればよかった。荒れ狂う彼の海が人生でほんの一瞬だけ見せる、夕凪の静けさを待ち焦がれていればよかった。けれどもう、彼の航海はあの瞬間に終わっていたのだろうか。旅を終えた小船は、その安らかな故郷の港で眠る時が来ていたのだろうか。
違う。
彼は、唄わなくなっていた。紗恵がお酒を飲まなくなったように。紗恵がお酒を飲まなくてもよくなったように、彼も唄わなくてよくなったのだと、私は、そう思うフリをした。違うのだ。彼は唄わなくてもよくなったのではない。唄わなければいけなかったのだ。彼は。彼から歌を奪ったのは、紗恵なのか。違う。私だ。私が奪ったのだ。私は彼の歌を奪った。酔えるものならば何でもよかった紗恵と、彼は違った。が、それを一緒にしてしまった私が彼の歌を奪った。彼の小船を、風もない、波もない、夕凪の海に沈めてしまったのは、この私だ。彼にとって、歌の代わりなど、どこにもなかったというのに。
三木の歌が聴こえる。
誰かが、彼女の両手をしっかりと握っている。
しかしそれは、決して彼ではあり得ないのだった。
遥香は目の前の老いた女性を見た。なんと疲れ果てて、そして弱々しいのだろう。この老いた人を、これ以上、遠い街から呼びつけるなどできるはずもない。
どうしようもない憐れみが遥香の抵抗を挫いた時、彼の歌声は静かに消えていった。この人の涙をやっと目にすることができたと、遥香は手のひらに温もりを感じる。温もりは手首から両の肘へと伝い、肩先を柔らかく包み、喉元を熱くとらえた。とらえられた喉はそのまま素直に震え始め、目の前の、手を握りしめる女性と同じ温もりが、遥香の両の眼から溢れ落ちた。
「私……」
聞きとれそうもない小さな声に、それでも三木の母がゆっくりと頷く。成り行きを見守って窓の外を眺めるだけだった筧もまた、腕を組んだまま遥香へと身体を向ける。
「私……」
ようやく絞り出せた遥香の声も、しかし、それが精一杯だった。
「ハルちゃんよ」
筧が咳払いのひとつもなく割って入ったのは、これ以上、見届けるあつかましさを持ち合わせていなかったからだ。もちろん、間もなく搬送用の車も到着するだろう。三木を取り巻く事態はいつも、感傷を挟む余地のないものばかりになってしまっているのだ。
「もう、急がんと時間もないけえ」
抑揚を殺して筧が言うと、遥香は泣き崩れながらも外へ出た。その日を境に、病室の四人が生きて顔を合わせる事はなかった。
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