都会ノ暮ラシ

テヅカミ ユーキ

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第二部「折り鶴の墓標」

4-2~5

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 四月を目前に控えているものの、朝の冷え込みは目を覚ますのにまだまだ十分といえた。息を白く吐きながら、尋生はひとまず市街地へと歩いていた。これから三時間ほどを、彼はいつも路面電車沿いのコーヒーショップで過ごす。

 年末に遥香の部屋を追われてから、四か月が過ぎていた。

 ほとぼり、という言葉を頭に浮かべれば、それはいつも彼の力が及ばない場所で冷めたり煮立ったりしているのを尋生は感じる。要するに、自分にはいつまでも計れないものだった。その熱がいつ冷めるかは相手の保温能力次第で決まるのだし、相手があの筧である限りは、安食堂で出される番茶程度のほとぼりがまだ残っているだろう。しかし問題は茶の温度ではなく、その番茶を飲み干せる無神経さを持ち合わせていない、彼の臆病さにあった。


「俺の絵を、描いて欲しいんだ」

 その約束は果たせぬまま、月日は六年以上も流れた。そして相手が、明日をも知れぬ友人を思い続ける女だと知った上で、尋生は彼女の身体を求めた。親を亡くした虚しさを口に出し、親友を思う我が胸の内をさらし、親友がいたであろうその場所で、弱さを盾にして、遥香を汚した。今更どんなほとぼりが冷めようと、電話などできるはずもなかった。

 ただし、この不誠実な男にしてみても、三木祐亮の意識が戻ることを切に願っているという事実だけならば、それは確かに嘘ではなかった。そういった極端な思いを抱いていなければ、彼はこの歳まで生きてこられなかったのかも知れない。

 尋生は今、コーヒーショップやデパートのエレベーター前や図書館や雑居ビルの踊り場ではなく、誰にも声をかけられない場所で静かに眠りたかった。今ではそれが幸せと呼べることさえ忘れてしまいたかった。


                5


 正午前。

 ほぼ定刻どおりに電話を受けて、遥香は広島駅へ歩いて向かった。五月晴れの空は、普段ならば灰色ばかりが目立つ駅南の通りを、心なしか柔らかな色に照らしている。

 唄い、笑い、話す、当たり前の三木と過ごしたのは三ヶ月にも満たない遥香だが、広島の街のいたる所に彼との記憶が染みついていた。それまで、ほとんどが部屋と職場の往復だった遥香には、三木と過ごした場所こそが広島のすべてだった。

 いつか彼が引きずっていたキャリーバッグの車輪が急に外れたのは、今渡っている横断歩道だったろうか。頑丈そうなキャリーバッグの車輪がそうやって壊れる物だということを、彼女は初めて知った。

 三木の荷物の半分以上は譜面で占められており、一度だけ引かせてもらったが、とても車輪の意味があるとは思えぬ手応えだった。子供の頃に雪山で引いたソリの方が、まだ楽に動いていただろう。

 思えば彼は、どこへ出かけるにもギターと荷物を手放したことがなかった。弦の買い出しに出るくらいなら私の部屋に置いていけばいいと遥香が気にかけても、何か落ち着かなくて、という彼がおかしくもあり寂しくもあった。それさえあればいつでも彼は、そのままどこか遠くへ行けるのだから。

 十五分ほど歩いて駅に到着すると、三木の母は赤い南国の花がプリントされた濃い緑色のワンピースを着て、すでに噴水前に立っていた。彼女は緑色と、そして原色の強い色が好きなようだ。着物の着付けをやっていると聞いていたが、遥香は彼女の和装を一度も見た事がない。

「お久しぶりです。遅くなりまして」

 遥香が頭を下げながら小走りに駆け寄ると、彼の母は笑顔で迎えてくれた。迎えているのは遥香の方なのだが、彼女に会うといつも、こちらが出迎えてもらっている気分になる。

「いやあ。今着いたところよ。あらハルちゃん、今日はまた可愛らしか格好ばしとらすたいね」

 三木の母は遥香をひと眺めすると、陽気な長崎弁で笑った。

 下ろし立てのカットソーに長いカーディガンを羽織った遥香は、珍しくプリーツスカートを履いていた。昼の職場では動きやすいジーパンになりがちだったが、水商売の同僚の影響もあるのか、彼女のワードローブには少しずつスカートも増えている。ドレープが入った淡い黄色のカットソーと一緒に買ったのは、シャーベットカラーのオレンジのスカートだった。

「お母さんも、素敵なワンピースです」

 思いもかけず服の事を話題にされた遥香が照れながら返すと、あたしゃ四十年前の服ば着回しとるだけよ、と彼女は黒い日傘をひと回ししてみせた。

「じゃあ」

 笑顔を崩さずにそう言ったのは三木の母で、遥香は、

「はい」

 とだけ、神妙に答えた。二人の会話は、もう、それだけですむのだ。一年半もの間、悔やんだりごまかしたりするための言葉はすでに使い果たしていた。年の差は五十もあろうかという二人ではあったが、血も戸籍も繋がらぬ間柄は逆に、無駄な社交辞令を省いてくれていた。今更どれだけ取り繕ってみても、眠り続ける彼は目を覚まさない。
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