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第二部「折り鶴の墓標」
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鍋内尋生は、ラジオから流れてきた歌声に気付くと、作業の手が止まってしまった。
すでに一便の荷積みは始まっているので急がなければならないことを十分に承知していたが、その声は間違いなく、未だ病院で意識を取り戻していないはずの三木祐亮のものだった。頭の上から足元まで全身を覆う真っ白なユニフォームを通してもはっきりと、彼の歌声と、聞き覚えのあるメロディーが耳に流れ込んでくる。
「おい」
総菜部のリーダーである早坂が、マスクの下でチッと舌打ちをした。
「はい、すみません」
尋生は、早鐘を打つ心臓をなんとか落ち着かせると、コンベアを流れてくる塩サバを慌ててトレーに乗せた。
「学生バイトだって、まだ使えるのによ」
早坂は苛ついた口調で吐き捨てたが、コンベアの遥か先まで通り過ぎた焼き魚を回収する。朝一の配送が遅れれば、苦情をもらうのは彼だった。
五年選手の手慣れた動きで残りの容器に塩サバを詰めた早坂は、さっさとラッピングマシンで梱包を済ませてしまった。
「お疲れー、休憩しようや」
尋生を除いた数人に向けられたと思われるリーダーの声に、コンベアの電源が落ちる。すると、それぞれに深い吐息を見せた作業員たちは白いマスクを外し、あっという間に休憩室へと消えていった。
(三木……)
人の失せた作業場にラジオは鳴り続けていたが、彼を射すくめたその歌は、頭を混乱させているうちに終わってしまっていた。三木祐亮は無理心中に巻き込まれたあと、意識不明のはずではなかったのか。白衣の下にぐっしょりと汗をかいたままで、尋生は暗がりのラジオを見つめていた。
尋生がそれを知ったのは、半年前の事だ。
彼は東京での派遣仕事を切られ、十数年ぶりの地元に帰り、それまでの身勝手を償おうと転機を伺っていた。しかし、間もなく老いた母は死んだ。小さなアパートに遺骨を持ち帰った晩、なおも弟から追い打ちをかけるように知らされたのが、父と兄の失踪だ。自分が絵描きなどに憧れ、東京の隅で奮闘し、夢に破れて細々と暮らしていると思い込んでいる間、実は家族のすべてが崩れていた。
不義理と不孝の償い先を失っていた尋生だったが、三木祐亮のニュースを知ったのは、そんな時だった。
「俺の絵を、描いてくれないかな」
それは、三木との遠い昔の約束である。
八年前、たった一週間ではあったが、行き場のなかった尋生に寝床を紹介してくれた三木祐亮。夢を追う人間の失敗も矛盾も後悔も、柔らかに頷いて認めてくれた三木祐亮。そして、いつか俺の絵を描いてくれと、それきり会うこともなかった三木祐亮。
尋生はひとつきりの約束を果たすために、広島へと向かった。母のように、手遅れで終わらせる事はしたくなかったからだ。
なのに、約束は今も果たせていない。下描きさえ入らぬイラストボードは、真っ白なまま約束を閉じ込め続けている。
遥香に連絡を取れば何か、と思ったところで、
「あんたは、友達の女を食い物にして何がしたいんじゃ」
仁王立ちで叫んだ筧の声が、耳に残っていた三木の歌声をかき消してゆく。その声を追いやるため、尋生は、いつまでも馴染めない休憩室へと無理に足を向けた。
人に殴られて恥じ入るのは、もう何度目だったろう。
生真面目に三人の子供を育て上げた父からは、借金を重ねて連れ戻される度に殴られていた。そして尋生は、何度殴られても同じことを繰り返したのだ。最後の最後に、彼の父は力なく言った。
「もう、人にだけは迷惑をかけんでくれろ」
以来、尋生はそうしてきたつもりだった。人のためにならずとも、迷惑はかけていないつもりでいた。それが結局、つもり、でしかなかったのは、彼が自分の不幸にしか興味がなかったからだ。
午前六時になった。
荷出しの確認を定時に終え、尋生はロッカーへ向かう前に事務所でタイムカードを押した。この早朝からすでに出勤していた所長の沖本が、彼に声をかける。
「どう。もう、だいぶ慣れたんじゃないの」
「お陰さまで……」
付け足す言葉があってもよさそうだったが、今朝の尋生にはそれ以上の言葉が思い浮かばない。ラジオに流れた三木の歌の謎が、十時間の労働で疲れた頭を満たしていた。だが、気さくな所長は気にも留めず、満足そうに頷いてデスクへ向き直った。
「お先に失礼します」
一礼をして事務所を出る尋生の背中に、あくび混じりの声が聞こえる。はいはい、お疲れ。
すでに一便の荷積みは始まっているので急がなければならないことを十分に承知していたが、その声は間違いなく、未だ病院で意識を取り戻していないはずの三木祐亮のものだった。頭の上から足元まで全身を覆う真っ白なユニフォームを通してもはっきりと、彼の歌声と、聞き覚えのあるメロディーが耳に流れ込んでくる。
「おい」
総菜部のリーダーである早坂が、マスクの下でチッと舌打ちをした。
「はい、すみません」
尋生は、早鐘を打つ心臓をなんとか落ち着かせると、コンベアを流れてくる塩サバを慌ててトレーに乗せた。
「学生バイトだって、まだ使えるのによ」
早坂は苛ついた口調で吐き捨てたが、コンベアの遥か先まで通り過ぎた焼き魚を回収する。朝一の配送が遅れれば、苦情をもらうのは彼だった。
五年選手の手慣れた動きで残りの容器に塩サバを詰めた早坂は、さっさとラッピングマシンで梱包を済ませてしまった。
「お疲れー、休憩しようや」
尋生を除いた数人に向けられたと思われるリーダーの声に、コンベアの電源が落ちる。すると、それぞれに深い吐息を見せた作業員たちは白いマスクを外し、あっという間に休憩室へと消えていった。
(三木……)
人の失せた作業場にラジオは鳴り続けていたが、彼を射すくめたその歌は、頭を混乱させているうちに終わってしまっていた。三木祐亮は無理心中に巻き込まれたあと、意識不明のはずではなかったのか。白衣の下にぐっしょりと汗をかいたままで、尋生は暗がりのラジオを見つめていた。
尋生がそれを知ったのは、半年前の事だ。
彼は東京での派遣仕事を切られ、十数年ぶりの地元に帰り、それまでの身勝手を償おうと転機を伺っていた。しかし、間もなく老いた母は死んだ。小さなアパートに遺骨を持ち帰った晩、なおも弟から追い打ちをかけるように知らされたのが、父と兄の失踪だ。自分が絵描きなどに憧れ、東京の隅で奮闘し、夢に破れて細々と暮らしていると思い込んでいる間、実は家族のすべてが崩れていた。
不義理と不孝の償い先を失っていた尋生だったが、三木祐亮のニュースを知ったのは、そんな時だった。
「俺の絵を、描いてくれないかな」
それは、三木との遠い昔の約束である。
八年前、たった一週間ではあったが、行き場のなかった尋生に寝床を紹介してくれた三木祐亮。夢を追う人間の失敗も矛盾も後悔も、柔らかに頷いて認めてくれた三木祐亮。そして、いつか俺の絵を描いてくれと、それきり会うこともなかった三木祐亮。
尋生はひとつきりの約束を果たすために、広島へと向かった。母のように、手遅れで終わらせる事はしたくなかったからだ。
なのに、約束は今も果たせていない。下描きさえ入らぬイラストボードは、真っ白なまま約束を閉じ込め続けている。
遥香に連絡を取れば何か、と思ったところで、
「あんたは、友達の女を食い物にして何がしたいんじゃ」
仁王立ちで叫んだ筧の声が、耳に残っていた三木の歌声をかき消してゆく。その声を追いやるため、尋生は、いつまでも馴染めない休憩室へと無理に足を向けた。
人に殴られて恥じ入るのは、もう何度目だったろう。
生真面目に三人の子供を育て上げた父からは、借金を重ねて連れ戻される度に殴られていた。そして尋生は、何度殴られても同じことを繰り返したのだ。最後の最後に、彼の父は力なく言った。
「もう、人にだけは迷惑をかけんでくれろ」
以来、尋生はそうしてきたつもりだった。人のためにならずとも、迷惑はかけていないつもりでいた。それが結局、つもり、でしかなかったのは、彼が自分の不幸にしか興味がなかったからだ。
午前六時になった。
荷出しの確認を定時に終え、尋生はロッカーへ向かう前に事務所でタイムカードを押した。この早朝からすでに出勤していた所長の沖本が、彼に声をかける。
「どう。もう、だいぶ慣れたんじゃないの」
「お陰さまで……」
付け足す言葉があってもよさそうだったが、今朝の尋生にはそれ以上の言葉が思い浮かばない。ラジオに流れた三木の歌の謎が、十時間の労働で疲れた頭を満たしていた。だが、気さくな所長は気にも留めず、満足そうに頷いてデスクへ向き直った。
「お先に失礼します」
一礼をして事務所を出る尋生の背中に、あくび混じりの声が聞こえる。はいはい、お疲れ。
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